しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

坂本龍馬 (函館)

2021年06月27日 | 銅像の人
場所・北海道函館市末広町 「北海道坂本龍馬記念館」

函館の街に龍馬の銅像が立つ。
坂本龍馬と北海道は、なにか縁があったかなあ?


この銅像がある場所は、なんと龍馬記念館。
記念館があるということは、そうとう深い関係があるのだろうな。




こうゆう↓関係だった。つまり坂本龍馬のように大きな視野の人間になってください、というような関係(?)だった。


【北海道坂本龍馬記念館】HPより

北海道坂本龍馬記念館は、
日本の将来を担う人材の育成、主に青少年の心の育成を支援するため、
近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして坂本龍馬が生きた幕末・維新の時代背景、
また坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫の人々の調査・研究などを催すと共に、
多くの人々が興味を持ち、 学べる場としての「北海道坂本龍馬記念館」を目指して活動しています。







撮影日・2017年7月30日
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坂本龍馬(桂浜)

2021年06月27日 | 銅像の人
場所・高知県高知市  桂浜
制作・本山白雲
設置・昭和3年


龍馬像の変遷--戦後によみがえる像

龍馬の場合、彼の歴史的位置というものは、ほとんど無きに等しかった。
小学校の教科書でも、明治の元勲というのは
木戸孝光、西郷隆盛、大久保利通の3人で、その後はいきなり
伊藤博文、山県有朋という明治国家のつくり手たちが登場する。

時おり、たとえば中等学校の漢文読本に、
「妻は病床に伏し、子は飢えて泣く」という梅田雲浜の詩が載る。
これが幕末の志士を象徴しているくらいでした。

明治国家が薩長のものであった。
それ以外の変な人物たちは、歴史の中の困り者にすぎない、ということだったのでしょう。
龍馬は共和思想の匂いの濃い人物だったのがマイナスだったかもしれません。


「歴史の中の日本」  司馬遼太郎 中公文庫 昭和51年発行









坂本龍馬像
世界を目指した風雲児


桂浜から太平洋を見渡す龍馬像は、高知一の観光名所といっても過言ではないだろう。
右手を胸にしまったお決まりのポーズ。
高知の青年有志が寄付金を募って建立し、1983年(昭和58年)に修復された。
毎年命日の11月前後の2ケ月間、像の脇に展望台が設置され、
竜馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行







有名な桂浜の像は、龍馬がまだそれほど有名でなかった1926年に当時の早稲田大学生で、
後に社会運動家となる入交好康の呼びかけで募金運動が始まり、28年に除幕された。
1934年に完成した京都円山公園の龍馬と慎太郎の二人の像は太平洋戦争中の金属回収で失われ、62年に再建された。
桂浜の像は除幕式に海軍が関係し、軍部が反対したためか、回収を免れた。

「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行









坂本龍馬
1835~1867
幕末の志士。
高知生まれ。
万延2年(1861)武市瑞山(半平太)の土佐勤王党に参加。
翌年脱藩して勝海舟の塾に入り、
海軍航海術を学び、長崎で薩摩藩の保護の下で亀山社中(のちの海援隊)を経営して海運業に従事。
中岡慎太郎らとともに桂小五郎と西郷隆盛の間を斡旋し、薩長連合を成立させる。
「船中八策」をまとめ、大政奉還を実現させたが、京都近江屋で中岡とともに暗殺された。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2015年2月28日



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