しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

秘境のターミナル駅、「備後落合駅」に行ってみた

2022年05月22日 | 令和元年~

 

比婆山に登った後で麓の駅、備後落合駅に寄った。

 

 

山あいの、冬は雪国の駅は、びっくりするほどの鉄道ファンがいた。

 

 

しかし三本の列車が発車したホームには、ふたたび静寂そのものの風景に戻った。

このターミナル駅は今、
ターミナル機能だけでなく、鉄道そのものが廃止の対象となっている。

 


盛時には200人が働いていたというこの駅も、
そして県北の三大ターミナル駅である津山駅・新見駅・三次駅も、ほぼ同様な立場になっている。

山の風景も,海の風景も美しいが、・・・このままいけば、
100年後か200年後には東京を残して日本列島は沈没してしまうような思いがした。

 

 

場所・広島県庄原市東城町

日時・2022年5月18日 午後2:30頃

 

 

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新選組の谷三十郎

2022年05月22日 | 令和元年~

 

新選組の池田屋にも乗り込んだ谷三十郎は、元備中松山藩士。
三十郎は新選組の多くの例に洩れず、横死かつ頓死の死に方をしたようだ。

 

 

 

その三十郎が現代に松山城主として蘇り、人気を博している。
名を「さんじゅーろー」に変え、
姿は猫に変え、
全国(車のナンバーが全国版)から城主を見に来ていた。

 

 

私は猫代が惜しくて(500円)、
本物の代わりに、石を撫ぜてから去った。

 

 

場所・岡山県高梁市 「備中松山城」
登城日・2022年5月19日

 

 

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「第55回 福山ばら祭 2022」に行った

2022年05月16日 | 令和元年~

3年ぶりに開催の「福山ばら祭」に、3年ぶりに行ってみた。(2022.5.14)
今年は広島FFと同じで、パレード無しでの開催だった。

 

(緑町公園)

 

パレードは無くても、結構楽しめた。
そのうち、
「ふくやま大道芸」を動画にした。↓

 

 

 

(ばら公園)

 

 

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みかん輝く黄金の島、大長

2022年05月13日 | 農業(農作物・家畜)

戦後の農政は、土地改革という歴史的大仕事があったが、それは占領時代のこと。
独立後の日本農政は、豊富な予算をひたすら”稲作”と”農業土木”につぎ込んだだけ、という思いがする。

昭和30年代の初頭、西日本の沿岸部を中心にミカン栽培が推進され、先進地の大長(おうちょう)は誰もが名を知る島となった。


・・・・・・・・・・

 

 

みかん輝く黄金の島、大長

 

「島」 斎藤潤 みずわの出版 2010年発行

昭和30年代半ばに温州ミカン一箱が当時の金額で数千円した。
小さな島から大阪市場へ直行するミカン専用船があった。
王長は、黄金の島の異名をとった。

「柑橘類は、やはり島が中心です。
周囲が海で気温が下がりにくい、
傾斜地が多く水が少ない、
風が比較的当たりにくい、という条件が、栽培に適しているんです」
水分はぎりぎりまで絞り最低限の量だけをパイプで点滴してやる。

農船とは、大長のミカン栽培の象徴的な存在と言っていい5トン未満の木造船だ。
近くの島や対岸の本州、四国まで土地を求め、開墾してミカン畑を作った。
農作業に通う足であり、ミカンを運ぶ輸送船でもあった。

 

 

大長ミカンとは大長地区で収穫される柑橘全般をさし、品種名ではない。
代表するのは温州ミカンの青江早生だ。
種無しの温州ミカンは、子孫ができないと嫌われていた。
大分県の青江村から穂木を譲り受けて接木し青江早生と名づけ、
翌年から村内に穂木を配って広めた。
最盛期には全国の早生ミカンの8割を占めた。
皮が滑らかで薄く、房が柔らかでそのまま食べられた。

昭和30年代から40年代の初めまでが大長の黄金期で、
当時の金で、年収1億を超える農家が、何軒もあったという。

ミカン倉
天井に喚起口があり、上には越屋根が載っている。
湿度の管理が重要だったようだ。
10段ほど棚があり、昔はミカン一つ一つていねいに並べて保存したのだという。
「ミカンは寒さに弱いので、青くても年内にもいどって、ミカン倉に入れて保存する。
朝は4時や5時に冷気を入れてやりました。
ロウソクの光で毎日一つ一つ点検して、腐ったものは取り除いたものです」
ミカン倉の目的は、ミカンを長期保存しておいて、端境期になってから高い値段で出荷すること。
貯蔵ミカンをいかに座らせるかが大切だったらしい。
「うまく座ると色もきて、糖度も上がる。
座らせているうちに2割くらい目減りするが、それ以上にいい値がついたんです」

「力の弱い人は3箱くらいだったが、10箱背負える力自慢が5~6人はいました」
一箱約20kgだから、多い人は急峻な山道を1回に200kg担ぎ下したことになる。

 

 

 

除草剤を極力使わないようにしている。
ミカンの後口にちょっと渋みが残るし、糖度も上がらなくなるからだという。
一年中途切れることのない畑の手入れや剪定の苦労、相場の変動。

 

 

 

改めて家々を観察すると、立派な建築が多い。
瓦やら塀などに、さりげなく凝った家もたくさん見かけた。
ミカン山に登って大長の町並みを一望する。
農業集落でこれだけ家屋が密集している場所は、他にないのではないか。
大長ミカン黄金伝説とともに、この集落景観は長く保存されるべきだ。
御手洗に勝るとも劣らないのではないか、と思いつつ急坂を下った。

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高瀬舟

2022年05月12日 | 大正
岡山県三大河川の高梁川・旭川・吉井川には、どの川にも高瀬舟が運航していた。
鉄道の開通に合わせるように姿を消した。


(柵原ふれあい鉱山公園 2022.4.6)

↑の説明碑、
高瀬舟(たかせぶね)

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。



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目で見る岡山の昭和

高梁川を遡る高瀬舟
帆を揚げ、地を這うように引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、
伯備線の開通でその姿を消した。

(目で見る岡山の昭和)



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(加茂町誌)

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

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「旭町史」
高瀬舟の運行

旭町からの高瀬舟は一日あれば岡山に着いた。
水の少ない時は途中で一泊することもあった。
岡山に着いた高瀬舟は兵団で荷上げをする。
鶴見橋西詰から土手を500mばかり北に行ったところにありオタビと呼ばれる大きな船着き場があった。
最盛期には100隻近く係留されていたという。

岡山からの帰りは、旭町まで3、4泊を要した。
逆水に舟を引き上げねばならないからであるが、流れの速い難所や、数多くあるかんがい用の井堰の航行に難渋したからである。
高瀬舟は大体一日に4、5里しかのぼれなかった。

高瀬舟の操船
オーブネという高瀬舟には、
オオサシ、ナカノリ、カジトリとよばれる船頭が三人いる。
オオサシは親方船頭ともいい、ミザオ(竹棹)をもって舳先にたち、カジトリに指示しながら操船する。
カジトリとナカノリは、コセンドウ(小船頭)、ツナヒキセンドウ(綱曳船頭)ともいわれ、高瀬舟に綱をつけて引き上げる仕事をする。
下りの時は、カジトリは蛇をとるが、ナカノリは雑用する以外仕事はない。
高瀬舟は、7,8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰の所で舟を引き上げるための共同作業をしなければならないからだ。
川べりは曳船をするのに都合のよいように、細い道をつけてきれいにされていた。
浅瀬にかかって綱で引っ張れないと;きは、瀬持穴にセモチ棒をさしこみ、高瀬舟を担ぎ上げなければならなかった。

高瀬舟の生活
高瀬舟は、晩までに積荷を終えて、朝早く出て行くのがふつうであった。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜、塩干物、調味料なども用意され、石のクドで炊事をした。
冬には炬燵までも持ち込まれ、風呂はなかったが、川岸の宿場で銭湯に入った。
船頭は、フナダマ様や金毘羅様を信仰した。
遭難事故は増水時の下り舟に多かった。
難所には金毘羅様を祀り安全を祈った。
川岸にはいくつもの安宿があった。
岡山の中島遊郭で散財をしたり、金川でどんちゃん騒ぎをして、すってんてんになって帰ってくることもあった。

高瀬舟の積荷
時代によっていろいろ変わって行きましたが、
通常、往きは
煙草、木綿、こんにゃく、薪炭、勝栗、「たたら」などを積みました。
帰りは
塩、石油、種油、紙、密柑、陶器、ガラス、砂糖が主なものでした。

種類
貨物のみを大舟、
客と荷物を積むのを日舟(ひせん)、
日舟は荷物が主で、金毘羅参り等が利用し、帰りは福渡まで汽車で帰り、それから舟で帰るという利用法がよくされていました。

積荷加減
水量によって積み方も変えてゆき、下りには前の方に積む方がよちされていました。

舟は通常長さ8間(15m)、幅8尺(2.5m)、
船頭は三人乗り込み、それぞれが麻紐85尋(155m)を一本づつ持ち乗り込みます。
舟の就航は一回5~8日で、一週間に一度。


昭和3年(1928)、伯備線の全線開通

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鉄道に追われた高瀬舟



「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。


・・・・



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銘仙のおしめ

2022年05月12日 | 昭和16年~19年
戦時中、”産めよ増やせよ国のため”の時代は
母子ともに栄養失調の時代でもあった。

出産祝いにもらって食べた、(漁師の隣家からの)魚がおいしかったことを母は何度も話していた。
産まれる直前まで野良仕事をしていたのは、どこの農家の嫁も同じ。

この時代に出産した母のことを思うと涙が出そうになる。
 



「勝央町史」 勝央町 山陽印刷  昭和59年発行
お産

「銘仙のおしめ」

お姑さんにお湯を沸かせてもらうように頼み、
産婦の腰を一生懸命こすりました。
細い身体が骨ばっていて、この家の生活が全部この人の腰に乗っかかっている感じです。
40歳近いご主人は、この6月召されて父母と子供5人それにお腹の胎児を残して沖縄に出征しているということでした。
当時でも助産婦は妊婦に
「栄養と休養を十分とるよう」などと、現実離れの指導をしたものです。

逼迫した食糧事情に、農家といえども米など十分に食べられるものではありません。
供出米は厳しく言い渡され、残りで家をまかなうのです。
イワシを買うにしても一人半匹しか買えません。
あとは大根や葉っぱを煮て食べるだけです。
この家も例にもれず、子供たちの残したイワシの骨を金網の上で焼き醤油をつけて妊婦は食べていました。
美味しいものは親に、甘い栄養のあるものは子供たちに、まずしくて残ったものがこの母親の食べものでした。

力いっぱいの三回くらいの陣痛で分娩しました。
「また男の子で元気ですよ」と、告げると再びお湯の用意に行かれました。
産後の処置をすませ腹帯を締めることにします。
探していると「そこに帯芯があるでしょう。それをして下さい」。
なるほど、衣料切符で買うといっても、その分はすべて子供たちの物でしょう。
この帯芯はきっとお嫁に来るとき、タンスに入れてきたものでしょう。

「おしめはここにあります」
見ると、黒と藍色の棒縞で、銘仙の着物を解いておしめに縫ってあります。
この銘仙もお嫁入りの時、持ってきた一枚に違いありません。
木綿もなくなったので、やむなくこれでおしめを作ったのでしょう。
これがこの時代の母として最高のお産の準備だったのです。
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ゼロの文学

2022年05月07日 | 昭和20年(戦後)
軍国主義におもねれば別だが、
作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。
岡山に疎開していた永井荷風が、
終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。





ゼロの文学


新聞は戦争記事でうまった。
男は国民服とゲートルをつけ、
女性はモンペをはくことになった。
そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。

徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、
時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。
谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。
永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。

・・・

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。


太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行



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岡山市に疎開していた荷風の終戦翌日の日記は、これからの日々に自由や希望があふれ出ている。

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「荷風を追って」--1945夏・岡山の80日  三ツ木茂  山陽新聞社 2017年発行

この日、東久邇宮に大命は下った。
荷風は筆をとり、元中央公論社社長の嶋中雄作に手紙を書き、
岡山県勝山町の谷崎潤一郎にも礼状を認めた。
この夜の月がおそらく最も輝いていたであろう。


(昭和20年)
 八月十六日(木)
晴、郵書を奈良県生駒郡法隆寺村に避難せる嶋中雄作に寄す、
また礼状を勝山に送る。月佳なり。



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朝顔の咲かない夏

2022年05月07日 | 昭和21年~25年
子どもの頃の夏休み、どこの家にも朝顔とヒマワリは咲いていた。
花が終わると種をとり、それを翌年咲かせていた。それが毎年つづいていた。

しかし朝顔の咲かない夏があった。
昭和20年頃から24年頃までだろうか。





季節感の回復  昭和21年5.12  天声人語

日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。
つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、
それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。
目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。

花や緑も何年かぶりに接する心地がする。
平和になって季節感をとりもどしたのである。
五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。

本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国体を護持するとか、
あのまま続けていたら、コロネット作戦、オリンピック作戦をまたずとも、
原子爆弾で国も山河も亡びつくしたに相違ない。


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朝顔  昭和21年8.26  天声人語

朝顔は清潔可憐な花である。
その朝顔がこの夏,都鄙(とひ)をとわずどこの庭先にも見られなかった。
この花が姿を消したのは、食糧事情が窮迫し家庭菜園がはやりだしてからである。
朝顔のみならず、草花という草花が、われわれの庭から追放されてしまった。

日本人が花を愛さなくなったからではない。
花を愛する余裕が物心両面ともになくなったのである。
咲く花は、食える実の生る花ばかりである。
南瓜、茄子、胡瓜は、空地という空地に花盛りだった。
生きるか死ぬかのせっぱつまった心境で、咲かせた花である。

しかし南瓜の花も案外いい香りをもっているのを発見した。
武者小路実篤氏は好んで芋の絵を描くが、
自分で作ってみると、
じゃが芋や南瓜のたたずまいにも、驚嘆に値する美を見出すのである。



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「少女たちの戦争」 にがく、酸い青春

2022年05月06日 | 昭和16年~19年
(昭和中期では)
笠岡東中や大島中地区の人が、笠高・笠商・淳和に通学する時、
笠岡工業生と対面する。
ほぼ決まった時間に同じ場所で高校生同士が対面する。
女学生はそこで工業生に恋心を持つことがある。
その一瞬が、毎朝の喜びとトキめきで、
吉田拓郎風にいえば♪ あゝそれが青春、の時を過ごす。
その一瞬以上の恋はなかった(と思うが、違うかも)。


(昭和・戦時中では)↓
人命が軽すぎた時代の青春。



にがく、酸い青春  新川和江

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


旧制の女学校の一年生の晩春の頃だったと思う。
水戸の聯隊に入営していた兄に、月に一、二度、
ぼた餅やちらしずしを重箱に詰め、母と一緒に面会に行くのである。

水戸から聯隊行きのバスに乗るのだが、とある停留所を通過する時、
長身の学生が路上に立っているのを見た。
高等学校も高学年の学生であるらしかった。
かれはそのバスには乗らなかったが、発車したバスの窓から見ている私と、目が合った。
一瞬のことだったけど、かつて体験したことのないときめきが、私の胸に生じた。

兄と面会し、帰ろうとしたとき、私の足が、思わず釘付けになった。
巨きな桜の木の下に、あの学生が立っていたのだ。
母に促され、その前を通り過ぎる時、
二度と会えないだろうそのひとの、学生服の胸ポケットに縫いつけられた、
白い小布の名札を見た「〇〇」と姓だけが読みとれた。
せめて名前だけでも知りたいと、いっしょけんめいだったのだ。
家に帰ると、春だというのに、火鉢を抱えこんで部屋に閉じ籠ってしまった。

・・・

そのひとも何処かで、静かな老年を迎えているのであろう。
それとも、学徒出陣で、南の空に散華したか。

私の通う女学校の教室が七つもつぶされ、
旋盤やターレット、ミーリングといった機械が運び込まれて、兵器工場と化するも、それから間もなくのことだった。
敵の航空母艦に突っ込んで行く特攻機の、心臓部に取り付ける気化器という部品だった。
そのひとの死に私は、加担していたのかも知れなかった。



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「少女たちの戦争」めぐり来る八月

2022年05月06日 | 昭和16年~19年
旧制女学校の、工場への動員は”軍服”と”兵器”に分かれるが、
兵器に派遣された人たちは戦後も、何年かは口を閉ざしている。
機密の呪縛や、造った物の使途への自責の念がつづいたようだ。





めぐり来る八月 津村節子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


女学校に入学した年に太平洋戦争が始まり、
旅行と言えるのは、三年生の夏の赤城山登山で、
目的は心身の鍛錬である。
体操服にもんぺをはき、杖にすがって、あえぎながらただ歩き、ただ登る。
それでも山頂で写した写真は、日焼けした顔に白い歯をみせてみな笑っている。


まだその時には、戦争に負けるなどとは思ってもいなかった。
私たちの目標は、心身を鍛え、銃後の守りを固め、東洋平和のためのいくさに勝つことだけだった。
軍国思想の教育が,真っ白な頭の中にたたき込まれていて、
反戦思想など芽生える隙もなかった。
列強の侵略からアジアを解放し、大東亜共栄圏を築く聖戦だ、と教え込まれていた。
これまでに負けたことのない神国日本は、神風が吹いて必ず勝つ、と大人たちは言っていた。


昭和19年5月16日に、学校工場化が通達された。
東京都立第五高等女学校では、その年の8月15日から、
5年生は中島飛行機、
4年生は立川飛行機と北辰電機へ動員された。
勤務時間は8時から6時まで、休日は一月一度だけだった。
昼食は高粱(こーりゃん)めしか、虫のついたにおいのする古米。
おかずは大根葉の煮物か、イモやカボチャの煮物。
軍需工場だからまだましだったらしい。


各班が一部分をやっているので、一体何を造っているのか誰にもわからなかった。
部屋の入口には「軍機保護法により許可なく立入禁止」の札が出ていた。
自分たちの造っている物は何か教えて欲しい、
それがわかれば張り合いが出て、もっと頑張れる、
とある日みなで班長に迫った。
とうとう特殊潜航艇用の羅針儀を造っているのを聞き出した。
自分たちの作っている羅針儀を装備した人間魚雷で、若者たちが死んでいく。
無論親にも秘密を守り、戦後だいぶたってから話した。

神にすがる思いだった神風は吹かなかった。
私たちが造っていた羅針儀を積んだ特殊潜航艇に乗って、
若者たちが自爆して行ったのである。



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