しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

神島天神祭り 2023.9.17

2023年09月18日 | 平成元年~平成31年

場所・岡山県笠岡市神島・天神社(島の天神)
名称・神島天神祭り

 

 

神島天神祭りを見に行った。

 

 

気温35度、9月17日では史上最高気温。

 

 

 

今年の「御渡り」(海上渡御)は、見崎・寺間・神東の三地区。
天気は、
倒れそうな暑さだったが、
そのぶん空も海も青く、華やかなお祭りとなった。

 

 

 

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源平藤戸合戦ゆかりの御崎神社

2022年03月10日 | 平成元年~平成31年




御崎神社は、このふきんから佐々木盛綱が海をわたっての先陣をのり入れたと伝わる”乗り出し岩”の近くにある。
御崎神社で盛綱は必勝祈願をしている。
老母の嘆きで有名な笹無山からも近い。





今日は源平合戦をしのぶ史跡が目的でなく、花を見に来た。
天城の枝垂れ梅と、倉敷川千本桜。
千本桜は、三分咲き程度。
枝垂れ梅は満開。



(倉敷川千本桜)


2年前の前回もそうだった。(前回は桜の方が満開、梅は散っていた)
二兎を追っても一兎も得ない諺があるが、
2回とも一兎は得ることができた。


場所・倉敷市天城・有城
撮影日・2022年3月9日

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映画「燃えよ剣」①映画を見に行った

2021年10月23日 | 平成元年~平成31年
2021年10月22日
「燃えよ剣」を見に行った。





映画は、小説と史実に丁寧に作られていたように思った。


「戊辰物語」 東京日日新聞社編  岩波文庫 1983年発行

土方歳三は若い時、石田村から出て来て上野のいとう松坂屋に奉公したという話がある。
色白の小さな男で、なかなかおしゃれであったが、いつの間にか食事係の方の女中と関係を結んで追い出された。
近藤の門下になってから、試合に出る時などは、真っ赤な面紐を後ろへ長く垂らして朱塗りの皮胴で悠々とやるので、
土方を知らぬ人間などは、うっかり油断してひどい目に逢わされた。
諸手突きがうまかったとの話である。
村で出来る「石田薬」というのが傷によく利くといって、新選組同志一同には常備薬としてこれを持たせていた。







要するに新選組は、文久三年から慶応三年に到る京都滞在の五年間、
ほとんど暗殺謀殺、剣戟の沙汰を以って終始した。
まず京都郊外壬生の新徳寺を本部として、慶応二年春本願寺学林に移り、
同年初冬、七条堀川に屯所を新築して移転、翌三年12月には屯所を引き払って、伏見奉行邸へ移った。
当時幹部は、
隊長 近藤勇
副長 土方歳三
副長助勤 沖田総司 長倉新八 原田左之助 井上源三郎 斎藤一 山崎進
浪士調役、会計、伍長、(他略)
合計隊士67名である。

鳥羽伏見の戦いが終わって、江戸へ引き揚げとなった時には、
隊士の合計は44名になった。






「戊辰物語」 東京日日新聞社編  岩波文庫 1983年発行

はじめて壬生で呱々(ここ)の声を上げたときの13名の壮漢は結局どんな運命だったのか?

芹沢鴨 近藤勇一味に暗殺された
近藤勇 武州板橋で刑死
土方歳三 蝦夷函館五稜郭で戦死
藤堂平助 油小路にて惨殺さる
原田左之助 江戸本所にて鉄砲傷化膿で死す
永倉新八 大正4年病死
山南敬助 切腹
野口健司 切腹
新見錦 詰腹
沖田荘司 病死
井上源三郎 淀川で戦死
平山五郎 寝首
平間重介 脱出






「NHK歴史発見」  角川書店 平成5年発行

土方歳三の最後

慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、
維新政府軍の東征、江戸無血開城、東北・北越戦争と推移した。

旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介は、旧幕府脱走兵を率いて東北へと向かった。
新選組副長の土方歳三は、鳥羽伏見の戦い後に東帰し、甲陽鎮撫隊の敗退後、これも東方へと向かった。
大鳥と土方らは4月下総国府台で合流し、以後行動を共にする。
大鳥が大将、土方が副将格である。
小規模な戦いを交えながら、会津戦争に加わり、8月土方は仙台へ行ったところで、榎本に出会った。やがて大鳥も合流。

10月、海陸の幕府脱走軍二千数百は、蝦夷地函館への向かい、この年12月には
函館五稜郭に「共和政府」の樹立を宣言したのであった。
総裁は榎本、
大鳥が陸軍奉行、
土方が大鳥の副官として位置づけられた。

榎本をはじめ「共和国政府」中枢の多くは、旧幕府でも開明的ポストについていて、
西洋留学経験者や長崎海軍伝習所の出身者だった。
大鳥も蘭学を身につけている。
郷士だった土方は異色であった。

翌年春になると、維新政府軍の攻撃が始まる。
5月新政府は函館へ上陸を開始し、五稜郭と弁天砲台が分断され、新選組のいる弁天砲台へ土方は救援に向かった。
途中銃弾に当たって戦死した。
その直前、敗走する見方に激怒し、兵士の一人を切り殺したという。
7日後、榎本や大鳥は降伏した。
3年後に赦免され、二人とも新政府の高官になった。
榎本や大鳥は欧米の知識・技術を受容し身につけていた。

土方は討幕派の鎮圧のみを任務として行動してきた。
盟友、近藤勇は千葉流山で投降のあと、打ち首になっている。
土方には命が助かる見込みはない、徹底抗戦だけだったのである。
土方にとって函館は死に場所以外の何ものでもなかった。





「NHK歴史発見」  角川書店 平成5年発行

土方の死をめぐる謎

五稜郭に入場した後、土方歳三率いる陸軍は、わずか一日で松前城を陥落させている。
「土方がいれば必ず勝つ」、兵士たちの信頼を一身に集めた。
しかし翌明治2年4月新政府は反撃を開始した。
榎本、大鳥等は早期降伏に傾いていたが、土方は徹底抗戦を望んでいた。
先頭に立って新政府軍と戦っていた土方は、馬上で敵の銃弾を受けて絶命したといわれている。
戦闘終了後、官軍は戦死者の点検をしたが、その時土方の遺体も墓も発見されなかった。



映画は、殺戮のシーンが多いのは仕方ないが、そこの時間が長かった。
新選組と土方の生涯を2時間にまとめているので、ストーリーの展開が早かった。

地方のことだが、備中松山藩の出の新選組七番隊長・谷三十郎と
備後神辺ゆかりの榎本武揚が登場しないのは、ちょっと残念だった。


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芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る

2020年05月30日 | 平成元年~平成31年
芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る


(あべ静江 2003年11月2日・芳井ふるさと祭り)

今から20年ほど前、後月郡芳井町の文化祭を見に行った。
芳井の知人から毎年人気歌手を呼ぶのを聞いていた、前年は三田明だったそうだ。
当年は元美人歌手の”あべ静江”。
美人歌手は多かったけど、あべ静江もそれが突出した美人歌手だった。
芳井では、
会場の芳井中学校の校庭のステージで「まだ嫁入り前ですから・・・」と自己紹介をしたが、
既に大歳増の歌手だった。
でもじゅうぶん美人歌手だった。
超ミニスカートをはいて自慢の脚をぞんぶんに露出していた。
声はデビュー当時と変わらずいい声だった。
その後、
芳井町は井原市と合併し、芳井文化祭に有名歌手はこなくなった。

・・・・・・

鋼管まつりで、柏原よしえショーを見る

現在の令和天皇がまだ独身だった時、
定例の記者会見で「好きな歌手は柏原よしえ」と言った。
そのため、突然に柏原よしえは特別な歌手となった。
福山の鋼管まつりに、その「柏原よしえ」歌謡ショーがあった。
福山市ではバラ祭りと並ぶビッグイベントは、その年更に多くの人が集まった。
ステージで躍動しながら歌ったが、
人が多く、ゆっくりと歌を聴けなかったのが残念だった。



・・・・・・

里庄まつりで、岩崎良江ショーを見る

お盆に里庄中学校で里庄町の夏祭りがある。
毎年歌手が来るが、
ある年に「岩崎良江」が来た。
すでに50歳くらいだったが、そのスタイルが良かった。
まるでデビュー当時の少女時代と同じだった。
お声の方は?
デビュー時よりも良いように思った。
(もっともデビュー時代をそんなに知らないが)
歌手が、常に見た目を大事に体形管理しているのがよく感じられた。
 
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東京へ行ってきた②陸軍東京第一病院

2018年03月15日 | 平成元年~平成31年
昭和15年、
父は岡山の連隊の陸軍病院から、東京の陸軍第一病院へ搬送された。
その後も二度の出征を経たが、無事95才で人生を終えた。

いつか、その地へ行ってみたいと思っていた。
行っての帰り、ほっとした気持ちになった。

昭和15年東京・戸山 陸軍第一病院



以下柏書房「戦争遺跡の辞典」より転記

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陸軍軍医学校跡地

皇居の北西部に軍事施設が集中している区域がある。

「戸山ヶ原」で、陸軍軍医学校や軍楽学校などの教育施設や傷病将兵の病院、近衛騎兵連隊や蒲鉾型の陸軍射撃練習場、そして山手戦の外側には陸軍技術本部・陸軍科学研究所等があった。


現在、当時の建物や遺構が残っているのは次の通りである。

学習院女子短期大学構内に旧近衛騎兵連隊の赤煉瓦建物が二棟現存している。

戸山教会の土台は、戸山学校の集会所の土台をそのまま利用して造られたものである。

軍楽隊の屋外ステージ跡が戸山公園内に残っている。

陸軍病院内に通じていたという地下道の出入り口は、石垣の補修に寄り注意して見ないとわからいないようにしてしまった。


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東京へ行ってきた①東京湾海堡

2018年03月15日 | 平成元年~平成31年
竹芝桟橋から伊豆大島へ高速ジェット船で行った。
雨の天気だったが、波間に浮かぶ東京湾第二海堡は迫力があった。



できれば、二階席から見たかった。


以下は転記。

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「戦争遺跡の辞典」柏書房

東京湾要塞は、東京湾に侵入しようとする敵戦艦の通行を阻止し、かつ海上からの敵の攻撃に対し、帝都東京および横須賀軍港を護る目的で建設された。
海堡は、海上に築島して、その上に砲台を築いたものである。



「旧軍史跡」現代に遺された戦争遺産より

海堡とは砲台のために海に造った人口島のことである。
2.5キロ間隔で第一・第二・第三海堡が、当時の最先端の技術で造られた。
第二海堡は明治22年から25年の歳月をかけて完成した。
世界的にも最大級の海上要塞。
戦後米軍の爆砕による割れや、
地盤崩壊や浸食などで倒壊が進み、原形を留めない個所もある。
現在入口のほとんどが塞がれている。



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「元島民」って誰の事か?

2016年12月19日 | 平成元年~平成31年
かつて日本領土に“占守島”という島があった。
その島の名はおじさんの話で初めて知った。
昭和10年頃おじ(母の兄)は東京の農学校に進学した。
「同期は約40人日本全国から来ていた。いちばん遠いのは占守島(しゅむしゅとう・日本最北端)からの人」。

それから10年後に終戦。日本は無条件降伏。
日本領土から独立した国家あり(台湾・朝鮮)、占領された地方(奄美・沖縄・小笠原、南樺太・千島)がある。
そのうち奄美・沖縄・小笠原は日本に返還された。

北千島と南樺太は日本政府が放棄し南千島のみロシアと領土交渉をしている。
今月の日露首脳会談は首相の選挙区内にある温泉ホテルで開催されたが、案の定ロシアはゼロ回答。

新聞には元島民という名が氾濫しているが、この元島民とは南千島の人々を指すようだ。
強制退去されたのは同じ歴史だが、樺太は除外され、固有領土と言える北千島も存在すら消された感がある。
樺太島民や北千島島民は(無視されことを)どう思っているのだろう?

完全に無視されたといえば、日本領土ではないが
満州や南洋諸島の開拓団もそうだ。国家政策で移住し命からがら強制退去されているのは千島と変わるものはない。


結論・国際世論の支援・支持がまったくない交渉事は止めよう。
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茂平散策マップ(案)

2016年09月14日 | 平成元年~平成31年
「城見のあゆみ」の付録になる茂平散策マップ案を作ってみました。
4頁あります。

http://4.hobby-web.net/~et1125/run/huroku/mago/2016/10/1.html
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茂平散策マップ

2016年05月21日 | 平成元年~平成31年
郷土史の本に地区のマップを添付することになり、載せる候補地を選んだ。
候補地は追加・抹消や訂正ありの予定。

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北から南にABCと三分割した。
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A図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/100.html

①大見山
②蒼続の四ツ堂
③道路改修記念・大本源次郎功労碑
④地神(青木)
⑤社稷(旗涯地)
⑥鳥飛小学校跡
⑦地神(西ノ谷)
⑧地神(矢ノ平)

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B図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/101.html

①新堤(しんどて)
②社稷(銅山西)
③夜燈さん
④恵比寿神社
⑤観音堂(千手観音)
⑥八幡神社
⑦御船さん
⑧宮山古墳石棺跡
⑨平和記念碑
⑩塩崎神社
⑪稲荷神社
⑫茂平港跡
⑬茂平港改修工事記念碑
⑭荒神社
⑮茂平88ヶ所霊場址
⑯吉原新田干拓堤防跡
⑰ポンプ場跡
⑱龍王(りおう)さん
⑲とんまんどて
⑳社稷(銅山東)
㉑砂川改修記念碑
㉒いわぐろ山城跡
㉓果樹の国繁
㉔坂里古墳跡地

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C図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/102.html

①高丸城跡
②吉備焼(阿浜)
③小迫新開跡地
④苫無海岸(白砂青松地)跡地
⑤笠岡湾干拓茂平生産法人入植地

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高田一族の本城「大橋山城」別名「葦浜城」

2016年05月20日 | 平成元年~平成31年




Q.9 高田一族について具体的に教えてください。

室町時代の初めごろ、笠岡の陶山氏が衰退し、代わりに高田一族が台頭してきました。
高田一族は水軍を率い、朝鮮半島や中国の明と交易に当たっていました。
将軍足利義満の時代から約150年間が全盛でした。
大げの葦浜城を居城として、坪生別所山城、能島沖上城、蔵王山之下城、茂平いわぐろ城の支城をもち備中西南部と備後東南部を支配していました。

城主高田河内守則義の時、制海権をもつ村上水軍(伊予能島)の奇襲を受け,則義は大門の真明寺で自決しました。室町末期、1538年のことです。
その後、則義の弟・豊後守重綱が葦浜城を取り戻し、大橋山城と名を改め、毛利家に従っていました。
高松城水攻の時、毛利輝元の命で兵站活動の責任者でしたが、秀吉側の策略により責を果たせず、責任を取り教積院で自害しました。

則義の孫である河内守正重が次の惣領となりました。正重は毛利とともに秀吉に仕えました。その後、秀頼の親衛隊となり大阪夏の陣で討死しました。

高田河内守一族は備後・備中に分散、帰農しました。そのうち4戸が、茂平湾の小さな島に住み着きました。
島は、福山藩水野家の時代に干拓により陸地化しました
4戸は「表」「中」「前」「後」の屋号で、後に「端」が増えました。
茂平の高田家は以後分家をつづけ、現在では約70戸が高田姓を名乗っています。

(中央大学理事・高田一夫氏の文献参考)

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