しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大石内蔵助

2021年06月01日 | 銅像の人
場所・兵庫県赤穂市  赤穂城跡

日本人がいちばん好きなお話の一つ「忠臣蔵」。
映画の大石内蔵助では片岡千恵蔵、松本幸四郎、長谷川一夫の印象が強い。





「教養人の日本史3」  脇田修  現代教養文庫  昭和42年発行

赤穂浪士

元禄14年(1701)松の廊下から1年10ヶ月をへた翌年12月14日、
元城代家老大石良雄を首領とする赤穂浪士の一団が吉良邸に討ち入り、義央の首をあげるにいたって、
この赤穂事件は、大きな波紋をよぶことになった。

赤穂浪士の行動は、賛否両論にわかれた。
多くの者は、元禄大平の世に主君の仇を討ったことは、武士道の精華と賛美した。
幕府は、忠の奨励と、彼らが徒党を組み邸内に乱入し、明らかに法を破ったことの板挟みになって苦慮した。
結局、名誉ある死、切腹を賜うことに処分を決定した。


切腹の直後、早くも芝居が上演され、やがて「仮名手本忠臣蔵」が成立し、
独参湯(どくじんとう)といわれるほどの人気をもちつづけた。





赤穂市最大のイベント「義士祭り」、この年の大石内蔵助役は日活映画の大スター”高橋英樹”。↑(真麻さんのオヤジ)

すごい人気だった。性別、年齢を問わず。
ただし黄色い声援は、女性だけで、しかもすべて年増の人だった。




撮影日・2018年12月14日


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定山和尚

2021年06月01日 | 銅像の人
場所・北海道札幌市南区定山渓温泉






(Wikipedia)

美泉 定山
みいずみ じょうざん、
文化2年(1805年) - 明治10年(1877年)11月4日)は、
備前国(現在の岡山県)出身の僧侶である。
のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。
札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。
「美泉」という苗字は明治初期の法律に従うため、定山があえて作った姓である。









撮影日・2014年2月5日


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浅原才市

2021年06月01日 | 銅像の人
場所・島根県大田市温泉津  温泉津温泉

温泉津(ゆのつ)は”ひなびた”感じがする温泉街としては、日本一のような気がする。
町は重伝建にも指定されている。








その温泉津の温泉街に浅原才一という詩人の像がある。
信仰の詩を人生の後半に書き続けていたそうだ。

如来の御姿こそ かかるあさましき わたしのすがたなり なむあみだぶつ なむあみだぶつ







(響流山勝福寺)

~念仏生活を妙好人に学ぶ~
浅原才市さん


才市さんは、石見の国温泉津町小浜に、嘉永三年(一八五〇)二月二十日に生まれました。
アメリカの使節ペリイが浦賀に 来て開国を迫った年でした。
十一才の時に両親が離婚、才市さんは母に連れられて実家に帰りました。
やがて母は再婚。
才市さんは、十一歳で大工の弟子として年期奉公に行き、二十歳の頃には船大工の職を持ちました。
酒や賭博など荒っぽい生活をしていました。
四十歳を過ぎてからは下駄作りの大工になりました。
才市さんが四十五歳の時に、父が八十二歳の生涯をお念仏と共に終えました。
その頃から才市さんは「おやのゆいごん、なむあみだぶつ」と、近在のお寺の法座に足を運ぶようになりました。
それから二〇年間が求道に燃えた時期でした。妻のせつさんと御本山参りもし、帰敬式も受けました。
そして六〇才を過ぎた頃よりお念仏の詩が生まれ、六四才の頃よりかんなくずに法悦の詩を書いては夜にノオトに書き写す日課が始まりました。
詩ができると、安楽寺の梅田謙教和上に見て貰ったそうです。
才市さんは昭和七年一月十七日、八十三才でお念仏の生涯を終えました。




撮影日・2011年10月27日


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野網和三郎(ワーサン)

2021年06月01日 | 銅像の人
場所・香川県東かがわ市引田  安戸池


内湾でのハマチ養殖を始めた人。
地元漁業者では大功労者、偉人。






【引田業業協同組合】より

香川県の引田では昭和3年、内湾を堤で仕切った安戸池において、
野網和三郎氏が世界で初めてブリ(ハマチ)を養殖することに成功しました。
引田漁業協同組合では、その技と経験を活かして、天然に近い 良い
環境と独特の手法で育て上げたブランド魚「ひけた鰤(ブリ)」を皆様に
お届けします。


養殖業の始まり
引田漁業協同組合における魚類養殖の歴史は、
1928年(昭和3年)に野網和三郎(ワーサン:和三郎の愛称)が 安戸池でハマチ養殖に成功したときから始まります。
地元引田の網元の3男であった和三郎は、当時の漁師の厳しい生活とその将来について、強い危機感を持っていました。
当時、瀬戸内海の漁業は、昔ながらの漁法でタイやサワラを獲っていましたが、大きく漁獲が伸びることはなく、頭打ちの状況でした。
そのため、香川県から海外への出漁が盛んになりつつありましたが、厳しい気象条件などによる遭難や不漁が多く、
事業の失敗により 網元から雇われ漁民に転落する人が増え、下層漁民が増加しているような時勢でした。
和三郎は、このような状況を肌で感じて育ち、漁民の窮状を何とかしたいという思いから水産学校に学び、当時の先端の学問を修めました。
卒業後は、引田に戻り、早速学んだことを生かすため、安戸池を使った魚類養殖試験を開始。
父、佐吉の全面的な協力のもと、 試験開始後、わずか2年目にして、養殖に成功しました。
これが、日本における海面での魚類養殖の最初の成功事例となったのです。


養殖業の進展
安戸池の養殖事業は観光化し、その盛況ぶりは全国の注目を集めました。
一方、県内では、戦後昭和25年までは、養殖施設として築堤式(固定式施設)が主流であったため、 大きな資本が必要で、経営体は僅かでした。
しかし、この年化学繊維の魚網が発明され、網仕切り式施設で養殖できるようになると、県内でも 養殖事業に着手する人が増え始めました。
その後、昭和30年代になって、小資本・少人数での経営が可能な、小割生簀が普及すると、 急激に養殖が盛んになり、
香川県を含めた西日本各地で養殖が広く行われるようになりました。
和三郎は、養殖事業から離れた後は、県の水産業関係団体や海区漁業調整委員などの要職を歴任し、
「養魚秘録海を拓く安戸池」を出版した昭和44年秋、病没しました。
彼は、自分の生涯をかけた養殖業の発展を目の当たりにすることができたことと思います。





(安戸池)



撮影日・2013年9月17日


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