しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団  満蒙開拓青少年義勇軍

2024年07月31日 | 昭和11年~15年

「団塊の世代」と呼ばれるのは戦後のベビーブームで、昭和22~24年頃に生まれた世代。

「軍国少年」「軍国少女」と呼ばれる世代は、たぶん、昭和ヒトケタ生まれだろう。
学校にあがる頃、急に日本は神の国になった。
世界に一つの神の国、強い国、世界三大大国、と学校で教えられて育った。

初期の軍国少年は、進学先に海兵・陸士を目指し、
中期・後期の軍国少年は、卒業待たず学校の途中で予科練や陸軍幼年学校を受験した。
後期の軍国少年で、小学校を出て働いていた少年が”義勇軍”に誘われた。

小学校を卒業し、地元で農業しながら青年学校に通う少年が勧誘の標的にされた。
勧誘の言葉は、”五族協和””王道楽土””東洋平和”。
学校出たばかりの貧しい農民である少年にとって、
先生や村長さんから甘い言葉で大義名分で勧められると、皇国民として、その気になるのははやい。

 

・・・

「福山市史 下巻」 福山市史編纂室  昭和53年発行

「大陸鍬の拓士」 

昭和13年(1938)1月、満蒙開拓青少年義勇隊が創設された。
先述の分村計画が一戸ごとの移住を主としたのに対して、
この義勇隊は16~19歳の少年を団体で渡満させ、開拓の中堅としようとしたところに特色がある。
その人数は県ごとに割り当てられたが、第1次の1.500人の割当てに対し、県下からは福山市の40人を加え237人の応募しかなかった。
その後応募者は徐々に増加し、14年末には570人全版第、翌年7月には473人、16年4月には備後地域の247人を含め761人を送り出し、
17年以降は毎年1.000人以上の割当てをいずれも充足している。

充足率が上昇した理由は、「入植当初は10里も20里も離れたところに水田を作りに出かけたが、
今では近所に600町歩の田を開墾しています、もっとく後継者が渡満してきてほしい」という義勇隊の話が伝えられたり、
また高等科の新卒業生を集中して組織したりしたためである。
彼らの年齢はいまでいえば中学3年生の年ごろに相当するが、19年5月13日、市主催の壮行式に臨んだ藤江国民学校出身の少年は、
「大戦争のまっ最中に 満州に渡って存分御奉公し、戦争に勝抜くやうに食糧を作ります、死んでも鍬ははなしません」
と答辞している。
当時の教育がどのようなもので、どのような力を発揮したかが理解されるであろう。 

義勇隊は中隊、小隊のごとく、と軍隊なみに組織され、
茨城県内原で約二か月間の訓練を受けたのち渡満した。 
その人数は明らかにしえないが、設以来一市三郡で少なくとも1500人以上、県下では数千人にのぼったと考えられる。
最後の義勇隊は、20年3月、一市五郡下の備後中隊200人を含む新卒生650人で組織され、内原での訓練を終え、
知事から「八紘一宇」と書いた宮島杓子を記念にもらい、5月下旬満していった。
彼らの多くは、分村計画の入植者と同じく満蒙の土と化した。
その人数もまた明らかにすることができない。

 

・・・・


「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和13年この制度が開始されたもので、拓務省は「日満両国の特殊関係を強化し、
五族協和・王道楽土の理想を実現して東洋平和の確保に貢献するため、
優良なる青年を多数満州国に送出し、 大量移民国策の遂行の確実かつ容易ならしめんとす」
の考えから数え年16歳~19歳で尋常小学校の課程を終えたものを対象とし、
意志強固で満州に永住を決意し、父兄の承諾を得た者を
県は人物考査・身体検査をして移民に適当なりと認め、採用者として決定した。
現笠岡市域においても各学校で募集をし、多数の義勇軍を送出したのである。 

訓練所に入所するものは、出征兵士と同様
町・村民の壮行会、
歓呼の声に送られて壮途についたのである。
内地訓練 は茨城県内原訓練所で、第一次義勇隊開拓団は4年、第八次義勇隊まで順次短縮して2ヶ月で訓練を終え渡満した。
渡満後現地訓練所で訓練をした後、
国境警備隊、
飛行機製作工場、
製鉄所、
あるいは開拓団に「土の戦士」として派遣された。

 「土の戦士」 と呼ばれた義勇軍は、
祖国の生命線は満州国開拓にあり、君たち若人の双肩に国の安全がかかっている等々の言葉に何の疑いを持つことなく応募して行った若者であった。
戦争も終結に近い昭和19年度第7次満蒙開拓青少年義勇軍として、岡山県から二個中隊編成された村上中隊(岡山市および県東部出身者) 赤木中隊(備中一円の都市部出身者は19年内原に入所、
翌20年3月、風雲急を告げる満州へ渡ったのである。
赤木中隊総勢221名、そのうち小田郡出身者は26名の(現笠岡市城出身者6名)多数にのぼるのである。
それが敗戦によって「王道楽士」の夢破れ、絶望的な飢餓と病魔の混乱の中で、集団は乱れいつ日本に帰られるか希望の持てない中で、苦力となって働くもの、
永住覚悟して養子となるもの、放浪するもの、運よく工場で待機するもの、
筆舌に尽くせぬ困難辛苦の日々を送り、ようやく21年から23年に内地へ帰るのである。

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「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年(1937) 12月から、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が実施され、
16歳から19歳までの少年を対照に応募させ、二か月間の基礎訓練を茨城県の内原訓練所で行い、
満州各地へ、開拓義勇軍戦士として送り出した。
昭和20年(1945)まで、五次にわたり243団の義勇軍開拓隊が入植、一般開拓団の過半数を占めた。
しかし、昭和20年8月、日本の敗戦によって、国策として送り出された約25万の開拓団関係者は、
終戦時ソ連軍の進攻により、最も大きな犠牲を強いられたのである。
引野村から出征した義勇軍は次のとおりである。
(一覧表略、16名の義勇軍がいる)

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「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

戦争の長期化により兵力の動員が相次ぎ、また戦時経済の労働力の需要増によって、
成人の移民送出は困難となって青少年層にその代わりを求めていった。
昭和13年、新たに満蒙開拓青少年義勇軍が創設され、14~19歳の青少年が武装移民として送り出されていった。

同13年2月の「中備時報」は、「非常時局下の農山村対策」を論じた。
平時生産労働に従事していた青壮年が次々と戦線へ召集され、農村・都市を問わ 労働力の低下・不足を来しており、
しかも兵士の65~70%は農山村出身者が占め、農山村における労働力不足が極端に甚だしいと結論づけた。 
満蒙移民の主力を青壮年層におくことのできない実態がうかがえる。

同18年、小田郡では、「満蒙開拓青少年義勇軍小田郡後援会々則」を作成した。 
郡内の青少年、一般民に対し義勇軍についての啓蒙活動を行い、義勇軍・女子拓殖者を募り満蒙への送り出しをはかった。
また、義勇軍に満蒙開拓の大理想の貫徹と慰問激励を行うとした。
同19年3月には、青野村から4家族を含む36人が満州分村開拓団本隊として渡満の途についた。
村長以下の人々が岩野坂村境に参集して壮行式を挙行し、一行を見送った。


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「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年7月に日中戦争が勃発すると、多くの壮年男子が召集され、開拓団を構成することが困難になると、
その補充策として、まだ兵役の年齢に達しない数え年16歳から19歳の青少年で構成する満蒙開拓青少年義勇軍の創設を行った。
昭和18(1943)年12月28日付の『合同新聞』は「割当悠有々突破 県下の満蒙開拓義勇軍合格者」という見出しで
県下一次二次の658名、浅口郡は45名と報じ、
「合格者一同は明春2月下旬内原訓練所へ入所、3ヵ月の訓練を実施、5月頃渡満するか」と記事にしている。
岡山県の青少年は昭和13年から昭和20年までに約2700人が満蒙開拓青少年義勇軍に採用され、浅口郡では131名の方が満州に行った。
これらの人々はソ連との国境方面に入植した方が多く、昭和20年のソ連軍の侵入により苦難の途を辿った事が語られているが、
金光町では果たして誰が義勇軍になり渡したか、またどのようにして帰郷したか、記録をみつける事ができなかったことは残念であった。


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「広瀬村誌」(福山市加茂町)  広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

昭和12年(1937) 満蒙開拓青少年義勇軍制度が確立し、16才以上19才までの男子を志願させ検査の上、
茨城県内原訓練所で2ヵ月間特別訓練の上、
満蒙(中国東北地区)に渡らせ、
現地訓練所に於て3ヵ年間訓練を施し、独立した農業経営者とすることにした。
深安郡でも昭和16年1月小学校長会に於て高等小学校卒業生の中から希望者を募集し、深安小隊を編成し、
昭和19年まで継続して送り出した。
広瀬村では小林冨貴男が内原訓練所の幹部で指導員を兼務しており、再三広瀬村に帰郷し募集に務めた。
広瀬村でも多くの方々が志願に応じた。
記録にある氏名は次の方々である。
(9名)
以上の方々であるが昭和20年の敗戦にともない開拓義勇軍の青少年も敗戦の渦中に巻き込まれ、
多くの帰らざる戦没・死没者を出したが本村出身者は全員無事帰国した。
全国では約86.000人が渡満しており、その内15.000人以上が戦没・死没している。


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昭和13年「国家総動員法」兵隊さんのおかげです

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和12年7月、日中戦争勃発。
昭和12年11月、大本営が設立。
昭和13年4月、国家総動員法が成立。
議会の承認なしで、人も経済も物資も調達が可能になった。
内閣は軍部の代行機関ともいえる存在になった。

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「ニイタカヤマノボレ1208」 和歌森太郎他 岩崎書店 1995年発行


昭和13年「国家総動員法」

 

♪兵隊さんのおかげです 


兵隊さんよ ありがとう
兵隊さんよ ありがとう

1938年(昭和13年)の4月に、すべてを戦争のためにさしだすことをきめた「国家総動員法」がでてから、
国民の生活をしばる法律や規則がたくさんできました。
中国との戦争が長びき、はたらきてと物資が、どんどん戦争につかわれていたからでした。


まず、綿製品をつくったり売ったりすることが制限されました。
もめんのかわりに人造せんいのステーブル=ファイバーが「代用品」としてでまわりはじめました。
これをりゃくして「スフ」とよびました。
スフということばは、「代用品」「粗悪品」の代名詞のようになり、まじりけのないもめんを「純綿」といい、
これは貴重なものとなって、まじりけのないことの代名詞につかわれるようになりました。
純綿は、戦地の兵隊の軍服や下着そのほかの軍需資材としてつかわれました。

また、ガソリンが統制され、切符制になりました。
自動車の後部を改造し、木炭をたいてエンジンを動かす、「木炭自動車」ができました。
木炭では不経済だとばかり、「薪自動車」が、しりからけむりをはきながら町をはしるようになりました。

1939年(昭和14年)の6月には、昭和のはじめに日本に伝わり、そのころたいそうはやっていた女性の頭髪のパーマネントは、
戦時下にふさわしくないからと、やめることにしました。
農村の仕事着であったモンベが、都会の女性のあいだにも、もちいられるようになりました。

また、男性が、長いかみの毛は「質実剛健」でないからと、坊主がりにしだしたのも、このころのことでした。


この年の7月8日には、おおくの国民がしんぱいしていた「国民徴用令」が、ついにしかれました。
戦争に直接かんけいのないしごと、戦争にとくにひつようでないしごと、とくにいそがないでもすむしごと、
などにたずさわっている国民は、国がひつようとしたときには、いつでも、軍需工場に徴用してはたらかせることになったのです。
いつ戦争にひっぱっていかれるか、という不安のほかに、
このときから、いつ軍需工場に徴用されるか、という不安が、国民ふえてしまいました。
国民を兵隊として戦地へつれていく召集令状は赤紙でしたから、これを「赤紙応召」といい、
徴用は青い色をした令状でしたから「青紙応徴」などとよばれました。

このころ、都会のめぬき通りには、
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」
という立看板が、町をいく人の目をひきました。

こうするうちに、1940年(昭和15年)の7月6日には、「奢侈品等製造販売制限規則」という、規則がだされたのです。
奢侈品とは、つまり「ぜいたく品」のことで、
たとえば、ゆびわ、うでわ、ネックレス、ネクタイピン、ベンダント、銀製の飲食器具、家具、装身具、絹レース、象牙製品などをはじめ、戦時下ではぜいたくだとかんがえられた品じながたくさんふくまれていました。
この規則できめられたものはつくらない、売らないという品じなですから、家のたんすやおしいれにしまわれてしまいました。

それまでの
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」という看板が
「ぜいたくは敵だ!」
と書きかえられました。

毎月一日を「国民精神総動員の日」ときめられましたが、1939年(昭和14年)の9月1日からは、
毎月一日を「興亜奉公日」と名をかえ、この日は国をあげて戦争に協力するとされました。

戦争に積極的な婦人団体はまちにでて、かつやくをはじめました。
東京では、銀座や新宿などのめぬき通りに進出し、目をつけた女性には、
華美な服装はつつしみましょうなどとすりこんだビラをつきつけるのでした。

農村では、若いはたらきてをはじめ、年のいったはたらきても「赤紙」で戦地へいき、
「青紙」で軍需工場にひっぱられなどして、労力がひどくたりなくなっていました。
そのうえ、工場では軍需物資の生産にいそがしくて、肥料や農機具の生産がへっていました。
あれやこれやで、お米の産額も、しだいにへってきました。

「節米運動」ではまにあいません。
そこで「代用食」をたべることになったのです。
うどん、そば、パンなどはいいほうで、
ジャガイモ、サツマイモなどをごはんにまぜたり、そのままたべたり、すいとんをたべたりするようになりました。

興亜奉公日の東京では、食堂や料理店はお米の食事をださないことにし、ふつうの日でも、売る時間を制しました。
飲食店では、昼間からお酒をだすことをやめ、あまい歌やアメリカ調・ ヨーロッパ調の歌のレコードをかけることもやめるようになりました。

そのころのレコードは、軍歌や軍国歌謡(軍国調の歌謡曲)がはんらんしていました。
それにまじって、道中ものとか股旅ものといわれる「やくざ渡世」の歌。
軍歌や軍国歌謡は、
政府(内閣情報局)
軍部(陸海軍省)
新聞社・放送局(NHK)が募集し選定して、レコード会社とむすんで国じゅうにひろめました。

 


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「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


国家総動員体制

国家総動長期化する戦争に対して政府は昭和12年9月軍事機密保持のため使途を明示しない臨時軍事費特別会計を設けて膨大な戦費調達をはかった。
そのため軍事費は歯止めがなくなり、財政の軍事化が進んだ。
また同年9月10日には軍需生産を優先させるため、軍需工業動員法の適用に関する法律を公布し、
同日に輸出入品等臨時措置法を公布し(戦時における貿易・物資統制の基本法)・臨時資金調達法等を制定し、
戦時統制経済を強化した。

このような中で 昭和13年4月1日国家総動員法を公布した。
これは議会の承認を得ることなく勅令によって戦争に必要な人的・物的資源を動員できるものであった。
これ以降勅令が、
国民徴用・価格等統制令・賃金臨時措置令・小作料統制令などつぎつぎと制定され、
労働力・資金・価格・報道など全てのものが統制され、戦争に動員されていった。
議会は形骸化し、軍部が実権を握り政府の力は強まっていった。

このような軍事力強化の政策は物資・労力を不足させた。
そこで政府は生鮮食料品などに公定価格制を導入し、
ついには配給制度・切符制度を実施して消費の抑制制限を行った。

昭和13年7月4日『合同新聞』によれば、浅口郡の産業組合郡部会では「産業組合報国貯金」と銘打って各組合の貯金割当額を示し、 
占見2万8千円、金光2万6千円が割り当てられている。
同年12月21日の同紙は「農家貯金激増 農家は朗らか」と伝えている。

同年5月1日にはガソリンが配給制になり、 木ガスで代用することを奨励し始め、木炭自動車がみられ始めた。
農家にとっては重要な化成肥料が配給制になった。
浅口郡では昭和15年7月20日から砂糖が切符制となり、
マッチは1日1人4本の切符制が実施された。


また、この年頃から金属献納運動が始まり、
金光教本部でも全国の教徒に対して「退蔵金属献納運動」を呼びかけたと報道された。 
このような戦時体制のもとでは輸出産業は壊滅するのは当然であった。
昭和13年3月15日の『合同新聞』によると
「バンコック帽子輸出全く頓挫す 全工場の打撃甚大」と報じ、
婦人・子供の作業も入っていた家内工業が壊滅していく不安を伝えている。

翌昭和13年1月30日には、金光町軍人後援会主催による「時局講演会」が金光小学校遙南講堂にて行われた。
このような時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

 

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「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 

国家総動員体制


昭和12年に各市町村に銃後会・軍人後援会・恤兵会・軍友会などの組織が相ついで結成された。
この年11月には 備後地方3市10郡8万人を統合して大日本国防婦人会福山支部が発会し、「銃後の力」になることがうたわれた。
13年には福山高女勤労報国団、福紡福山工場の防諜団紅眼、
14年に福山警防団、
15年には福山市銃後奉公会・福山地方産業報国連合会などが結成されている。
これらのうち銃後会は、急成長したために、各地に専任の職員がおかれるに至った。

銃後会や後援会はおおむね市町村長が会長、
学校長が副会長となることが多く、有力者を幹部として市町村をあげて組織運営された。

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「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

銃後奉公会の設置

日中戦争勃発以後、県下各地に銃後後援会・軍人援護会などが生まれてそれぞれ活動していたが、
戦争の長期戦の様相をみて軍部と政府(内務・厚生省)は銃後団体の統一を市町村を単位にはかろうとした。
岡山県は1939年(昭和14)1月、市町村に対して銃後奉公会の設置を通達した。
会長は市町村長、部落代表者・各種団体代表者を評議員に、市町村内の世帯主を会員として、町村補助金・寄付金・会費をもって、
兵役義務心の高揚、隣保相の道義心の振興、現役・準召傷痍軍人や留守家族の援助、労力奉仕や家業の援助、
弔慰と慰問、軍事思想の普及などの諸事業を達成しようとしたものであった。

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昭和12年【国民精神総動員運動】が始まる

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和6年(1931)の満州事変で、戦時心理が国民に植え付けられ、
昭和12年(1937)の盧溝橋事件で、”国民精神総動員”となり、以後昭和20年まで
戦時体制がつづいていった。

 

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「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 


国民精神総動員運動 

日中戦争開始後、近衛内閣が起こした戦争協力の教化運動として有名な国民精神総動員運動は、
県下では昭和12年(1937)10月13日からの第一回国民精神総動員運動週間でスタートを切った。
そして、その後さままざな強調週間が設定され、「一億の心に染めよ日章旗」などという標語を選定するなど、
多彩な行事が繰りひろげられた。
この運動は、「学校生徒児童勿論、男女青年団員、婦人会員、其他一般民衆」を対象とし、
市町村長・学校長・青年団長・婦人会長を推進者として、思想面だけでなく、
衣食住に至るまでさまざまな面から市民生活に統制を加えた。

この地方では、昭和12年10月18日に福山市で国民精神総動員県民大会が開かれ、 
翌年2月15日には沼隈郡青年団総動員大会が、2.000人を集めて松永小学校で行なわれた。
運動は人心収攬のために大きな役割を果たしたが、精神運動であっただけに、スローガン倒れに終わったり、
押し付けがましさによる反発も少なくなかった。


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「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行


国民精神総動員運動

昭和12(1937)年7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。
これにともない、 岡山県(伊藤武彦知事)は、7月20日県知事諭告(第三号)を発し
「国民心を一つにし、愈忠君愛国精神を発揚し、銃後の支援を完うする」よう県民の奮起を促した。 
そうして、同年7月30日、岡山県国民精神総動員実行委員会規程を設けこれを実施することとした。
実行委員には、
官公庁職員、
市町村長、
各種団体代表、
通信報道機関代表、
教育家、
宗教家、
社会事業家、 
実業家その他民間有力者が選出されたが、
その運動実施要項の市町村に関する事項には、
実施計画の樹立実行、各種団体の動員、講演会・協議会・映画会等の開催、軍事扶助団体、勤労奉 仕団体等の活動促進が含まれていた。
これと前後して、金光町では、同年7月28日、平田良平町長のもとで緊急町会を町役場で開催、
「充員応召者ならびに鮮満部隊慰問に関する件」を可決した。

時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

昭和14年11月、岡山県は国民精神総動員運動をさらに拡大強化するため、
市町村・町内各地区・職場などを単位とする実践網組織として、
それぞれ常会を開いて各種協議を行うよう指示し、県下各地で指導者講習会を開催し、趣旨の徹底を図った。
県の指導した常会の組織要項には、
常会月例会の開催、
また常会の組織としては、市町村常会、部落(区) 常会、町内常会などがあった。
町常会は、町長の下で月一回開催、各種委員会関係者、各種団体代表、部落代表者その他指導的人物に集合が掛けられた。

当時の常会では、
特に精神作興(神社参拝、宮城遙拝ほか)、
簡素生活実践(生活の切下、各種儀式の簡素 化、節酒ほか)、
消費節約(節米、燃料節約ほか)、
物資愛護(廃品回収ほか)、その他生産力拡充、勤労増進、 体位向上、戦時貯蓄、銃後後援の徹底などが協議されたことが報告されている。
この時期の常会の慣行は、外形的には戦後の今日まで各区で続けられている。


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「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行


 昭和12年「国民精神総動員運動」の展開

県実行委員会の発足
1937年(昭和12)9月24日、岡山県国民総動員実行委員会が結成され、翌日、委員70人の委嘱が県知事より行われた。
国民精神総動員運動は、日中戦争の全面化にふみきった第一次近衛内閣が国民の思想的統合と団結をはかり、
国民を自発的に戦争体制に動員しようとした思想運動であった。
すでに中央では、9月11日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、
またその後、10月12日に至って国民精神総動員中央連盟が結成されて全国的に推進されることとなった。 
県民130万人を結集し、一大精神運動をはかろうとする同会には、内務省から4574円、文部省から5127円、計9746円が支給され、
委員には
重要官公庁職員17人、
市町村長6人、
貴衆両院議員4人、
県会議員2人、
各団体代表者16人、
通信報道機関代表者5人、
教育家9人、
宗教家4人、
社会事業家4人、
実業家3人、
以上70人であって、表面的には民間人中心の運動という体裁をとっていた。


国民精神総動員週間

1937年10月13日から19日までの一週間、全国的に国民精神総動員週間が設定されて、日本精神の高揚がはかられた。
13日夜には、
岡山市公会堂で講演と映画の会が開かれ、
知事の「国民精神総動員について」 
小谷代議士の「北支軍閥の消長を語る」、
呉鎮守府海軍大佐の「今次事変と国民の覚悟」の講演
とニュース映画があり、精神総動員の趣旨が県民に対して強調された。

この強調週間には、県下各地でいろいろな団体による取り組みがなされた。 
岡山市連合青年団では、青年団・女子青年団・婦人会が中心となって2.000人の団員を総動員することに決定し、
次の事業を計画・実行した。
すなわち、
13日を「時局生活の日」として時局講演会へ参加する、
14日を「出征将兵へ感謝の日」として正午サイレンを合図に一分間黙禱する、
15日を「非常時経済の日」として金品節約による金を献金する、
16日を「銃後の守りの日」として町内・学区内の遺家族を訪問して家業を補助する、
17日を「報国勇士を讃へるの日」として奥市招魂社に参拝する、
18日を「報国の日」として町内学区内の神社・ 仏閣・街路などの美化作業をする、
19日を「非常時心身鍛錬の日」として学区別に小学校でラジオ体操をする、などの諸事業を行った。

岡山県庁では強調週間に協力するため、知事以下800人の職員が、
毎月一日神社参拝をして皇軍の武運長久を祈る、
毎月一日と十五日を「出征軍人の労苦をしのぶ日」として「日の丸弁当」を用意して生活を簡素にする、
愛国貯金を励行する、など申し合わせて実行することを誓った。


女子義勇隊

1937年11月になると、銃後の守りを強固にする新しい団体として、
女子青年団・婦女子義勇隊の編制と新しい対応人会を統制して市町村単位に女子義勇隊を編制することが行われた。 
地域によっては数斑に分け、防空・防火訓練を柱に、平時・戦時両時の構えで公共奉仕の精神と技能を体得することが行われた。
 
愛国婦人会や国防婦人会も国民精神総動員への対応をはかっていった。
愛国婦人会岡山市分会は11月7日岡山市公会堂で総会を開催し、
日本精神の高揚、非常時における国策遂行の貫徹、銃後における国力の根幹の培養に励むことを宣言し、
夜は出征軍人の慰安会を挙行した。
「非常時突破は銃後から、銃後は婦人の力から」をスローガンに結成された国防婦人会も、
1937年11月には県下に407分会・会員数18万に達し、県下3市・380余町村中で未設置町村は15町村に過ぎなくなっていた。
この間、県内の国婦活動は、
1銃後の守りを堅固にするための婦人国防、
2軍人遺家族の救護、
3傷病兵の慰問、
4出征凱旋勇士の歓送迎などの任務に励んできた。

 

・・・

 

 

 

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兵の見送りと帰還

2024年07月18日 | 昭和11年~15年

岡山県小田郡城見村の場合は、
城見小学校で村民あげて”ばんざーい”。
小学校から村境(岡山県城見村・広島県大津野村)まで祝出征の行列。
濃い親族のみ、そのまま大門駅まで送っていく。

帰還兵の時は、
出迎えもなく、儀式もなく、静かに自宅へ帰っていた。

 

・・・・


「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

日中戦争における出征歓送には専門集団が出現した
国防婦人会である。
その組織は、いわゆる“非常時の時代に軍隊支援ボランティアとしてつくられた。
日中戦争を意識したほどではないが、出征、帰還等軍隊移動の歓送迎、奉仕のために駅と港に出動することが多かった。
それは、ことさら意味が深く考えられるわけでもなく、 歓送される軍側からは、その世話を兵士が喜ぶという意味で歓迎された。
逆に主体となった主婦層からは、社会奉仕のために家から出る機会としてスムーズに受け入れられた。
やがて、日中戦争が予期される時期になると、在郷軍人会を通じて精力的に各町村に国防婦人会の結成が促された。

国防婦人会が見せた見送りパフォーマンスの威力は、この時、日本全国をゆるがせたのであった。 
こうして出征における見送りの構造が、別れの悲しさと戦争に対する国民の支持を内包しながら定着していく。 
出征見送りには戦争に出て行く者と送る者を分けた構造ができあがる。
在郷軍人は出て行く者に区分けされることになった。
たとえある日は送る側にいたとしても、いつかは出て行く戦士の本当の予備兵になったのである。
これが日中戦争における見送りの構図であった。
したがって、在郷軍人の役割も平時とはちがったものになった。
在郷軍人はもはや銃後の構成員とはいえな くなった。
逆に、国防婦人会はここで代表的な銃後構成員になった。


・・・・


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

招集令状

動員という用語がある。
軍隊の編成や機能を平時態勢から戦時態勢に移すことである。
戦事又は事変に際し、軍要員を充足するために、在郷軍人(補充兵役者を含む)を起用するために用いたのが召集令状である。
我が国の兵役制は、必任義務制度であり、国民皆兵が義務づけられていたので、昭和初期以来の各種事変においてはもちろん、
大東亜戦争における、いわゆる「根こそぎ」動員も円滑整然と実施することができた。
したがって、召集事務に携わる者は、中央部の関係者から、連隊区司令部及び市町村の兵事係に至るまで、
事務処理の完全を期するよう全精魂を傾注したのである。
最後の段階まで召集事務が一糸乱れず厳正かつ整然と、実施できたこことは天晴というほかはない。


陸軍召集規則に定める召集の種類は次のとおりであった。
充員召集とは、動員に当たり、諸部団隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
臨時召集とは、定期的な年度の動員によることなく、臨時に編成する諸部隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
補充召集とは、充員召集実施後欠員を補充するため、在郷軍人を召集す
国民兵召集とは、国民軍を動員するため、国民兵を召集すること。
演習召集とは、演習のため在郷軍人を召集すること。
補欠召集とは、平時において臨時に兵員の補欠を要するとき、帰休兵を召集すること。
点呼とは、予備後、後備役下士官兵、帰休兵及び第一補充兵を集めて点検査閲すること。

明治23年(1890)10月30日、教育勅語が発布され、日本臣民の道徳観の基礎が確立されてから、
大東亜戦争終結まで、国民はこれを公私にわたる修養研さんの努力目標として、常住座臥忘れることはなかった。
特に「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ・・・」と明確に諭されていたことは、国民ひとしく身にしみて体得し、
兵役に服することは個人の名誉、家の誇りとして祝福し、
応召者に対しては、近隣郷党をあげて、その武運長久を氏神様に祈願し、
「祝○○君出征」の幟を先頭に村境まで見送り、万才をもって壮途を祝福した。

・・・

(父の出征記念写真・昭和12年)
(4人兄弟のうち2名健在・令和6年)

 

・・・・

「広瀬村誌」(福山市加茂町)  広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行

昭和12年(1937) 7月盧溝橋事件に端を発した事で、 
広瀬村にも49通の召集令状が同年7月27日にきた。 
翌28日に応召者の武運長久の祈願祭を龍田神社で挙行した。 
その後、戦局の拡大に従って、度々召集令状が送達され、多数の若人が出征し、多くの戦傷者が出ることとなった。

・・・・


「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

地域婦人会の国婦化

1937年(昭和12)7月19日より開始された合同新聞社の「北支皇軍慰問資金」は、
9月7日には4万5.000円の巨額に達した。
このころになると、国婦の出征見送り、愛婦・愛国子女団の千人針の活動に刺激されて、
地域の婦人会も市内に繰り出して、いわば国婦型の活発な活動を始めた。


・・・・


「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


盧溝橋事件
兵の見送り


召集令状すなわち赤紙が本人に届けられると、まずその本人と家族に衝動と緊張が生まれる。
また、本人の 近隣の家々にもすぐに伝えられた。 
出征の宴が近隣によって行なわれるからである。

以後はその応対や村や分会で準備される祈願行事などでスケジュールが一杯になるのが普通の習わしである。 
出征行事というのは実に忙しいのである。
ちょうど、結婚式や葬儀の行事に比肩されるが、時間的にはその慣習より忙しかったかもしれない。

市町村役場は召集業務が終わると
出征する在郷軍人を見送るイベント準備とその業務にとりかからなければならない。
そのためには在郷軍人分会への連絡から新設の国防婦人会にも連絡をとらねばならない。
あるいはこれと肩を並べる愛国婦人会、青年団などもある。
また、学校への連絡も必須事項である。 
これらの諸団体が、それぞれの市町村の立地条件に応じて、神社、学校を会場に設定して武運長久祈願祭と町村民集会を兼ねるイベントを開く。

終わると、駅などの見送り地点までの行進を計画する。
在郷軍人は少数でも出征兵と同僚格で、青年学校生徒、青年団がこれを補完する。 
小学校児童がつづき、国防婦人会などの婦人団体が彩りをそえるというのが村の基本形なのである。
こうした見送りの計画、実施にあたっては連隊区司令部の指示に従わなければならない。
なぜなら、見送りには軍事動員に関する二律背反的な二つの課題があったからである。
それは秘密動員でなければならないという防諜上の要請、
それに対してできるだけ盛大な国民の支援・熱誠を盛らなければならないという相反する要請である。

結局、1937 (昭和12)年夏の動員は後者の国民の熱誠、村人の盛大な励ましが優先された。
突如始まった全国津々浦々の赤紙の祭りは、出征軍人に捧げる祈りにもなり、
国威宣揚大会になり、軍隊支援になった。
つづいて国防献金も満洲事変にも増して始まった。
銃後後援がシステムとして動きだした。
こうした激動の受益者が軍隊であったことはもちろんである。
国防婦人会の露出度がふえると軍隊支援団体も強化されたかの印象を与えた。
軍隊支援はそのまま軍部のイニシアチブの強化につながった。


後述するように、1941 (昭和16)年には、この日中戦争開始時とほぼ同じ規模で大動員が行なわれた。 
この一つの経験は、動員史の中で忘れることのできない、最初で最大の秘密動員になり、
赤紙を受けた応召者はまわりのだれにも言えず、夜になって村を出て行くみじめな出征になった。
その暗い経験はいまもなお涙ながらに語られているのである。

 

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 
帰還兵のわびしさ・帰還兵の待遇

 

祭りのように騒いで送り出した召集兵の帰還に際してやはり祭りを催して歓迎したであろうか。
日露戦争の凱旋は各市町村が飾りで凱旋門や塔を建てて迎えたのであった。

しかし、日中戦争途中の帰還兵を待っていたのはきわめて冷たい出迎えだった。
思い出してみれば、シベリア出兵の時の帰還兵の扱いも同じだった。
軍部と為政者は、戦地で社会主義の影響を受けなかったかに神経をとがらせていた。
ちょうど日本でも労働運動や小作争議が激しくなっていた時と重なっていた。
帰還兵たちには嬉しい帰国のはずが、当局から思想調査をされ、熱狂的な歓迎を受けることはなかった。

日中戦争の帰還兵にも同じような待遇が待っていようとはつゆ思わなかったにちがいない。
彼らも帰国とともに言動調査を受けている。
今回は社会主義ではなく、軍紀を基準にした言動調査で、
盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水を差すような実戦談をされては困るからである。

大本営が出動部隊の一部交替整理を発表したのが1938 (昭和13)年2月18日。
前線では兵たちがこれで帰還できるやもしれぬと希望をもったという。
だが、まだ新たな出征のつづくさなか、多くの兵たちには夢物語でもあった。
思わぬ反応に、陸軍省兵務局長は内務省警保局長にあてて「帰還兵ノ輸送間ニ於ケル歓送迎ニ関スル件」を通知し、
歓送迎は精神面だけに止め、
「形式的事項ハツトメテ之ヲ抑制」と要望した。
連隊区司令官もまた県市町村に派手な出迎えがないように指示し、
市町村では結局、
出迎えは団体代表者一名のみ、
歓迎会は廃止、
楽隊は絶対禁止
という体制に落ち着いた。
わびしい帰還になったのだ。

ある連隊では、帰還後一般国民との会話問答集を印刷して配布している。
たとえば、「支那軍のデマ宣伝」の質問があれば、
「確乎たる国策を知つている日本軍には心を動かされる様な者は居ない。
・・・・・ いざとなれば吾を忘れて突進出来る大和魂がある」という模範回答。
それでも、微発に関しては「現地で牛や鳥を取って食ひ、野菜物なんかも探して食ひます」。
物資は豊富なのですか、の問いには「広いですからね」というような回答が用意され、
現在の歴史評価には耐え得ないような模範会話もある。


軍指導者がもっとも気にかけたのは、戦場における兵たちの軍紀の乱れであった。
帰還兵だけが知っていて、国民が知らないことである。
これについては、戦後初めて見ることのできた軍の機密文書で、戦地での軍紀違反が少なくなかったことが知られる。
これらの事態に対処するために1941 (昭和16)年初め、
陸軍大臣は「戦陣訓」を布告した。 
その真の狙いは、戦陣にあってしてはならないことを短く、箇条書きにして兵たちに配布することであったという。
ところが、その作成過程で、軍人勅諭に代わるような箇条が加わってしまったらしい。
有名な「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の文言も入れられた。
当初の目的からそれて、格調の高い文章に変身した。
この戦陣訓が戦争末期の玉砕をもたらし、あまりにも多くの兵たちを報われない死に追いやったのだった。

 

 

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南京占領

2024年07月14日 | 昭和11年~15年

昭和12年12月、上海から上陸した日本軍は首都・南京を占領した。
日本中は祝賀一色、全国各都市では旗行列・提灯行列が行われた。

この戦で、
中国江南地帯に発達しているクリークでの戦線に苦慮した日本兵は、
南京へ入城後、開放感から軍規が乱れ、多くの子女を殺害したとされる。
この情報は世界中へ流されたが、日本国民だけが知らなかった。
戦後になって知り、指揮官は東京裁判で死刑になった。

 

・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、
待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前や、大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。
しかし、南京ではその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒へとつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。


南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師たちによって世界中に伝えられていた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみにでるまでその事実を知らなかったのである。
 犠牲者の数は、いまだ明らかでないが東京裁判では
”南京占領後、二三日の間に、少なくとも1万2.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、
一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子2万が集団で殺され、さらに捕虜3万が降伏して72時間以内に殺され、避難民のうち57.000が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり殺されたりした”
とされる。
中国側では30万人とみているようである。
 馬上堂々南京入場式の栄光を背負った中支方面軍司令官松井岩根大将は、東京裁判で、また攻略戦に参加した第6師団長谷川寿夫中将も、南京法廷で、この事件の責任を問われ処刑された。

・・・

「南京城攻撃開始12月12日」(毎日新聞・一国人の昭和史)

 

・・・

 

「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

南京占領は、もうひとつ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。

 

報せをきいた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議し、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。 
また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、
「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、わるいことするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起ることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入させることにし、
軍規の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守られなかった。

松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下に在る朝香宮と柳川平助中将の二人の軍司令官、
さらに、その下の師団長たちに在る。
柳川は、もともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべて皆敵」と、はげしく戦意をかき立ててきた将軍であった。
また、師団長の中には、第十六師団長の中島今朝吾中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせていた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。

日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
と、軍規の自粛を申し入れた。
朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ十日と経たない中の出来事であった。
南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、
殺人・ 強姦・掠奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げおくれた約二十万の市民が外国人居住地区に避難。
ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。
残虐行為はこの地区の内外で起り、
これを日夜目撃した外人たちは、
その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、
各国に公表。
日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。

現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、
事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。
このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、
二月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮軍司令官はじめ80名の幕僚が召還され。


現地南京では、ようやく軍規の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。
さらに中国奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。
そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上る。
それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。


ただ、このころになって、参謀本部がにわかに和平交渉に執着を持ち出した。
もともと参謀本部内には、対ソ決戦に備えるため中国への深入りを避けようという一派があり、
この対ソ派の突き上げが 強まったためである。
陸軍は相変らず双頭の鷲であり、「二本軍」であった。
陸軍省と参謀本部の意見がちがい、
しかも参謀本部はつい最近まで条件の加重に賛成していながら、この段階になって修整をいい出す。
閑院宮参謀総長が参内し、あらためて対ソ防備の必要を言上されると、
かえって、天皇に、「そんなら初めから、中国と事を構えねばよかったのだ」と、たしなめられる始末であった。

こうして、16日には、「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」という政府声明が発表された。 
外務省においては、「否認」とか「国交断絶」とかのはっきりした形をとらず、当座は無視するという意味で
「相手にせず」という言葉を選んだのだが、
しかし、時の勢いの中で、近衛はこれを「否認よりも強い断手とした決意を示す」という説明をした。
和平交渉の望みは消えた。

陸軍は、「万歳」の声をあげながら、南は広東めざし、また奥地の漢口めがけて、進撃を続けて行く。
止めようもない大日本帝国の落日のはじまりである。

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


南京大虐殺事件


戦火は華北から上海に飛んだ。 
8月15日、海軍の渡洋爆撃隊は台湾の基地から長駆南京をおそい、
23日、松井石根大将指揮下の上海派遣軍の二個師団が上海に上陸した。
上海上陸戦は、はげしい抵抗とクリークにはばまれ、戦闘は9,10月の2ヶ月にわたった。
そして11月5日杭州湾に上陸させて上海の中国軍戦線の背後を突き、ついに11日上海全市を占領した。
それ以後、南京にむかって日本軍は一気に 進撃し、12月10日南京を占領した。
南京入城にあたって、日本軍は捕虜はもとより、一般市民数万人を虐殺し、略奪暴行の限りをつくした。
虐殺された中国兵・市民の数は5万に及んだ。 
その惨状は、アメリカの新聞記者 エドガー・スノーによって、次のようにしるされている。
「日本軍は12月12日、南京に入った。
その時なお中国軍や市民は唯一つ残された城門を抜けて揚子江の北岸に退こうとしていた。
極度の混乱の光景が続いた。
数百万人の人々が川を渡ろうとしている時、日本軍飛行機の機銃掃射を受けたり、溺死したりした。
また数百人の人々は下関の城門に通ずる陸路で捕えられ死屍累々として四呎も積み重ねられた。
・・・ ·南京虐殺の血なまぐさい物語は今や世界にあまねく知れ渡っている。
日本軍は南京だけで4万3千人以上の市民を殺した。
しかもその大部分は婦人子供であった。
上海、南京の進撃中に30万人の非戦闘員が日本軍に殺されたと見積られている。
それは中国軍隊が蒙った損害とほとんど同数のものであった。
 ・・・約5万のこの城内の軍隊は、近世にどこにも見られなかったほどの 強姦、虐殺、略奪、
その他あらゆる淫乱の1ヶ月余を過したのである。


1万2.000戸の商店と家屋は、あらゆる商品と家具類を略奪された後、放火された。
市民はすべて財産を奪われ、日本の兵士と将校は、それぞれ自動車や黄包車、その他の運搬用具を盗み、
これで彼らの略奪物を上海へ運んだ。
外国の外交官たちの家々も侵入され、使用人は殺害された。 
兵士たちは、彼らの欲するままに行動した。 
将校たちは、自分も参加するか、あるいはかかる部下の行動を、被征服民として中国人は”特別の考慮”を受ける権利はないとの弁明をもって許した」。

この事件は世界に大々的に報道された。 
しかし、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件はまったく知らされることはなかった。
南京陥落の日、東京はじめ各都市ではバンザイ、バンザイの声が叫ばれ、
一晩じゅう提灯行列の火がえんえんとつづいていた。

 

・・・・

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日中戦争 「弱いシナ」と「暴支膺懲」

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。
なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。
開戦理由を強いて言えば、
”日本軍の面目”と、
”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。
どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、
今からみると、歴史上の日本の汚点。

亡き父は、
「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」
と言っていたが、その言葉からも悪いことをしていた意識はあったようだ。
父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、
もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。
道路は持って日本には帰れない。

 

・・・

 

「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

日中戦争と郷土部隊

盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、
いわば偶発的事件であった。
といっても、日本軍を弁護しようというのではない。
日本軍による満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、
中国は、いつ何時でも、日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。
ここでは、この偶発的事件を、あの泥沼の日中全面戦争へと展開させたものは何であったのかを、問おうというのである。

たしかに日本資本の華北における市場と資源を独占しようとする要求と、 
他方における中国の抗日民族闘争の高揚が、その基礎にあったことは間違いない。

だが、それに加えて、
「要するに日本軍の面目さえ立てばよいので、かれらに日本軍に戦闘意識がないとか、叩かれても平気でいるとかいわれたくないので、軍の威信上奮起した」(大隊長・一木清直少佐)、
あるいは「我軍の威武を冒するも甚だしい」ということで、「全部隊に戦闘開始の命令を下した」(連隊長・牟田口廉也 大佐)というのである。
現地指揮官は、日本軍の「面目」や「威信」のために戦闘を開始したのであって、実際に損害を受け危険が迫っていたとか、戦略・戦術上必要であったからというのでは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情が、そしてそれは裏返して言えば、中国人に対するこれまた非合理な侮蔑意識が、
日中全面戦争の起点にあったのである。

同じ日、軍中央では、
「三個師団か四個師団を現地に出して一撃を食わして手を挙げさせる、そうしてばっと犬を収めて[中略]一部の兵力を北支に留めて置けば大体北支から内蒙は我が思うようになる」という拡大派が、
対ソ戦準備を第一義とする不拡大派を押さえて大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもとに、華北への派兵を決定、
事件拡大に大きく踏み出してしまっていたのである。

中国における抗日民族統一戦線結成への大きな展開を、何ら客観的に認識することなく、全く根拠のない
非合理的な優越意識が、軍中央ならびに政府をもとらえていく。
近衛内閣が、8月15日に発表した政府声明は、
「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」 という、極めて道徳的で感情的な戦争目的をしか揚げることが出来ず、
ついに客観的で具体的な戦争目的は提示し得なかったのである。

ところで、以上に見てきた近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、
万世一系の天皇を頂点とする日本国家=国体こそが「真善美の価値内容の独占的決定者」であるという意識である。
そこでの軍事的な優越感は、客観的な軍事そのものに即しての比較 からというよりは、
倫理的道徳的な優越感として意識されている。
下の者に侮辱された、あるいは下の者を懲らしめるというイメージで語られているのである。
南京攻略作戦の中支那方面軍司令官松井石根大将の次の言は、盧溝橋事件に始まる日中戦争についての、
こうした認識の構造をよく示している。

抑も日華両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして......恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても
猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく其の之を悪むが為にあらず可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念にして

ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の果敢な抵抗で大打撃を被った上海戦の後、
行き当たりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は
「可愛いさ余って憎さ百倍」の狂気の結果であった。

 

 

・・・

「語り継ぐ昭和史(1)」  朝日新聞社 昭和50年発行

松本重治

四十年前の日本人の中国観――「弱いシナ」

みなさんに、まず、四十年前の事情を思い出していただきたいのです。

その事情の一つとして、当時の日本人の中国観という、特別のものがあったわけです。
それは簡単にいうと、 シナは弱い、中国は弱いという考え方です。
そういう中国観に基づいて、日本人には中国人を蔑視するという態度があったわけです。
弱い中国を強くして、中国を助けてやれ、という人も日本人のうちには一部はあった。
けれども、大体の日本人は、中国に対しては、料理はこっちがやるんだ、なんでもやっていいんだという考え方、
つまり「弱いシナ」というのが当時の日本人のだいたいの中国観でありました。
この「弱いシナ」という中国観には、いろいろの理由が考えられます。
それには西欧先進国による中国の植民地化、日清戦争における清国の敗戦、その他がありますが、
日中戦争と関連しての中国観というものには、当時、中央政権の支配範囲が事実上非常に限られていたことと、
日本の関東軍や支那駐屯軍が接触した「雑軍」が存在していたことを忘れてはいけないと思います。
今日から約40年前に、「弱いシナ」という考え方を日本で特に強く持っていたのは、陸軍でありました。
ことに、それは関東軍であり、天津にいた支那駐屯軍でありました。


関東軍と支那駐屯軍とは多少任務が違うので、関東軍のほうは、「満州国」を防衛し、間接的に日本をソ連から防衛するということが任務でありまして、数個師団から成っていた。
天津にいた支那駐屯軍のほうは、昭和11年ごろまでは2.000人ぐらいしかいなかったのですから、その実力は関東軍のそれに比べると、 全然もう話にならんぐらいでした。
ものの本などには関東軍と支那駐屯軍と並んで書いてありますけれども、
片方は数個師団、片方は約二連隊、のちに増強されても、せいぜい一旅団あるかないかというような小さなものでした。
この現地陸軍をはじめ、当時の日本人全体に、「弱いシナ」という考え方が徹底的にこびりついていたことが、日中が全面的に衝突した最大の原因であったと私は思うのです。
これにはまた歴史があるんです。
その当時からさらに50年ほど前の日清戦争日清戦争というのは、みなさんが生まれる前だったんじゃないですかね。
ぼく自身も生まれていなかったんですから(笑い)。その日清戦争で日本が勝ったために、日本人は中国人のことを、「チャンコロ」とかまた「チャンチャン坊主」とかといい、全く馬鹿にしていた時代があったんです。 
日清戦争のころは、相手は清朝が支配していた清国です。 
清朝というのは、ご承知のとおり、満州民族が建てた封建的な政権でありました。
漢民族は、大体、当時通称の「支那本部」にいて、満州民族と蒙古族の一部とが満州にいたわけです。
その満州人が北京にやってきて天下に号令したのが清国なのです。 
初期には康熙乾隆の二帝のごとき明君が出て、国威を高めましたが、その後は暗君が相次いで 帝位につき、国力も弱まって行き、清国は、日清戦争で負けたくらい弱い国となっていました。
し かし清朝の朝廷では、すばらしく格式が高く、また漢民族の優秀な人々をも登用したが、近代国家 として清国をもり立てるには、すでにあまりにも弱かった。
「弱いシナ」というのは、第三国にも ずーっと認められていた。第三国の外交官が清朝の政府との話し合いのときは、おまえのところは 弱いなんていわないんで、やはり、あなたのお国もけっこうですというわけで、いちおう対等には やっておったんです。 
けれども、内心はみんな、「弱いシナ」「眠れる獅子」「老大国」というよう なことを思っていたわけです。

 

国民革命の運動と第一次国共合作

この弱い清国を強くして、なんとかして民主主義的な近代国家をつくらなきゃならん、ひとつ漢民族の青年が運動をやろうじゃないかというので、
革命を考えた先覚者の一人が、ホノルルで医学勉強していた孫文でありました。
けれども、いくら革命的行動をやってみても、失敗ばかり続く。
この孫文を終始助けたのが、民間の頭山満だとか、宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟、萱野長知、犬養毅とかいう人たちでした。 
しかし残念ながら、それは日本のごく一部の人にすぎなかった。

当時の日本人全体としては、なんとでも料理のできる「弱いシナ」というような固定観念があったのであります。
中国では、清朝を打倒して、弱い中国を強くしようという漢民族の青年のグループは、孫文だけでなく、方々にあったわけです。
漢口へんにもいました。
みなさんもご承知だと思いますが、黄興という人が湖南にいた。
孫文も黄興も、同じように革命青年を指導した人でありますが、この二人、初め仲があまりよくなかった。
二人を東京に招いて握手させたのは、さっき申しました少数日本人の一人、宮崎滔天なんです。
二人が握手してつくったのが、普通、「同盟会」ということばでいわれている国民革命同盟会(のちに中国国民党と改称)で、
これは1905年(明治38年)に東京で組織されたわけです。
それから孫文は広東に帰り、また、南方の華僑にアピールして金を集めたり、世界じゅうの華僑にアピールしたりしたわけです。
日清戦争で清国が負けると、清朝ではだめだと自分たちも考えて、なんとか革命を起こして国を 興さなきゃならんと考えたグループのほとんどは、日本への留学生でありました。

・・・

 

 

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昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。
ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、
西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、
1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。

・・・

 


「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


第二次世界大戦

第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。
日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、
近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、
何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

・・・


「太平洋戦争」  世界文化社  昭和42年発行

 
昭和12年(1937)7月7日、日本の支邦駐屯軍(天津)のある中隊が、盧溝橋付近で宋哲元の率いる一部隊と衝突した。
事変の口火は諸説あって、今日もなお謎に包まれている。

当時陸軍中央部では、ふしぎなことにまだ中国に対する作戦方針が一定していなかった。 
部内の積極派の連中は、中国は一撃を加えればすぐに屈伏すると考え、それに必要な兵力は7個師団ぐらいで十分だとみていた。
それに対し事変不拡大派は、昭和16年(1941) までを目標に、対ソ戦の準備のために満蒙資源の利用を含む軍需工業の五か年計画を推進中であり、
長期消耗戦になる可能性を多分にもち、少なくとも15個師団を必要とするであろう中国との戦いには絶対反対だった。
まして昭和10.11年にかけて、急速に極東軍備を充実させたソ連の動きをみては、それはなおさらのことだった。
一方、このときの近衛文麿内閣は、この際禍根の根源を将来に残さないように徹底的な解決を行なうべきで、姑息な妥協は極力排撃すべきだとして、意外に強硬だった。

昭和12年の末には、逐次投入”という拙劣な方法で中国大陸に運ばれた兵力は16個師団、約70万を数えた。
そしていちおう戦術的な勝利を繰返していたものの、占領地域は平津(北平=北京と天津) 地方と揚子江下流を中心に、 
大都市間をつなぐ鉄道沿線の点と線に限定され、
しかもその連絡線はいつも中国側のゲリラ攻撃の脅威にさらされていた。
一方、ソ満国境では 5個師団基幹の関東軍が、4倍以上の兵力をもつソビエト極東軍とにらみあっているというのに、
中国との戦いを短期決戦で終結させる望みはなく、まさに泥沼に足をつっこんだような状態であった。

 

・・・


「大陸の戦火」  研秀出版社  平成7年発行

 
盧溝橋の銃声

昭和12年7月、盧溝橋にひびいた十数発の銃声は、中国侵略の野望をむき出しにした日本に対する、中国の抵抗ののろしだった。
日清、日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを得た日本は、西欧列強の中国侵略競争の一員に加わった。
列国の帝国主義的侵略に対する中国人民の最初の反抗が義和団の蜂起だった。
しかし、英仏日など八か国の連合軍は、北京を包囲し 義和団をした。
2万の大軍を出兵した日本は、賠償金のほかに、清国から北京公使館護衛の名で軍隊の駐屯権を獲得した。
これが、 36年後に、盧溝橋事件の主役を演じた日本の支那駐軍の出発点である。

中国の革命運動家や知識人は、日本を明治維新によって近代化をなしとげたアジアの先覚者と評価し、
日本が、中国を植民地化している欧米の勢力駆逐に手をかしてくれるものと期待していた。
しかし、日本は侵略者として中国にのぞんだ。
裏切られた中国の怒りは反日、 抗日の大きなうねりとなった。
21条要求、山東出兵、満蒙独占の野望の下に傀儡国家満州国でっちあげ、更に内家から華北へと、日本の中国侵略は露骨となっていった。
中国では、共産党の抗日救国のアピールが民族の共感を呼び、日本の侵略に抵抗する統一戦線が軌道にのってきていた。
こうした状況のもとで、盧溝橋の銃声がなりひびいたのである。
誰が最初の一発を撃ったかはもはや問題ではなく、遅かれ早かれ、日中いずれかが発砲する状況にあったのである。
事件は一時現地解決なるかと思われたが、7月11日、近衛内閣は拡大を決議 北支事変と称し、 
28日、日本軍は総攻撃に移って北京、天津地区を制圧した。 
8年という長期戦がこれからつづくのである。

 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
全国民は今か今かと吉報に胸を躍らせ全神経を「陥落」の二字に集中している。
この異常の緊張裡にさんさんたる 日の出を迎えた7日、
市内の各官庁、銀行会社につとめる人達は、いつもより皆早目に出勤、「号外」と共にいつでも旗行列、提灯行列に出勤できるよう待機・・・ ・
神田や銀座の「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい......(12.8付東京日日新聞)と伝え、
さらに同日夕刊は、 
待ちきれなくなった帝都市民は一足先に陥落を決めてしまい、7日夜は銀座も浅草も新宿も興奮のるつぼと化し、
ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
祝杯はこちらでといわぬばかりにカフェー街はここを先途の満艦飾オール銀座は大勝と皇軍への感謝に陶酔〟
という具合であった。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、
東京ではそれから3日3晩、旗行列や提灯行列が宮城前や大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。

しかし、南京ではまさにその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒とつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。

 

南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。 
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師達によって世界中に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみに出るまでその事実を知らなかったのである。
犠牲者の数は、いまだに確かでないが、東京裁判では、南京占領後、2~3日の間に、
少なくとも12.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子二万が集団 で殺され、さらに捕虜三万が降伏して七二時間内に殺されまた、避難民のうち57.000人が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり、殺されたりした"とされた。
これは、当時南京大学教授で、東京裁判に証人として出廷したベーツ博士の証言にほぼ近い数字だが、 
実際にはもっと多くの犠牲者があったとされ、現在中国側では30万人と見ているようである。

 
・・・

もう一つの部隊
從軍慰安婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍には正規軍のほかにもう一つ、従軍慰安婦という“女性部隊”がいた。
彼女たちは銃こそとらなかったものの、戦闘で疲れ、すさんだ兵士たちの心を”慰安”するという、哀れにもまたけなげな "使命”をおっていた。
軍が従軍慰安婦制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦を重ねるのを押さえ、
また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、
軍首脳は軍の厳しい管理下に“慰安所"を設けることとした。

11月中旬、軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。 
「前渡し金1.000円、これを全額返済終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に配属された。 


・・・・・
 

「福山市史・下」  福山市史編纂会  昭和58年発行

日中戦争と四十一連隊 


昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日、第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊も応召することになり、 
7月31日夕刻福山駅から出発していった。
第五師団の先頭部隊であった 四十一連隊は、朝鮮を経由して8月11日に天津に入ったが、
この後の転職状況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。


山田部隊3.000人はただちに臨戦体制に入り、
8月の長城戦、 
9月の○○城戦(←○○は字が読めない・管理人)戦死120名、
11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.200人武器など多数押収)を与え(死傷者16人)
12月13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊は、そのその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

昭和13年、
南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」部隊は、
1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
4月7日にはいわゆる徐州、
徐州会戦は歌に歌われ小説にも描かれてているように、なかなかの苦戦であったが、
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
 
・・・

こののち日中戦争は文字どおり泥沼化したが、
食糧難、武器不足、病気、 中国軍のゲリラに悩まされながら、軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ころまで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。 
福山では41連隊勝利の報がもたらされるたびに、小・中学生を中心とする旗行列が盛大に行なわれた。
夜に入ると大人たちによって提燈行列が行なわれた。
このころから、戦死者の扱い方に大きな変化がみられたことが注目される。

 

すなわち、戦死者は
「男子の本懐 聖戦の死」、
「護国の人柱」、
「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、 
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、
「肩身が広い」、
「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。
したがって戦傷者は「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、 戦病死はごく小さい扱いしかされなくなった。
右のことは、満州事変に比し戦死者が格段に増加したことも一因であるが、
むしろ二・二六事件以後総動員運動が進展していくなかで、ファシズム軍国主義が新たな段階に入ったことの表現でもあった。

 

・・・・

「鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行

盧溝橋事件

1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、
日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。
これ以後、現地では停戦協定も結ばれたが、誕生したばかりの近衛文麿内閣は、
戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

「鴨方町報」に次のような伊藤岡山県知事の訓示を掲載している。
時局ニ対スル伊藤岡山県知事訓示

今回の事変の変勃に関しては、御承知の如く7月7日夜、我支那駐屯軍の一部隊が蘆溝橋附近にて演習中、
第二十九軍の理不盡なり不法射撃に端を発しまして、
我方よりの事実の承認及謝罪其の他正当なる要求応ぜざるをのみならず、逐次其の兵力を増加して、
我部隊に不法なる攻撃を加へ来る等挑戦的行動を敢て為し、
或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行不信行為続発し、
我和平的解決を全面的に拒否至りまして...(以下省略) 

これによれば中国国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、
日本および日本軍の戦線拡大が当然であるかのごとく表わしている。
事実は、日本軍の買収に応じた中国人が関東軍の指図に従って発砲したのであり、 戦線拡大を目論んでいた日本軍の仕掛けた事件であった。


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赦す・・・・・

2022年06月18日 | 昭和11年~15年

渡辺錠太郎大将が、もし国の指導者であったなら、戦争はふせげたのではないか、
という史家は少なくない。

母はよく、「昭和11~12年頃がいちばんよかった」と話していたが、
それは母個人の思いの他に、経済や暮らしの指標が有史以来頂点を示していることでもよくわかる。

その昭和11年2月に「2.26事件」は起こった。
翌年、昭和12年には「日中戦争」が始まった。

渡辺大将が斃れたのは国家の悲劇のはじまりとなった。
遺子・和子さんの人生テーマは「赦す」ことになった。

 

(2.26事件)

 

・・・・・

雑誌「文藝春秋」 2022年新年特別号

「100年の100人」 渡辺和子 
皇道派の親玉は赦さない  保坂正康


私が当時88才の渡辺さんに会ったのは2016年1月初め。
著作『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになっていた。

父親の渡辺錠太郎(陸軍の教育総監)が二・二六事件で青年将校らの襲撃を受けて殺害された時、
彼女がそれを目撃した。当時、九歳だった。
戦後は修道女となり、大学教授として次代の子女の教育にあたる中で、
人生のテーマは「赦す」ことが柱になっていたと思う。
その「赦す」とはどういうことなのか。

理事長室で、私は実に四時間も話を聞いた。
ご自身なりに人生を振り返っておきたいとの思いがあったのだろう。
渡辺さんは、父親を殺害した青年将校や兵士は「赦す」という心境に達していた。

私は一歩踏み込んで、
彼らの背後にいた軍事指導者について質した。
彼女の答えは鋭かった。

「私には、二・二六事件の背景にいた人は『赦す』の対象外です」
皇道派の真崎甚三郎について、
青年将校を煽てた責任をとっていないと具体的に語り、
その処し方を毅然として批判した。
その瞬間、
彼女がこの事件の全てを的確に理解し、
「赦す」範囲を明確に決めていることがわかった。
私はその心中に触れて涙が出そうになった。
この年、12月30日に彼女は人生を閉じた。

 

 

・・・・

 

 

2015.4.4
岡山市北区伊福町・ノートルダム清心女子大学

 

・・・・

 

 

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「桃太郎」は皇軍の正義の士(さむらい)となった

2021年12月08日 | 昭和11年~15年
「桃」 有岡利幸 法政大学出版局  2012年発行

桃太郎の変容

桃太郎は、降参した鬼を許してやる。
その寛大な得に対して感謝のしるしとして、
「イロイロナ タカラモノヲ、サシダシマシタ」としている。

もう一つの重要な点は、
「モウ、ケッシテ人ヲクルシメタリ、モノヲトッタリイタシマセン」と言わせているところである。
この言葉によって、桃太郎の鬼ヶ島征伐を正当化しているのである。
桃太郎の鬼退治は、正義の戦いであることを鬼の側に言わせているのである。

この時代における「国民精神総動員」運動、満州事変以来の大陸進攻を「聖戦」とし、
「八紘一宇」の思想によって、侵略思想に非ずとするとき、「皇軍」は正義の士となる。
そうした時勢の中でこのように「桃太郎像」が生まれ、解釈されたと見なければならない。

こうして桃太郎は太平洋戦争直前の状況のなかで、権力者や軍国主義者の手によって大東亜の士として、「鬼畜米英」を象徴する鬼を、天に代わって征伐することになったのである。





長い戦争によって立場が逆転して、
征伐するはずであった鬼ヶ島の鬼のほうが強くて、降参したのは桃太郎である日本人自身となった。
戦後の教科書から一切「桃太郎」は姿を消し去ったのである。
そして現在に至るまで小学校国語教科書には、一度も登場してこない。




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南京虐殺(小説より)

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
城山三郎「落日燃ゆ」新潮社より転記


「落日燃ゆ」

朝香宮がが司令官として着任され、まだ十日と経たない中での出来事だった。

南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約二十万人の市民が外国人居住区に避難。
ここでは、約三十人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。
残虐行為はこの地区の内外で 起こり、これを日夜目撃した外国人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。
日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。

現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、陸軍省事務局に強い抗議を繰り返した。
朝香宮は外務省に広田を訪ね、広田に詫びた。
現地南京では、ようやく軍規の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。

主力部隊は中国の奥地めがけて進発した。
戦局は拡大されて行く。行く先々に日の丸がひらめき、「万歳!」の声が上がる。
それは和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。




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