しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦直後の岡山県知事(2年弱で知事5人)

2015年07月30日 | 昭和21年~25年
終戦を境に2年後の民選知事誕生までの間、岡山県知事は移動しまくっている。他県も同様に混乱していたのだろうか?


「岡山県政史」から転記

終戦時における本県知事は小泉吾郎であったが、一か月後に知事更迭があり、代って安積徳也が就任した。しかし安積知事は公職追放令対象者となり、翌21年1月退職した。
内政部長西岡広吉が知事に昇格就任した。
なお、西岡知事も同年10月福岡県知事に転任して、豊島章太郎が就任した。
この豊島知事は官選最後の知事であったが、同22年4月に西岡広吉が公選初代の知事に就任とともに退任した。


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城見村の船舶

2015年07月30日 | 昭和元年~10年

明治に多かった漁船は既に減り、茂平の漁業が消滅するまで変動がなかったようだ。




城見村役場資料より転記。

大正11年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 昭和2年 昭和3年 昭和4年 昭和5年 昭和6年

汽船
西洋型帆船 員数
1 1 1 1 1 1
石数 106 120 120 120 120 120
小型 動力を有するもの 1 1 1 1 1 2 2
動力を有さないもの 17 11 10 10 18 18 12 5 12 18
計 員数 17 11 10 10 20 20 14 14
石数
106 120 120







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城見村現住人口職業別

2015年07月28日 | 昭和元年~10年

城見村の大半が農業・漁業だった事を、役場の資料も実証している。


城見村役場資料より転記。



現住民人口職業別の1
大正11年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 昭和2年 昭和3年 昭和4年 昭和5年 昭和6年
現住人口 2.431 2.404 2.398 2.363 2.312 2.444 2.408 2.410 2.427 2.435
農業 専業 1763 1740 1732 1711 1642 1717 1723 1725 1735 1732
兼業 352 348 348 331 345 379 345 345 351 350
水産業 専業 19 19 24 28 29 31 28 28 28 31
兼業 22 22 23 24 24 26 29 29 29 34
工業 専業 43 43 46 44 44 48 48 48 48 47
兼業 31 31 29 28 28 31 34 34 34 36
商業 専業 29 29 32 30 31 35 32 32 33 49
兼業 118 118 114 110 112 124 114 114 114 108
交通業 専業 -- -- -- 5 5 6 6 6 6 6
兼業 -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
公務員及自由業 専業 36 36 22 24 24 26 27 27 27 26
兼業 18 18 28 28 28 31 22 22 22 16


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城見村の人口(大正末~昭和初期)

2015年07月28日 | 昭和元年~10年

人口調査は現住数と本籍数の二本立てだ。田舎の現象として本籍人口の方が多い。


城見村役場資料より転記。

大正11年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 昭和2年 昭和3年 昭和4年 昭和5年 昭和6年
現住戸数 445 445 436 441 436 436 437 435 435 435
現住人口 2.431 2.404 2.398 2.363 2.312 2.444 2.408 2.410 2.427 2.435
本籍人口 2.827 2.833 2.847 2.857 2.846 2.888 2.904 2.935 2.979 3.003


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小田郡城見村会議員及選挙被選挙人員(大正末~昭和初期)

2015年07月27日 | 昭和元年~10年
選挙制度の変革は大正末の25歳以上の男子の普選。
昭和21年の女性への選挙権、男女とも20歳以上へ拡大。
平成27年の18歳以上へ2才拡大がある。

笠岡市役所に保管されている城見村の資料から選挙人の名簿を転記した。

普選の選挙人は約540人。
普選前の選挙人は村会議員が約390人、衆院が280人。
この540、390、280の差。特に390と280の差はいったいなんだろう?



大正・昭和  村会議員定員 被選挙権ヲ有スル者 選挙権ヲ有スルモノ(年末現在)

大正11 12 374 379
  12 12  394 401 
  13 12  389 394
  14 12  383 389
  15 12  空欄 空欄
昭和2 12  531 535
  3 12  空欄 空欄
  4 12  --  539
  5 12  --  548
  6 12  --  544


衆議院議員 直接税3円以上ヲ納ムル者 選挙権ヲ有スル者 有セサル者(12月20日現在)
大正11 288 229 59
  12 282 227 55 
  13 279 232 47
  14 277 232 45
  15 259 228 33
昭和2 --- 541  ---
  3 --- 空欄  ---
  4 --- 541  --  
  5 --- 546  ---
  6 ---544 --


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福山市内海町の石油タンク跡

2015年07月27日 | 昭和16年~19年
福山市内海町の横島はたいへんきれいな海岸線だが、岬の山中に石油タンクがあり、道べりには陸軍の測量杭がのこっている。





岡山15年戦争資料センター発刊・岡山の記録・9号・2007年のうち
福山「鞆後山高射砲陣地」探検記から転記する。




岩国陸軍燃料廠横島出張所
陸軍燃料廠航空燃料貯油所

昭和15年陸軍燃料廠が発足、同時に航空燃料の重要性を重視して陸軍によって航空燃料専用貯油槽建設を開始。
貯油槽11基を備え、油送船桟橋も完成。今もタンク防護壁と桟橋が残り、ふきん山間部には機銃座も最近確認された。
当時陸軍貯油槽では最大規模で、朝鮮戦争時には米軍が接収した。


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女工哀史

2015年07月27日 | 江戸~明治
明治の初期・中期日本全国の地方都市に綿糸と生糸の近代工場が設立されていった。
群馬県富岡やアイビースクエア(倉敷紡績)が有名だが、跡地のほとんどがショッピングセンターとなっている。

戦後、工場の労働者の多くは集団就職で確保していたが
戦前の実態はどうだったのだろう?

「小学館・大系日本の歴史14」より以下転記


繊維産業の女子労働者の場合、農民の貧困と無知につけこんだ詐欺的なやり方でなされた。
契約は親と会社で結ばれ、前借金によって年季奉公が義務付けられ、途中の転廃職は許されず、逃げれば捕えられてリンチを加えられる。
会社の寄宿舎に事実上監禁され、私生活の自由は無く、人権無視の生活を強いられる。
また募集にあたる見番は、ことば巧みに女工を口説き、もてあそんだ。娼妓の前身はしばしば女工であった。私娼の場合も大阪府の1916調査例では46%の前職が「工場職工たりし者」でしめられている。


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特殊接待婦 岡山市の場合

2015年07月22日 | 昭和20年(戦後)
岡山県史より

10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。

いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。

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求む「日本の新女性」--Recreation and Amusement Association

2015年07月22日 | 昭和20年(戦後)
「昭和史9占領下の日本」より

昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。

RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。

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女(おなご)は貧乏の種・・美星町史

2015年07月22日 | 暮らし
このページは「美星町史」より転記する、女性の地位は備中地方の各市町村とも似たり寄ったりと思える。管理人の母や祖母や曾祖母も、ここに書かれた女であった。

(美星町史)

男の子は宝物と言ってよろこび、女の子は貧乏の種、三人もいれば家が傾くと言ってきらわれ者。「読み・書き・ソロバン」を習わすより糸つむぎやハタ織りを教えた。
嫁入りのしつけとして、冬もコタツには入れず、ひざをくずすことも許されず、7~8才の頃から針を持ったり、白巻きをつくったり、草履つくり、なわないなどをしていた。

食事に就いては、最近までかなり差別があって「女は冷や飯食い」と呼ばれ、炊き立てのご飯は食べられず、何時も釜ざらえ、おひつざらえ。
麦の多いところが嫁の分、ごちそうは女の口には入らなかった。
適齢期を迎えると、親の命ずるままに見知らぬ人に嫁し、婚家では「手間をもらった」「飯炊きがきた」と言われ、牛馬の如くこぎ使われて、十分な食量も与えられず遠慮のし通しで過ごす。
衣類は一生着られるほど用意して嫁ぎ、身の回り品・化粧品は何十年も買えなかった。

嫁いだ女の苦しみの中に「妊娠と出産」がある。「つわり」は「バチアタリ」で良くない女の受ける神仏のとがめとされた。
病気になれば我慢に我慢を重ね、精神力でおさえることが女の美徳とされた。

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