しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

五・四前後

2017年11月28日 | 大正

陳舜臣「中国の歴史14」平凡社1983年発行 より転記

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1914年8月ヨーロッパで戦争が起こりました。

日本は日英同盟でドイツに宣戦布告して、ドイツの租借地である青島一帯を占領し、軍政を施行したのです。
世界の目がヨーロッパにむけられているのは、日本の対中侵略には絶好の機会でありました。
北京駐在の日本公使の日置益は「対支交渉案件解決上の絶好の機会なり」と東京に進言しています。

これにたいして、東京は過剰反応をしたようです。ぜんぶぶっこんで、二十一ヶ条の要求となりました。
旅順、大連を含む関東州租借地は1923年に返還しなければなりません。満鉄の安奉線他も、買い取り請求があれば応じななければならない期日が迫っていました。
日本はそれらの権益を永久に確保するために、99年延長することを要求しました。

要求の膨大さに、進言した日置公使も困り果て、その「減量」を東京に求めましたが大隈内閣の加藤外相はうけつけず、原案通りに中国に提出したのです。
袁政権も抵抗し、交渉を重ねる事25回、日本側は最後通牒をつけつきた。

その後、中国各地に澎湃(ほうはい)としておこった排日運動は、この21ヶ条の要求が呼びおこしたものです。
清朝倒壊の原因は、国民の広範な「利権回収」運動が、とくに鉄道敷設権に集中され騒乱がおこりました。
そのことを知れば、外国が新たな利権を要求すれば、中国人民がどれほど敏感に反応するかが理解できたはずです。

近代の日本で、これほど大きな外交の失敗はなかったといえるでしょう。

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塘沽停戦協定②

2017年11月23日 | 昭和元年~10年
中公新書「新版日中戦争」臼井克己署(2000年発行)より転記

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翌1933年2月リットン報告の決議を賛成42票、反対1票(日本)で採択した。
松岡洋右代表は会議場を退場、連盟脱会を通告した。
同じ頃、現地満州では関東軍が熱河省で新たな軍事行動を開始した。
万里の長城が日本・中国の境界線となった。
天皇は長城を越えて南下することをかたく禁じた。
現地軍は無視し、北京への進攻は時間の問題とみられた。
5月30日塘沽で日中停戦会議が開かれ、停戦協定が調印された。

長城以南は中立地帯に設定された。つまり中国は長城までを満州国と事実上認めた事になる。

蒋介石は6月6日、日記に次のように書いた。
「このたびの停戦によって恥辱を蒙った。われわれは臥薪嘗胆、10年以内にこの恥辱をそそがねばならない。」


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塘沽停戦協定①

2017年11月23日 | 昭和元年~10年
中公新書「新版日中戦争」臼井克己署(2000年発行)より転記

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関東軍は満鉄の護衛を任務としていた。
1931年9月18日、奉天郊外で爆破されたと称し、一斉に軍事行動を起こし、南満州要地を占領した。満州事変の勃発である。
日本軍は中国の抗議、国際的な非難を無視してまで軍事行動を拡大し、人口3.000万人を擁する広大な地域に翌1932年3月新国家「満州国を」を樹立し、強引に中国から分離した。
中国は不法な侵略行為として国際連盟に提訴し、連盟は翌1932年3月イギリス人リットンを長とする調査団を中国に派遣した。
その調査報告が発表される直前の9月、日本は「満州国」を承認、国交を樹立した。
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