しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国鉄井原線に赤信号

2020年08月31日 | 昭和51年~64年
国鉄井原線は総社~神辺間で、昭和41年に工事着工。
当時は矢掛~神辺間は井笠鉄道が営業中、赤字のため昭和42年の営業廃止も決定していた。
その頃は日本中で、路面電車や軽便の事業廃止のど真ん中で、国鉄が事業を始めたのは正気の沙汰とは思えなかった。
事実当時の国鉄は採算無視の国営会社だった。

それにしても
よくまあ井原線は、第三セクターとはいえ開業できたのものだ。
そして今日まで無事営業をつづけている。




(井原鉄道・小田~早雲の里荏原駅間 2015.4.3)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


国鉄井原線に赤信号

ニュー井原新聞・縮小版 昭和54年?月?日


今月初旬頃、運輸省が財源難を理由に、現在建設中の地方線を、原則として中止するとの方針を打ち出した。
建設期成同盟会長の小野井原市長を陣頭に、沿線の役員首長が相並んで上京した。

現在建設中の線は41線。
建設続行のメドは、一日一キロ当たりの輸送密度が四千人とされている。
これに合格するのは茨城県の鹿島線、愛媛県の内山線の二線だけといわれる。

しかし岡山県と鳥取県を結ぶ智頭線が3900人、これに次いで井原線は3800人と見込まれている。
井原線の場合,辛うじて存続が可能なのでは?
というのが期成会の感触のようである。

勿論これには、沿線市町の用地供与、工事進捗に対する全面協力などとともに、関係当局に対する間断のない強力な運動が必要不可欠、との前提がついている。

国鉄井原線は、昭和41年5月、神辺~総社間40.8キロをめざして着工したものだが、
現在用地の買収率68%、路線完成率44%。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風船爆弾の矢掛小田工場・・・その2

2020年08月31日 | 昭和16年~19年
ニュー井原新聞・縮小版 昭和55年2月20日


冨士ベークが35周年記念式典
小田小へ50万円 芳井中へ350万円贈る


冨士ベークライト(株)では、創業35年の記念式典を、2月2日矢掛町小田の同社本社で挙行した。
あいさつに立った藤井社長は、

「当社の淵源は、先代が天産物商だったことから、戦争末期コンニャクから風船爆弾を造るため、昭和19年8月矢掛町小田の乾けん場跡に工場を設けたことに始まる。
然しこの風船爆弾に疑惑をもった軍により、翌20年1月には生産を中止、2月から三菱電機(株)福山製作所の疎開工場として、航空部品の製造を開始したが8月終戦により軍需品の生産中止、
同年10月、同製作所の平和産業への切り替えに伴い、専属工場として、積算電力計の部品を製造するようになった。
自今幾多の辛酸と風雪に耐え、特に昭和39年11月には、兄昇社長が疲労困憊から急逝するなどの痛手にも見舞われたが、
従業員並びに協力工場の皆さん、それに三菱電機の並々ならぬお力添えにより、今日の発展をみたことは、感謝と感激にたえない。
私は不敏な者だが皆さんと共に今後も精いっぱい努力する所存なので、何卒ご協力願いたい」、と決意の程を披歴した。

これに対して、上原同社労組委員長が、
「いまや業界で五指に入る優秀な会社に成長したことは、偏に労使の信頼関係と、社長の手腕人徳である。
この円満な会社の気風を大切に育て、会社と従業員が一体となって発展するよう努めたい」と誓いのことばを述べた。

藤井社長は、35周年を記念して、芳井中学校視聴覚教育機器の購入費に350万円、小田小学校の新築費助成金として50万円をそれぞれ寄贈した。
なお同社は、芳井、美星に分工場を持ち、従業員は265人。



//////////////////////////////////////////////////////


「しらべる戦争遺跡の事典」 十菱・菊池編 柏書房 2002年6月発行


大津風船爆弾放流地跡
アメリカ本土を攻撃した奇抜な発想の兵器


敗戦が色濃くなった1944年11月、アメリカ本土を直接攻撃する兵器を発射していた基地があった。
「ふ」号作戦と呼ばれ「風船爆弾」を放球していた主力基地が大津風船爆弾放流基地跡である。
1944年8月、五浦から平潟、通称長浜の土地を陸軍が借り上げ、周辺の住民は基地造成の工事に動員された。

その後、放球の大隊が到着して秘密基地となった。
基地周辺を通過する際には常磐線の列車の窓を覆って走り、住民に対しても厳重な注意がなされていた。

風船爆弾の基地は勿来・大津・一宮の合計3ヶ所であった。
晩秋の11月から翌年の4月まで合計9.300個撃ちあげられた。
この時期、アメリカ本土に向かって吹く偏西風に乗って風船爆弾は50時間で到着する計画であった。

1945年4月、東京大空襲の影響も絡み、風船爆弾の資・機材の補給は完全に不可となり、
風船爆弾の役割は終わり、8月15日の無条件降伏の夕刻から「ふ」号作戦のすべての証拠資料を一切焼却し、隊員の早期解散が命ぜられた。
気球は焼却され、大津基地の水素発生工場も破壊された。

1945年9月19日、連合国の細菌兵器の研究をしていた調査チームに風船爆弾の製造責任者が呼ばれ、経緯と実態の査問を受けている。
もちろん細菌搭載の風船爆弾としてのアメリカ本土攻撃に関する重大な嫌疑であった。

風船爆弾を研究開発した旧陸軍登戸研究所の役割も含め,
戦後の今日になってもこの風船爆弾の全貌は明らかにされていない。

現在、大津基地の跡には誤爆事故で亡くなった兵隊供養の『鎮魂碑』が建ち、
アメリカのオレゴン州で亡くなった6名の方々の慰霊の言葉をも織り込んだ『わすれじ平和の碑』が建っている。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事③果物・漬物・魚・肉   (吉永町史)

2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

果物

カキ
フユウガキや渋ガキがある。
渋ガキは、
ゆでて渋抜きをして食べたり、
皮をとって、干し柿にする。


ナシ
古くからある。買って食べる。


イチジクその他
気温が低いので育ちにくいといわれる。
柑橘類も育ちにくい。
ユズはユズ味噌にしたりユズ風呂にはいる。



漬物

沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。


海魚

昔は魚行商人が来なかったので、塩イワシとか塩サバなどや煮干し(いりぼし)なども、出かけたときに買ってきたという。
結婚式のなどの祝い事のときには、
片上や日生、赤穂や相生まで買いに行った。
ところによっては、行商人が天秤棒で担いで、煮干しなどの干し物や塩サバなどを売りにきた。
盆にはコブとかワカメなども売りに来た。
いつのころからか、無塩(鮮魚)のイワシやサバ、タコ、イカ、シャコなどを日生や片上から行商にきた。


淡水魚

フナ、白アエ、ウナギ、ジャコなどは谷川で釣るし、石垣の穴に手をいれて握り捕る。
竹串に刺して焼き、干す。
客がみえると、焙っておかずに出すとか、祭りに利用した。
半ば専業に川魚を捕って行商をし、生計を立てた人たちがいた。
川べりに、草ぶき屋根で、小屋掛け程度の簡素な家を建て、ウナギとかハエを捕って、無塩または干し魚にして売りにきた。


牛、馬、豚肉

牛肉、馬肉、豚肉は、かつては食べなかった。
百姓は牛を大事にし「牛は百姓の福虫」といった。
牛肉をクドで煮て食べるようになったのは、大正末から昭和初めという。
馬肉や豚肉の食用は第二次大戦後のことである。


鶏肉

鶏は、大抵の家で2~3羽飼っていた。
卵は保存しておいて、客がみえた時におかずにしたり、子どもの学校弁当に、時々いれたやった。
鶏肉は牛肉などより、早くから食べていて、正月、祭り、来客などの時に、殺して調理した。



・・・・・・・・・・・・・

(暮らし)


風呂

昭和の初期ごろまでは、木桶の五右衛門風呂を据えていたが、鉄(かな)風呂へとかわる。
かけ湯や、抜き捨て湯は、下に掘ってある壷に入る。
せわしい農家にとって、度々風呂を沸かすわけには、いかなかった。
クミイケなどから、水たごで2~3荷運んでいれる。
焚くには時間がかかった。
風呂を沸かすとお互いに、隣近所で知らせあった。
夏ならスイカを割って食べさせるとか、冬なら炬燵に入って、氷餅を食べながら世間話をする。
貰い風呂はコミュニケーションになった。



庭木

屋敷内に植えて、よい木とわるい木がある。
よい木としては、
松、竹、梅、カエデ、カシノキ、クスノキ、サルスベリ、モックなどである。
わるい木としては、
ザクロ、ビワ、イチョウ、フジ、ヤナギ、ゴヨウノマツなどだという。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事②調味料・野菜  (吉永町史)

2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。


調味料

味噌

原料は大豆、米の麹、塩である。

味噌をつく時期は節季で、麹はこたつでねかせたという。
割合は大豆一斗、米の麹五升が四斗樽一本ぶんで、毎年一本づつつく。
三樽ほど所有していて、三年味噌といって、三年経った味噌が味が良い。


ひしお(醤)

裸麦で麹を作り、甕に、麹と炒った大豆、塩をいれ、水をいれてかくまぜる。
日当たりのよい縁側あたりに置く。
温暖な季節に作り、おかずにした。


醤油

原料は大豆と小麦、塩であるが、一度に作る量は、大豆1斗に小麦1斗である。
仕込みをして、しばらくすると、桶に籠をいれ、もろみをすくっておかずにした。
また籠にたまった醤油は調味料として使った。


大根

生大根で食べたり、漬物にするほか、ねじ干し、大根切干、ちょうちん切りなどにする。
ねじ干しは、
細めの大根を竿などにかけて干し、ひなびたとき、何遍もひねる。
ハリハリといって、醤油と酢をかけて食べる。
たんじゃく切りは、
大根を縦に十文字に切る、ついで丸切りする。
細切れになったものを筵の上で干す。煮ておかずにする。
ちょうちん切りは、
切りかけ大根ともいう。
ひなびた大根を縦方向に、斜めに刃をいれる。
少し回して刃をいれる。
ちょうちんのように、長く続いたものとなる。
更に干しておく。煮ておかずするし、まぜ飯に入れる。


カブ
カブラともいう。
煮ておかずにするが、かつては漬物にしたりした。

ナス
ふつうにはナスビという。
かつては丸みのナスビであった。
今は長ナスを作る。
ナスビもみ、煮る、焼く、あえものなで利用法は多い。

キュウリ
キュウリもみにする。

ニンジン
ゴボウなどといっしょに煮る。煮染めにいれる。
大根なます、大根おろしに入れる。

トウガラシ
主として、大根漬けに入れる。

ニンニク
近年食べるようになった。
醤油漬けしたり、わさびおろしですって汁に入れる。
ニンニクの皮をむいて、殻物入れの缶などにいれておくと、ズミ(殻象虫)などがつかない。

ニラ
味噌汁にいれたり、卵とじ、加役、雑炊にいれる。

ネギ
加役にし、味噌汁にいれる。
ワケギ
ぬたにする。

シュンキク
ひたしにしたり、すまし汁にいれる。

チシャ
チシャもみにする。


ホウレン草・白菜・キャベツ

ホウレン草や白菜、キャベツなどは、比較的新しい野菜である。
白菜は大正時代にあったが、結球白菜やキャベツは、昭和にはいってから作るようになったという。

キャベツは野菜の王ともいっている。



カンピョウ・カボチャ・タマネギ・トマト

カンピョウは古くからある。
自家用に栽培し、紐状に削って干して、保存する。
カボチャは味噌煮または醤油煮にする。
タマネギ、トマトは
比較的新しく、タマネギは昭和にはいってからである。
トマトは昭和以降という。



ミョウガ・ショウガ

ミョウガはゆでて、刻んで酢、醤油をかけて食べる。
刻んでうどんの加役にする。
ショウガは
作らない家が多い。
梅漬けのなかへ、ベニショウガをいれたり加役する。



シソ
赤シソを栽培し、葉を梅漬けのなかへいれる。
また葉もいったん塩漬にしたものを干して、味噌漬けにする。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事(吉永町史)

2020年08月30日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行



食事

記述は、昭和35年ごろまでの食事である。


米飯

化学肥料を使うようになるのは、大正後期からである。
カネゴエ(金肥・きんぴ)といえば、豆粕や、油粕といって菜種粕、ニシンの干鰯などであった。
ニシンは、押切で切って刻んで、水田の稲、四株の真ん中に押し込んだ。
四株に効いた。
魚肥を買う余裕のない家が多く、豆粕くらいであった。

牛の飼料には、畔草や山草を刈って与えた。
山で下草刈りおwし、葉が沢山ついている枝木を切ってきて、5~6寸の長さに押切で切る。
稲藁や麦藁などど交ぜて、厩へいれて敷きわらとし、フミコミをつくった。
月に1~2回、厩から厩肥をカド(前庭)に出して、積み上げ、よくくもした。
これが水田のハゼゴエで、肥料の主役であった。
肥料代を支払うと収益は微々たるものであった。
屑米と稲藁がのこればよいし、裏作の麦が自分のものであった。

米飯を食べたのは「正月三日に、盆踊り」が首であり、冠婚葬祭のときであった。



麦飯

麦飯にするのは裸麦である。
裸麦はヤス麦といっている。
ヤス麦の荒麦は唐臼でついて精白する。一遍では精白しにくいので三遍行ってシアゲ麦にした。
戦後ヒシャギ麦になった。
米とヒシャギ麦を交ぜて洗い、炊くことができたので、手間が省けた。


糧飯(かてめし)

麦飯または米飯に、大根とか大根葉、サト芋、ゴボウ、ニンジン、ネギなどを切っていれ、醤油で味付けしたものは、焚きこみ、煮込み、マゼ飯、味付け飯、などといっている。

大根だけとか、葉っぱだけ、あるいはソト芋、ジャガイモ、さつま芋だけ切っていれれば
大根飯,菜飯、芋飯、といった糧飯になる。

ハチの子
焚きあがった釜の飯にいれ、味つけしてまぜた蜂の子飯。
ハチの子を生のまま飲み、薬になるというところは多い。

クサギの虫
蒸し焼きにして子供に食べさすと癇の虫薬になる。

イチジクの虫、ナラの木の虫、イナゴを食べる。

マムシ
ハミという。
皮をむいて干した骨を、長さ2cmほどに切って焦がして食べる。
骨を粉にして炒り粉にいれた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

機織り

2020年08月29日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行


綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。


繭の糸

養蚕をする家では、年に3~4回は飼い、天井に空気穴をとりつけたり、蚕が繭を作る時期には、家族は寝る場所がない位だったという。
繭はほとんど売った。
上繭・中繭・クズ繭、玉繭(二つくっつく)があった。
自家用にクズ繭・玉繭を手引きした。
この糸がスガ糸といい、木綿のガス糸と混繊することが多かった。


ハタオリ(機織り)

女の仕事で、家族の着物から、布団、蚊帳、手拭にいたるまで全部織り出した。各戸に機があって、冬の農閑期には賑やかな機の音が聞こえていた。
女は明けても暮れても、糸引きと機織りで、機が織れねば嫁にもらい手が無いとまでいわれた。
明治中期ごろから腰かけて織る高機(たかばた)になった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜池のイケボシ

2020年08月29日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行


溜池

和気郡史(明治42年刊)をみると吉永町の溜池の修築年月日の不詳であるものが多い。

溜池での漁撈では、いろんな方法がある。
釣漁、網漁、イケボシ漁など。
水田に灌漑水が必要でなくなると溜池の水も落水する。
溜池の落水を
イケボシ、イケガエ、カエボシなどという。
溜池の落水中に池の樋門、堤防、泥すくいなどの作業がなされるとともに、溜池にいるコイ、フナ、ウナギ、ナマズなどを捕獲するのでウオトリなどといって秋の収穫前の農作業前のレクレーション
にもなり、イケボシ漁としてさかんに行われたものである。

吉永町各地区の事例を少しのべてみたい。
①2~3年ごとに溜池をほして池の魚を入札によって希望者に捕獲することをゆるす。イケボシは秋祭りの前の頃である。フナ、ウナギ、コイなどをとっていた。
とった魚は自分の家と近所にわけて食べていた。
②10月の終わりごろ、水田の水をおとすと同時に溜池の水も落として、フナトリ、コイトリといって溜池にはいってドベをふんでドベの中にいるコイ、フナ、ナマズ、ウナギなどを握りとる。
③溜池のイケボシの時は、タマ(丸形の網)ザルなどでフナ、コイなどをすくいとる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九軍神・・・その2

2020年08月29日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神の葬儀

九軍神の葬儀は、四度目の大詔奉戴日である昭和17年4月8日に行われた。
特別に日比谷公園に式場を設けて、合同葬儀が挙行されている。
遺骨は無いから遺品を安置した砲車が先頭になり、遺族がこれにつき従った。
「市民は脱帽している、泣いている、みんな泣いている、どうして泣かずにいられよう、若くして散った真珠湾の華、殉忠壮美の九軍神の心根こそ一億国民感激の的なのだ。
『よくやって下さった有難う』という気持ちが胸底からぐんと突き上げてきてどうにも抑え切れぬこの涙なのだ」という涙の情景が広がった(東日4月9日)。
葬儀では嶋田海相嗚咽のため絶句いくたび。
永野修身軍令部長、東條英樹総理大臣らの弔辞が続いた。
一般市民群衆はその数実に十数万、感動の人群れはいつまでも立ち尽くしていたのだった。
この葬儀については、「東京日日新聞」古屋信子が、「読売新聞」に吉川英治が参列記を載せている。
古屋信子
「これが、もし米国や英国だったら花輪を山積みした柩車、表情たっぷりの人々、むやみと感情をそそる音楽、あらゆる芝居気の儀礼が劇的シーンを展開させたであろうに、
ーーーー
われら日本人は、違うのである。
だから,九軍人は此の国に生まれたのである。」
素朴な日本と表情豊かな米英という比較は、精神の日本と物質の英米という対比とそのまま重なり合う。
吉川英治
「神代も決して遠くはない。
今日もまた二千年の後には神代である。
岩佐中佐その他の軍神は、正に千載の後にまで、偉大なる幸と誇りと、そして国民のあいだに『死なざる生命』の訓えを遺している」のである。
九軍神は死んではいない。
和気清麻呂、楠公父子、吉田松陰、そして広瀬中佐や佐久間艇長らとともに、彼らは日本国民の中で生きている。
「もしこの諸魂の死ぬ日あれば、それは日本の土も枯れる日でなければ死なぬ」のだ。
「岩佐中佐、あなたは何という日本一の孝行息子なのだ」
こうして、国家への忠義と親孝行とが同じ意味あいを持つことになる。

自己犠牲がすべての行動の大原則となった。
自らの信奉する「正義」で、敵は叩き潰す「悪」であった。
九軍神は誰でも覚悟さえできれば似た行動をとれるはずである。
九軍神とその母親は、日本の男性と女性それぞれに対して自己犠牲の模範を示す存在となった。


最初の特別攻撃隊

九軍神には、これまでにない特徴があった。
これ以前の軍神の死はみな戦友たちに目撃されている。
九軍神の場合は状況がまったく分からず、遺骨もない。
はたして5隻のうち何隻が真珠湾侵入に成功し、何隻が魚雷を発射できたのか、どれほどの戦果があったのか、といった点が論じられることはなかった。
しかも、捕虜が出たために、潜航艇が何隻だったのかも当局は明言しなくなった。
戦果が検討されなかったのとは対照的に、九軍神の人となりや出撃直前の様子が掘り起こされ、大きな感激を呼び起こした。
極めて精神的に語られたのである。
九軍神は正式には「特別攻撃隊」と呼ばれた。
戦争末期に数千名の若者が命を捧げた特攻作戦のお膳立ては、すでに開戦時にできあがっていた。


シドニー湾攻撃

特殊潜航艇による攻撃は、昭和17年5月31日にも行われた。
その後戦死者は10名であったことを海軍省は発表した。
二度目の特別攻撃のため、一般に「軍神」と呼ばれることはなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九軍神・・・その1

2020年08月28日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神誕生
昭和17年(1942)3月7日の各新聞は、一面のすべてを割いて、前日に大本営から発表された真珠湾攻撃での特殊潜航艇の作戦の詳報を掲載した。
真珠湾攻撃に特殊潜航艇が参加していたことは、10日後の大本営海軍部がすでに発表していた。
そこには「警戒厳重を極むる真珠湾内に決死突入し、少なくとも戦艦アリゾナ型一隻を轟沈したるほか大なる戦果を挙げて敵艦隊を震駭せり」とある。
この時、国民は知ったのである。
「我が方の損害」は攻撃機29機と特殊潜航艇5隻が挙げられていた。




(「甲標的」江田島市 元・海軍兵学校 2013.1.15)


特殊潜航艇

特殊潜航艇はどんなものか公にされていなかった。
潜水艦育ての親・末次大将も、
「特殊潜航艇がどんなものか僕にもわからない。
しかしアリ一匹も通さない真珠湾港口をくぐり港内ふかく突入し、
万死あって一生さへないところへ彼らは飛び込んでいったのである。
大君のしこのみ盾でなくてどこの国の人間が出来るわざか」と賞賛する。
死を強要する作戦だったのでなく、参加者たちはそもそも生還など眼中になかったというのである。
「殉忠無比の攻撃精神は、実に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せしるもの」と結ばれている。
気なるのは、5隻と公表されていた潜航艇の数に、まったく言及していない点である。


九軍神一捕虜

海軍省は大本営発表と同時に「九勇士」の名前を発表している。
生前の階級別にみると
大尉1、中尉2、少尉1、一等兵曹2、二等兵曹3で、
将校が4名、下士官が5名である。
当時の日本で軍人が捕虜になることは、たいへんな不名誉なことであった。自決してくれることを願ったかもしれないが、生き延びて戦後帰国している。(平成11年死亡)
しかし輝かしい九軍神と屈辱的な一捕虜という組み合わせは、絶対に認められない事態である。
このため特殊潜航艇の形態はぼかされたままで、軍神たちの生い立ちや出撃直前の様子といった事柄の方に焦点が当てられてゆく。
3月6日の夜のラジオで海軍大佐が九軍神の詳細を話した。
冷静沈着に出撃、さらに辞世の句『靖国で会ふ嬉しさや今日の空』が紹介された。
強調されたのは、
「自己のより幸福な生活を追求する人生観という米英軍人気質」との戦いで、
「一死奉公の尽忠に燃える大精神」
「戦の神」は、大東亜戦争後の世界永遠の「平和の神」となると展望されている。


戦争理念

東京日日新聞 1942.3.7
「勝敗を定めたるは兵器の優劣に非ずして兵士愛国心の厚薄如何にあり」
菊池寛
楠木正成から明治の軍神までと比較し、
「長時間に亘って死を覚悟は、ちょっと真似のできない本当に尊い気持。
この壮烈さに匹敵する勇士はを過去に求めることは困難だ」
吉川英治
「古今のいかなる純忠にくらべても比すべきものなし」
「勇士を生んだ母なる人々にも掌を合わせたい心地がします」
百年後までを見通すと
「世界人から平和の軍神として仰がれる日がある」だろうという。


偉大なる母たち

朝日新聞 1942.3.12
小楠公の母、吉田松陰の母,乃木将軍の母らと同じように「この母人の大いなる尽忠、愛国の血」が育てた。
「暁から楮の皮剥ぎ」「笈を背に力仕事」「夫を説き伏せ中学へ」「星空に痩田を耕作」といった見出しが並んでいる。
子供のために全部を無条件に捧げつくす。
軍人が国家のために捧げつくすのと、いささかも変わりない。
「自分の子供」だからでなく「国の子供、陛下の子供」なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌謡界の王者 美空ひばりが来井

2020年08月25日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和47年11月1日


歌謡界の王者 美空ひばりが来井
賑やか晩秋の興行街






百年に一人出るか出ないかといわれる、不世出の天才歌手、
戦後二十数年間、常に歌謡界のトップにすわり続けてきた大御所、
近来益々その貫録に重みをつけてきた世紀のアイドル、
美空ひばりの豪華歌謡ショーが、愈々来月7日(木曜日)井原市民会館でふたあけする。






普通の場合、前座を若手歌手、万才などで半分の時間を費やしかんじんのご本尊の出演は約半分だが、
ひばりの場合、前座は実弟一人だけ。
殆ど一人で歌いまくる二時間余の大熱演で、早くも爆発的人気が起こっている。
公演は昼二時、夜六時の二回だが、前売り券は飛ぶような売れ行きをみせている。
井原市地方での公演は将来二度と不可能と思われる。


また11月11日には、現代日本浪曲界の超一流を集めた、豪華浪曲大会が井原市民会館で行われる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする