しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

生理の日・脱脂綿(高校の時)

2020年04月29日 | 暮らし
姉の話 2020.3.20
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今のようにナプキンはない。
ようけい出る日は大きな脱脂綿を切って、押さえて、見られんようにカバンに詰めとった。
(生理が)早ぅきたら体に付いたら困るし、見られるので気をつきょうた。
生理の時はたいへんじゃった。
お母さんは教えてくれんし、
お祖母さんに聞いたら、
「今はしあわせじゃ。自分らの時は(脱脂綿は)ありゃあせん。
(何度も再利用した後の)布、褌に使っとったような布を切って重ねて(生理用品として)腰巻の下に使ぅとった、言う。
使ったら、洗って干して、また使うとった。
それを引き出しから出して見してくれた。
そのまた後でオシメに使うゆうてようた」
大学生の頃、一枚づつのいいのができた(←アンネナプキンと思われる・管理人)
中学生の時になって(始まって)からずっと脱脂綿だったので、一枚づつのができてよくなった。
町の人(笠岡の人)はもっと早く知っていて、使うとったかもしれん。

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大豆をもって豆腐を買いに行く

2020年04月27日 | 暮らし
姉の話 2020.3.20
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子供の遊び・手伝い

ゴム飛び
みんなで持っとる輪ゴムを集めて、飛んで遊んでいた。

お人形
(買ってもらえない)

紙芝居を見る
観音堂のとこへおじさんが来ょうた。
お金がいる。お菓子は(飴玉)は要らんけど、お金がいるので、あんまり見ていない。


七輪の火を起こす
松葉にマッチで火をつけて、消し炭を起こす。
その後で堅炭をいりょうた。
やかんで湯をわかしたりしょうた。


大豆をもって豆腐を買いに行く
お祖母さんに言われて(頼まれて)、
ザルに豆(大豆)を入れて、番屋に持っていきょうた。
そしたら量を見て豆腐をくりょうた。
番屋のおばさんが「今日はおからがいる?」
と聞かりょうた。
お祖母さんが要るゆうて言ぅたときは、言うと
ザルのうえにおからを乗せてくりょうた。
油アゲは(大豆での不足分の)お金を払って帰りょうた。
じゃけい、豆腐とおからと油揚げとみっついっしょにもって帰りょうた。
その日は(晩飯のおかずに)、炊いたオカラ、醤油の汁にアゲと豆腐がはいっとった。
豆腐は、西ノ谷からも売りに来ょうた。


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終戦前後の⑤樺太・千島

2020年04月23日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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樺太・千島
樺太・千島は、帝国のなかで最後まで戦闘が続いていた。
「内地」の南端である沖縄は長く語り継がれても、内地北端で起きたソ連軍との戦闘はなぜか語り継がれることはなかった。


南樺太、
日本時代大泊の北方に位置を開発し豊原と名付けた。
1907年樺太庁が建設され豊原に置かれた。
人口比率は日本人95%で、アイヌやロシア人もいた。
1943年官製が改正され「内地」に編入された。
千島は
北海道の行政区域で、当初から「内地」だった。

千島列島の防備
1943年5月にアッツ島が玉砕すると、緊張が高まり、千島列島の日本軍は急速に増強されてゆく。
千島列島の戦略的要地は、
カムチャッカ半島との国境に位置する占守島および幌筵島。
最大の島である択捉島。
とくに択捉島は単冠湾や広大な土地があった。
1944年2月4日夜、幌筵島を米軍が艦砲射撃した。
1944年2月18日、千島・樺太・北海道を担当する第五方面軍(司令部は札幌)と、第27軍(司令部は択捉島)が新たに編成された。
さらに北千島に新設の第91師団(司令部は幌筵島)、南千島に第89師団(司令日は択捉)が配属され、対米防衛態勢が整えられていった。

樺太の防衛
ソ連との国境を接することから対ソ戦のなかに位置付けられていた。
やがて北樺太のソ連軍兵力が上回っていることが判明するが、対米戦で頭がいっぱいだった大本営と第五方面軍は、千島列島を最重要視し、樺太には関心を示さなかった。
1945年2月豊原の旅団は第88師団へ格上げされた。目的は、米軍の上陸を想定したものであって、ソ連を想定したものでなかった。

対米戦重視
戦局は悪化し、現実的になった本土決戦のために、千島防衛から北海道防衛に重点が移っていく。
その結果、千島方面の兵力を北海道へ抽出し第42師団は北海道へ移動、北千島と中千島は事実上放棄された。
第五方面軍司令部は、ソ連参戦の動きを把握しながらも、作戦計画を転換する柔軟性を持ち合わせていなかった。

ソ連侵攻
1945年8月9日朝、北樺太の国境にある国境警察がソ連軍の襲撃を受け2名戦死した。
第88師団はソ連軍の参戦を午前7時ごろ知った。
その2日後の8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
第五方面軍は虎の子の第7師団(旭川)を樺太へ急派、北樺太への逆上陸を立案、しかし14日午後6時ごろポツダム宣言受諾が伝えられ、戦闘から停戦へ舵を切った。

国民義勇兵
1945年3月23日の閣議決定により、
本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成し、作戦の後方業務・警防補助・災害復旧・物資輸送などに当たらせることを目的として結成された。
15~60才の男子、17~40才の女子を対象として敗戦間際に編成が行われた。
内地で編成された国民義勇兵は戦闘行為に参加することなく終わる、しかし樺太の義勇兵は実際の戦闘支援に従事していた。

玉音放送後も続く戦闘(樺太)
ソ連軍の攻撃は続き、第五方面軍は第88師団に対して自衛戦闘を命じたため、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じた。
ソ連軍の攻撃が止まらないなか、第五方面軍も自衛戦闘の方針を変える事ができなかった。

ソ連の北千島への上陸
8月18日未明になり、今度はソ連軍が北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
占守島と幌筵島で米軍の上陸を待ち構えていた第91師団は、15日の玉音放送によって緊張感が一気に解けていた。
師団長の堤中将は北千島は米軍の占領になると考え接収準備を始めていた。
さらに17日には第五方面軍から18日午後4時までに戦闘行為の完全停止命令がもたらされ、内地帰還に向けた準備と兵器の処分もはじまっていた。
こしたなかで、ソ連軍の砲撃が開始され翌18日午前2時半ごろ、濃霧のなかソ連軍が占守島に上陸、日本軍との戦闘が始まった。
この報に第五方面軍も驚き、師団に対して即時停戦を命ずると同時に、大本営からも連合国最高司令部に対してソ連軍に停戦を伝えるよう依頼がなされた。
結局、
占守島の戦闘は21日の停戦まで続き、23・24日の両日にわたって武装解除が行われた。
日本軍の損害は死傷者600名といわれているが、ソ連軍の損害はそれをはるかに上回っていた。

北海道の占領要求
8月15日、トルーマンは日本軍降伏の担当区域の原案をソ連に送った。
8月16日、スターリンはソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、千島列島全部を含めること、さらに釧路と留萌を結ぶ線の以北の北海道を含めることを要求した。
北海道を含める根拠は、シベリア出兵の代償であると主張した。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを決めている以上、拒絶するのは困難だった。
8月23日、スターリンは各方面軍に極秘電報を発信した。
「極東とシベリアの条件で肉体的に作業ができる日本人を、日本軍捕虜の中から50万人まで選び出すこと」

22日の豊原への空襲
真岡を占領したソ連軍は豊原へ向けて進撃をつづけた。
22日になって停戦協定が成立した、その直後ソ連軍が豊原を爆撃する事件が起きる。
最後の無差別爆撃となった豊原空襲は、22日正午を過ぎた頃、複数のソ連軍機によって行われた。
爆弾投下したうえに機銃掃射を加えた。100人以上が死亡した。
宗谷海峡では疎開者満載の三隻が国籍不明の潜水艦攻撃で撃沈され、1.700人の犠牲者を出した。

在留日本人
ソ連の占領下で生活することになった日本人は、多くがそのまま職場にとどまった。
ソ連は在留日本人の送還には全く興味を示さなかった半面、
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え実生活の面では大きな違いはなかった。
学校教育も神社も、日本人の生活習慣に寛容であった。
ロシア人のあいだでは、日本人がソ連国民になると見ていたようで、多民族国家であるソ連にとって、特に日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
主食の米は北朝鮮から輸入した。

引揚
米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていた。
結局、
満州からの引揚が開始された1946年春以降、樺太と北朝鮮、大連のソ連占領地域からの日本人引揚が米ソ間で協議されるようになった。
1946年12月19日、「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、樺太および千島からの日本人引揚が開始、1949年7月までに29万人が引揚げた。

残された民族
南樺太にはロシア人、白系ロシア人、ポーランド人、さらに23.500人の朝鮮人がいた。
ソ連は国交のある北朝鮮への帰国は認めたが、多くは南朝鮮出身者で韓国への帰国を希望した。
そのため1990年の韓ソ国交樹立まで待たなければならなかった。
朝鮮人などと結婚した日本人は残留し、ソ連国民となった。


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終戦前後の④南洋群島

2020年04月23日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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南洋群島

南洋群島は帝国の中でも最も早く戦禍に巻き込まれた。
戦後の日本人は最も早く忘却の彼方へ押しやった。
サイパン島で玉砕に巻き込まれた民間人の多くは沖縄県人だった。
それが沖縄戦の前哨戦だったことも、ほとんど知られていない。


委託統治から日本領へ
南洋群島は最初にスペインの植民地となり、のちにドイツの植民地になり、
第一次世界大戦後、日本の委託統治領となった。
国際連盟によって統治が委託されるという形式をとる。
1940年に日本領へ編入された。
統治機関として南洋庁がパラオのコロール島に設置され、六か所に支庁が置かれた。
領域はアメリカの本土並みだが、陸地面積は神奈川県にも満たない。資源も豊富ではなくサトウキビと製糖業が中心であった。
人口は日米開戦時約14万人、うち日本人は84,000人、約5万は島民。日本人の大半は沖縄県人で50.000人を超えており、朝鮮人が約6.000人いた。

サイパン陥落
米軍の反抗が本格化するなか、南洋群島はたちまち軍事的緊張が高まった。
食糧自給率が低い島しょ部で兵員が増加すると起きる食糧問題解決のため、1943年12月一般婦女子と老人の本土への疎開が決定された。
疎開開始は1944年3月からで、約12.000人が引揚げた。
16~60才の男子は現地の戦闘に参加する。
1944年6月15日、米軍はサイパン島に上陸。南雲忠一指揮官以下日本軍は玉砕した。
日本軍死者41.000人。
一般住民の8.000~10.000人が死亡。15.000人が米軍に収容された。
サイパンに続きテニアンに米軍が上陸。
サイパンとテニアンでは多くの住民を巻き込み、集団自決まで起きた。
10ヶ月後に起こる沖縄戦の序章となった。

占領政策の原型
民間人収容所は日本人と朝鮮人を区分した。
兵士による暴行略奪や劣悪な衛生環境はなかった。
伝染病を触介する蠅や虱や蚊は徹底的に駆除された。
収容所内には、
売店、託児所、病院、学校、味噌工場もあり、野外で映画も行われた。
学校では民主主義や英語、自治組織は選挙によっての評議委員会など、民主主義的運営が試行されていた。

南洋庁の崩壊
有人島で,敗戦までに米軍によって占領されたところはサイパン島とテニアン島のみであった。
その他の島嶼は上陸はなかったものの、空爆を受け、住民はジャングルに逃げ込んで自活を強いられた。
住民の引揚は1946年1月から始まり4月までに完了した。
島民の対日感情は良好で混乱もなく引揚げた。

「帝国臣民」意識
その後、南洋群島はミクロネシアとして、米国の信託統治となった。
島民たちは日本時代に日本語教育を受けるなかで「帝国臣民」としての意識を持つようになり、各島別々だった生活文化圏をまとまりとして捉えるようになった。
九つの言語があるといわれた群島内では日本語を通じて一体性を持つようになった。

薄れる記憶
旧南洋群島の米国支配は終わった。
ミクロネシア連邦(ヤップ、トラック、ポナベ)
マーシャル諸島共和国(ヤルート)
パラオ共和国の、三か国が独立し
北マリアナ諸島連邦(サイパン)は、米国の自治領になった。
実質的には米国の影響下に置かれている。
戦後の日本社会で、南洋群島の記憶はもっとも薄れたものになっている。
「南洋の楽園」か「玉砕の島」の相反するイメージが併存する。
島民の被害の実態、さらには労働者として渡ってきた朝鮮人の何人が犠牲となったのかは、不明のままである。

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終戦前後の③連合国・中国の苦悩

2020年04月22日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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重慶・新京
「連合国」中国の苦悩

蒋介石の屈辱
重慶の蒋介石は屈辱感にまみれていた。
日本との抗日戦争を世界大戦にリンクすることに成功した1941年12月8日こそが、彼にとって生涯最良の日だったかもしれない。
プライドの高い蒋介石にとってみれば、ポツダム会談に呼ばれもせず、宣言案を一方的に呑まされたことは、屈辱以外なにものでもなかった。
政権内の腐敗が深刻になり、米軍が指揮権を得て立て直しを図ろうとした。
中国奥地の重慶に立てこもるしかなかった蒋介石は、米国とも相互不信が広まった。

ヤルタの密約
以前から、蒋介石のもとには、ヤルタ会談で米ソで満州をめぐって取引があったとの情報がもたらされた。
1945年7月、ソ連は
モンゴル独立、大連港の優先利用館、旅順港の租借権、旧東支鉄道および満州鉄道の共同経営権を認めるよう、モスクワで中ソ交渉が始まる。
ソ連は外交攻勢を仕掛け主導権を完全に握った。

モンゴル独立問題
もともとモンゴルは大清帝国の版図であり、辛亥革命を機に分離独立の動きが盛んになった。
しかし五族協和(漢・満・蒙・蔵チベット・回)をスローガンに生まれた中華民国は外モンゴルの独立を認めた場合、ほかの民族の独立にまで拡大し、中華民国自体が解体の恐れがあった。
帝政ロシアはモンゴル独立を支持し、事実上モンゴルは独立状態になっていた。
1939年のノモンハン事件は、満州国とモンゴルとの国境線をめぐる問題にソ連軍が加わって戦った。

蒋介石にとって、対日戦終結後の国家再建は頭の痛い問題であった。
中国共産党の勢力が拡大していた。
国府軍は日本軍との8年の戦闘で疲労し、中共軍は日本軍との戦闘を避けながら支配地域を拡大していた。

ポツダム宣言案
7月24日重慶の米大使館にポツダム宣言案が届いた。
内容の検討も許さない強圧的姿勢だた。
対日戦をもっとも長く戦い、国土も荒廃した中国に対する配慮は微塵もみられなかった。
米英二か国で宣言発表を何より恐れ、我慢するよりなかった。

ソ連の対日参戦
国府軍が自力で東北へ進駐して接収完了の力はなかった。
ソ連が東北に居座る事態は避けねばならない。
スターリンは、
ポツダム宣言で対日問題の討議から外され、米国の原爆投下で急ぎ対日参戦を決断する。
8月14日モスクワで「中ソ友好同盟条約」が結ばれた。
あらゆる軍事問題は、ソ連軍司令官に属すること。
ソ連軍の撤退時期は、日本降伏後最大三ヶ月で撤退完了が記された。
スターリンは帝政ロシアが満州にもっていた権益の復活で、「日露戦争の復仇」と公言してはばからなかった。

関東軍
本土決戦が現実化しつつあった5月30日、全満州の3/4を放棄し、朝鮮北部から満州東部山岳地帯における対ソ持久戦の準備がはじまった。
ソ満国境では無用の刺激のないようにした。
7月30日までに、いわゆる「根こそぎ動員」が行われた。

8月9日午前0時、
満州の東部・西部・北部の侵攻が始まった。
午前1時頃新京にソ連軍が爆弾投下したが米軍によるものと思った。
関東軍は午前4時、満州国防衛令を発令。
以前から極東ソ連軍の増強情報をつかんでいたが関東軍司令官山田乙三は、大連に出張中だった。

満州国政府
出先機関からの通信は途絶、関東軍からの経過はもたらされず、情勢判断ができず、さらに人手不足で事務系等も滞りがちとなっていた。
軍は通化移転し、政府は二分された。
8月17日、満州国は皇帝の退位と「解散」が決まった。

満州消滅
日本の敗戦による満州国の消滅は、満州の中華民国への復帰を意味する。
大本営からの停戦命令がないため、関東軍とソ連軍の戦闘はつづいていた。
8月16日午後4時、即時停戦と停戦協定、武器引き渡しを認める命令が届いた。
8月31日、旧満州国の満系首脳が一斉に拘引され、シベリアへ連行された。

ソ連軍兵士の悪行
新京に進駐したソ連軍兵士によって、早くも日本人家屋の占拠や物品の強奪、婦女子の強姦、理由不明の拘引や殺害がいたるところで頻発するようになった。
さらに、
ソ連国境周辺で戦闘に巻き込まれて難民となった開拓団員たちが続々と新京など満鉄沿線の各都市に流入しはじめ、瞬く間に治安と衛生環境が悪化の一途を辿っていった。
満州全域にやってきたソ連軍兵士の軍規は最悪で、暴行略奪の対象は日本人だけでなく中国人にも向けられた。
だが彼らは俗に言われる囚人部隊でなく、ドイツ戦線から転用されてきた精鋭部隊であった。
彼らは報復の名のもとに略奪・強姦・虐殺とあらゆる悪行を互いが重ねあい、殺戮戦と化した独ソ戦の影響をもっとも受けた部隊であり、欧州でおこなったことを満州でも行ったにすぎなかった。
さらにソ連軍の組織が完全に縦割りで、再三日本側からの要請があっても指示が行き渡らなかった。

在満日本人の引揚検討
関東軍が事態の深刻さに気づき引揚を考えはじめたのは9月になってからである。
日本政府からの現地定着方針は伝えられていた。
9月4日山田乙三は重光葵外相に、早期引揚を求める悲痛な内容に満ちた電報を宛てた。
9月5日、山田司令官秦総参謀長は拘引されハバロフスクへ連行され関東軍は消滅した。
山田(司令官兼大使)が拘引され、在満日本人を保護する責任者が不在となった。
9月27日、武部や古海ら満州国日系幹部がシベリアへ送られた。
7万人いた白系ロシア人の多くも捕らえられシベリアへ送られた。

満鉄の消滅
中ソ友好同盟条約に基づいて満鉄は9月27日、法的消滅と幹部の解任が一方的に告げられた。

日本人救済総会
9月中に満州国にあった主要機関はすべて消滅、中枢にいた人たちもソ連軍に拘引され満州国は完全に消滅したのである。
在満日本人の保護は高崎達之助らによる救済総会が引き継ぐことになった。
日本人の引揚機関として1946年7月1日まで活動を担った。

関東州(所借地=旅順と大連)23万人の邦人
8月22日にソ連軍が到着、進駐してから治安は極度に悪化、翌月にかけて満州国と同じような暴行略奪が頻発した。
結局1947年3月末までに約22万人が引揚げた。


「以徳報怨」演説の意味
1945年8月15日、蒋介石自らマイクの前に立ち「以徳報怨」の演説を全中国と全世界に向けて行った。
戦争最大の被害国である中国が加害国である日本に対して、報復ではなく徳をもって臨むことを宣言した。
しかし英国は、香港の接収を要求し米国も同調した。
ソ連は満州にとどまらず山海関へも侵出を図り、8月15日を過ぎても行動停止はしなかった。
支邦派遣軍は、中国本土に100万人を超す部隊を抱え軍組織がそのまま維持されていた。
以徳報怨は、この無傷の巨大な日本軍を強く意識したものだった。

伊梨事件
ソ連軍は、中国から取り尽くすことを徹底していた。
1945年9月2日、新疆の伊梨でソ連軍が爆撃した。
新疆へ圧力をかけ、東北問題で主導権を握ろうとした。
済南事件以来「雪恥」の二字は続いた。

1945年9月9日、
支邦派遣軍と中国総司令部の間で降伏文書調印式が行われた。
岡村司令官は、戦後の日本の復興のために日華関係をより強固すべきと考え、武装解除以外にも技術者を中心に積極的に協力していた。
100万人の武装解除と行政権の移譲は順調に進んだ。
年内に復員が開始され、翌年春にほぼ終了した。

国共対峙
満州を占領したソ連軍は、中国が対日賠償の一環であると主張する在満日本資産を、戦利品であると次々にソ連国内へ運び出していった。
国府からは何も手が出せない状態で、撤収さざるを得ないほどであった。
しかも、
三か月を過ぎても撤退する気配を見せなかった。
満州国の主要な産業施設の接収とソ連への移送に成功したソ連軍は、1946年3月ようやく撤退を開始、国府軍がその後に進駐した。
ソ連軍はモノだけでなく、関東軍兵士や民間人(朝鮮人・中国人含む)を労働力としてシベリアに送り込んでいた。その数60万人、うち6万人が犠牲になる。
満州に残された日本人は1946年3月まで、何の動きも見られなかった。
5月から引揚が始まり、夏に本格化し、年内には大半の日本人が引揚げていった。
犠牲者は日ソ戦での死亡者を含め約24万5千人、うち8万人を開拓団員が占めた。
満州での民間人犠牲者数は、東京大空襲や広島の原爆、さらには沖縄戦を凌ぐものであった。

消される歴史
国共内戦に勝利した毛沢東は、1949年10月中華人民共和国の建国を宣言する。
内戦勝利を決定づけたのは東北全域を掌握したからである。
8万人を超える日本人が技術者ばかりでなく、医師・看護婦、雑役婦などとして中共軍に留用され国共内戦に巻き込まれていった。
いまなを続く大陸と台湾との分断の背後には、満州国と台湾という大日本帝国の「遺産」をめぐる歴史が存在するのである。
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終戦前後の②台湾

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)

「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
台湾の解放はもっとも遅かった。
台北で台湾総督安藤利吉が国民政府とのあいだで降伏文書に調印したのは、敗戦から2ヶ月以上経った10月25日。
暴動や略奪といった混乱もないなかでの台湾支配の終焉は、日本人にとっても台湾人にとっても、もっとも平穏に迎えられたものだった。
しかし、中華民国国民として「光復」を迎えたはずの台湾人にとって、期待が失望へと変わったこの日は、帝国臣民としての「降伏」でしかなかった。

台湾
8月15日、12:00。台湾全土に玉音放送が流れた。
しかし、台北の街は同じような日常がつづいた。
沖縄の米軍が進駐でなく、中国国民軍が進駐することになっていたためである。
重慶の奥の国府軍は、台湾に進駐するには相当の時間を要した。
そのため、日本軍がそのまま駐留し、台湾総督府が行政と治安をこれまで通り執り行う。

日本統治時代、
究極の目標は日本への同化なのか、自治権獲得なのか、台湾独立なのか、中国復帰なのか明確でなかった。
敗戦後、在台日本人は、
台湾人によって危害を加えられたり、不安に駆られたことがなかった。

日米開戦後に
中国は日本に宣戦布告し、日中戦争は第二次世界大戦に連結された。
中国は連合国の一員となった。

10月17日、ようやく国府軍が上陸。
目の当たりにした国府軍は、ボロ靴を履き鍋釜を担いで雨傘を背負った。
軍隊とはかけ離れ、侮蔑感さえ抱かせる姿であった。

蒋介石の台湾認識
中国軍=国府軍は解放軍なのか占領軍なのか----、台湾人のなかで計りかねる状態がしばらく続いた。
蒋介石は西方の国防の要と位置づけ、民心よりも戦略的価値にあったのである。
蒋介石は、台湾人も大陸と同じ漢族であって、祖国に復帰するのは当たり前だと考えていた。
だが、台湾は複雑な民族構成から成り立ち近代以降は大陸とは異なる独自の歴史経緯を辿っていた。

中国による接収と経済悪化
台湾で行われた日本側資産の接収ほど徹底されたものはなく、これは大陸でも同様であった。
大は建物、小は文具用品にいたるまで所持するすべての備品台帳の作成と提出であった。
さらに学校を含めた公的機関、三大国策会社ばかりでなく、個人経営も含めた企業も対象であった。
国民党の所有物となった。
対岸から中国商人も一攫千金を狙って大挙、台湾へ渡ってきた。
さらに大陸からインフレーションが持ち込まれ、台湾経済は急速に悪化していった。
台湾統治は大陸系によって握られ、
台湾人が期待した政治参加は限定され、言語や生活習慣の相違による軋轢が重なり、政府に対する不信感、大陸から来た中国人に対する反感は日増しに高まり、1946年早々に顕在化した。

日本人への冷たい視線
台湾人の不満は日本人へも向けられた。
新聞も反日記事による扇動が始まる。
在台日本人の中にも、接収にともなう失業、物価暴騰による生活苦、さらに反日の増加により、日本人の非特権化が明らかになってきたことで、日本への引揚を希望する者が漸次増加していった。

第10方面軍は、
敗戦時の30万人から17万人に減っていたが、依然として無傷で駐留していた。
中国大陸では国民党と共産党の対立が顕在化し、一挙に不安化がすすんだ。
12月15日、トルーマンは国民政府への積極的支援の政策を発表、残留日本軍の早期帰還も採り上げた。
大陸に留まる100万を越す日本軍と台湾の10方面軍の送還計画が立てられた。
12月25日、はやくも復員第一陣が出港するにいたった。
こうして1946年3月末から在台日本人の引揚がはじまり、5月末までに兵士の復員完了、民間人28万が引揚げた。
また台湾にいた朝鮮人は「韓僑」として扱われ、約2.000人が日本人引揚とほぼ同時に祖国へ送還された。

日本人の留用と「琉僑」
日本人の送還が決定されると同時に、日本人の本格的な留用を開始した。
日本人技術者を留用して技術移転を図るとうものである。
医者や金融関係、軍人まで含まれた。
台湾では、家族を含め約28.000人が留用された。
留用者を除き1946年末まで日本人が台湾を去った。
沖縄人(八重山諸島が多い)は、米軍占領の沖縄に還れず「琉僑」と呼ばれた。
日本人と区別して1946年4月から翌年にかけて15.000人が引揚げた。

1946年4月、軍の復員と民間人の引揚はいったん終了した。

1947年、「2・28事件」
台湾に土着する「本省人」と大陸から渡ってきた「外省人」といった区分が生まれ、彼らの溝は深まった。
1947年2月28日台湾全島に及ぶ政治暴動が発生した。
大陸からの軍隊増援により18.000~28.000人の台湾人が無差別に虐殺された。
とりわけ旧日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。
この事件を機に対立は構造化され、大陸の中国人に対する「台湾人」意識が芽生えてゆく。

最後の皇軍兵士
1974年12月、インドネシアのモロタイ島で日本陸軍兵士であった中村輝夫一等兵が「発見」された。
中村は正式名「スニヨン」で日本統治時代に高砂族と呼ばれていた台湾原住民の出身であり高砂義勇隊として従軍していた。
日本語教育を受け、帝国臣民として志願して戦場に行った。
彼には日本政府から何の補償もなかった。
台湾人のあいだでいわれている「犬が去ったら豚がきた」、
台湾人の失望と日本に対する複雑な心情をよく表している。


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終戦前後の①朝鮮半島

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

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1945年8月15日正午、「帝国臣民」は日本の敗戦を知った。
では”忠良なる爾臣民”とは誰を指したのか。
実はそこに表れる臣民とは、内地にいる「日本人」だけになっていた。
「国体護持」をめぐる対立のなかで、「帝国臣民」は一度も顧慮されなかった。


京城
韓国併合以来、朝鮮半島に君臨してきた「朝鮮総督府」の最後の総督は元首相の阿部信行であった。
8月9日午前0時にソ連軍が満州になだれこんだが、その30分後にはソ連軍機が朝鮮に侵入、日本の新潟と満州を結ぶ要衝の地であった羅津を数度にわたり爆撃した。
ソ連軍の侵入は、主戦場である満州を側面支援のものであった。
当時朝鮮半島に約70万人の日本人と財産をいかに守るか悩ました。
ポツダム宣言で朝鮮の解放が謳われ、日本の領土でなくなるのは確実だった。
だが、そこに住む日本人がどのように取り扱われるかは、わからなかった。
韓国併合前の状態に戻り、居留民として残留できるのか、
すべての日本人は朝鮮半島から追放されるのか、
どちらにせよ、誰が日本人の生命財産を保護するのか?

1919年に起きた3・1独立運動の
失敗によって海外へ亡命した独立運動家は上海で臨時政府をつくり、日米開戦時には日本に「宣戦布告」をしていた。
李承晩は米国で朝鮮独立を訴え続けていた。
金日成の抗日パルチザンはソ連領に逃げ込んでいた。

半島内にも総督府の監督下の民族主義者呂運亭がいた。
8月15日、総督府の進言で呂運亭は建国準備委員会を結成した。
敗戦時の警察官の7割は朝鮮人だった。そのため事態収拾の丸投げをしようとした。

日本人世話会
民間人が結成。仁川では残留か引揚かで議論が真っ二つに分かれた。
日本での生活基盤のない定住者が多かった。

第17方面軍の軍備
終戦頃北部は関東軍が担当、南部を方面軍が担当となった。
大本営は本土進攻作戦の一環として、大陸と日本の連絡を絶つため済州島か半島南部に上陸すると予測していた。
そのため増強された第17方面軍は無傷のまま23万の陸軍、3万の海軍兵力がいたとされる。

(8月19日に内務省で、朝鮮・台湾・樺太に在住する民間人は、出来る限り現地に於いて共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力するとの方針が決定された)

8月22日、日本軍の武装解除は38度線以北がソ連軍、以南が米軍が担当すると連絡があった。

米軍が上陸後、公用語は日本語から英語になった。米軍政策への服従を求められた。
米軍は、朝鮮半島からすべての日本人を本国へ送還する方針を立てていた。
まず兵士の復員であった。
10月3日に米軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表。
翌春まで40万人の民間日本人は引揚ていった。
その一方で、日本から多くの朝鮮人が帰還していった。

米英の独立に関する評価
第二次世界大戦で連合国は自由と民主主義を標榜していたが、民族自立と植民地解放を掲げていたわけではなかった。
植民地帝国の英・仏・蘭にとって、植民地解放は自殺行為に等しかった。
また多民族国家であるソ連や中国は、国家分裂を引き起こしかねない問題であった。
アメリカ以外は独立に関心を示さなかった。

米国が選んだ李承晩
米国生活が長く、ハーバード大で学びオーストラリア人の妻を持ち、英語が堪能な李承晩に白羽の矢を立てた。
その国の歴史も事情も知らないまま、米国本位の人物を押し付けて形式的な民主主義国家を作った結果、かえって独裁国家を生み出して事態を悪化させるという南ベトナムや中南米、中近東などで繰り返される米国外交の宿痾が、南朝鮮で早くも現れていたいたのである。

12月米英ソの外相会議があり、
統一国家は先延ばしとなった。
大日本帝国の崩壊後に朝鮮半島に生まれた二つの国家は、自らの力でなく米ソの思惑によって作られた。
しかし、朝鮮民族を代表する国家としての正統性を認めさせるためには、日本の敗戦と同時に自らの力で独立を勝ち取って、35年間にわたる屈辱を晴らしたとしなければならなかった。
韓国も北鮮も「建国の神話」を背負わなければならなかった。
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神島見崎の稲作

2020年04月19日 | 暮らし

(2020.4.17・神島見崎)


神島見崎の稲作

牛の供養塔を見つけた。神島に稲作のイメージを持っていなかったので、不思議に思った。
タイミングよく近くの方と談話ができた。
2020.4.17


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神島では見崎から東村まで水田はありました。
汁方と福浦は・・・なかったかなあ?
ゴルフ場のあるところは、海から山に向かって見事な棚田になっていました。
子供の時は米と麦と半々くらいのご飯を食べとりました。
戦時中は供出しても、家の食べ料はそのくらいもっとりました。

(2020.4.17・神島見崎)


飛行機を隠す
(御手洗)池のトイレのところに大きな松林がありました。
何本もありまいた、
そこからレールを引いて、
その松林に隠したとりました。
井戸があり、私らは「兵隊井戸」と呼んどりました。
兵隊さんが使ようたんじゃあないですか。
その井戸は危ないからつぶして何も残っていません、カミシマ化成の所有になっています。
その頃は、何軒かに分れて寝泊まりして、
ウチにも何人かおったらしいです。


お月さん
三日月さんは神島のいちばん突先にありました。
カミシマが来て、こちらにもってきました。
昔は三日月さんの祭りが10月・・11月じゃったかな?(天神祭りとは別に)ありました。
島からくる、
笠岡からも福山からもきていました。
すごい人が来とったらしいです。




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