しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「第30回笠岡路上観察発表会」

2023年08月31日 | 令和元年~

今回で最終となる発表会が下記の要項で開催される。

 

「第30回笠岡路上観察発表会」

場所・笠岡市六番町 笠岡市民会館(第一会議室)

日時・2023年8月31日(木)~9月3日(日)

   午前10時~午後6時

 

・・・

出展数は65点

そのうち、一部作品。

(ダイヤモンド青佐)

 

 

(太陽の広場)

 

 

(笠岡駅前のイルミ)

 

 

 

 

特集「笠岡市内の山」

(古城山)

 

(虚空蔵山)

 

 

 

テーマ「笠岡市内の神輿」

(茂平)

 

(一番町)

 

 

 

・・・

出版
「去りゆく笠岡 生まれ出ずる笠岡」 
笠岡路上観察研究会

2023年9月発行予定

・・・

 

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伊勢大神楽

2023年08月30日 | 失われた仕事

笠岡市にも「伊勢大神楽」は回ってくるが、
くる地区と、こない地区がある。

毎年のほぼ決まった時期に、事前に葉書が届き、家々の玄関口や庭先で演じる。
初穂料によって短時間に終わったり、長時間舞ったりする。

 

・・・


「旅の民俗シリーズ・生きる」 旅の文化研究所 2017年発行

旅芸人
かつては、芸人の旅も多かった。
越後の角兵衛獅子、伊勢の太神楽、西宮のえびすかき、周防の猿まわし、
筑前の琵琶法師など広く知られている。
そのうち、太神楽と猿まわしは、
移動(旅)のかたちを変えながらも現代に伝わっている。

・・・・

 

 

 

・・・


「神楽と出会う本」  三上敏視  アルテス 2009年発行

伊勢大神楽

獅子頭を奉じて移動する
神楽のプロフェッショナル

伊勢大神楽は「移動する神楽」で、今でも西日本を中心にほぼ一年中檀那場(だんなば)と呼ばれる村落を巡り、
一軒一軒訪ね歩いて神楽を奉じる「回檀(かいだん)」をメインとしている。

その内容は獅子舞と放下芸(曲芸)で構成されていて、
生きた芸能史としてもたいへん貴重で、
国の重要無形文化財に指定されている。

江戸時代から伊勢にお参りに行けない人たちのために
神楽奉納の代役を務めるということで伊勢神宮のお札を持って
地域をまわり、獅子を舞わせて祈祷をし、
神社の境内などで放下芸を含む「総舞」という芸能を披露して娯楽のない村人を楽しませ、
初穂料などの収入を得ることを生業としてきた。

 

・・・

大神楽


大神楽(だいかぐら)は伊勢の大神楽、太神楽の字をあてたりする。
今も、佐々木金太夫一座が町内各地に回ってきて、
獅子舞をしてかまどを清めたり、お札を配布したりする。
かつては、大きな家のかどや荒神さまの庭などで、大神楽をしていたものである。
三番叟のあと、次々といろいろな曲芸が行われた。
茶碗や皿を棒の上で回したり、鼻にのせたり、水のはいったコップを長い棒の先にのせて回したりして村人の拍手喝采を浴びた。


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

・・・

 

 

撮影日・2021.11.26 岡山県浅口郡

 

 

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女衒(ぜげん)

2023年08月30日 | 失われた仕事

”女衒”という言葉を知ったのは、父との会話が初めてだった。

・・

父の話・2002.9.15

日中戦争・ペーの話(従軍慰安婦)

(朝鮮人慰安婦は「連れていかれた」と言っているが?)

そりゃあ無ぇ。
「連れていかれた」んじゃぁ無ぇ、希望して来とるんじゃ。

金になろう。(村とか家とかに)おったんじゃあなんにもならん。
それじゃけいええかげん(お金が)貯まったら帰りょうた。嫁に行きょうた。
あの時分不景気で金儲けはできなんだ。せいが1時間が300円。
中国人などは50円ど。

村で世話をするモンであんちゃん。
女衒。
女衒が「自分が行けい。」言うても、いう事を聞かんので「日本軍がこう言うて来とる。」「ご苦労せぃ。」と勝手に”日本軍”の名前を使ぅとる。

 

・・・

(島原駅前・2012.5.8)

”女衒”という言葉は、
明治・大正・昭和と日常の暮らしの中に出ていたようだ。

子守唄にさえ登場している。
早く寝ないと、女衒の久助どんが連れに来ますよ。


島原の子守唄
  〽
  おどみゃ島原の おどみゃ島原の
  梨の木育ちよ
  何の梨やら 何の梨やら
  色気ナシばよ しょうかいな
  はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼の池 久助どんの 連れんこらるばい

 

・・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

女衒(ぜげん)


遊廓、女郎屋に売る人買いを女衒と言った。
関西では人博労(ひとばくろう)と言った。
江戸時代は「亡八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた意味で、本質を突いている。

女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、
兵隊の慰安のために、日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
九州の離島の娘には、お店の包装だけで月給千円は貰えると女衒に騙されて、
行った先はサイゴンの女郎屋だったという話もある。

戦後も東北の山中で15、16歳くらいの娘を売買していた。
現在は地下に潜っており、消滅したとは言い難い。

・・・

(Wikipedia)

女衒(ぜげん)

女性を遊廓など、売春労働に斡旋することを業とした仲介業者である。
歴史は古く、古代からこのような職業が存在していたと考えられている。

人買いが禁止された近世以降は、凶作で生活に窮した貧農の家庭の親権者などから、女性を買い遊廓などに売る、娘身売りの仲介業として生計を立てていた。
人身売買に等しいものであった。
彼らのコミッションは身売り額の10%~20%である。

明治時代から現在
明治時代に人身売買禁止法が制定された後も、貧困家庭では女衒により女子の人身売買が続行され、娼婦として売り飛ばされていった。
大正、昭和戦前期では、日本領だった朝鮮や台湾出身の女性を、女衒の仲介を経て慰安婦にしたり、遊廓に売ったりした。

1950年、18歳未満の未成年者を前借金で拘束、事実上の人身売買を行い検挙された仲介者は377人(男性256人、女性121人)。
昭和34年(1959年)に政府が売春防止法を施行して公娼制度を廃止すると、それと同時に女衒も自然消滅した。

・・・

 

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傷痍軍人

2023年08月29日 | 失われた仕事

昭和46.47.48年頃、広島の八丁堀、
天満屋広島店の前に毎日、傷痍軍人がへたっていた。
いつも白衣で、
片足か、
片腕か、
片目の無い、傷痍軍人姿だった。
二人組みで、
一人は賽銭箱を前に、ひたすらお辞儀を繰り返す。
一人はアコーディオンで、「戦友」のような、さみし気な軍歌を弾く。
その哀れな感じの音が商店街にもよく響いていた。

ところが、残業や飲み屋帰りの人が、
黒塗りの高級車で帰っているのは、
あの、
歩けない足や、無い腕の傷痍軍人だろうと見破った噂がひろがった。
それでも、噂を知らない人もいて、暫くは天満屋の前に座りつづけた。

この街頭の傷痍軍人は、
広島県の呉市、福山市にはいない。岡山県岡山市にもいない。
たぶん、人口100万都市以上で成り立つ業だったのだろう。

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

 

傷痍軍人

白い衣類に身を包み、
残った脚を投げ出して、もう一方の脚が失われていることを
見る人にわかるような姿勢をとってゴザのうえに座っていた。
施しを受ける木箱が置いてあった。
こういう姿をさらし、人の同情をひいて金銭を恵んでもらう。
名誉の負傷といわれていたが
仕事にもつくことができず施しを請うことになった。

自治体などが禁じたことで、じょじょに少なくなり、存在も忘れられていった。

 

・・・
「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


傷痍軍人の演奏


戦地で負傷して働けなくなった復員兵が街角に立ち、
ハーモニカ、アコーデオンなど音楽を演奏し、
通行人から金銭を貰う。
当初は本物の復員兵だったが、
後に復員兵を装った失業者が多く現れた。

・・・

 

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エンヤコラ

2023年08月28日 | 失われた仕事

祖母の妹は、
祖母に似ず美人だった。
祖母に似ず上品な話し方をしていた。

神戸で割と裕福な暮らしをしていたそうだが、
神戸空襲で家族と家を失い、無一文、家無し状態となった。
戦災後、茂平の実家に帰り、予科練帰りの子と二人仮住まいをしていた。
その後、笠岡町営住宅に引っ越し、小さいながらも親一人・子一人で暮らしていた。

妹を不憫と思った祖母は、
内緒の品やお金を、孫(管理人の姉)に託して町営住宅まで、こっそり届けていた。
ある日のこと、
いつものように孫(管理人の姉)が町営住宅に物を届けに歩いていると、
あの、きれいな祖母の妹がヨイトマケ姿で働いていた。
孫(管理人の姉)は「見てはいけないものを見たようで、片目をつむって走り抜けた」と話していた。

 

あるお盆の日、
「おばちゃんは千原しのぶに似ているね」
「わーっ、私、千原しのぶ大好き」
ほんとに、千原しのぶ似の、きれいな祖母の妹さんだった。

 

・・・

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


エンヤコラ


女性の日雇い労働者のこと。
夫が亡くなったり、事情があって働けない家庭では主婦が日雇い労働に出て一家を支えた。
ニコヨンの女性版。

昭和30年頃は、戦争で夫を失ったり、戦地から未帰還の夫を待ち続ける女性や、
着の身着のままに乳幼児を背負って引揚てきた女性、
あるいは戦災で家を焼かれ、財産を失った女性も多かった。
多くの女性は子供を育てるためにニコヨンの道を選んだ。
《世はさかさ 昔は夫人 いま人夫》

ヨイトマケの唄
エンヤコラをヨイトマケとも呼ぶ。
丸山明宏が歌う『ヨイトマケの唄』で知られるようになった。
家族のために働きぬいた女性労働者への賛歌である。

・・・

 

 

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灯台守

2023年08月28日 | 失われた仕事

「喜びも悲しみも幾年月」の映画と歌が大人気の頃、
婦人会の旅行で、母は”灯台”を見に行った。
場所は市内の六島の灯台だったが、
母の感想は、「遠くて、船が揺れて、上陸後は細い山道を登って」
散々の旅行だったと話していた。

・・・

かつて同僚で、親が「海上保安部の灯台勤務」の人がいた。
彼の話す転校等の移動は、今まで会った人の中で、一番すごかった。
北海道から鹿児島県の南西諸島まで。
裏日本・表日本、西日本・東日本、
まさに、まんべんなく移動。
居住地が、孤島か陸の孤島で、岬のとっさきは、どこも共通。
学校は、中学生の途中から、親と離れて暮らした・・と言っていた。

・・・

 

(笠岡市六島の灯台)

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


灯台職員(灯台守)

沖合の監視は、
灯台職員の情報と連絡で、海上保安部が停船命令を出すので、
重要な仕事であった。
雨天の日など、霧でかすんで見えにくいときは最も神経を遣う。

海の守人としての使命を感じながらも、
孤独な仕事であり、
生活は寂しくてやりきれない思いにとらわれることもあった。
夫が出張の時は妻が代役を務めた。
飲料水に乏しい、医者がいない、近所づきあいはしたくても人がいない。
子供に友人ができない。
妻の出産は、夫が産婆がわりに取り上げるなど、
日常生活での不便はあった。

・・・

(高松市男木島の灯台)

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

灯台守

灯台守は1953年に約1.100人いたという。
だが灯台の運用が自動化されるにつれて減っていき、2008年姿を消した。

点灯と消灯、光源の回転、発電機の操作、燃料補給、
労働条件と生活環境。
特色として僻地勤務と転勤の激しさ。

岬の先端か孤島。
道路は整備されておらず、灯台のそばに住むしかなかった。
魚を釣り、小さい畑を耕し、雨水を生活用水にした。
転勤は数年おき、北海道から沖縄まで。

・・・

 

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博労

2023年08月26日 | 失われた仕事

茂平の博労は、ますらおさんが一手に引き受けていた。
ますらおさんは自転車に乗って、農家を訪問し、
世間話と、牛の話と、必要に応じ牛の世話をしていた。

村中で見かけるので、ますらおさんは村では有名人だった。
一度、家の牛がお産をした時、ますらおさんが親牛に身を寄せて一体となって産まれるまで世話して姿を忘れられない。

昭和35、36年頃テーラーが普及し、農家から牛が不要になった。
その頃、ますらおさんも高齢で、牛の世話から身を引いた。
今思い出しても、仕事ではあるが牛が大好きな顔した、ますらおさんだった。

 

・・・

「金光町周辺の民俗」 岡山民俗会  昭和46年発行

博労(牛の仲買人)


博労は、牛を飼育している家に出かけて、売買の話をする。
両者の間で「なんぼう」と値をいいあう。
話が成立したら「手を打つ」といって手打ちをしていた。
手を売ったら、
博労は入金として15%を支払い、
牛を追いに来るときには全額を支払っていた。

 

・・・

 

「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行

博労は
適当な時期を見計らって売買を持ち掛け、
出産や病気の手当ても、
普通は博労が世話をしていた。
獣医に依頼するようになったのは、
第二次大戦後のことである。

博労は牛市で、
売買した牛を追子に追わせて歩いて輸送していた。
農家は一、二歳の若牛を買い、
五、六年あるいはそれ以上飼う。
仔牛は、
牡の場合は三、四ヶ月で離乳し早く売り、
牝の場合は五、六ヶ月で離乳し、一年ぐらいで売り出した。

 

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町  昭和60年発行

牛の取引は、ほとんど博労を通して行われ、市場まで行く人は稀であった。
博労は町内に数人おり、他に里庄や矢掛からも来ていた。
博労はそれぞれ得意先を持ち、
売買だけでなく平素から爪を切ったり、病気の手当てをしたり、いろいろと面倒を見ていた。

仔牛の売買は、博労がやってきて農家の庭先で行われるのが普通で、庭先取引といわれた。
農家から買った仔牛は、尾道市場へ出すことが多い。
廃牛の場合は、尾道・高梁・倉敷など。
農家へ入れる牛は、千屋や高梁で仕入れることが多かった。

万人講
不幸にして牛が死んだときは、村の人々が万人講をしていた。
世話人が家々を回って寄附を集め、そのお金で御祈祷したり、供養会したり、道端に供養碑を建てたりした。


・・・

 

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瞽女(ごぜ)

2023年08月26日 | 失われた仕事

瞽女は江戸時代末期まで、瀬戸内地方にもいたようだが、
明治以降は東日本、特に越後が有名になった。

昭和30年代で旅芸人としては消滅したが、現在は芸が伝承されている。

 

・・・


「失われゆく娯楽の図鑑」 長瀬聡 グラフィック社 2022年発行

瞽女

瞽女(ごぜ)は、三味線を弾きながら、瞽女唄を歌い、
全国を回る盲目の女性旅芸人の歴史的名称である。

公的な福祉のない時代、
目の不自由な女性たちの生活手段は灸、按摩、三味線など限られていた。

当時の農村は娯楽が少なく、
瞽女の興行は行く先々で歓迎された。


・・・

 

「瞽女(ごぜ)の世界を旅する」  大山真人 平凡社 2023年発行

ごぜとは、村々を門付けして歩く盲目の旅芸人をいう。
江戸時代いは各地に存在したが、戦後廃れていく。
最盛期、上越高田には17軒のごぜ屋敷があり、
それぞれが組をつくり、越後や信州の村々へ喜捨(きしゃ)の旅に出た。
重い荷物を背負った不自由な道のりは大変過酷なものだったというが、
今では失われてしまった「人の情け」が確かに存在していた。

ごぜというのは目明き(健常者)の「手引き」に導かれ、
村々を門付け(玄関先に立ちごぜ唄を披露して米や金を得る)して歩く、
盲女の旅芸人たちのことを指す。

日常生活の基本はひとり
キクエ(明治31年=1898生)は自由に闊歩できるわけでないが、
自分の座るべき場所にきちんと座ることができた。
いつもきれいに銀杏返しに結い、
柘植の櫛をさして白い元結で髪を縛る。
きちんと和服を着こなし、帯をきりりと締める。
すべて一人でこなすのである。
裁縫の簡単な繕いものは自分でする。
針に糸を通すのも簡単にやってのける。
「上の歯と下の歯で針の穴を噛むようにして、右手に持った糸を舌を使って通すのさ」
「手甲でも脚絆でも縫ったもんさ」

稽古
三味線と唄だけで商売するという意味では、スキルの上達は絶対であった。
一年の大半を旅し、高田にいる時間の大部分を稽古に費やした。

旅支度
一年のうち、高田にいるのは一ヶ月。旅に明け暮れる生活。
期間は20日~2ヶ月。
晴れ着ひと揃い。
湯上り・寝巻。
袢ちゃ(羽織のようなもの)
髪箱(油や櫛)
チリ紙、石鹸、手拭い、歯磨き粉、新聞紙
薬箱(毒消し・胃腸薬・ヨードチンキほか)
合羽
弁当箱
三味線二挺。
合計15キロにもなる荷物を背負い、一日何里もの道を歩いた。

歩き方
ごぜは3人~5人がひと組になって歩く。
道先案内人の健常者を先頭に、手引きの荷物を手にあてがい、まるで運動会のムカデ競走のように、一列縦隊になって歩いた。
村に着くと、泊る家(ごぜ宿)に荷物を降ろし、
空身になって三味線一挺と袋(喜捨の米などをいれる)を持って、
一軒ずつ門付けをして歩く。
これは今夜ごぜ宿で行われる宴会を知らせるためでもあった。
宴会は午後10時頃まで賑わった。
早朝に朝食をいただき、
空の弁当箱にご飯とおかずを詰めてもらい、礼をいってその宿をあとにし、次の村に旅立つ。
農繁期の6月10月は収入減になった。
貯まった米は、途中にある米屋で換金した。

キクエの失明
数え年6歳の時麻疹にかかり、それが原因で失明した。
高田には盲学校があったが、
入学者の大半が男性で、それも富農の子どもに限られていた。
父親に
「おまんは、按摩さになるか、ごぜになるか」
と聞かれ、ごぜを選んだ。

はなれごせ
組織から離れたごぜは一人で生きていくことを強いられた。
目の不自由な彼女たちは、組織をつくり、そこで決められた「掟」
を遵守することで、自分たちも守られた。
「女」であるごぜの敵は「男」である。
男に走ったごぜは、
そのまま幸せな生活を送ることができればいいのだが、
大半のごぜは男に捨てられた。
組織に戻ることを放棄したごぜを「はなれごぜ」と呼んだ。
「はなれごぜ」はひとりで商売しなくてはならない。

 

・・・


「人づくり風土記新潟」 農山漁村文化協会 1988年発行

 

血みどろな修業


入門すると、まず、
行儀作法が徹底的にしつけられます。
これは瞽女の道が、
客の所望によって披露する芸道であったほかに、
毎夜、人の情けを頼って泊まり歩く受け身の稼業であったからでしょう。
瞽女修業の厳しさは、座頭やチョンガレ語りなどの男性盲目集団の比ではなかったといいます。
目明きのやることは盲目でもできるようにとしつけられます。

三味線の道を覚えるのに三年、
本調子・二上り・三下りを自分で聞き分けて弾けるようになるまで七年かかるといいます。

声を生命とする瞽女には寒三十日の「寒声」(かんごえ)は大切な修業でした。
喉をきたえるため寒中約一か月、
早朝または夜間、屋内で戸を開け放って薄着になって行うものと、
吹きさらしの屋外の雪の上に立って行うものとがあります。
寒声の修業に五人に一人は、この道をあきらめて親元に帰ったといわれています。


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天声人語 【昭和63年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年

 

 

天声人語 【昭和63年】

青函連絡船最終便  1988(昭和63)年 3・15

 

連絡船がなくなったことを、いずれは悔いる時がくるかもしれないが、

今はただ、これも時の流れだと思うほかはない。

 

 

・・・

コウノトリ人口繁殖成功   1988(昭和63)年 4・7

 

昔は浅草でも青山でも、たくさんのコウノトリが寺の屋根や松に巣を作っていたそうだ。

松とツルの絵は、実はツルではなくてコウノトリの場合が多い、という話をきいた。

 

やがて受難の時代がくる。

白くて大きな鳥だったのが災いして、狩猟の評的にされた。

巣を作る松が減り、農薬汚染がひろがった。

それがコウノトリ激減の理由にあげられている。

今は日本で生まれたコウノトリは一羽もいない。

だからこそ、飼育者たちは祈りながら、ヒナ誕生を待った。

 

こんど卵を産んだ夫婦は、中国のハルビン動物園からやってきた。

三月の初旬、四個の卵を産んだ。

有精卵であることを念じながら見守った。

・・・

 

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天声人語 【昭和62年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年

 

天声人語 【昭和62年】

『平凡』廃刊    1987(昭和62)年 9・28

ひところは大衆娯楽雑誌の世界に君臨していた月刊誌『平凡』と『週刊平凡』が廃刊になる。

萩本欣一が「悲しいよ、悔しいよ」といっている。

欣ちゃんはこの雑誌を読み、芸能人を身近に感じ、自分でもやれると思うようになってこの世界に入った。

 

敗戦の年に誕生した『平凡』はたちまち百万部を超えた。

7S、つまりスター、スクリーン、ステージ、ソング、スポーツ、セックスを扱って売れた。

一九五九(昭和三十四年)に生まれた「週刊平凡」は7Sに1Tを加えた。

テレビである。

当時テレビは急成長期にあった。五十九年の普及率は一割強だが、六十五年には八割を超える。

テレビの急成長は次々に人気ものを生み、人気ものを追った「週刊平凡」もまた、急成長した。

 

この雑誌のおもしろさは異種交配にあった。

第一号の表紙はテレビ界の高橋圭三と映画界の団礼子との組み合わせだ。

以後、三島由紀夫と雪村いづみ、浅沼稲次郎と若尾文子、長嶋茂雄と北原三枝、という組み合わせが表紙を飾った。

 

七〇年代以降、雑誌の極端な細分化、専門化がはじまり、『週刊平凡』は芸能雑誌化する。

だが、ちまたに芸能情報や暴露記事があふれ、両『平凡』は次第に存立の基盤をゆすぶられる。

 

それにしても「平凡」というすばらしい表題が出版界から消えるのはさびしい。

雑誌は生きもの時代の子、だという。

人びとは、強烈に自分自身であることを求める時代に入ったのだろうか。

 

・・・

 

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