しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

デパートの屋上遊園地

2023年11月08日 | 失われた仕事

福山の天満屋が、木造から白い四階建ての近代ビルに替わり「スワン」と呼ばれた。
その屋上には福山駅からも、屋上に何か遊具のような、楽しそうな施設が見えていた。

しかし農村育ちの管理人にとっては、
遊具と言えば学校にあるブランコやギッタンバッタンしか知らなかったし、使ったこともなかった。
とても天満屋の屋上で遊ぶという発想も願いもなかった。

高校卒業の春、福山市の高校へ通う友と福山に遊びに行くと、
”いつも普通”といった感じで、天満屋の屋上に行った。
友は食堂に入り「オムライス」を注文した。
その時、自分も真似をして「オムライス」と言った。
それが生まれて初めて食べる「オムライス」だった。
食堂のガラス窓から、すぐ前にメリーゴーランドなどが見えていた。

・・・・

当時全国の百貨店の、ほぼすべてに屋上遊園地はあったと思える。
今は減って2023年10月現在、5店舗だそうだ。
現在屋上遊園地どころか、百貨店そのものが長い冬の時代が続いている。

 

・・・

「失われゆく仕事の図鑑」 永井良和 グラフィック社 2020年発行

屋上遊園

デパートの屋上に設置された娯楽空間は、
百貨店がそれまでの木造の建物から高層ビルに建て直された時に生まれた。
はじめは、
そこから眺めを楽しむことじたいが娯楽だった。
それ以前は、山や丘のような自然の高地に登るしかなかった。
百貨店は出入り自由、
入場料はとられない、屋上に行くのも自由、
楽しんで帰っても金はかからない。
大食堂で食事をしたりすれば、経営者の思うつぼ。
そこをねらって、
屋上には草花、遊具、観覧車、コースター、豆電車もあった。

・・・


「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

屋上遊園地


昭和40年代、子どもたちはデパートで遊んだ。
ゴーカートに乗って遊びまくった場所は、今や跡形もなくなっている。

デパートに必ず存在し、
観覧車やゴンドラ、ゴーカート、ミニ電車などで大いに遊んだ。
百貨店の売り上げ減と、消防法改正で屋上の半分を避難場所にする、
ことなどで絶滅に拍車をかけた。

・・・

朝日新聞Web 2023.11.7

百貨店の「屋上遊園地」が各地で姿を消しつつある。朝日新聞の調べでは、
今も営業をしているのは、松坂屋高槻店、松坂屋名古屋店、大和香林坊店(金沢市)、いよてつ高島屋(松山市)、浜屋百貨店(長崎市)の五店舗。

・・・

 

 

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機関士

2023年11月08日 | 失われた仕事

城見小学生の時は、交通事故=踏切事故で、(つまり自動車事故はなかった。車がないので)
校長先生の校庭での全員朝礼でも、ほぼ毎回踏切注意を言っていたような気がする。

茂平の子どもは学校へ行くときと、帰るときと、最低でも二度踏切をわたる。
当然のことだが、踏切小屋も遮断機も信号も、何もない。
勿論のことだが、父兄や緑のおばさんのような大人の付き添いもない。
踏切に立っていると、巨大な機関車が轟音と蒸気と煙を吐いて通るのは怖いほどだった。
母もたまに「アメリカ屋の前の踏切を渡るのは気をつけにゃあいけん」と経験談を言っていた。

その怖い踏切では、機関車の機関手と機関助手が見えた。
凄いスピードで通り過ぎるが、近いので顔が見えた。
機関手も機関助手も顔から汗が噴き出ていた。
機関助手は、前と後ろに顔がピストンしていた。
後ろを向いてスコップに石炭を入れ、前を向いて釜に投げ入れる。絶え間なくの繰り返し。

機関車の人と話すことはないが、非常に身近な存在の職業だった。
山陽本線の大門駅~笠岡駅間の蒸気機関車は、中学2年生の頃に突然消滅した。
蒸気機関車からジーゼル車に変った。それから1年するかししないうちに電化された。

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

ボイラーに石炭を投げ込む係を機関助士という。
そして蒸気の力でシリンダーを動かして車輪を回転させる。
蒸気の力をたくみにコントロールしながら機関車を操縦するのが機関士である。
機関士・機関助士はかなりの重労働だった。
ボイラーの高温と、シリンダーの振動という過酷な環境のなかで、
ひたすら蒸気のコントロールに神経を使い続けなければならない。

機関士は重い石炭をシャベルですくって火室内にまんべんなく投げ込む作業を何度も何度も繰り返す。
更に上司にあたる機関士から指導や叱責にも耐えなければならなかったという。

・・・

・・・

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

蒸気機関車(機関士・機関助士)

トンネル
命がけの走行
トンネルを通過するのに5分ほどかかることがある。
そのため密室状態の坑内で煤煙を吸い、
機関士・機関助士ともに意識を失う事故があった。
また亡くなった機関士の肺をみると、
煤煙を吸い過ぎて真っ黒になっていたというのもしばしばだった。

・・・

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紙芝居屋

2023年11月03日 | 失われた仕事

 

茂平の観音堂の前に、紙芝居のおじさんが来ていた。
料金は5円か10円だった。
お金をわたすと棒がついた飴玉をくれた。
それをねぶりなら、おじさんが話す紙芝居を見ていた。

見物人は10人前後で、繁盛している様子はなかった。
紙芝居は、物語の途中で終わり
「つづきは次に来たときに」
で終わりだった。

紙芝居のおじさんは、話し方がとても上手で、
特に顔の表情がおもしろかった。
紙芝居よりも、おじさんの顔を見ている方がおもしろかった。

紙芝居屋さんは特に興味もないし、見てみたい気もなかった。
たぶん、代金が安いので親が金をくれたのだろう。
興味がないと言うのは、
「紙芝居」は小学生が見るものではない、と自分では思っていた。
あれは、小学生になる前の園児や幼児が見るものと思っていた。
実際、保育園では先生(保母さん)のする紙芝居は大きな楽しみだった。
しかし、小学生になって紙芝居に縁はまったくなくなっていた、
どうして?なんで?
小学生が紙芝居を見るのだろう?
今になっても不思議な思いだ。

 

 

・・・

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

紙芝居屋


紙芝居屋さんになるには、
まず自転車を用意する。
紙芝居協会というようなところから、絵と道具を借りる。
道具とは、
拍子木もしくは太鼓。
それから紙芝居用舞台。木製が多い。
それからお菓子の問屋さんでアメちゃんを用意する。
これでほぼ完成。

多くは数話でお話が成立する。
毎回同じ場所へやってきては、いいところで「次回へ」つなぐ。

先行投資の要らない紙芝居屋は、とっつきやすい商売だったという。

・・・


「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

紙芝居屋

紙芝居は、昭和5年から始まったという。
一人で出来るので、
テキヤの手にわたり、縁日、祭礼で子供相手に演じられるようになった。
街頭の紙芝居は昭和35年頃まであったが、
テレビにとって代わられ消滅の道を辿った。


・・・

 

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屋根の葺替

2023年11月03日 | 失われた仕事

小学校の一年生の時だったと思うが、
屋根の葺き替えをした。
近所の大人たちが来て、10人くらい、屋根に上って古い藁を取りはずした。
その時は家の中から、青い空が見えた。
すぐに、その個所に新しい藁を差し込んだ。
大人たちの顔は古い藁の煤やほこりがついて、墨を服や手や顔だけでなく
鼻の穴や、耳の穴まで塗ったように黒くなっていた。

・・・
(父の話)2003・5・18
小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。
・・・
家では、ご飯(麦飯)ように裸麦が多く、小麦はあまり作ってなかった。
小麦粉やお菓子やパンやうどんとトリカエで使用する程度だった。
従って小麦の藁は大事にして、屋根裏に保管していた。
言ってみれば、麦藁のために小麦を作り、食用は副産物的だったのかもしれない。

 

・・・


「矢掛町史・民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

屋根の葺替

田植え時や稲狩り頃には少なかった。
屋根替には人手がいる。
内輪だけでは手が足りない。
わらを切るもの、
わらを背負って屋根に上がるものなどで近所の人をテゴに頼む。
テゴに来る人は縄一束を持ってきたし、何も持っていかないところもある。
屋根葺きにはまずミチとかバと言って、足場をこしらえる。
屋根をはがしてノベウラといって、底へ入れるわらは、いったん使った分を再利用するものであったが、悪い分はノシへ入れた。
軒端(けんば)から葺き始め、一ホコ子麦藁を並べると、真竹でしめ、
二ホコ、三ホコと葺いて上がる。
小麦藁葺きの屋根は十四、五年の耐久力がある。
十五年ほど経つと雨漏りのするところが出てくるのでサシワラをする。
一ホコみな抜き出して、たがいちがいに入れる。
こうしておくと、このあと十年ぐらいはもつ。
よって一生に二、三回、葺き替えればよいことになる。

 

・・・

「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

天井

奥の土間には、ふつう(天井がなく)屋根裏が見通せる。
クドから出た煙が屋根裏を回り、破風から出る。


・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

屋根葺き

葦であれば40年以上持つが、高価なため庶民は安い藁を多く用いた。
藁は3年ほどで腐ってしまうので、定期的に葺き替えを行う必要があった。
屋根葺きのときは「結」といって、村人が共同で作業を行うのがふつうであった。
技術を習得して、その地域に居住する屋根葺き職人が出てきた。

屋根ばさみ、屋根叩き、鉈、ノコギリ、鏝を使って軒先から藁を積む。
一層積む毎に竹で縛る。
この手順で5層積むと、次に上段へ同じように積んでいく。
この時、鏝で叩いて、形をしっかりと固定する。

昭和20年代になると、屋根瓦の家が増え、瓦葺職人が登場した。
西洋風住宅が増えてくると、屋根葺きだけでなく、外壁工事も手掛けるようになった。

・・・


「新修倉敷市史8」


かつて倉敷の農村では、麦藁葺き屋根や葦(よし)葺き屋根などの草葺き屋根が主流を占めていた。
冬は温暖で収穫期に降雨も少ないことから、二毛作として麦作りが盛んであった。
一般の農家では自家製麦で賄われた。
葦は連島のすだれ屋に頼んで購入する場合もあった。
葦の方が耐用年数は長いが費用がかさんだ。

屋根の上をトタン張りにしたり、新築の家が瓦葺きにされていった。
昔は倉敷周辺にも草葺き屋根職人が30人ほどいた。
普通家屋で5~7人、大きい家では8~10人ついた。
農村は「モヤイ」として近隣の手助けが行われた。
今日では、草葺き屋根はすっかり減少してしまい、その下でいろりの火が燃やされることもなくなって、傷み方は早くなっている。

・・・

 

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蛇捕り師・蛙捕り師・その他

2023年10月31日 | 失われた仕事

祖父は近所ではちょっと知られた、ハミの生の血を吸い込む名人だった。
畑でハミ(まむし)を見つけると、殺して皮をむいて、血を吸っていたそうだ。
その事を、母はよく話していたが、自分の同級生にも現場を見た人がいて話のタネになっていたみたいだ。
祖父が血を吸った後は、家に持って帰り、
父が串刺しにして干して、骨を粉にして飲んでいた。

貴重な栄養源か健康源ではあったが、
よその村からハミを捕りにきていた人はいなかった。(と思う)

 

・・
「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行
蛇捕り師
昭和初期、まだ結核が不治の病であった時は、
蛇の生薬は貴重な薬剤で、薬屋に行けば、
漢方薬としてマムシの干したものをガラス箱に入れて売っていた。
マムシは焼酎につけて、鱗、皮を剥いで、天日に干して乾かす。
それを粉砕して薬にする。
強壮剤以外にも、
肋膜炎や傷の治療薬としても効力を発揮した。

やがて結核も治るようになると、現在では強壮剤として売られている。

・・・

蛙捕り師

これは来ていた
茂平のため池で釣っていた。
我われ子どものライバルだった。
我われは大人に負けないように必死で釣っていた。
なかなか釣れないが、
食用蛙を釣る遊びはおもしろかった。

・・・

鰻(うなぎ)捕り師
来ていない。
来るほど、鰻はいなかったというより
梅雨の一時期や、大雨の後しか鰻は釣れなかった。

・・・

鉄砲打ち
冬になると学校に行っていると、用之江側から、犬を連れて鉄砲打ちが来ていた。
キジや野兎を撃っていた。
獲物はお金にはならないので、趣味の鉄砲打ちだったのだろうか?
それとも売れていたのだろうか?

・・・

 

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鍛冶屋

2023年10月27日 | 失われた仕事

学校の音楽時間に習う『村の鍛冶屋』



暫時(しばし)も休まず 槌打つ響
飛び散る火花よ はしる湯玉
ふゐごの風さへ 息をもつがず
仕事に精出す 村のかじ屋

 

城見では大冝に「村の鍛冶屋」があった。
同級生のTくんのお父さんが鍛冶屋をしていた。
だからTくんのことを「鍛冶屋のTくん」と呼んでいた。
自宅の作業場は小道からも丸見えで、
Tくんのお父さんは「飛び散る火花」で「湯玉」の顔、
歌とまったく同じ、いつも「仕事に精出す村のかじ屋」だった。

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

鍛冶屋
昭和20年までは、どの村でも鍛冶屋が見られた。
野鍛冶の場合、
農業で使う馬の足にはめる蹄鉄を作ったり、農具の修理もした。
刃先が欠けると、鍛冶屋はふいごの火で真っ赤に焼いて小槌で打ってもとに戻した。
農業の衰退とともに野鍛冶の仕事は減り、鍛冶屋は少なくなった。

・・・

 

「金光町 民俗編」 金光町  平成10年発行

 

 

鍛冶屋

鍛冶屋の仕事場は、広さ四、五坪ほどの土間である。
壁寄りには、ふいごが置かれ、
手前には仕事場・横座が掘られている。
誇座のまわりには、ふいごの火口や伸鋼させる鉄床、水を入れてあるフネがある。
火床の反対には、伸鋼させる向槌(むこうづち)がある。
ふいごは第二次大戦前後から人力からモーターに変わった。

農具の製作、
鍬先の歯継ぎなどの修理もしていた。
夏は四時、五時から仕事を始め、
冬は一日中仕事した。

・・

 

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富山の薬売り

2023年10月27日 | 失われた仕事

遊んでいると、
行李を風呂敷で包み、背負って歩く薬売りが通りすぎる。
薬売りは家々を一軒づつ訪ねては、薬の補充や相談、金銭の授受を行っていた。
薬売りを見ると、無性に「紙風船」が欲しくなる。
家に帰ると、母が薬売りと話していて、それを見ていると・・・
見ているのでなく、風船を催促している・・・風船をくれる。
それが嬉しい。
紙風船を持って飛ばして遊ぶ。
しかし、男の子が風船を飛ばすのは二日と持たない。
いわば、一日限りの紙風船の楽しみだった。

・・・

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

富山の薬売り


明治34年には富山市では8.000人近くが製薬と行商を行った。
富山市の人口が約6万人の時代である。
行商人は手甲脚絆の姿で年に1回か2回、薬品を行李に入れて、
紺色の大風呂敷に包み、背負って売って歩いた。

服用された薬があれば、新たに補充する。
薬以外の商売をせず、信用を大事にした。

戦後間もなくは、病院の数は少なく、なた夜中に急に具合が悪くなったとき、
病院の対応も十分でなかったので、富山の薬は頓服として効力を発揮した。
サービスで紙風船がもらえた。

・・・


「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行


薬売り

富山、総社から来ていた。
四段重ねの籠を薬袋に入れ、
大風呂敷に包んで背負って来ていた。
年に一~二回得意先を回り、
薬袋の交換、補充と集金をしていた。
薬行商人は、子どもへの土産として紙風船をくれており、
置き薬屋さん、オイッチニの薬屋さんと呼ばれ、親しまれていた。

・・・


「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

富山の薬売り

頭痛薬、腹薬、傷薬などの薬を各家庭に預けておき、
一年に一度、在庫状況を見に来ていた
薬箱の薬の差替えをして、
毛筆で通い帳と薬箱の蓋に記帳し、使用した薬代を決裁した。
紙風船を土産に持ってきていた。

 

・・・

 

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「少年」「少女」

2023年10月22日 | 失われた仕事

少年少女雑誌は多かった。
その頃、日本中に子どもが多かった。
町も村も、どこに行っても、どこを向いても、子どもがいた。

 

 

お金をだしてお遊ぶことは限られ、
漫画雑誌の場合、年に何冊か買ってもらうのが大方だった。
買った本は、何度も何度も繰り返して読む。1年間でも2年間でも。
近所の子の家に行けば、そこに漫画雑誌がころがっている。それを読む、何回も読む。

・・・

漫画の本は大門駅前の小さな雑貨店まで買いに行っていた。
その時というか、買いに行く道中は、嬉しかったし楽しかった。
買って帰ると近所の子達が待っていて、皆で読んだ。
「皆で読む」というのは、
本誌が一冊あり、
付録が5~6冊あった。
だから同時に数人が買って帰ったばかりの新しい本を順番に回し読みをすることができた。
たぶん、どこの村でも同じようにしたと思う。

・・・・

 

小学生当時は↓の漫画雑誌があった。資料(Wikipedia)
(太字はよく読んだ本、細字はあまり縁がないまたは記憶にない本)

「少年クラブ」 昭和21年 講談社 月光仮面、
「少女クラブ」 昭和21年 講談社
「ぼくら」 昭和29年 講談社 少年ジェット
「少年」 昭和21年 光文社  少年探偵団、矢車剣之助、鉄腕アトム、鉄人28号、
「少女」 昭和24年 光文社 表紙が松島トモ子
「野球少年」 昭和22年 芳文社  川上や青田の写真が多かった
「痛快ブック」 昭和28年 芳文社  植木金也の絵が多かった
「漫画少年」 昭和23年 学堂社 
「東光少年」 昭和24年
「冒険王」 昭和24年 秋田書店  沙漠の魔王、イガグリくん
「漫画王」 昭和24年 秋田書店  ぼくの孫悟空
「譚海」 昭和24
「日の丸」 昭和33年 集英社 
「少年ブック」 昭和24年 集英社 のちに「おもしろブック」 猿飛佐助
「少年画報」 昭和25年 少年画報社 赤胴鈴之助、イナズマ君、ビリーパック、まぼろし探偵
「なかよし」
「こども家の光」

・・・

 

漫画雑誌の全盛期は、映画産業の全盛期とも重なり、少年たちは時代劇や冒険劇を好んだ。
管理人の場合も、チャンバラ漫画を好んだ。
そのうちでも、『赤胴鈴之助』は別格だった。
漫画史上唯一の、
「漫画」「ラジオ」「テレビ」「映画」「レコード」と、当時の全主要娯楽産業に登場した。
今になっても、少年時代の想い出といえば『赤胴鈴之助』を抜きに語れない。

・・・

子どもの時、漫画雑誌を読み過ぎるぐらい読んだので、
中学校になると、ほとんど読まないようになった。
高校以後も、漫画を読むのは(別にきらいではないが)年間数時間程度を保った状態でつづいている。

・・・

 

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「小学〇年生」

2023年10月20日 | 失われた仕事

家から城見小学校まで1.5kmくらい距離があった。
朝の通学には、およそ1時間くらいかかり、
午後の下校には1時間20~30分かかっていた。
つまり、学校には行きも帰りも、遊び遊びだった。

下校は時間に制約がないので、途中の同級生の家の庭や縁側(えんだ)で遊んで帰っていた。
そのうち優等生Aくんの家には「小学〇年生」の本があった。
茂平の子どもの家、上級生や下級生、男の子や女の子の家でも、
小学館の学習雑誌「小学●年生」はみたことがない。
茂平では唯一の学習雑誌がAくんの家にあった。

Aくんの家で読む「小学〇年生」は新鮮な感じがした。
その訳は、まわりの家には少年・少女の漫画雑誌があふれていて、
表紙と最初のグラビアページ以外は漫画一色だった。
ところが「小学〇年生」には漫画のページが少なかった。
その漫画も、真面目なストーリーで異色な感じがしていた。

Aくんは、その学習雑誌を毎月定期購読していた。
Aくんのお父さんが笠岡に通勤していたので、買って帰ると言っていた。

・・・

上記は小学校の時の話で、
中学生になると、俄然、学習雑誌が身近になった。

高度経済成長の余裕や、進学、それに進学率の向上もあり、
同級生の
「時代が・・・」
「コースが・・・」
「友が・・・」
が教室で聞く普通の会話となった。
時代とは、学習雑誌「中学〇年生」。
コースとは、学習雑誌「中学〇年コース」。
友とは、学習雑誌「中学生の友〇年生」。
管理人も中学3年生になって、何冊が購入したことがある。

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

小学〇年生

 

1922年に「小学五年生」と「小学六年生」が創刊した。

2022年現在で「小学1年生」のみ刊行。

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ノーパン喫茶

2023年10月19日 | 失われた仕事

昭和57年頃、福島県いわき市に住んでいた。
その頃、雑誌や「週刊実話」等で”ノーパン喫茶”の流行が話題になっていた。
ある日のこと、
同僚と二人で外出中、時間調整(さぼり)で喫茶店に入ることにした。
せっかくだから(?)試しに一度、「話題のノーパン喫茶にはいろう」
ということになった。

お店に入ると、店内にはスタッフ(女の子)が5~6人、水着のような服装で立っていた。
イスに座ると、そのうちの女性一人が水とメニューをもって注文をとりにくる。
コーヒーを注文し、
コーヒーを飲んで、店を出る。
つまり、普通の喫茶店と同じで、違うのは女の子が露出していることと、
コーヒーの値段が、純喫茶より少し高かった。それだけ。

それだけと思ってしまったのは、
コーヒーを飲みに喫茶店にはいったのか?
ノーパン嬢を見るのが目的ではいったのか?
そこが中途半端だった。
チラッと横目でノーパン嬢・・・といっても、前述したようにノーパンというよりは水着に見えた・・・みるだけで、
新聞か週刊誌をさらっ読んで店から出た。
同僚も、「こんなもんか」と呆れるようなことを言っていた。

その店はいわき市平~小名浜の中間地点にあった。
それから、間もなくしてノーパン喫茶からゲーム喫茶へ転換した。

 

・・・

 

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

ノーパン喫茶

昭和57年頃、
女性従業員がおっぱい丸出しで、
しかも下半身はノーパンというコスチュームで接待する
「ノーパン喫茶」が全国的なブームになる。
思ったほどブームはつづかず、
翌昭1984年風営法が改正され、
儲けの大きい個室営業に特化し、それもまたじょじょに数を減らしていった。

 

・・・

 

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