しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

女工哀史①

2018年05月31日 | 江戸~明治
江戸時代から明治になっても、農民生活に変化はなく「文明開化」の実感はなかったという本は多い。


「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「女工哀史 津村節子」より転記

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農家の主婦は、家事育児の他に、農作業にも従事し、糸を引き、機(はた)を織って家族の衣類を整えるかたわら、賃機を織った。
家事育児は、女に生まれて当然なすべき日常であり、これは仕事とはみなされない。
女は女ゆえに、それに甘んじなければならなかった。

明治5年(1872)官営の富岡製糸場が創設され女子を採用した。
士族の子女を選び、繰り糸工女を養成した。
工場の発達によって労働力が不足してくると、地元の通勤工員以外に、貧しい地方の貧しい家々から人を集めるようになった。
すぐに辞められては困るから前借金で体を縛り、宿舎に閉じ込めて監視の目を光らせ、逃亡できないようにした。
娼妓と同じ扱いで、
人間を人間と見なさず、酷使をし、懲罰を与え、危険に晒し、病気になっても療養もさせず、見殺し同様を当然としていたのである。

明治6年、政府は物納貢租から金納地租にしたが、税率は変わらず、一層農民を苦しめる結果となった。
地租納入期は秋から冬に集中し、貯えのない貧農は米を売り急いで叩かれ、富農や地主は高くなるのをまって売り大きな利潤をあげた。

地租改正が進むにつれて、農民たちの燃料や肥料・飼料を供給していた土地が官有地となり、山林を待たない農民の生活はますます苦しくなり、商品経済化は、わずかな土地を抵当にし、金を返せず小作人に身を落とすものも多かった。
地主は小作料を商業・銀行・鉄道、その他事業に投資して肥え続けた。
封建時代に、年貢で苦しみ娘を遊廓に売った貧農は、わずかな現金とひきかえに年期契約で工場に娘を渡した。
娘たちは親孝行という美名の許に、品物のように売買さたのである。


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慰問団と慰安所④女衒(ぜげん)

2018年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「からゆきさん」より転記

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女衒(ぜげん)
(明治中期ごろ、島原天草)
12、3才になると男も女も奉公に出した。
少女の働き場所と言えば子守が女中ぐらいであった。
貧しい娘たちが女衒(女を誘拐することを職業にしている男)にねらわれた。
女衒たちは立派な身なりをして、貧しそうな娘を見ると道端などで話しかけた。
女衒が狙うのは15.16才の少女たちであった。
「仕事が楽で、給料は3~4倍もらえ、仕送りが沢山できる」
「昼間働き、夜は裁縫や編み物を習わしてくれる」
と出鱈目を並べ、もの優しく話しかけた。

女衒たちは村々をまわって歩き、親をさそうこともあった。
貧しい親は、どうせ奉公に出さなければならない娘なので、つい金に手をつけてしまう。
村の娘はさそいあわせて、数人がいっしょに村を出ることもあった。

外国(上海・香港・シンガポール等)に着くと、お化粧し、三度三度白いご飯を食べさせてもらった。
娘たちが食べたご飯も、宿も、無料ではなかった。船員の買収費や、見張り番もみんな計算され、娘たちの借金として背負い込まされた。

せりにかけられ、売られ、借金はさらに水増しされた。

妓楼に売られも、まだ女中と信じたり、売春を拒否する娘には計算書をつきつけ、「この借金を払いさえすれば自由にしてやる」と言った。

楼主は休日を与えなかった。
からゆきさんたちは一晩中客をとらされた。
生理日は膣の奥に海綿をつめて客をとった。性交のたびに、性病をため洗浄液で局部を消毒し身体を冷やした。

マラリヤその他風土病や結核が多かった。立つことができる間は客をとらされた。
倒れると僅かな食べ物でほっとかれた。
享年は19、17,20とか、20歳以下である。
つまり30歳まで生きのびた女は数少ないという。

亡くなったからゆきさんの後には、また新しく誘拐されたからゆきさんが連れてこられた。
その頃、東京の吉原では南方へ売るとおどされると、怖れてふるえあがったという。


日露戦争は朝鮮・満州へつれていかれるようになった。
日本人の多くなった地域には、必ず料理屋、妓楼が開業して日本人の女が働いていた。
京城には、公認娼婦150~160人、非公認の娼婦1.000人以上になった。
大連に遊廓ができ、芸者160~170人、酌婦283人、娼妓113人、支那人娼妓76人、無許可・無届の売春婦は想像もできないと言われた。

盧溝橋事件後、日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなくして慰安所ができ、慰安婦と言う名の売春婦が送られてきた。

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慰問団と慰安所③慰安所

2018年05月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しによると
駐屯地に慰安所はあり、慰安婦は
日本人・・若くない(国内の遊郭からくる) 高い
朝鮮人・・若い 安い 日本語カタコト
中国人・・若い 安い 日本語駄目
ほかに
慰安所の外で中国人がいた。いちばん安いが、安全地帯でない。


人物日本の女子史11巻 「からゆきさん」池田みち子 昭和53年発行より転記


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日本人のいるところ何処にでも日本人の経営する花街があり、妓楼があった。
但し、日本人売春婦が相手にしたのは現地人ではなく、在留日本人であった。
かつては15,16歳の少女が女衒(ぜげん)にだまされて密航させられたが、日本内地の遊郭で借金がかさんで困っている娼婦がつれていかれたようである。

昭和12年(1937)
盧溝橋事件が勃発して以来、日本の軍隊は中国各地を攻撃して戦線を拡げた。
日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなく慰安所ができて、慰安婦が送られてきた。
日本人の女性だけでなく、朝鮮人の女も現地の女もいた。
慰安所が妓楼と違うのは、日本軍の直接の保護下にあって、慰安婦は日本の軍人だけを相手にしたことである。
兵隊が慰安所の前に並んで順番を持っているという話を聞いたことがある。慰安婦は食事をする閑がないので、寝たまま握り飯を食べたという話も聞いた。
昭和13年、
私は漢口にいた。街を疾走してきたトラックに、女が満載されていたのだ。トラックの中にたち、派手な着物をだらしなく着て、白粉気はなく、虚ろな目をして、疲れ果てた顔をしていた。
漢口で慰安所を開くか、もっと前線に送られるかだったろう。

日本人海外売春婦が完全に一掃されたのは昭和20年、大戦で負けてからである。
慰安婦たちも、慰安婦以外の売春婦たちも、内地へ引き揚げてきた。

日本内地で売春防止法が施行され、妓楼が取り潰されたのは今から僅か19年前であた。この時も反対する勢力があった。
つまり一般婦女子を性の被害から救うことができるという差別の考え方であった。


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慰問団と慰安所②麦と兵隊

2018年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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 7月7日の盧溝橋事件以来、朝日新聞が「皇軍慰問資金」を募集していた。
その総額が32万円にもなったという。戦争に対する国民のなみなみならぬ想いを知らされる数字で、
「今回、更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線へ慰問映画班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定せり」

北支那・・・金語楼・アチャコ・ほか
中支那・・・石田一松・エンタツ・エノスケ・ミスワカナ・神田ろ山・林正之助ほか

兵隊落語で売り出し中の金語楼が団長で、エンタツ・アチャコがそれぞれに新しい相方と北・中支に行くという仕掛けのうまさが吉本興業らしかった。
吉本社長の林正之助は戦争が始まると同時に、一冊10銭の「読む漫才=皇軍慰問特選漫才集」を企画した。
慰問袋に入る薄さと手軽さが好評で、前線の兵士に人気を巻き起こした。兵士が欲しがる慰問品では、キャラメルに次いでいつも上位を占めた。
新聞記事は最後をこう結んだ。
「わらわし隊、いよいよ、1月15日出発」

わらわし隊北支班は、1938年1月15日、下関から大連に出発した。
大連で慰問演芸後、北京丸に乗って天津へ向かい、石家荘、彰徳、太原、ユジと中国奥深く入り込み、寒さに震え、死骸に脅えながら、慰問演芸をつづけた。
2月12日、天津に戻り約1ヶ月の公演を終了した。


わらわし隊中支慰問班は
長崎から上海に出発した。
3ヶ月の激戦後、前年11月12日に日本軍の手に陥落したばかりの上海の荒廃した様子に、一行は衝撃を受けた。
帰国後発売された『皇軍慰問の旅 わらわし隊報告記』で石田一松は「町はボロボロだった」と書いた。
一週間の上海滞在で21ヶ所の慰問を行った。
エンタツは朝日新聞の取材に「こんなに喜ばれるのは初めて。こんなに引っ張られては僕の細い腕がちぎれそうです」

エンタツ、エイスケ、一松、林正之助の四人は戦闘機で上海から南京に向かった。
飛行服を着てパラシュートまで背負った。ピストルを渡された。天蓋のない操縦席は吹き晒しで、怖さと寒さに脅えた。

ミスワカナの芸は、戦場各地でもっとも受け、笑いと共に迎えられた。
男尊女卑が当然の戦前に、相方で夫である玉松一郎を、テンポよく大阪弁で言い負かす可笑しさがあった。
一郎は反論もできず、ただ立ち尽くし「それは、それは」と繰り返すと、兵隊たちは手を叩いて喜んだ。
上官の言うことが絶対の軍隊にあって、日ごろ言えない不平不満を、兵隊たちに変わってぽんぽんと言い返す快感が、ミスワカナの話芸にはあった。

朝日新聞の成功に東京日日新聞もさっそく慰問団の企画を立てた。
慰問団長・東海林太郎、漫才、浪曲、曲芸師を加え陸軍省後援「在満皇軍勇士芸術慰問団」が新聞紙上で華々しく伝えられた。
東海林太郎は陸軍から呼び出され「いやしくも皇軍を慰問するに、日ごろ着ている燕尾服はやめていただきたい」
たずねると、
「ばかもん。この非常時に敵国の服を着ていいと思っているのか」

釜山から鉄道で満州に入った。
ハルビン、チチハル。チチハルからは軍のトラックで黒竜江に向かった。黒竜江に沿った黒河で「国境の町」を歌った。兵士たちの嗚咽で、太郎は歌いつづけることができなかった。


日野葦平は杭州にいて芥川賞が決まった。委員の小林秀雄が杭州まで来て授賞式を行った。
5月4日から徐州作戦に参加した。
5月16日夜襲を受けた。砲弾と負傷者のうねり声の中で夜が明けた。

麦畑の中を歩きつづけた。
どこまでつづいているのか想像もつかない。大麦、燕麦、小麦の海だった。
5月22日、葦平は上海に帰り、帰国後『麦と兵隊』を発表した。
9月に出版されると、120万部の大ベストセラーになった。
国民はだれもがなまなましい戦地の現実を知り、興奮したがっていた。
そこへ陸軍報道部が眼をつけた。
ポリドールの制作部長・藤田正人(まさと)は売れっ子の作詞家でもあった。
小説と音楽の一体化は成功すると直感した。
~徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか・・・~
東海林太郎は「歌う兵士」の座をゆるぎないものにし、
藤田まさとは、「股旅もの」ジャンルとともに「前線歌謡」というジャンルを切り拓いた。
東海林太郎の歌は戦況の深まりとともに、奥深くへ進攻していった。






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慰問団と慰安所①

2018年05月17日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しでは、
父が北支や中支での野戦中、至るところに「慰問団」が訪れ
至るところに「慰安所」があったそうだ。
これは慰問団の話し


「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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それぞれの戦後


山田耕作は1948年脳溢血で倒れた。以後身体が不自由になった。

古賀政男は玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。
「湯の町エレジー」「無法松の一生」など数々のヒット曲を出し1977年国民栄誉賞を贈られた。

渡辺はま子は慰問中で天津で捕虜。
1946年5月帰国、戦後もヒット曲を生み出した。

東海林太郎は、やくざと兵士ものを多く歌い要注意人物として、レコーディングの機会も阻まれた。1947年復帰、戦前の持ち歌を亡くなるまで直立不動で歌った。

西條八十はある日の新聞に、『比島決戦の歌』で進駐軍によって絞首刑にされるだろうと出た。
GHQはいちばん多く軍歌を書いた作者を調べ上げた。佐々木信綱と西條八十だった。一時、GHQは追放を決定した。しかし佐々木信綱が高齢のため施行されなかった。
石坂洋次郎の「青い山脈」が映画化されることになり、その主題曲を57才の西條八十が作詞した。
「若鷲の歌」で「七つボタンは桜に錨」と制服を歌ったが「古い上着よさようなら」とつづけた。
時代と併走しながら、人々の心に深く届くその時々の言葉を、いつでもやすやすと八十は紡ぎ出した。
「王将」では八十自信を語った。
~吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋 月も知ってる 俺らの心

古関裕而は疎開先で、伊藤久男の様子を心配した。
戦時歌謡を歌いつづけた責任感からアルコール中毒になっていた。
「イヨマンテの夜」でようやく戦後を復活した。
「栄冠は君に輝く」「とんがり帽子」「長崎の鐘」「君の名は」「高原列車は行く」などの他、「東京五輪マーチ」など、戦後も名曲を残した。
戦後壊れても「比島決戦の歌」だけは、放送を許可しなかった。
1989年、没後、国民栄誉賞が内定したが、遺族が辞退した。



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占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」②

2018年05月12日 | 占守島の戦い

「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記

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それから何時間も経ったのか、爆音直後のことか国端崎の方向から砲声が聞こえた。
けたたましい有線電話のベルが鳴った。
戦車連隊本部から「心配いらん」との連絡だった。ソ連軍は座礁してる油槽船を砲撃しているだけだという。

17日午後10時45分ごろのことである。
国端崎は、とつぜんの砲撃をうけた。
「敵襲ですっ」監視哨の伝令がうわずった声で国端崎独立守備隊長・片桐中尉に報告した。
「よし、配置につけーっ」
彼の指揮下にあった40~50名が一斉に守備についた。

ここで片桐中尉は、大隊長・村上少佐に「ロバトカ砲台より射撃中」との一報を入れた。
第73旅団司令部情報係の下士官・松田は、通信士の脇にいて電話や無線のやりとりを確認傍受する役目であった。
手記で
≪「艦砲射撃?どこだアメリカか?」
「ロバッカから砲撃です!!」≫
ここから村上の記憶と、現場の将兵の手記とが食い違いを生じはじめる。

片桐中尉手記・
間断なく撃ち込まれる砲弾は、国端崎から小泊岬のあいだに炸裂した。
砲弾による砂煙りが無気味な様相を呈し、炸裂音で指示・号令も徹底しない。
村上少佐・
「刺激するな。放っておけ」と指示した。

団体長会同にあった堤中将の訓示に基づくものである。
これが17日午後10時45分ごろのことだ。


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ウミボタル(夜光虫)の採取

2018年05月10日 | 昭和20年(終戦まで)
茂平の水尻海岸に夜光虫がいた。
夏休みの夜、磯で海中に光る夜光虫を両手ですくった。
手のひらで、不思議な光が海水にゆれ、指から夜光虫は夜の海に落ちた。
夏休みの記憶として残っている。


「笠岡市史3」と「日本の戦争と動物たち2」より転記する。


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笠岡市史3巻 平成8年発行

ウミボタルの採取

笠岡市域の国民学校のうち、島地部や海岸に面した学校では、夏の夜浜辺に出てウミボタルを採取する作業が子供たちの手で行われた。
子供たちは教師から兵隊さんたちのためにウミボタルを集めなさいと言われて懸命に頑張った。バケツの中に落とし、家に持ち帰り、乾燥させて学校へ提出する。
ウミボタルが何の役に立つのか。先生の話では、飛行機の高度計の盤の中に入れると明るくなるからだとか、敵が上陸してくる辺りに大量にばらまいておくと、敵が走る度に足元が光って見えるからだとか聞かされたという話であるが、実戦において、どのようにそのウミボタルが使われたのかは、今もってはっきりとは分からないそうである。


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日本の戦争と動物たち2巻 汐文社 2018年発行

ウミホタル

アジア太平洋戦争の終わりごろ、日本軍はウミホタルを戦いの道具にしようと考え、研究をはじめました。
ウミホタルがいる千葉・館山では、軍の命令で子どもたちが採集したことが、旧制安房中学の勤労動員作業記録に残っています。

≪どのように使われたの?≫
ウミホタルの光をつかった懐中電灯

乾燥させたウミホタルに水をかけると、光ることがわかりました。
そこで、乾燥させたウミホタルを兵士に持たせ、暗い夜などにつかおうと考えたのです。
戦場であるシンガポールに、たくさんのウミホタルの粉をかめにつけて送りました。しかし、その粉に水をかけても、少しも光りませんでした。

ウミホタルの照明弾
夜、敵の軍艦を明るく照らすことができれば、目印となり特攻隊が体当たりしやすいと考えました。
昭和20年7月ごろ、乾燥させたウミホタルを米ぬかにまぜてばらまくと、20分くらい光らせることができるという発見しました。
しかし敗戦まじかだったので、ウミホタルの照明弾はつかわれずに終わりました。


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