しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

恩田木工

2021年06月16日 | 銅像の人
場所・長野県長野市松代町松代


藩政の立て直しと『硯日暮硯( ひぐらしすずり』で知られる、松代藩家老。




(日立システムズ)

「信州松代藩財政再建の立役者」 ~恩田木工~

信州松代藩家老・恩田木工(おんだもく)が、疲弊した藩政の立て直しに着手したのは江戸中期の宝暦7年(1757年)。
木工の政治手法は、人間の相互信頼の回復、誠実の追求であり、意識改革であった。

政治の要諦は「民、信なくば立たず」、よって、まずは「隗より始めよ」である。
木工は身内を集め「今後、自分はいっさい虚言を吐かない。食事は一汁一菜、衣服は新調せず木綿とする。妻とは離婚し、子供は勘当、雇い人は解雇、親戚とも縁を切る」と宣言。
領民に耐乏生活を強いる立場にある者は、率先して身をつつしまなければならない。
役目が果たせなければ切腹するほかない。「おまえ達にもその覚悟があるか」と問うたのだ。
家族ら得心し、今後は木工に倣って質素倹約を誓った。

領民には、税の前納の廃止と滞納分を免除する半面、先納分は返還せず、以後、月賦納入とし滞納は許さないことなど定めた。
木工は、それらを一方的に告知したのではない。
領民と直接対話し、諄々(じゅんじゅん)と説きながら、合意を積み重ねていったのである。

木工が指揮した藩政改革は、41歳から宝暦12年(1762年)正月に46歳で急死するまでの実質わずか4年。
その間、財政の劇的な改善はなかったが、木工が拓いた道筋は明和3年(1766年)ごろから、再建の兆しを表わし始めたのだった。

同時代の松代藩士・小松成章は「恩田木工は近世の賢臣というべし。
上を敬い下を恵みて、仁徳深かかりければ、一人もこの人を悪(あし)ざまにいう者なし」と記し、
木工が重病にかかったと知れば「国民(くにたみ)歎きわずらい、我も我もとつどい集まり日待という事をして本復を祈りける」と伝えている。







撮影日・2014年4月14日


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松浦隆信

2021年06月16日 | 銅像の人
長崎県平戸市

南蛮貿易を始めた、肥前の戦国武将。




(Wikipedia)

松浦隆信


松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の生まれで

平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいた。
隆信は大友義鎮に報告して、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。

天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。
布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。

隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。
しかし宣教師を厚遇したが、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。
ポルトガル人が殺傷される事件もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。
長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。

一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、
火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。
元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。

天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣。
隆信は、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。

文禄・慶長の役には当主たる息子が出征。
文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を果たした。

享年72。
隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、
近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築いた。








撮影日・2012年5月11日   

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