しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

食事処かもめ

2021年02月28日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・岡山県笠岡市笠岡   
無くなった日時・令和元年五月二十五日   
撮影日・2017年頃


「かもめ」は、これぞ大衆食堂という雰囲気のお店だった。
多くのメニューがあり、値段も接待もテーブルも暖簾もサンプル展示も、そのすべてに「昭和の日本」を感じていた。








料理は”おふくろの味”的で、どれもクセがなく安心・安定のお味だった。
笠岡駅のホームに立つと、正面にお店が見えていたのがなつかしい。












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おっつぁんラーメン

2021年02月28日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・岡山県笠岡市十一番町
無くなった日時・2020年8月31日
撮影日・2015年頃



おっつぁんラーメンは最初、富岡にお店があった。
その場所は少し迷いやすかったが、味で人気があった。
移転して笠岡卸市場に開店したら、行きやすくなって一層人気が高まった。






お昼前後は近くからも、遠くからも固定客やファンが訪れる人気店だった。
お店に、どんなメニューがあったのか覚えていないが
自分の場合は「醤油ラーメン」を注文していた。
正統な”笠岡ラーメン”のお店で、いつも満足の味だった。






お店には多くの芸能人や有名人の写真とサインを、四方の壁に飾ってあった。
お店の前で衆院議員のかつのぶくん(現・官房長官)に2度会ったことがある。




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野良犬のドビン (別名「観光ガイド犬」ドビン)

2021年02月27日 | 無くなったもの
場所・広島県尾道市 商店街~千光寺公園一帯  
無くなった日時・2010年7月3日
撮影日・2008.12.10   



観光都市・尾道の中心場所を捨て犬がのらりくらり闊歩していた。
住民や観光客から苦情が出るの普通だが、一部の人が”可愛い”と発信した。





それをまたテレビや新聞が取り上げ、
可愛い犬が尾道の道案内をしていると野良犬を好意的に報道したので、犬マニアは大喜びした。

野良犬は、迷惑な”捨て犬”にもかかわらず、「尾道観光ガイド犬ドビン」と呼ばれる”名犬”扱いとなった。






東京で放し飼いの犬が、「忠犬ハチ公」と言われていたのは今から90年も前のことだ。
平成の世に、放し飼いの犬が町を自由に歩いていいはずがない。
迷惑千万。
住民は言えない。保健所は見て見ぬふり。
新聞・テレビは平気で違法行為を美談に報道する。

欧米よりも劣る、日本の動物飼マナーを一層下げる役に加担した。
マスコミがミスリードしているようでは存在の意義がない。



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べいふぁーむ笠岡マラソン大会

2021年02月27日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市カブト南町  笠岡ふれあい空港 
会場の変更・2006年頃。カブト南町(笠岡ふれあい空港)→平成町(笠岡総合スポーツ公園)
撮影日・2004.11.21


初めてマラソン大会に出場したのは、
今から30余年前の「笠岡マラソン」で、会場は笠岡運動公園だった。

5kmに出場した。運動公園をスタートして笠岡第一病院・カブトガニ博物館付近で折り返しゴールは野球場だった。
4年ほど連続出場した後、会場が「笠岡運動公園」から「笠岡ふれあい空港」に変わった。


新しい会場は広々としていた。
開放感があって気持ちよかった。







しかし大会のコースに慣れたてくると、単調な一直線の道をひたすら走り、
直角に曲って、また一直線に走ることに飽きてくる。





笠岡ふれあい空港が会場の時代は少なく、
2~3年で現在の笠岡総合スポーツ公園に変更になった。


スタートは、陸上競技場で、トラック選手が走るトラックを1周半して干拓地に出る。
やはりコースは単調だった。




その頃にはマラソンブームになり大会が増えて選べるようになった。
マラソンは町の中か、きれいな自然を見ながら走るのが楽しい。

せっかくの地元の大会だが、そういう訳でもう15年間ほど出場はしていない。




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旧GHQビル

2021年02月18日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・東京都千代田区丸の内 旧GHQビル(第一生命ビル館)DNタワー21
訪問日・2018.3.9


コーンパイプをくわえ、サングラスをかけたダグラス=マッカーサーが、厚木飛行場へ第一歩を印したのは、敗戦の年の8月30日であった。
その2日前に占領軍の先発隊が到着、なんの抵抗もなく配備についていた。
連合軍の日本占領は、一滴の血も流さず、不気味なほどの平穏裡におこなわれたのである。

日比谷にある第一生命ビルが接収され、そこにマ元帥の総司令部がおかれたが、
この石造りの頑丈な建物は壕をへだてて皇居と相対し、マッカーサーは「濠端の天皇」だとか、「東洋のシーザー」などとよばれていた。







9月27日、天皇がマ元帥を訪問して、二人だけで30数分間話しあった。
天皇は、自分の部下によってなされた一切の行為の責任は、自分一人にあると明言した。
「死をもたらすかもしれないこの勇気ある責任のとり方は、私を骨の髄まで動かした。・・・・
この瞬間、私は日本第一の紳士に対面しているのだということを知った。」
と、マ元帥はその回想録に書いている。

かねがね彼は、天皇の戦犯裁判出廷に反対であった。
それは日本国民に衝撃を与え、占領政策を極めて困難にすると考えていた。
天皇の退位、戦犯問題に反対する彼の考えは、この会見で、決定的になったといってよい。

青地晨
「日本の歴史15」  研秀出版 1973年発行








当時の東京の様子は、↓

「マッカーサーの日本」 新潮文庫 昭和58年発行

ニューヨーク警官の日本日記

昭和21年3月12日
東京では、最高の帝国ホテルを与えられた。
帝国ホテルは軍人なら大佐以上、あとは外交官、新聞記者しか泊まれない。
銀座へ出た。
完全な焼け野原であり、都電に人が鈴なりになっていた。
地下鉄もあったが、チフスの恐れがあるというので、入ってみるのはやめた。
驚いたことに、日比谷の映画劇場の前に何千人もの日本人が並んでいる。
整然と並んでいる。何のトラブルもなければ、警官も出ていない。


昭和21年3月13日
第一相互ビルで、日本についての解説を受けた。
日本の憲兵隊はゲシュタボ(ナチスの秘密警察)そっくりであると解説した。
第一ビルを出たらブルーの制服を着た男がいた。
「あれは夜警か守衛か」
「あれが日本のポリスマンだ」
「あの制服は醜態極まる。”みてくれ”、これを変えなければならぬ。
警察が威厳を保ち尊敬を得るユエンはまず制服にある」









昭和21年3月14日
マッカーサーと昼食を共にした。
元帥は威風堂々として、とても65才に見えなかった。
午後、東京見物。
国会、宮城、日本の海軍省、日比谷公園、内務省、警視庁・・・。
1年前の東京大空襲の話を聞いた。
70マイルの数が吹いていて、火災が数千人の命を奪った。
銀座の人間の多さに、アリの群れを連想した。
貧民街を通ると、彼らは口を開けてわれわれを見ている。
けれども、彼らは貧しくても本を読めるし、字も書ける。日本人の99%は教育を受けている。



昭和21年3月16日
銀座に行く、女たちがマスクをしている。初めは虫歯が多く、それを隠すためかと思ったが、
悪いカゼが流行っているせいだった。
ヤミ市の値段は高い。
 




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歩兵第41聯隊(福山市)

2021年02月18日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市花園町・緑町 
訪問日・2016年5月15日 「第49回福山ばら祭」

戦後長く広島大学教育学部や付属高校や付属中学校があった、その後は緑町公園やサンピアになった聯隊跡地。

戦前は、備後地方の郷土聯隊として49年間存続したが、
最後はレイテ島で全滅の悲劇でおわった。







福山市HPより
平和への願い 緑町公園周辺の戦争遺跡

緑町公園やばら公園周辺で戦争に関連した遺跡を見ることができます。
現在の緑町公園と西隣の商業施設を合わせた敷地は、歩兵第41連隊福山兵営の跡地です。
41連隊は1908(明治41)年に福山に転営してきました。
併せて福山衛戌(えいじゅ)病院が設置され、戦傷病者の治療が行われました。
連隊は1945(昭和20)年に幕を閉じるまで49年間の歴史を有します。










福山の聯隊が直接関与したわけではないが、有名な「相沢事件」がある。

相沢事件
「相沢三郎、
事件当時は福山歩兵第41聯隊に所属。8月1日に発表された人事異動で台湾に転任が決まり、日本を離れる前に永田殺害を決意した」

1935年(昭和10年)8月12日
相沢三郎歩兵中佐が陸軍省内で軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した。
相沢はすぐに駆け付けた憲兵隊に連行されるが、その取り調べは難航した。
「伊勢の大神が自分の体を借りて天誅を下したのだから、自分に責任はない」、
重大な犯罪を犯したという自覚はあまりなかったらしい。

背景には陸軍の2大派閥「皇道派」「統制派」の争いがある。
皇道派は青年将校や叩き上げの軍人たちに支持され、統制派はエリート軍人に支持された。
陸軍きってのエリートである永田鉄山は、統制派の中心的役割を果たしていた。
皇道派に属していた相沢は、かねてから永田を憎んでいた。
その憎悪は7月15日、皇道派の真崎甚三郎が教育総監を罷免させられたことで頂点に達したようである。

相沢を裁く軍法会議は皇道派のPRの場に利用される。
その判決が出る前に皇道派青年将校による2.26事件が起こった。
皇道派は一掃され、公判は一変する。
結局1936年(昭和11年)7月3日、相沢に対して銃殺刑が執行された。
(「ビジュアル日本史」から)










歩兵第41連隊
(Wikipedia)
創設 1896年
所在地 広島 - 福山
沿革
明治29年・ 深安郡(福山町)に連隊本部を設置
明治37年・ 日露戦争に従軍
明治41年7月20日・深安郡野上村の新兵営に移転
昭和12年・蒙チョウ作戦に参加
昭和13年5月・ 徐州会戦に参加、その後バイアス湾上陸作戦に参加
昭和14年・山東省における匪賊討伐作戦、その後大連に移るも直ぐに華南に移動
昭和15年・ 仏印進駐
昭和16年・第5師団は第25軍に加入しマレー作戦の準備を開始
昭和17年1月11日・ クアラルンプールを占領
    2月・ シンガポール入城
    3月・フィリピンパナイ島へ移動、ミンダナオ島平定作戦に参加
    7月・ 南海支隊に編入されポートモレスビー作戦に参加
    8月・ラバウル経由でニューギニア島に上陸、オーエンスタンレー山脈超えを目指すが激戦の末に全滅寸前にまで追い込まれる
昭和19年・ミンダナオ島からレイテ島に上陸、アメリカ軍と激戦を繰り広げる
昭和20年1月・ カンキポット山地で自活態勢に入る
    7月15日頃・ 連隊長が軍旗を奉焼し、自決したと言われる








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館山海軍航空隊 赤山地下壕跡

2021年02月18日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・千葉県館山市宮城
訪問日・2018.8.3

初めて千葉県のJR館山駅に降りたら、
轟音が聴こえ、自衛隊機が見えた。

今館山は「海上自衛隊最大のヘリコプター基地」だそうだ。



館山は江戸時代の開国前後から、江戸湾の見張りをする場所に位置する町だった。



館山海軍航空隊・館山海軍砲術学校・赤山地下壕
海軍の軍事施設が集中した館山

関東大震災による海底の隆起が生み出した航空基地からは、
真珠湾攻撃のパイロットが育っていった。
海軍初のパラシュート部隊が練成された館山海軍砲術学校・・・。
数々の戦争ドラマを生み出した戦跡が館山には存在している







昭和5年(1930)に、
5番目の航空隊として開かれたのが館山海軍航空隊である(現・海上自衛隊館山航空基地)。
略して館空(たてくう)と呼ばれた。
埋立地にある海上基地として、海からの強い西風を利用して空母からの離発着を想定した飛行訓練に向いており、真珠湾攻撃のパイロットの多くが訓練を受けたといわれる。
昭和20年2月には、南房総を米軍艦載機延べ1.000機による大空襲があった。館山鶏群航空隊も大被害を受けている。
これは硫黄島の後方支援基地を叩く作戦で、19日からは硫黄島上陸作戦が始まった。

戦争末期には本土決戦に備え、房総半島の要塞化が進むられたが、館空周辺でも戦闘機用掩体壕や地下壕の建設が急ピッチで進められた。
現在その時に造られた掩体壕1基残っているほか、
通称「赤山」と呼ばれる標高60mの山の内部に、総延長2kmにおよぶ地下壕が現存している。
赤山地下壕として一部が公開されているが、司令部、兵舎、兵器貯蔵庫から病院、発電所なでさまざまな施設があったといわれ、館空の機能をそっくり地下に移動させ、徹底抗戦する意図で掘られたものであろう。
「戦争廃墟」 石本馨著 ミリオン出版 2006年発行









館山市役所HP

航空隊
昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。
戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。

地下壕
赤山地下壕は、合計した長さが約1.6kmと、全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
この赤山地下壕は5~10mと狭いうえ、計画的に掘られたとは考えにくく、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後に建設されたのではないかと考えられています。
アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終りの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは、壕内にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務をおこなったという体験や、病院の施設があったなどの証言からうかがい知ることができます。










地下壕は地層がむき出しで、見学は地質学に関心がある人にも適している。

工事は手掘りを意味していて、
工業力の差を実感するというよりも、これで米国と戦争をしていたことに当時の指導層の無責任を思う。

真夏に訪問したが、洞窟と変わらないひんやり感があった。







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佐倉聯隊跡(佐倉城)

2021年02月17日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・千葉県佐倉市城内町 佐倉城址公園  日本100名城「佐倉城」
訪問日・2018.8.2

千葉県の佐倉市の名を知ったのは小学生の時、
立教大学から巨人に入団した長嶋茂雄選手が佐倉一高校の出身だった。

その佐倉の「日本100名城」佐倉城を見に、佐倉に行った。
東京からは、ほどよく離れた関東平野の田園都市といった感じのする町だった。




 



城跡には「国立歴史民俗博物館」があり、”国立”だけに建物は大きい。

そのHPから、
国立歴史民俗博物館
 現在、国立歴史民俗博物館があるところは、戦前には陸軍の連隊が置かれていました。
 この佐倉の地から、千葉県下の多くの若者が、中国やグアム、レイテなど異郷のに送られ、生きて再び日本の土を踏むことが叶いませんでした。

佐倉連隊の兵営生活
昭和初期の兵舎復元模型をはじめ、多数の佐倉関係写真資料などから兵営での生活の一端を見ます。
普通の若者が徴兵され軍隊教育を受けるうちに、兵士へと変わっていった様子について考えます。
佐倉連隊と地域
歩兵第五十七連隊は千葉県一円を徴兵の範囲とした典型的な「郷土部隊」です。
兵営では数千人の人間が生活したため多くの需要があり、連隊と商いを行う商家も少なくありませんでした。
佐倉連隊と戦争
佐倉連隊は日本でもっとも歴史の古い連隊の一つとして西南戦争、日清・日露戦争、 そして太平洋戦争までの主要な戦争に参戦させられ、フィリピン・レイテ島で壊滅しました。








歩兵第57連隊の生存者の帰還は、僅か118名だったそうだ。悲劇の聯隊だ。

(Wikipedia)
明治17年・宇都宮から歩兵第2連隊本部が転営してくる。
明治41年・歩兵第2連隊本部が佐倉から水戸へ転営。
明治42年・歩兵第57連隊が習志野から転営してくる。
昭和19年・グアムに第3大隊を派遣
8月11日・ 第3大隊は玉砕する
11月1日・ 連隊主力はレイテ島オルモックに上陸
11月4日・ リモン峠の戦いが始まる、撤退命令が出たとき、連隊の兵力はわずか90名程。全滅状態であった。
昭和20年1月・セブ島へ転進
    5月・ 遊撃戦に転換する
    8月・ 終戦
1981年(昭和56年)国立歴史民俗博物館が開館。





お城は江戸時代に、まったく石垣を使用しなかった。
内堀、外濠はよく保存や復元されていて、さすがに100名城という城跡だった。








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岡山城石山門の石垣

2021年02月17日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県岡山市北区丸の内    
訪問日・2015.4.4


岡山市内には、昭和20年6月の岡山空襲の被災地と看板が点在している。

ここは岡山城石川門。




看板には、

石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、
西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、
昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。
石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。
平成8年3月 岡山市



門が焼けて、石垣が焼け残り、その石垣は75年経った今も赤い。





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歩兵十八聯隊(吉田城)

2021年02月17日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛知県豊橋市  豊橋公園
訪問日・2014.10.10


豊橋には一時師団も置かれたが、明治の初めから聯隊区が終戦まで置かれていた。

兵営は、現在の豊橋公園や学校がある場所。





(Wikipedia)
1894年(明治27年)日清戦争に従軍。翌1895年(明治28年)6月27日に凱旋した.
1904年(明治37年) 日露戦争に従軍
1928年(昭和3年)5月 済南事件に出動、天津に駐屯
1933年(昭和8年)2月 熱河作戦に参加

1937年(昭和12年)8月 動員下令、上海から上陸し南京攻略戦に参加
1938年(昭和13年) 漢口作戦などに参加
1939年(昭和14年) 贛湘作戦などに参加
1940年(昭和15年) 宜昌作戦、長沙作戦、漢水作戦に参加

1942年(昭和17年)7月 第3師団から第29師団に所属変更し、奉天省海城に駐屯







兵営の門。








昭和3年の「済南事変」の碑であったが上塗りをして隠している。

なぜ隠したのだろうな?




18聯隊は昭和19年に南洋出兵。
テニアン、サイパン、グアムを敗走、玉砕。
軍旗を自ら焼く行為が、その後に起きるであろうこと、悲惨すぎる。


昭和19年2月・ 動員下令
    3月・ テニアン島進駐を命じられる。
       移動中、沖大東島南方200kmの海上でアメリカ海軍の潜水艦トラウトの魚雷攻撃により輸送船崎戸丸が沈没。
       門間連隊長以下1,657名死亡、570名重傷の大損害を被るが、約1800名がサイパン島に上陸し、再編成を行う
    5月 ・ グアム島へ移駐
    7月21日・ アメリカ軍上陸開始(グアムの戦い)、連隊主力はマンガン山にあったが、各中隊は上陸地点の要所に配置され激戦を繰り広げる
    7月25日・ 師団長の許可を得て軍旗奉焼、その後の夜間戦闘で連隊長以下の大部分が戦死







日中戦争後、豊橋には18聯隊につづいて
118聯隊と229聯隊が編成された。



これは歩兵229連隊の記念碑。昭和18年ニューギニア・ガダルカナルへ上陸等の碑文。

229聯隊のことは、漫画家水木しげるの「総員玉砕せよ」に描かれている。
水木さんは片腕を落としたが、「役立たず兵」となったのが命を落とさない結果になった。


豊橋の18聯隊・118聯隊・229聯隊とも悲劇的な最後を迎えているのが同じだ。





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