しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

知られざる英雄

2022年12月08日 | 占守島の戦い

(「週刊新潮」)

 

ここ1~2年、急に樋口季一郎の名がマスメディアに載るようになった。

当初は占守島の戦いでの、方面軍司令官として。
今は、それに加えてユダヤ人を救った恩人として。

占守島のことは、資料が極めて少なく、言ったもん勝ちの状況。
樋口司令官の場合、居たのが現地でないのが少し弱いように感じる。
ユダヤ人の件は、樋口本人に罰はなかったのか、軍規則や司令部の絡みを説明しないと、「はい、そうですか」とは言えない。

 

(NHKニュース 2022.12.2)

 

 

・・・・

 

週刊新潮」2022年10月27日号に、”知られざる英雄”の記事がある。

 

(「週刊新潮」)

 

知られざる英雄

「生前、祖父は戦争の話はほとんどしませんでした」と語るのは、
バッハの研究で知られる音楽学者で、明治学院大学教授の樋口隆一氏(76)だ。

淡路島で生まれた彼の祖父、樋口季一郎は、陸軍の情報将校としてロシア語を学び、
ポーランドや満州などに駐在。
終戦時の階級は中将で、北海道・樺太・千島を管轄する第5方面軍司令官だった。

1938年、ナチスの迫害からシベリア鉄道で満州に逃れてきたユダヤ人たちがいた。
現地当局はドイツとの関係を考慮して入国を拒否するが、
ハルビン特務機関長だった樋口が「これは人道問題」と主張しユダヤ人の入境を認めさせた。
後に《ヒグチ・ルート》と呼ばれる、この脱出路により、最大2万人のユダヤ人が命を救われたといわれる。
が、樋口が英雄と呼ばれる理由はそれだけではない。
「祖父は、北海道をソ連から守ったのです」(隆一氏)

日本が降伏を表明した後の45年8月17日、千島列島の最北端・占守島にソ連軍が上陸。
日ソ中立条約に違反した卑劣な侵略行為を前に、樋口司令官は「自衛のため断固反撃せよ」と命じる。
戦史に詳しい陸上自衛隊OBいわく、
「占守島には満州から移駐した戦車第11連隊をはじめ、精強な部隊が残っていた。
彼らの徹底抗戦に手を焼いたソ連軍は、とうとう北海道の占領を諦めました」

樋口は70年に82才で亡くなった。
ユダヤ人を救った日本人といえば、駐リトアニア領事代理だった杉原千畝が有名だが、樋口の名は一般にはあまり知られていない。
先のOBは、
「杉原さんは外交官ですが、樋口は軍人。
敗戦国日本では、軍人=悪人でしたから」と嘆く。

その風潮も、今後は少し変わるかもしれない。
隆一氏が語る。
「占守島で戦わなければ、北海道は今のウクライナのように蹂躙され、ロシア領にされていたはず」

日本で軍服姿の軍人の全身像が建立されるのは、戦後初だという。

 

(「週刊新潮」)

 

・・・・

 

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「街道をゆく」占守島

2022年06月14日 | 占守島の戦い

元帝国陸軍戦車兵の
作家司馬遼太郎氏が、秋田空港から象潟へ向かって乗ったタクシーの運転手さんは、
元・占守島の兵士だった。

 


「街道をゆく29」 司馬遼太郎 朝日新聞社 昭和62年発行

 


秋田県散歩・占守島(しゅむすとう)

空港で乗った個人タクシーの矢倉氏は、温厚で、えもいえぬ含羞がある。
大正10年うまれで、私より二年先輩である。
この年代はよく死んだ。
「よく生き残りましたね」
「はい」
おだやかな表情である。

「敗戦までおられたのは、どこですか」
「占守島でございました」
その島名をきいて、鼻の奥に硝煙がにおいたつ思いがした。
「大へんなところにおられましたね」
「はい」
占守島というのは、日本領だった。
戦前は千島国占守郡とよばれていた島である。

 

このひらたい島は、カムチャッカ半島からかぞえると、千島列島第一島である。
第二島が幌筵島である。
「かれらは幌筵島へ行ったよ」
というふうな会話を、私は昭和二十年初頭、ずいぶん耳にした。
幌筵島にまで戦車聯隊がおかれるときいて、ふしぎな思いがした。
すでに戦争は日本軍の衰耗期にあり、守勢に立っている。
米軍が北方から飛び石づたいに北海道へやってくるという公算も少なくなかった。
この仮定のもとに、占守島・幌筵島に兵力が置かれたのである。

米軍が上陸したときにできるだけ出血を強要しようというもので、
このため水際における火力配置が重視された。
砲兵は岩壁をくりぬいて砲を入れ、上陸点と思われる浜の両側から側射できるようにした。
米軍機による両島への爆撃は、昭和20年に入ってからほとんど毎日のようだったという。

 

「池田末男さんという大佐をご存じでしたか」
「いえ、私どもは高射砲でしたから。
しかし、関東軍から元気のいい戦車隊がきたというので、評判でした」
8月15日、日本は降伏した。
同17日、占守島の各部隊は兵器の処分にとりかかった。
兵器のひきわたし相手は当然米軍だと思っていた。

18日になって異変がおこった。
午前1時半すぎ、
砲声がとどろいた。
戦車聯隊の本部付の情報担当をしていた木下弥一郎は、私の同期生だった。
かれらは幕舎で、この砲声をきくと、すぐとなりの幕舎に寝ていた池田末男大佐を起こした。

池田大佐は電話で幌筵島の師団長をよびだし、決心を問いただした。
木下は電話のすぐそばにいたが、池田大佐はじつに意気軒昂としていたという。
ともかくも、国家としてポツダム宣言を受諾しているのである。
師団からすぐさま東京の大本営に、上申の電報を打った。
大本営からマッカーサー司令部あてに打電し、
ソ連に対して停戦するよう指導ありたし、と要請した。
マッカーサー司令部ではそのように連絡したはずだったが、ソ連は応じなかったらしい。
このために、無用の戦いが始まった。

ソ連は艦船をともない、射撃を加えつつ、島の北端の竹田浜に上陸してきたのである。
池田大佐は午後2時40分ごろ各中隊に非常呼集をかけた。
島の北端では日本側の歩兵や砲兵がすでに戦闘中だった。
戦場付近に到着したのは午前4時ごろで、すぐさま攻撃を開始した。
この間木下弥一郎は軽戦車に乗って、連隊長戦車のあとに従っていたが、
連隊長戦車が砲弾をうけてぐっと盛りあがり、やがて炎上するのを目の前で見た。
8月21日、
双方の軍使によって停戦がきめられるまで、ソ連軍は苦戦しつづけた。
ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は
「8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と書いているという。

 

私の友人は、すくなくとも四人戦車の中で死んだ。
ソ連軍は、一ヶ月後、戦場掃除をゆるした。
将校ばかり十五人がそのことに従事し、木下弥一郎もそのなかにいた。
かれは遺骨入れの袋を作っておいた。
羽二重製の五センチ角の袋である。
遺体からハサミで親指二節を切りおとし、それを丁寧に焼いて、灰にした。
遺骨袋は九十六個だった。
それを一つの箱におさめた。
その後、シベリアに拘留中もその遺骨箱を持ちあるいた。
この箱をソ連軍の目からかくすための苦心を書くだけで一冊の本ができるほどだった。

 

 

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ソ連軍急襲「占守島」の激闘

2022年02月17日 | 占守島の戦い
占守島の戦いは、それを記した本のどれもが、戦車で戦った連隊長と、札幌にあった方面軍司令官の英雄視した話が多い。

この門田隆将の本は軍使だった長島大尉のインタビューが中心になっている。
彼の本に限らないが、もう10年早く記録に着手すれば「占守島の戦い」は多くの事実が残ったであろう。
今となっては濃い霧に覆わたままで、本当のところはよくわからない気がする。

・・・・・

「占守島の戦い」は、戦後何かの理由で隠されていたのだろうか?
それとも全員シベリア送りのため世にでなかったのだろうか、
いや昭和31年といえば生きている人は、全員が復員している。

知識人・荒垣秀雄が、そして朝日新聞社が知らないはずはない。
不思議だ。


「天声人語」 1956(昭和31)年8月9日  荒垣秀雄

11年前のきのうきょう、日ソ中立条約はまだ有効だった。
それを反古にしてソ連は、無抵抗の日本人を満州の野にけちらして、
参戦わずか一週間で”戦勝国”となった。
ソ連の兵士は血一つ流さずに、千島も何もとってしまった。


・・・・・






「太平洋戦争最後の証言」  門田隆将 小学館  2011年発行
ソ連軍急襲「占守島」の激闘


・・・

真っ先にソ連軍と交戦したのは、村上少佐が率いる独立歩兵大隊の約千名である。
占守島を一望できる四嶺山で激しい戦いが始まった。
明けて8月19日になっても戦闘はつづいた。
村上隊長は旅団本部に打電した。
「四嶺山は全員玉砕する」
だが、旅団本部は、村上大隊の玉砕を許さなかった。
「玉砕は許さない。撤退を命ずる」。

・・

千歳台にいた竹下少佐が率いる大隊は銃撃戦を開始したがソ連軍戦闘機から波状攻撃でばたばた死者が出た。
大隊本部の竹下大隊長が負傷した。

・・

戦車聯隊の池田連隊長
連隊長は両軍が撃ち合っている四嶺山へ進んだ。
ソ連の猛火はすさまじく、装甲の薄い日本戦車は貫かれていった。
池田連隊長は最前線で戦死した。
戦車隊の戦死者は95名を数えた。

・・

第91師団の堤師団長は停戦交渉の軍使を派遣する決意をした。
第73旅団の杉野巌旅団長の作戦指導補佐の長島厚大尉が命じられ、
8月18日午後2時ごろ20名弱で出発した。
満90歳を迎えた長島本人は述懐する、
「戦闘は激しく、私たちは白旗を掲げ、走ったり、ほふく前進を繰り返して、敵弾の中を進みました」

「上陸指揮官のアルチューフィン大佐に停戦文書を手渡しました」
ソ連軍軍使6名を連れた長島たちは2時間後第73旅団の司令部に戻った。
長島がソ連軍の軍使を杉野旅団長に紹介した。
「本日午後3時に竹田浜において、日本側高級軍使と会いたい」
ただちに電話連絡によって堤師団長にそのことが伝えられた。

・・

それから、紆余曲折を経て両軍の間で停戦が合意したのは、その三日後の
昭和20年8月22日のことである。
それまで日ソ両軍の衝突は各所でつづいたが、この日午後2時、
ソ連警備艇のキーロフ号にてソ連軍カムチャッカ防衛区のグネチェコ司令官と堤第91師団長との間で合意された。


・・・


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元独立臼砲十八大隊の元隊員の話し

2021年08月16日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」 遠藤堅三 岡文館  平成19年発行

甲谷照正さんの太平洋戦争
(抜粋)

昭和19年 
4月15日
赤紙来る。
4月22日 
御前神社で歓送式。父・弟、金光駅より付き添いで和歌山市まで同行。
4月25日 
和歌山の独立臼砲第18大隊第一中隊に入隊。
5月11日 
隠密裏に和歌山を出発。
6月16日 
温禰古丹島(おんねこたんとう)に上陸。

昭和20年
7月30日 
内地より最後の郵便物来る。
8月4日 
占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 
後続の船団、米艦隊の攻撃を受けことごとく海没と知る。
8月15日 
この日、天皇の重大放送ありと聞くも僻地の陣営では、その放送聞くすべなし。時局の重大さを憂い全国民一大奮起を促すお言葉であろうと思っていた。

8月16日 
長崎海岸より使役で帰りたる者の話では15日の天皇陛下の放送は終戦詔勅といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 
朝、貴志小隊長より終戦詔勅の確報を聞く。



8月18日 
未明、ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ。我が方、敵を水際に押すも大本営よりは抵抗ならずの命令、彼我膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三にわたり軍使を出して交渉に入れども事態は妥結せず。見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日
我々23名は孤立。
食料なく天神山中隊に食料受領に行く、中隊本部の所在も不明のまま3名出発する。帯剣は3,小銃は1、途中敵弾の雨霰、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命ぜられ帰隊する、敵弾の飛来は漸く治まる。
8月22日
現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日
漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍終結、武装解除される。
8月24日
我が大隊は三好野付近に集結し翌日現地で戦没者の慰霊祭を行う。
9月5日
ソ連軍の指揮下に入り作業に従事す。
9月18日
日ソ激戦地跡の戦場を整理、ソ連軍の戦死者は埋葬して白木の墓標を建てるも、日本軍の屍は半ば朽ち放置されたまま、惨め。
10月10日
ソビエト船に乗船、占守島を出航。




10月20日
マガダンより奥地80キロのフタロヒに着く。約4.000名。
10月22日
森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、日本衣類はぼろぼろに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさ凍傷にかかる。
栄養失調、体力は日々衰える。
11月3日
激しい吹雪の朝、作業は続行。
収容所の広場に整列し南に向かって故国への遥拝、黙祷。
大隊長の訓示、今日、故国では菊薫る明治の佳節である。
その後、鋸となたを持って雪の途を山へ。
11月下旬
下痢患者続出、死者も出る。
12月中旬
凍傷にかかる、右手親指、人差し指、中指三本の指、凍傷。
忽ちにして爪は抜ける、痛み激しいい凍兵休をくれる。


昭和21年
3月25日
この頃明け方、オーロラが美しい。
4月中旬
日増しに日が長くなり午後11時頃でも明るい。
6月初旬
作業優秀者のグループに入る。

昭和22年
3月2日
初めて捕虜用郵便葉書が渡され、郷里に健在と便り認める。
5月
この頃ダモイ(帰国)の噂、濃厚なり。

昭和23年
7月下旬
衰弱してマガダンに移る。油送菅配管の作業員として草原に出る。

昭和24年
4月
大工要員として出る。
7月
帰国の噂、濃くなる。
9月15日
シベリア寒気を覚える頃となり、また越冬か。
その日の作業を終えた頃収容所から使いがくる。
作業は今日で打ち切り、私物は持ち帰るようにと“ついに帰るれ”
丸4年間、瞬時も心から去らなかった帰国、一同喜色溢れる。
9月21日
マガダン港を出港。
9月24.25日
海上時化る。船は宗谷海峡に入る。
9月26日
夕刻ナホトカ港に入る。下船して収容所に入る。
9月27日
厳しい私物検査、前歴職業が警察、憲兵の人は列を外された。
9月30日
ソ連を去る式が行われた。
岸壁で名前が呼ばれると2人1組でスクラム組んでタラップを上がるのである。
午後3時、船は出港二度と来ないぞソ連港。



(舞鶴引揚記念館)

10月3日
鳥居が見える。シベリアで日本の神社は全て取り壊したと聞いていたので鳥居が見えた時意外に思った。
桟橋に降りる。舞鶴援護局の庭にはコスモス咲き乱れ、金木犀の芳香漂い秋陽さんさんと照り注ぐ。
10月4日
援護局内で東舞鶴青年団の慰労の夕が催され歌謡曲、映画あり。
10月11日
帰郷の日、夕方6時頃京都駅に着く。妻、叔父来てくださる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘、親類の方がたも来てくださる。
11時頃、金光駅に着く。
黒崎村よりも部落の人達が大勢迎えに来てくださり、郷関を出て5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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(昭和20年)八月十七日の開戦  

2021年08月15日 | 占守島の戦い
占守島(しゅむしゅとう)の軍の最高責任者は、笠岡市ゆかりの杉野巌旅団長であるが、物の本には登場しないことが多い。
最大の理由は、本人が書き残したり、語ったりすることがなかったからであろう。
北海道分割を阻止した功績から離れ、戦後は笠岡市で隠遁的な生活をされた。



「歴史街道 令和2年9月号」  PHP 2020年発行
八月十七日の開戦  早坂隆




樋口季一郎

8月15日を迎えても、戦争は終わったわけではなかった。
8月17日、
北海道に野心を持つソ連が、千島列島の占守島に上陸したのである。


占守島での自衛戦争

「ヤルタ密約」
米英ソによる「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月後に対日参戦する」という密約が交わされていた。
日本はこのような国際社会の奸計に翻弄された。
占守島への不意打ちも、こした流れの中で始まった。

当時、第五方面軍の司令官となっていた樋口は、ソ連軍の侵攻を札幌の方面軍司令部で知った。
「断固、攻撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と打電した。
ソ連の最高指導者であるスターリンは、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する野望を有していた。
占守島を占領した上で、千島列島を南下し、一気に北海道に上陸する構想を有していたのである。





戦車隊の神様・池田末男
こうして占守島での戦いが始まった。
18日、午前1時過ぎソ連軍の上陸部隊は艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到した。
竹田浜でソ連軍を迎え撃ったのは、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊である。
竹田浜一帯は熾烈な戦場と化した。
村上少佐は四霊山への後退を余儀なくされた。
その後、ソ連軍は四霊山へ肉薄、日本軍は押され気味であった。
そんな戦況を一変させたのが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊である。
同隊は、満州から移された虎の子の精鋭部隊であった。
午前5時30分、池田戦車隊は出撃。
占守街道を北上し四霊山へと向かった。到着したのは午前6時20分ごろである。
この池田戦車隊の活躍により、ソ連軍は大きな打撃を被り、深刻な混乱に陥った。
天候不良のため、ソ連軍は航空兵力を十分投入できなかった。
結局ソ連軍は竹田浜へと後退、池田大佐の戦死はあったものの、日本軍は以降も総じて同島での戦いを優位に進めた。

大本営の決定によって「終戦後の戦闘行為は、それが自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていた。
日本軍は優勢のまま、18日午後4時をもって積極的な戦闘を控えた。
以降も散発的な戦闘は起きたが、最終的な停戦が成立したのは21日であった。
武装解除は23日から行われた。
同島で捕虜になった日本兵はその後、シベリアなどに抑留された。

分断国家となる道から救った戦い

占守島の激戦によってソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。
こうしてスターリンの「北海道の北半分占領」という計画は完全に頓挫した。
樋口が自衛戦争としての抗戦を命じず、占守島が一挙にソ連軍に占領されていたとしたら、その後の日本はどうなっていたであろうか。
占守島における兵士たちの奮闘と犠牲がなければ、戦後日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていたはずである。
占守島の戦いは小さな島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。








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最後の日ソ戦・・・その7・喜劇的な悲劇

2020年06月17日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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日本が最後の瞬間までソ連の好意を当てにし、対米英和平仲介に望みをかけたのは、喜劇的な悲劇というべきであろうか。
スターリンが連合国首脳に対日参戦を公式に表明したのは、1943年11月テヘラン会談である。

8月10日早朝、ポツダム宣言受諾通告を発電し、事態が急速に戦争終結に向かうと見るや、ソ連は8月11日樺太国境を越えた

千島方面はソ連軍がまったく作戦しておらず、米軍が盛んに作戦してきたところである。
スターリンの要求によって、降伏受け入れの担任地域に入った。

しかしポツダムにおける軍事会談で協議された米ソ作戦境界は、千島方面があいまいで、中千島を境界するという合意も存在した。

8月14日深夜、日本政府がポツダム宣言受諾の通告を発電し、終戦が確定した後、
8月15日、ソ連は一方的に急ぎ千島上陸命令を出した。
米軍がいたら引き返す、米軍の在否を確認しながら歯舞まで進出する。

日本の正式降伏調印が、日本側の都合と台風による準備遅延によってマッカーサーの予定より5日間延期された。
これがソ連軍を助けた。

ソ連は、極めて短期間の軍事作戦によって、極東における絶大な利益を得た。



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最後の日ソ戦・・・その6・~千島南部~

2020年06月16日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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8月18日、ワシレフスキー総司令官は、
「8月19日から9月1日までに釧路市から留萌市に至る線より北の北海道半分、千島列島南部を占領すること」を命令した。

ソ連軍は、これらの島々の敵がどれだけの兵力や陣地を持ち、好適な楊陸地がどこか知らず、正確な地図も持っていなかった。
8月22日、
スターリンはトルーマンが拒否した北海道占領を諦め、トルーマンに返書を送った。

ソ連軍は択捉・国後に上陸しなかった。
「択捉・国後はアメリカ軍がやってくるはずだ」
ソ連軍の前線の認識では、南千島はソ連軍の占領すべき範囲でなく、極めて慎重だったことがわかる。

8月28日、択捉島に上陸。
9月1日、国後島に上陸。
9月4日、歯舞諸島に到着。
9月4日、札幌と千島・樺太の交信は途絶えた。日本側に状況がわからなくなる。

ソ連は、千島南部で20.000人。千島全部で50.000人を樺太経由でシベリアに移送した。


一般住民はヤルタ協定など知らず、占領は一時的と思っていた。しかし将来への不安から北海道へ脱出した。


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最後の日ソ戦・・・その5・占守島・戦闘停止~武器引渡

2020年06月16日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。



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8月20日早朝、
ソ連艦隊が幌筵海峡北口、片岡湾に接近してきた。
海軍は高角砲でその進路前方に射撃を加え警告を発した。
ソ連は一斉に砲撃を開始した。10分後反転して去った。
ソ連艦隊の片岡湾への進入は、
19日に杉野旅団長らが調印した文書に記載された条件であったならば、日本側の対応に問題がある。
師団長は、師団の安全を確保する決心し、21日6時をもって攻撃を再開する旨命令した。

第五方面軍は、
ソ連の北海道進攻を危惧して南部樺太死守を指導し、20日にはソ連軍の真岡上陸など緊張の中にあったが、
北千島に対しては樺太よりも早く「戦闘行動を停止」の、大本営指示に基づく命令を与えた。
第91師団が20日に接受したが、時刻は明確でない。
柳岡参謀長は20日夕に帰還した。

8月21日、
ソ連艦上で日本側は堤師団長、柳岡参謀長、水津参謀ら、ソ連側はグネチコ司令官らが会同し、降伏文書の正式調印が行われた。
同日、師団長は一切の戦闘行為の完全停止を命令した。

その後、
ソ連軍は比較的紳士的に対応したようである。
8月24日夕、武器引き渡しは完了した。
この後、
通信遮断によって、北千島の状況は一切不明になる。
満洲・樺太と同様、1.000人単位の作業隊に編成され、シベリア方面に抑留されることになる。

北千島における善戦はソ連軍の千島全体の占領を遅延させ、
ひいてはソ連軍の北海道占領作戦断念にも貢献した可能性が考えられる。


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最後の日ソ戦・・・その4・占守島積極戦闘の停止

2020年06月16日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8月18日15時、長島厚大尉ほか10名の軍使が大観台を出発した。
師団長の意図は、まず現在線において両軍とも停戦し、武器引き渡しを交渉することにあった。
その夜、長島大尉は帰還しなかった。
ソ連軍は夜になっても攻撃を続行してきた。
18日20時、上陸司令官グネチコ少将は、
「19日の日没までに全島を占領する」命令をした。

8月19日、
互いに時々撃ちあった。
日魯漁業の女子従業員400~500名が独航船26隻に分乗して島を出発、全員北海道へ到着。
朝、杉野旅団長は山田大尉ほか3名を軍使として派遣。
その日、15時竹田浜で「正式な軍使」と会うことが決まった。
師団長は、杉野旅団長に停戦交渉に当たるよう命じた。
杉野旅団長は、
師団参謀長柳岡大佐、防空隊長木村大佐、砲兵加瀬谷中佐を軍使として出発した。
海岸の天幕で交渉に入った。
ソ連側は高圧的で、直ちに武装解除を要求するとし、日本側は、停戦はするが武装解除の返事は直ちにできぬとやりあった。
無用の損害をださぬため、結局承諾した。
ソ連側は正式な降伏と解釈した。
軍使として大観台に帰還した杉野旅団長は、幌筵島を出て占守島の千歳台に進出していた堤師団長に電話で報告したところ、
本人の回想によればえらく叱られたという。
停戦はよいが、武装解除等の条件は許可していないといって承認しなかったのである。
師団長は柳岡参謀長に再度の交渉を命じた。

8月20日朝、
柳岡参謀長は日魯漁業の通訳一人だけ伴いソ連側に向かった。



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最後の日ソ戦・・・その3・占守島の戦闘

2020年06月15日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実は、日本軍守備隊は、ソ連軍上陸船団を17日に見つけていた。
「カムチャッカ半島北方に、小型舟艇多数が移動してる」という報告が、国端崎監視所から師団司令部にもたらされた。
しかし、師団長や幕僚は北千島は米軍であってもソ連とはまったく関係ないと信じ、ソ連軍が上陸作戦を行うとは疑ってもみなかった。

占守島北部を守る歩兵282大隊長村上少佐は、17日師団司令部において、
師団長から「終戦になったのだから軽挙妄動してはならぬ。お前のところは最前線だから、軍使をまっさきに迎えることになるかもしれぬ。
その時は、紛争を起こさず司令部に連絡せよ」といわれていた。

1時半過ぎ、ロパトカ岬から砲撃が再開され、村上大隊の将兵の夢を破った。
「軍使が夜中に来ることはない、これは危ない」
「全員配置につけ」と命令した。
「射撃開始」を命じた。

海岸配備部隊は、2時半ごろ上陸する敵を発見し、
応戦を開始した。
まだ薄暗く霧は深かったが、霧中射撃の訓練を積んだ成果が現れた。
国端崎の野砲、
小泊崎の速射砲、
大隊砲は竹田浜両側から激烈な砲火を浴びせた。

9時にようやく第一陣が上陸した。
村上大隊長は四嶺山陣地に入って歩兵73旅団司令部に無線を打つと、旅団全力を挙げて応援に行くという返事があった。

幌筵島柏原にあった堤師団長に対する第一報は、占守島西部の千歳にいた歩兵第73旅団長の杉野巌少将の報告である。
「敵は早暁2時ごろ、艦砲支援のもとに竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、敵の国籍不明」
水野師団参謀は、国籍不明と言っても米軍だと思ったという。
15日を過ぎても平静であったあったのに、3日後に襲撃してくるとは常識では考えられない。
しかも時間が時間である、何千人という兵力でロパトカ岬から支援射撃もやっている。
こんな軍使の到来があるわけがない、が師団の判断となった。

堤師団長は2時10分、全兵団に戦闘開始準備を下命。
2時30分、戦車11連隊長池田末男大佐に対し国端崎方面に急進して敵を撃破するよう命令した。
同時に、73旅団長杉野少将に、できる限りの兵力を集結して敵を撃滅するよう命令した。

杉野旅団長は、ソ連撃滅の師団命令を受領すると、大隊へ命じた旅団要旨は(午前9時)
一・師団は自衛のためソ連軍を海岸に圧迫撃滅す
二・旅団は全力をもって国端崎付近に急進し、敵を水際に撃滅せんとす
三・各隊は部隊の集結完了を待つことなく逐次同地に前進すべし

午後に入り、杉野旅団長は大観台に進出。
次いで柏原から歩兵74旅団の橋口少佐の大隊も到着し指揮下に入った。
かくして村上大隊を含め五個大隊での展開が完了しつつあった。

次いで正午ごろ、74旅団山田少佐の大隊が夕刻海峡を渡り。
吉田少佐の大隊も転進命令が発せられ、夜占守島へ渡った。

かくして、大91師団の主力が占守島に進出し、両旅団を並列して一大攻勢に転ずる準備が進捗した。

ところが、準備が動き始めた昼頃
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」という第5方面軍命令が届いた。
「一切の戦闘行動停止、やむを得ない自衛行動を妨げず、その完全徹底を18日16時とする」
という方面軍の命令の確認であった。


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