しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の暮らし・戦後

2020年07月17日 | 父の話
父の話 談・2000.8.27

戦後


金属類供出その後
(各戸から)出たもんが、最後(溶解)まで渡るには、かんたんには(素早く)いかん。
どっかにまとめられていて、それで終戦後に処理し大儲けをしたもんが何人もおる。



昭和21年

「小便は家でして貯蔵しなさい」
まあそうゆう時代じゃった。



笠岡市に合併
城見村の所有地

笠岡市に合併(昭和28年)の時、
村の所有地と、
地区(茂平・用之江・大冝)の所有地と、
胴山のような(小字)地域の所有地があった。

村の所有地は学校や役場の土地・建物で市に移管する。
地区の所有地は売って、その金額相当程度の工事を地区ごとに使ぉた。
用之江と茂平が主で、大冝は地区の所有地がなかった。茂平がいちばん多かった。


茂平の堤防工事

あれは合併には関係ない。
国からの補助でした一千万からの工事じゃった。
議長しとった山本と水尻のまあさんとワシが主に動いた。


笠岡市合併の説明会
村長が番屋の隣で説明会をした。
了解してもらうために。
反対は誰もおらん。



軍人恩給

傷痍軍人
戦死のほかに公傷の等級によって出ようた。



城見農協の大バーゲンセール

昭和24・25年ごろ
(城見農協に戦時中に造った粗悪品を保管していた)
ぼっこういなげなのがあった、それを処分した。安ぅ売りはろうた。
鍬や鎌でもろくなのがない。

やっちもねえ着るもんから鍋まで。使えんようなもん。

鎌でもかっこうだけの鎌で、ちょっと使えば、じきに切れんようになりょうた。
刃も鍛えとらん、あの時分じゃけ叩いとらん。仕方ねぇ。

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茂平の暮らし・戦中

2020年07月17日 | 父の話
父の話 談・2000.8.27
戦中



出征兵士、県境の別れ

用之江の県境まで見送りに来てくれる。
見送りに行くのは地区の役員や婦人会の世話役などが行く。
兵隊へ行くのは死に行くようなもんじゃ。
「ありがとう」と、
お礼のあいさつをして大門駅まで行く。

汽車が通るまで待ってくりょうる。
汽車から手を振る。

(入営先が岡山の場合が大半で、
①大門駅から岡山駅に向かう。
②村境の場所が、たまたま鉄道と近接している。
そのため、
城見村の場合は村境の送別に加え、汽車の兵士へ旗を振る送別がプラスされる)


消防組・警防団

今の消防団じゃ。
組頭(くみがしら)ようた。
戦争になって消防から警防団に変わった。
消防ばあでなく役が増えた。


満洲移民

この方は大島、大島(の山岳地域)は土地が少なかったんで百姓ができん。



昭和19年 ヒマの栽培

下剤じゃ。
茂平にゃあ作りゃあせなんだ。ゆう事をよう聞くところは植えとるが。

(管理人記※戦時中は大政翼賛会より「航空エンジンの潤滑油」として奨励されたとある)



防火管制

街灯もつけたらいけんようた。
(田舎の家庭では)もとから点きょうらん。
家の中も外も真っ暗じゃ。



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茂平の暮らし・戦前

2020年07月17日 | 父の話
父の話 談・2000.8.27

戦前


村長

議会で決みょうた。
村長は議員からなりょうた。
議員でのうてもなりょうた。
話し合いで決みょうた。
議員の推薦と承認で決みょうた。


村農会

農協のような会。
おじいちゃんは県の普及員で農会におった。
(小田郡大江村の)大江の農会に勤務しとった。
県から給料が出ょうた。
兵隊におった時にも県から給料が送らりょうた。
8割くれぇ通帳に振り込んでくれとった。


在郷軍人会

いちばん偉いんが(城見村)分会長。
兵隊へ行ったもんが相談して選びょうた。
手当は一銭もない、ボランティアじゃ。



青年団

女子青年団もあった。(男子に比べ存在感はなかったようだ)


小学校

校長の下に訓導(くんどう)がいた。
教頭はおららんだ。訓導は先生。


巡査・駐在所

戦前から城見村役場の横にあった。



武漢三鎮

信陽へ行くまで、戦争しいしい行った。途中で大勢死んどる。

城見からは同年兵が10人より上おった。
全員無事に(中国から)帰った。



軍人の村葬

死者の葬儀は自宅ですんじゃ。
それから村(そん)で2~3人まとめて村葬(そんそう)をする。
そうせんと、するばあになる。それでまとめてやる。
場所は(小)学校じゃ。


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茂平の暮らし・城見の博労ほか

2020年07月16日 | 父の話
父の話 談・2002.5.3 



警鐘台
(役割は)昔とかわらん。
サイレンによって召集をかける。


脚絆
上と下で二か所くくる。
田植え用
ひいるがおるので、(ひいる対策)履く。 
 

ゲートル
巻く。
兵隊も学生もはきょうた。
山へ行く時にもはきょうた。


人糞
新涯に大きな野壷をこしらえとった。



父・米や麦を干しょうた。今は米を作りょうた人は乾燥機があるんで庭はいらん。

母・何べん干しょうたもんなら。一斗ず運んで、筵(むしろ)をしいて。
雨が降りそうなら夜中でも、起きよぅた。


茂平のイナ取り
ワシが子供の時からしょうたのう。
やり方は変わった。
土地ををもっとる人が責任をもってやりょうた。

消防がするようになった。
儲けた分は消防が使ようた。
おじいちゃんがあるときにした。


PTA会費
少ないけえ、払えんゆう人はいなかった。


アメリカの脱脂粉乳
国がしょうた。
国が飲ましょた。
腹薬として飲ましょうた。


エントツ掃除
火を焚きょうたけぇ。
上から下へ(煤を)落としょうた。
エントツ掃除は消防からもせぇようた。


牛を買う
西ノ谷へ博労のますらおさんがおった。
城見ではますらおさんだけじゃった。

「ええ(牛が)のがおるけぇ買え」
それが子を産んで大きくなったら
「売れ」ようた。

ますらおさんは若いのをもって売りょうた。
商売にしょうた。
自分で何匹か(牛を)持っとった。
城見じゃあ一人だけじゃった。


兵隊が野戦で寝る
行軍しょうるときは、寝るのはそのまま。(歩いているふくそうのまま寝る)
取るのは帽子。背嚢。
背嚢は枕にして。

(足を休めることは?)軍靴をはいたまま(寝る)。
顔は?
昼にぶんぶん(蠅)が多い、それで網をもっとる。それを被って寝る。


背嚢の中身は?
自分の貴重品や、食べもん・・乾パンみたいなもん。着替えやこ。
食料品と日用品。

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茂平の暮らし・醤油づくり

2020年07月11日 | 父の話
管理人が小学校の1~2年生ころまで、家の土間に木製の醤油を絞る道具があった。
ぽったん・ぽったん、醤油が落ちていた。
自給自足の生活だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父の話 談・2002.5.3 
・・・・・・・・・・・・・

(醤油作りをやめたのは?)

父・めんどうなんじゃ。
小麦や大豆を植えとききゃなあいけん。
うむして搗かにゃあいけん

母・麹がええようにできんのじゃ。


(麹づくり)

母・今は部屋があり、一定の温度を保てるが・・、
その頃はない。

それで家でつくりょうた。
彼岸をさかいにつくりょうた。

彼岸ごろになりゃあ、どことも味噌の香りがしょうた。
焚くから匂いがしょうた。
「豆のかざがすらあ」ようた。

麹に塩と水を加えてまぜくってから、一年寝かす。
せいから絞る。

辛い醤油ができるんじゃ。
それから、豆(麹が)がもったいないゆうて
塩と水を入れて「二番醤油」を絞るんじゃ。
汁だけはできる。

父・一番醤油はおいしかったが二番醤油は辛いばあじゃった。



母・時候が寒ぅちゃあいけん、炬燵でできん。
早くつくると、暑すぎて腐ってしまう。
(母の実家の祖母)トノおばあさんは、麹づくりがうまかった。
村でも有名じゃった。
見てきれいじゃった、ええ色をしとった。
トノおばあさんの麹は米で作るのも、麦でつくるのもきれいじゃった。(味もよかった)
ウリやナスビや人参、ゴボウを使うて、味噌漬けをつくりょうた。

一度作った麹を見に来て、黒い麹で「どこにこんなんがあるんじゃ」
ほれで、おばあさんにちいと習うてきた。

温度がむずかしかった。



そしたら鴨方の方に麹をつくるところができた。
この方からも鴨方に持っていく、ええ味噌ができる。
ヒシオもいいのができる。


(鍬ぞめ)

正月にゃあ甘酒を祀らにゃあならん。
夜灯のおねえさん方から(隣村の野々浜)、ぜっぴつなぎに来ょうた。
米を出しゃあ、麹を一升もって来てくりょうた。

正月11日にゃあ、鍬に祀らにゃいけん。
1月11日の「鍬ぞめ」。
この日にゃあ、鍬を全部洗うて、庭に並びょうた。

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茂平の暮らし・昔の出産祝い他

2020年07月10日 | 父の話
父の話 談・2002.5.3 

・・・

はじめての生命保険
兵隊へいくとくにゃ(昭和12年ごろ)、1万円かけた。
会社は日本生命じゃろう。


・・・
ぎゃあぎゃあのこと
瓦斯鉄砲は戦後のこと。
個人で音を出して、鳥を追い立ちょうた。
音が出るだけじゃけえ、びっくりして飛んでいくだけ。


・・・

茂平の樋門

当番はねえ。
ぎんやんやりょうやんがしょうた。
国からの援助に村が金を足して払ようた。
樋門の守の金。
ぎんやんはたーさんのおやじじゃ。
一番樋門に近い。

昔の樋門は
荒神さんの松の木を引いてから作った。

・・・

虫歯の治療

乳歯が抜けぬ時はペンチや糸で引っ張っていたのか?

たいてい抜ける。
抜けんときは,糸でくくって引っ張りょうた。

・・・

こんにゃく

父・こんにゃくは種をもろうて前の庭で作りょうた。


母・今はみいやしい。昔はくどで炊きょうた。
いわさんかたに美味いもんができょうた。ウチにも次第にうまいのができだした。
それで人にもおしえてあぎょうた。

買う人と作る人がいた。

今は農業新聞を読めばうまいのができる。
農協へ頼んどけばセットにして売りょうる。味噌でもそれじゃ。
こうじをこしらえたりせん。

麹は協同でもするようになった。道具もあるし。

・・・

おば(父の妹の)満洲への反対

父・利三郎じいさんが反対した。
ようもどらん思ようた。
満洲満洲ゆう時代じゃった。

母・井原の女学校の同級生にも一家揚げて渡った人がいる。
仕事もあるし、ええ暮らしができるいわりょうた。

(吉本の前の家、子供の頃、空き家の大邸宅があった)
昔満州で成功した人じゃ。
偉い人になっとたらしい。隊をもっとった。
戦争が終わったら、満州で殺されたそうじゃ。帰ってこん。


子供の出産祝い

母・昔はハデじゃった。
ゆきのりさん、ひさまっつぁ、やとう。
となり、
米を一升もってきてくりょうた。
もち米を食べれば、よう乳がでるようた。今と同じじゃ。
重箱へウムシを入れて返しょうた。
となりにゃあ魚を持ってきてくりょうた。(漁師で米を作ってない)
ええ魚をくりょうた。
浜のりょうやんも魚をもってきてくりょうた。
戦争時分で無い時じゃったのであの味が忘れられん。
おいしなあ思うて食びょうた。
いつもは雑魚じゃけど、
昔の付き合いは今より多かった。

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義兄の話(大相撲福山場所ほか)

2020年07月10日 | 父の話

(義兄が学童疎開をしていた陶山小学校 2020.4.2)




談・2002.5.26

大相撲福山場所


バラ公園のとこでしょうた

中央公園がバラ公園になった。
バラ公園はできるのが遅かった。
昭和36.37年ごろ、何もなかった。
幼稚園の頃は、あっこに遊びにいきょうた。


力道山とシャープ兄弟の街頭テレビ
街頭テレビはなかった。
福山でテレビが見れるようになったのは、昭和33年ごろ。


昭和35年の「60年安保」
大学4年か社会人1年生ごろ、自治会の人が学生運動をやりょうた。
学校でビラをまきょうた。
大勢で集まったり、デモをしたのを見たことはない。



赤線が消えた

大学の2年の時。
飛田(とびた)には、大勢の女がびっしりと立てっとった。にぎやかじゃった。
赤線が消えた後、廃止の後はピタッと女はいなくなっていた。



陶山小学校に学童疎開

小学校2年の時に疎開した。
クラスからは一人で、
縁故疎開、
篠坂に親類があった。
びっくりしたのが、二人掛けの机に三人も四人もすわらせる。
(自分以外の)よそからも、いっぱいきとったんじゃろう。教室はぎゅうぎゅうじゃった。
福山は集団疎開はなかった。疎開の人は福山からの人が多いようじゃった。
山を二つくらい越えて帰りょうた。

汽車が通りょうらんので田舎へ来たなあ思ようた。
バスが通りょうた。笠岡から木炭バスがきとった。どこで降りたのか覚えておらん?

習字の道具を忘れたことがある。女の先生が「すぐ取りに帰れ」言われた。
遠いのに。篠坂まで取りに帰って、学校に着くと授業は終わっていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

姉の話


学生時代の岡山
木原美智子さん、
駅のホームでよう見かきょうた。

岡山で遊ぶところ
後楽園によったりするくらい。

(同棲したり、こどもができた人はいたか?)
おらん・おらん。


・・・・・

干しイチジク
揉むテゴをしょうた。もんで、ひっくり返しょうた。
親が干しイチジクの研究をしょうた。
学校の先生が見学に来て家に泊まりょうた。

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岡山空襲75年・父の話

2020年06月29日 | 父の話
当時父は軍隊へ三度目のご奉公中で、本土決戦の要員か、岡山陸軍病院に詰めていた。
子供が1.5人いた。(0.5人は母のお腹にいた)

今日は岡山空襲75年で、語り継ぐことの報道がなされている。
このブログにも、その1ページを添えよう。


昭和20年6月29日の未明、岡山市は空襲で焦土に。死者1700人余。

・・・・・・・・・・・・



(父・昭和20年茂平の実家にて)



父の話・2000年12月3日



茂平の実家に帰った時に空襲が

空襲の時は、茂平に帰っていた。
茂平に帰ったその日岡山空襲があった。
すぐ帰れ(多分電報だろう)というので
すぐニギリメシを作って、リュックを背負い汽車に乗った。
汽車で帰ったが倉敷からさきは汽車は動いてなく。あるいて陸軍病院までいった。
おじいちゃんは運が得かった。
死んだ看護婦もいるし、兵舎は焼けてしもうた。残ったのは(自分が持って帰っていた)カバンだけじゃた。
満がエエ。



西川の死体

西川には多くの死体が浮いていた。
脚にはきゃ半をまいたままの状態の人もいた。
熱いので川に飛び込んだのと、飛び込んではみたが煙と酸欠とで窒息・酸欠・呼吸困難みたいなので死んだ。
外傷はだからない人が多い。
それと若いひとは元気なのでとにかく安全なほうへかけって逃げる。
死体は年寄りが多かった。
陸軍病院に老人の軍医さんがいた。中尉じゃった。軍医さんが空襲後帰ってこないので探しに行った。
軍医さんには玉野造船所に息子さんがいっていた。その夜は偶然息子さんが帰ってい(たのだろう)て、
息子さんと同じ場所で死んでいた。
本当にかわいそうであった。
(息子さんが偶然帰っていて、父とともに死んだ。また息子さんだけなら逃げれたであろう。)
(死体を)焼いて遺骨を持って帰った。
そしたらまた飛行機がきた。撃ってくるか思ようたが撃たんまま帰った。(空襲後の成果の)偵察じゃった。
アメリカはそうやって発表しょうた。(日本の発表はいいかげんなが)




(戦争遺跡・西川の「田町橋」・2019.8.4)





奉還町は焼かれずに

天満屋や銀行の鉄骨が残っていた。
燃えたのは鉄道より南。
おじいちゃんが岡山に帰った時はまだ燃ようた。
奉還町だけが焼けてなかった。
駅より南が(町の)主じゃったけど、奉還町と番町は焼けとらん。
ミッションスクールがある。あれが、あるけいじゃけい(アメリカは)焼かなんだゆうてようた。
スクールミッションが、清心女子大があるけい。
駅から前はみな焼けとった。




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茂平の店

2019年02月07日 | 父の話
談・2005.1.15


かんさん方。
あきらさん方の東側。食べるものを置とった。
ちくわやこ買うて食びょうた。

今りょうやんの家。
飴やパンを置いとった。
子供が菓子や鉄砲玉を買いにいきょうた。
ええもんはねえ。
りょうやんはウチの前に住んどったが、その店が止めたんで、そこへ引っ越していった。

番屋
豆腐はスミにしょうた。
その後で番屋が豆腐をはじめた。
いわさん方にも、親が豆腐をこしらようた。
吉本ははなえるのは遅かった。







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霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑  --吉浜菅原神社

2019年01月22日 | 父の話
吉浜菅原神社には霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑があったそうだ。
次に訪問の際は、ゆっくりと目で確認してみようと思う。

「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行より転記する。

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随神門の左側に自然石の霊園碑が建っている。
これは明治25年岡田藩の儒者であった浦池其の選並書であると聞いているが、岩に亀裂を生じ、磨きが悪いためか刻んである文字が判読できない。
この原稿を蔵しておられる人は御教示を賜りたい。
その台座一ぱいに寄附者の名が刻んである。
吉浜の有志50名ばかりと、他町村では、東京を始め岡山、井原、笠岡、有田、西浜等20余名が名を連ねている。

随神門の右側には何かがあったらしい凝った配石をした台座が残っている。
これは菅公1000年祭記念碑の寄附者名簿の銅板が建っていた跡である。


(この筆の青銅の碑は、菅原神社300年記念となっている)
菅公1000年祭の記念碑は、右手の丘の裾に跡が残っている。
筆を形どった誠に立派な碑であった。寄附者名簿と共に昭和18年に金属回収の為国に供出、取り払われ、台石のみが残っている。
景観を損じること甚だしく,淋しい限りである。

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