しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

最後の自給自足

2014年12月18日 | 暮らし
高度経済成長は茂平にも押し寄せていた。
昭和40年頃を境に茂平から消えていった。


(父の話)
ゴミ?そんなもんはあるもんか。
豆腐も魚もみな、器を持っていくか、新聞紙にくるんでくれていた。


火を焚く
くべき、たきぎ、マッチ、うちわ。
燃えた木は火鉢、こたつ、消し炭。
灰はどこの家にも、はなれた所に灰を貯める子屋、「灰だめ」ゆぅんがあった。

人糞・牛の糞・鶏の糞
みな肥(こえ)じゃ。


電気代
電灯とラジオ。それだけ。


水道代
なし。井戸水。

(父はエンジン付きの自転車に乗っていた。ガソリンスタンドは当時なかったがどこで注いでいたのか?)

佐藤で注ぎょうた。(「佐藤」とは吉浜にある自転車屋)


吉本と番屋
酒とたばこは吉本だけ。(番屋には売ってなかった。)
番屋にはトオフを売りょうた。トオフは西の谷のフジイ。もっと前はイワさんの親父もつくりょうた。
番屋は物が少なかった。場所も吉本のほうがエかった。ほれじゃけぃ、吉本の方に人がきょうた。

吉本と番屋その2・・支払いは?
たいがいの人がツケ(掛け売り)じゃった。吉本も番屋も。

大宣の為乗

為乗は何でももってきょうた。酒でも焼酎でも。
着る物も為乗
着るもんは為乗、行商人、たまに福山・笠岡へ。


胡椒・七味・トンガラシ
胡椒はつかようらん。
家で使うのはトンガラシ。ピリッとしとるけぇのう。
(唐辛子は自給)


味噌・醤油
家で作る。

ソース
買ようたけど、そうつかようらん。一回買えば(一升瓶)そうとうもちょうた。


野菜
(買う野菜?)ねかった。
みなつくったものを食びょうた。



支払いは年二回
「ぼに」にはうちわをくりょうた。

農協で買うもの
農具関係
鎌・鍬やこ。
地下足袋

茶わん・陶器
福山やこへでて買ようた。

売りにもよう来ょうた。九州やこから商売人が。車へ積んで来て広げて市をだしょうた。晩に。
みんなよってたかって見にいきょうた。


洗濯
洗濯板でごしごし。

物干し棹
自分方のやぶで切ってきょうた。竹がねぃウチはかようた。やあしぃもんじゃ。

糊(のり)の話
めりけん粉を焚いてつくりょうた。
障子の張り替えにゃあ薄ぃのり。

洗濯ののりは「ぱりっと」して「風通しがええ」好きな言うひとと・・・うちのじいちゃんは好きじゃったが。わしゃかちんかちんになるんでそうじゃあなかった。

城見小学校の廃品回収
年に一回くらい大人が集めょうた。やれば、でぇしょう金になりょうた。
集めるもんは、ビン・新聞・雑誌・・・今とかわりゃぁへん。


蚊帳をはる
「どぶ」がのうなかって、蚊がわかんようになった。
ほれで蚊帳をはらんようになった。
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葡萄酒の密造で捕まる

2014年12月18日 | 昭和36年~40年
物心が付いた時には、既に家では葡萄酒を造っていた。
葡萄の粒の傷ものを有効利用して発酵させていた。
その葡萄酒は甘く、甘酒と同じ程度の意識で子供でさえ飲むことがあった。


しかし時代は変革していた。
日本経済も村社会も急速に変化して、この事はその時代を、ある面で象徴しているように思える。

(父の話)

(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。

そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!

作ったのは隠しとったんじゃじゃけぃど、じいちゃんが飲むけぃ出しとったら。
来たら探すんじゃけいのう、台所を。

飲んだやつを見られてのう、罰金くうた。

(田舎で葡萄酒を調べると)ぼっこうでるんじゃ。ウチがやられる、はるおさん方がやられる。
ぶどう作りょうる人は、なんぼうかこしらえる。


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禁止された「相撲クイズ」依然盛ん  山陽新聞「世相おかやま」より

2014年12月18日 | 昭和31年~35年
大相撲が栃若人気の頃、大人には「相撲クイズ」をする人がいた。
学校の帰り道、或るお宅では相撲クイズを手にしてラジオを聞いていた。

「相撲クイズ」はその日の取組票にどちらが勝つか印をする。(中入後の全取組)
取組が始まる前まで、興行人がその紙を取りに来る。控えを本人が以ってラジオやテレビを見て、当たったっか外れたか、取り組みが終わる都度印をしていた。

予想が当たる数が多いほど賞金が多かったのだろうが、子供だったのでその金額はまったくわからない。



以下、山陽新聞「世相おかやま」より

昨年7月の名古屋場所から禁止された相撲クイズが、最近また姿を変えて盛んになり。
相撲クイズでは歴史も規模も県下一といわれていた笠岡市の場合、禁止前は三つの勧進元があり、多いときは尾道・倉敷・岡山・井原・矢掛方面にわたり、13500人ものグループをつくっていた。
禁止後は鳴りをひそめていたが、最近元勧進元の一人が貸し本屋を始め、利用者へのサービスという形で用紙を配って投票を勧誘、このため他の同業者数軒でも対抗策として同じような相撲クイズを始めた。
現在では3000人くらいのグループをつくっているものと笠岡署ではみている。
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家の新築

2014年12月18日 | 暮らし
(父の話)

家の解体

村の元気なモンがみんなテゴをしてくれて壊した。
普通は組(茂平のそれぞれの組内)のもんが壊す。
おじいちゃんは、消防などをもっとたんで(組内以外から)茂平の元気なモンがようけい来てくれた。
土壁や、家の麦わらはみな、畑に持って行ってはねころがした。




柱の木

家を新築する木は賀山(妻の出所)から運んだ。
賀山で製材して馬の荷車で運んできた。
組むほうの木は(自分の、茂平の)うつろや、尾越の山の松を切った。
木はウチの木を使う。大工にいっしょに山に行ってもらい、木を見てこの木はどこに使う。それを決めてもらい木を切る。
茂平だけでなく賀山に行ってもらい見てもろうた。
(いっしょに山に行った)大工は棟梁だけじゃ。とらやん。
切る木と、切る長さも大工が決める。


製材は吉浜のさかもとでやってもろうた。

大工は製材後の仕上げをカンナでする。
その頃でも製材は福山でナンボかしてきていた。


壁の土は
お宮とどうめんから運んだ。
お宮は茂平の共有。
どうめんは畑をぶちぬぃてドロを取った。
お宮のは屋根に使うて、どうめんのはエエんで壁に使うた。


建具・電気
唐紙も、畳も自分で決めとった。(大工を通さない)




棟上げ

屋根に瓦を運んで葺くんから、壁を塗るんまでみなやってくれた。
大工や左官(しゃかんや)は指図をしただけで皆若いもんがしてくれた。

瓦は(見本を)左官が見せてくれたのをコッチが決め、決めたら左官が枚数を出して注文する。
瓦は四国から買うた。

(報酬は)飯を食うて、イッパイ飲ませて「ごちそうさん。」
(手伝いに来る人は)イッパイ飲んでヤーヤー言うだけ(が楽しみなんで)じゃけぇ、酒はようけい要った。

大工と左官には金を払うが、あとは「ごっつおうさん。」じゃった。
おじいちゃんもヨソである時には、そうやってテゴにいっとった。


支払い
瓦はウチに買う。ウチで払う。
大工には日当。大工は三人来ようた。棟梁、す~くん、ともう一人。
日当のほかにボーナス、寸志を払ようた。棟梁にはなんぼ、す~くんにはなんぼ、と。
なんぼ呉れとは言わんが、こっちから聞いてみる。そしたら、「このくれい貰よんじゃ。」言うておしえてくれる。

左官は日当だけ。

電機も家具屋も(大工の口添えでなく)自分でしょうた。
知っとる人に頼みょうた。
建具は大門の・・・とか。




※解体新築は昭和35年
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米の飯を食べる (麦飯を止めた)

2014年12月18日 | 暮らし
(母の話)

家の新築に手伝いに実弟が来て「ココにゃあ、まだ麦飯を食うとんか」と言われた。

そのころ、隣の親類のおばさんから「おねえさん、だまされた思うて米だけの飯にしてみ、そのほうが美味うて、量も助かるけぃ。」と言われた。
おばさんの所は米をようけいつくりょうたけぇ米の飯だけたべとった。

米の飯だけにしてみたらそのとおりじゃった。

麦飯は2~3杯食べんと腹がふくれんが米の飯は一杯食べりゃぁ腹が膨れた。

麦をまぜたご飯はかさかさして食うてもちょっとすると腹が減るが、米の飯は腹にかさばり減らん。
結局(麦・米をあわせたご飯のうちの米の量より)米の量は減って助かった。麦飯は結局損じゃった。


(そうして我が家から麦飯は消えていった。昭和36年頃の出来事)
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国道2号線の工事が始まった

2014年12月17日 | 昭和31年~35年
昭和33年頃、現在の国道2号線の建設工事が始まった。

ショベルやブルドーザーを初めて見た、名を覚えた。
大の児童はトンネル工事を自慢していた。

二号線の作業員宿舎は元隔離病棟の建物を使用した。
毎日学校への行き帰り、作業員宿舎を見ながら通った。
そこは歌の「浪曲子守唄」を思わす光景が見えていた。

(父の話)

(PTAなどでは二号線の工事では工事人夫などで風紀上の問題などはなかったのか?)
あった。
よその人間じゃけい、生徒は個人行動をせんようにしてくれ。親が監視する、いうことで。
親が気をつける。


追記・しかし親が監視するのを見たことは無い。
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茂平にバスが来る!

2014年12月17日 | 昭和31年~35年

それまで茂平にバスはなかった。笠岡に行くにも、福山に行くにも山を越えて大門駅から汽車で。
または用之江のアメリカ屋まで行ってそこで切符を買ってバスを待っていた。
新国道は工事が始まるか、始まっていた頃の事。


茂平に来だした井笠バスは朝~夕方まで日に2~4便だった。
笠岡駅発茂平行で農協茂平で折り返していた。切符売りは番屋がしていた。冬の朝は晩屋のおばさんが火を焚いて、運転手にサービスをしていた。


(父の話)

バスは茂平住民の誘致、頼んで会社のほうにいっていた。

茂平住民が市をとおさず、直接依頼して実現した。
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城見小の校庭に忠魂碑ができた

2014年12月17日 | 昭和31年~35年

(父の話)

(忠魂碑が戦後になって平和教育の校庭できる事が遅すぎたのではないのか?)


音頭を取る人いなかった。
音頭を取る人は軍人に関係している人だ。
のと、学校につくるからには学校の理解がいる。

その時は作ろうと言う事で城見小学校の校庭に創った。


学校にはつくっちゃぁいけんという時代じゃったが、ほかに・・・学校以外に・・作る場所も無く戦前に奉安殿があったところに作った。

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しょうやんの話

2014年12月17日 | 昭和26年~30年

しょうやんはいつも大きな自転車で魚を売りに来ていた。
しょうやんは金浦から来ていた。茂平でも銅山は最後で、売れ残りが回ってきていたようだ。
しょうやんの自転車の魚の木箱には氷がまだ残っていて、うろこの匂いのついた氷を一つ二つ失敬するのが楽しみだった。
親はよく鯨肉を買っていたような記憶がある。
しょうやんは子のみのるさんといっしょに来だしてそれから2~3年後には来ないようになった。みのるさんが一人で来るようになる頃になってしばらくして、車での魚売りになった。

(父の話)

しょうやんは、親の代から茂平にきとった。

今はミーさんの子がきょうる。
宮の下の辺で夕方仕事から帰る人にうっとる。

今は好きな物を好きなだけに買うんで、皆大門のウエルマートやそわぁな店でこうてくるけぃのお。

(しょうやんの時代は家からざるや器を持って買いに出ていた)

魚屋は近辺で捕れるものを持って来ようた。笠岡(笠岡魚市場)のが主じゃった。

それと「送り」があらぁの。よそから氷詰めで持って来るのが。
笠岡の市場で分けて。せぇもきょうた。


時々、うたせがきょうた。
夜、うたせ網をしたのが朝売りにきょうた。

戦前から来ようた。



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城見消防団の話

2014年12月17日 | 昭和31年~35年
(父の話)

ガソリンの消防ポンプになったのは昭和16年ごろじゃったろうか?
高こうてなかなか買えなかった。

それまでは手押しのポンプじゃった。

ポンプ車はそこまで押して引っ張って行き、そこでエンジンをかける。

その時には城見で3台買うて茂平・用之江・大宣に一台づつにした。


車は手押しで運ぶ。ワシらが1番遠くまでひっぱっていったのは金浦までじゃ。


消防訓練

エンジンをかけることだけじゃ。イザという時エンジンがかからんとどうにもならん。エンジンさえかかれば水はひとりでに出る。

消防車が自動車になったのは、笠岡市になった頃が同時に購入した。

大きな火事

それは笠岡にゃあなかった。島であったくれぃ
じゃ。


天野団長のこと

(天野団長は県議会議員で、県議会の大物としてさまざまな役職も多々あった。)

天野さんは議会もあり、あんまり(消防に)でてこん。ほれで、ぜんぶこっちでやりょうた。

副団長は二人おった。署長が職員で、あとは(団長・分団長など)職員でねえ。

合併して(笠岡市発足)から地区団長が分団長いうことになった。分団長を統括するのが団長。団長はみんなで決ょうた。

本職がおるようになって火事もすぐ行くようになった。

それまでは分団が消防車をもってかけりょうた。
本職(消防職員)がおるようになって、せいからは直ぐ飛び出すようになった。

(笠岡市が合併して出来た頃、本職の職員は)あわんな者はおりゃぁせん。ほれで、わしらがしていた頃こしらえたんじゃ。
ほれで別途に「消防署」ゆんが出来たんじゃ。

それが出来たら。”いざ”ゆうたら一番に来るようになりだした。
いつもおるんじゃものう。


それがおらん時は(消防署ができる以前は)サイレン鳴らしても人が寄りょうらなんだ。


消防団の役割は大きい

(消防署が本職をかかえる以前、消防団の役割は非常におおきかった。)

大きかった。今(すぐ署の消防車が発車する)とは比べもんにならん。


(市から貰うものは?)

年一回旅行しょうた。
それは市が出してくりょうた。




(母の話)
初代の会長は番屋のおばさん、次に大本の産婆さんが・・・しとった、ように思う。

(実際の火事への出動は?)
炊き出しに出とった。握り飯やこつくりに。

(ポンプ車での火事の消化活動は?)
したことはない。

(訓練は月に一度くらい?)
会合はあったが、訓練はなかった。

大会・儀式のときに隊を組んででるだけ。
出初式やこの時、笠岡高やこに行きょうた。

(隊員構成は?)

今といっしょ。婦人会はみんな。
会合におうちゃくな人が出ないだけ。

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