しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

堀泰一朗

2021年06月12日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市笠岡 古乃美教「白雲大社」


応神山の麓に赤い大きな鳥居が見える。
春には桜やツツジが咲き誇り、秋の紅葉もなかなかの名所。
そこが古乃美教の白雲大社。






開祖は、堀泰一朗(ほり・たいいちろう)で、
以下は古乃美教のHPの開祖の紹介。




堀泰一朗大先生が一代で築いた。
明治30年(1897)9月26日、新潟県新井町(現、新井市)に命を授かり、
生まれながらにして優れた霊的能力を持ちながらも、幼少時から幾多の辛苦に見舞われ、その苦難を悉く乗り越えた。
その時、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)より、
『創(はつ)の代に還せよとの大御心を体して起てよ。
汝、神の名に於いて為さんとしても成らざるもの無し。汝の与えるものは神も与え、汝の取らんとするものは神も又取らん。
もし汝の力を問う者あらば答えよ。上に天なし、地に底なし、広さを問わば果てしなし。汝の言行は見えざる神の証なり
との御神命を受け、昭和10年10月23日釜山において開教したのである。
開祖38歳の時であった。

以来、開祖は大神より授けられた偉大な「吹気の神業」(いぶきのかむわざ)を以て、
世の荒波に苦しむ者たちを救い導き、神の実在を世の人々に示現し、また皇室の弥栄・国家の安泰・全世界人類の平和と幸福という大いなる祈りを終生捧げ続けた。
特筆すべきは、この神業を万人に分かち与えて其の拡充を計り、以て真の神国を再建せんと努力されたことである。昭和56年11月20日開祖様は神となられた。



撮影日・2021年5月1日


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中小路宗城像・中小路宗康像

2021年06月12日 | 銅像の人
場所・京都府長岡京市天神  長岡天満宮 






宗城さんと宗康さんは親子であり、
現在の神社の整備に、親子とも多大な貢献があったそうだ。




(長岡京市観光協会)

長岡天満宮

ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。
道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて 在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から
「見返り天神」とも呼ばれています。
太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像を ご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。










撮影日・2015年2月18日


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中平善之丞

2021年06月12日 | 銅像の人
場所・高知県高岡郡津野町高野
制作・濱田浩蔵
設置・昭和60年 

中平善之丞は、江戸中期の大庄屋で、
農民を救おうとしたが、藩は打首にした。義民。

津野町は、高知県のたいへん奥深い村。


中平善之進
1709~1757
困窮する農民を助けるため自ら藩庁に窮状を訴えたが捕えられ、宝暦7年に打首となった(「津野山騒動」)。
義に倒れた彼の精神は郷土に生き、明治維新の志士たちに影響を与えた。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






(Wikipedia)

中平 善之丞
なかひら ぜんのじょう

宝永6年(1709年)~ 宝暦7年7月26日(1757年)は、江戸時代中期の一揆指導者。

経歴・人物
土佐高岡郡津野山郷の北川庄屋の長男として生まれる。
その後元文3年(1738年)高岡郡梼原村の庄屋・中平弥左衛門の養子となり、のち家督を継ぐ。

宝暦2年(1752年)土佐藩第8代藩主山内豊敷は、財政窮乏を打開するため、
国産方役所を設置および国産問屋を復活させることにより、和紙の原料となるコウゾや茶などの専売制強化を推し進めた。
津野山郷ではコウゾや茶を主に栽培していたが、専売制強化により安く買い叩かれるようになり、買い付けの停止を藩に請う。
しかし弾圧されたため、宝暦5年(1755年)津野山の農民は善之丞を頭取に立て藩に強訴する(津野山騒動、津野山一揆)。
のち捕らえられ、指定問屋蔵屋利左衛門とともに死罪なり、斬首された。


善之丞の死後、宝暦10年(1760年)藩は国産問屋を廃止する。
藩主の山内豊敷は高知城内に善之丞を祀った祠を設けた。
のち明治19年(1886年)津野山郷にて大暴風雨があり善之丞の祟りであると言われ、
翌年の明治20年(1887年)高知県高岡郡津野町高野に善之丞を祀った風神鎮塚が建てられた。
また、塚から国道197号を挟んだ反対側には「中平善之進像」が建てられている。










撮影日・2018年10月1日

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みよし観音

2021年06月12日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市灘区 (六甲山上)

東京オリンピックがあった年に、
神戸で小型飛行機の墜落事故があったそうだ。





「日東航空おやしお号墜落事故」で、乗員・乗客10名のうち2名が亡くなり、
そのうちの1名が美代子さんという名のスチュワーデスだった。

美代子さんは懸命に救助活動をしていたが、爆発により死亡した。
像の建立は交通遺児の会が発起して、有名人の森繁久彌・吉永小百合も賛同し、石原慎太郎は碑文を寄せている。


美代子さんがなまって「みよし」と呼ばれ、みよし観音になったとある。







撮影日・2016年12月3日  

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オランダ橋の外国人

2021年06月12日 | 銅像の人
場所・長崎県平戸市  幸橋(オランダ橋)

幸橋(オランダ橋)

その昔、城と城下町との往来は船であった。
1669年(寛文9)第29代鎮信が、そこに木橋を架け幸橋と呼ばれた。
1702年(元禄15)、これを石橋に改架した。
これを別名「オランダ橋」という。

(ほっこり Hirado)







平戸の平戸城は、観光平戸の代表する建物だが、
その平戸城と城下に架かる橋は、平戸を代表する文化財。
重厚感たっぷりに、今も現役の橋として利用されている。


その橋の近くの手すりに外人像が乗っかている、
橋の名称にちなんでオランダ人をイメージしているのだろう。(たぶん)








(松浦史料博物館)

天文19年(1550年)のポルトガル船の来港を皮切りに、平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)はこれを歓迎し、ポルトガルとの南蛮貿易を積極的に推進。
鉄砲や大砲、火薬、生糸、絹織物、香料、薬品を輸入し、銀や刀剣、漆器などを輸出したのです。
同時に、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、鹿児島での布教を断られたことから、平戸に来訪、松浦隆信から布教活動を許されたこともあり、
永禄5年(1562年)大村純忠が横瀬浦を開港するまで、ポルトガル船は毎年平戸に来航するようになったのです。
スペイン、オランダ、イギリスとも交易し、日本で最初の西欧貿易港として発展した。




撮影日・2012年5月11日   

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