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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

菅生後出の山の神

2013年04月10日 06時55分17秒 | 山添村へ
峰出の山の神を拝見して後出を訪れた。

すでに勧請綱を掛け終えた頃であった。

焚火を燃やして暖をとっていた村人たち。

後出の山の神は御神体の山の神周りを囲むように勧請縄を置いている。



手前にクラタテが一つ。コウジミカン、クシガキ、クリ、トコロ、モチを供える。

傍には峯出と同様に農林業の七つ道具が揃えてあった。

クワ、サラエ、スキ、ツチ、ノコギリ、ナタ、カマ、ノコギリ、ツチノコ(カケヤ)などは当番に人が作った。

平成17年にはスキの代わりにトラクターがあった。

後出においても大刀がある。

それには高額な金額を墨書している。

村が金持ちになるように毎年金額を上げて高額にしていく。

昨年は横ばいであったが、今年は株価が上がったので少しあげたと話す。

平成17年のときは五億六千万円であったが数年ぶりに訪れた今年は六億五千万円。

徐々に上げている様子がよく判る。

山の神さんは防犯、厄除け、厄払い。

集落の出入り口から悪いものが侵入しないように勧請綱を掛ける。

後出の人たちの話によれば菅生は峯出、大垣内の他にも谷出(たんで)、上出、下谷の各垣内がある。

谷出は上、下それぞれに分かれている。

他にもカジヤ出がある。

カジヤと云えば鍛冶屋であろう。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

菅生峰出の山の神

2013年04月09日 08時21分30秒 | 山添村へ
平成17年、18年に訪れた山添村菅生の山の神参り。

木場(こば)とも呼ばれる数垣内のそれぞれで行われている山の神行事である。

大垣内でもあると云われているが未だに場所が掴めていない。

始めに立ち寄ったのは馴染みがある峰出垣内。

「ドウドウ」と云いながら勧請綱を担いで村中を走る。

その姿は平成22年1月6日に産経新聞奈良版で紹介した。

一年間のシリーズ連載であった「やまと彩祭」の第一号である。

訪れた時間帯であればその作業の真っ最中だと思ったが村人の姿は見られない。

老人会の寄り合いに向かおうとしていた村人婦人に尋ねた結果は昨日だった。

「子供がいてる休みの日曜にした」と云う。

前日に済ませていたのであった。

山の神は一つのクラタテ(倉立)と勧請綱が掛けられていた。

クラタテ横に農林業の七つ道具がある。

クワ、備中グワ、スキ、ナタに山の仕事道具のヨキ、カマ、ノコギリなどである。

傍らには大刀がある。

奉書で包んでいたので金額は判らない。



樹木に渡すような形に掛けた勧請綱の中央には房がある。

ホウガンと呼ぶ房である。

そこには和合の印しがある。

二股の木を差し込んで、三股の木を持つ男の子が二股の木の間に差し込むように入れる。

挿し棒で固定してできあがる。

山の生産と豊穣、大人へ成長する通過儀礼に村入りを示す在り方である。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

西波多下津の山の神

2013年04月08日 07時46分39秒 | 山添村へ
山添村西波多下津の山の神は氏神さんの吉備津神社の傍らの山の神の碑にある。



大きな刀に農具や山の神の道具を並べている。

墨書した「山の神」の大刀もそうだが、ホウの木で作ったクワ、備中グワ、スキにノコギリ、ナタ、カマである。



白い木肌が美しい山の神の道具は格別の工芸品作り。

村では大好評だったと伝える下津住民の知り合いから聞いた。

作って奉った本人にわざわざ電話をしてくださったのはお世話になっているカメラのキタムラ奈良南店の店員Tさんだ。

下津では一年任期の区長さんが作ると云う。

こんなに奇麗に作ったら「たまらん」と話したのは次の区長さんの声。

この日で区長を引き継いで供えた道具を見本に作るというのだ。

その場で見上げてみればカギヒキがあった。

クリの木のカギヒキに藁束で作ったホウデンもあった。

村で唯一の大ホウデンだそうだ。

下津の山の神参りは暗いうちに行われる。

モチ、トコロ、コウジミカン、クリ、クシガキ、藁束を持って村の男性が参る。

上出の人は宮川で、下出の人は河内川の下の橋の袂で手を洗って口をすすいで顔を洗う。

身を清めてから山の神へ参る。

大刀や山の農具を供えて今年の豊作と山仕事の無事を祈る。

それからホウデンを作って椿の木に引っかけてカギヒキをする。

「西の国の糸綿 東の国の銭米 大根は杵ほど 蕪は臼ほど 山の神のヤッサイヤーイ」と唱えてカギヒキの作法をするという具合だ。

藁束を燃やしてモチを焼く。

訪れた時間はすでに戻られたあと。

藁の焚火の跡がくすんでいた。

御供は持ち帰るから一切がなかったのである。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

大塩下出の山の神

2013年04月07日 08時15分01秒 | 山添村へ
山の神参りのすべてを拝見したキトラデ垣内以外に中村垣内、上出垣内、下出垣内の3垣内があると云う山添村の大塩。

中村垣内、上出垣内では山の神の場が掴めていない。

7月に行われた風の祈祷札立てで拝見した下出垣内はその場が判っている。

札を立てたその山の中にある。

そこでのクラタテはよりシンプルな形態であった。

竹を立てることなく藁束を敷いて半紙を広げる。

そこにクシガキ、ミカン、モチを供えていた。

山の神参りの在り方は在所の人が既に帰ったあとだけに詳しいことは知り得ない。

傍らの木に引っかけてあったカギヒキの木が残っていた。

カギの木はオツギとかクリの木を使うようだ。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

大塩キトラデの山の神

2013年04月06日 09時02分11秒 | 山添村へ
風の祈祷の際にお札を立てた場で「ここでは山の神参りをするんだ」と云ったひと言を聞いて伺った。

山添村大塩では4垣内(中村垣内、上出垣内、下出垣内、キトラデ垣内)それぞれの地区の人たちによる山の神参りが行われている。

この日に訪れたのはキトラデ垣内。

まだ暗い陽が昇らないうちに参るK家。

ご主人と息子さんはキタウラ坂を登って山の中に入っていく。

山の神に参るときには出合ってはならない、

出合っても絶対に声を掛けてはならないと云う。

早朝に参る山添村の山の神。

6時までに参るという地は岩屋、広瀬、下津、切幡、春日、片平などが知られる。

人に見られてはならないと云うから0時過ぎにも参る人もいると聞くことが多い。

山の神参りはいずれの地域も1月7日だ。

朝6時の山は真っ暗な闇の世界。

懐中電灯などの灯りがなければ崖に落ちてしまうような山の道を歩く。

息子さんが予め伐ってきた葉付きのカシの木を持っている。

山の神は遠く離れた地。

道中のある場所で山の石を探しだす。

小石を拾ったその場でフクダワラを作る。



K家の男の人数分とカギヒキに掛ける木の分の合計4本を作る。

手際よく作ったフクダワラの内部に拾った小石を詰める。

再び山中をさすらうように山の神を目指して登る山の道。

到着して直ちに掛けた葉付きのカシの木。

フクラソと呼ぶ樹木に引っかけるような感じで掛ける。

フクラソはフクラシである。

地域によって呼び名が異なる木だ。

その木の下に木の下に藁束を敷いて半紙を広げる。

四方にアマコダケを立てる。

中央には割いた長めのアマコダケを立てて、正月の祝い膳にあった盛ったヒシモチ、クリ、ツルシガキ、トコロを挟みこむ。

先にはキンコウジ(コウジミカン)を挿す。

この年は生憎、トコロを見つけることができなかった。



残念なことだがと云って供えた山の神の御供。

傍には道中で作ったフクダワラを置いてモチを1個供える。

クラタテと呼んでいる山の神のお供えである。

東の方角に向かって手を合わせる。

そうして始まったカギヒキの唄。



フクダワラもフクラソに括りつけて「にしのくにのイトワタ ひがしのくにの銭と米 あかうしにつんで うちのくらへ エントヤー エントヤー」とカギを引く所作をする。

これを「カギヒキ」と云う。

カギヒキの唄は繰り返して3回唱える。

山の神参りを終えた二人は供えたフクダワラとモチを持って山を下る。

キトラデ垣内は4戸の集落。

それぞれの家人が山の神に参るという。

お参りを済ませて家へ戻る下りの道中。



見つけた葉付きのカシの木を伐り出す。

これを「キリゾメ(伐り初め)」と云う。

伐採する本数は3本。

フクダワラと同様に男の人数分である。

12月31日はカシの木のキリオサメ。

山の仕事納めの伐り納めだと云う。

帰るまでにホソの生葉を燃やしておいた囲炉裏。

煙が立ち上がる。

その煙はビンボウ神だというが、行為は新しい福の神を迎える作法だそうだ。

伐りとって持って帰ったカシの木は家の前庭に立て掛ける。

山の神に供えた3本のフクダワラは家の蔵に納める。



ウチノクラと呼ぶ蔵の扉を閉じて手を合わした息子さん。

扉を閉めるのは「フク」が逃げないようにしているのだと云う。

山の神さんに唱えたカギヒキの唄に「ウチノクラヘ」がある。

フクダワラは「フク」。

まさに「フク」を蔵に納めた作法である。

山添村の堂前、三ヶ谷、勝原、遅瀬、伏拝などの各大字で唄われているカギヒキの唄に「うちのくらへ ドッサリコ」とある。

山の神さんに「フク」をお願いした銭と米は「うちのくらへ ドッサリコ」と入れたのである。

同じような台詞は宇陀市室生の深野や小原もあるそうだ。

納めたフクダワラは蔵から取り出してキリゾメしたカシの木に括りつける。



山の神の作法はそれだけではなく七草粥の風習に繋がっていく。

持って帰ってきたお供えのモチは囲炉裏で焼く。



囲炉裏のテッキュウ台はカシの木を2本。

端から端へと渡す。

火箸もカシの木である。

山の神参りにカシの木を伐った。

山の仕事初めは翌日の8日。

山の仕事をしてはならない7日の伐採は無礼講だと話す。

その木は他家の木であっても構わないそうだ。

炊事場では奥さんが七草粥を炊いていた。

この日の七草はハクサイ、ダイコン、カブラ、ナズナであった。

冬の季節には春の七草すべてを揃えることは不可能であると話す。

まな板に置いた七草は包丁で叩いて刻む。

おばあさんがいたときは「・・・なんとかのトリ・・・」と唄っていた。

『やまぞえ双書』によれば「とうと(唐土)の鳥と 日本の鳥が 打っちゃわしてコートコト かっちゃわしてコートコト」と唄っていた西波多下津の山の神が紹介されている。

どうやらその台詞と同じであったそうだ。

何べんも唱えながら七草を叩いて刻んだと云う台詞は継がれることはなかった。



囲炉裏で焼いたモチは男の人数の3人分に千切って味噌仕立ての七草粥に入れる。



できあがった七草粥はキリゾメをしたカシの木に少しずつ置いて手を合わせる。

すべての作法を終えて山の神御供下げと思える七草粥を食べるのは男性だけだ。



女性はどうするのかと聞けば同じように七草粥をいただくのであるが、山の神に供えたモチでなく別に搗いたコモチである。

七草粥を炊いた鍋に粥を残せば田んぼにたくさんの草が生えるという言い伝えがあることからすっからかんにするというK家の作法。

他の家はどのようにしているのか尋ねたことがないので判らないと話す。

今ではしていないが、かつてゆっくり寛いでこの日の午後はシモゴエ運びをしていたそうだ。

キトラデに上がる地。村の入り口である。

そこはカンジョシタと呼ぶ小字。

かつてはカンジョウナワを掛けていたのであろうと話す。

ちなみに大塩ではイモギをケンノキと呼ぶ。

柔らかい木だそうだ。

ケンノキを削って細工した大刀を供えているのは大西の山の神だそうだ。

(H25. 1. 7 EOS40D撮影)

福住町南田の勧請縄

2013年04月05日 08時29分52秒 | 天理市へ
村の初集会を終えた公民館会場は勧請縄作りに転じた天理市福住町の南田(みのだ)。

かつては正月3日だったが今は第一日曜日。

昭和の末に日程を替えたそうだ。

初集会に新しく区長が任につく就任日が勧請縄掛けの日。

一年任期になる区長は毎年交替される。

この日の朝はとんどであった。

南田は上と下の2地区で18戸。

それぞれの地区ごとにとんどをしていたという。

勧請縄の材料はヤナギの木、笹、フクラシの木に影干ししたモチワラである。

H氏が丹精込めて作ったモチワラは特別な米。

古代米の赤米である。

赤米は小粒だと話す息子さん。

粳米は9月に収穫するが古代米は11月初め。

霜が降りる頃の直前になるという。

会場半分を占領するようにブルーシートを広げて縄結いが始まった。

太くした藁束を捩って2本。

そこに一束の藁を被せるようにして捩る。

藁束を継ぎ足して長くする。

縄結いは始めが肝心。

県内各地で行われる縄結い作業はどことも最初の出だしが難しいという。

捩っても一本の縄になっていかない。

捩れば捩るほどぐにゃぐにゃ。

仕方なく長老の応援を煽いでやり直し。

右に巻いて左に捩る。

南田はそうして藁を結っていく。

ときおりお酒を縄にたらして手の滑りを止める。

徐々に長くなってきた縄結い。

順調に作業が進んでいく。

長くなった勧請藁は端からトグロを巻くようにぐるぐる。

その途中に挿し込む藁束。

それはアシ(足)になる。

トグロ巻きが増えるにつれて円盤の形になってきた。

アシが盤状に広がればまるで花火のような形に見えてくる渦巻き形の勧請縄。

跳ねないように身体で重しをかける。

かつての勧請縄はそうではなかったようだ。

勧請縄を掛ける地は下の地区。

昭和40年に暫定開通した名阪国道ができた当所は道切りで掛けていた注連縄であった。

道を跨ぐように掛けていたのである。

その後に道路管理の国交省より通達を受けて止めた道切り。

注連縄は円盤状の形で置くことになった勧請縄である。

縄ができればカワヤナギ、笹、フクラシと幣を中心部に括りつける。

それをカザリツケと呼んでいる。

かつて勧請縄掛けの場は3カ所あった。



平成22年の勧請縄には3本を幣を付けていたがこの年は1本だった。

公民館の床の間に置いてお灯明に火を点ける。

祓えの詞を唱えて勧請縄を祈祷する。



そうして今年の当番の5人は揃ってカンジョ場へ向かう。

3、4年に一度の回りだという。

勧請縄は相当な重さで肩に食い込むようだと話しながら歩く。



傍らには今朝のとんど跡がある。

一年間も村を守ってきた勧請縄は朽ちていた。

それも燃やしたとんどの朝だったそうだ。



名阪国道の橋脚付近に立て掛ける勧請縄。

かつては向こう側の道までも跨っていたというから相当な長さであったろう。

形式は替ったが村を守ることには違いがない。



手を合わせて村の安全を祈る。

(H25. 1. 6 EOS40D撮影)

藺生町青龍寺の初祈祷

2013年04月04日 06時54分49秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
藺生町青龍寺のオコナイで祈祷されるお札は朝から作っていたと話す寺総代。

「牛王」の版木は明治二十九年申正月一日新調された。

朱印も同時期であったと思われる。

版木刷りを終えればウルシ棒に挟み込む。

村の戸数分を作っていたという。

その場に居合わすことができなかったゴーサン刷り。

寺総代から後日に送ってくださった写真で作業の様子を拝見した。

しばらくすれば葛神社前の道に掛ける勧請綱も作る。

綱縄結いする場は青龍寺。

結い作業は葛神社の社守さん。

次年度に担うミナライの社守さんも手伝って6人で作業をする。

勧請綱に取り付ける房は葉付きのカシの木。

これを飾りと呼ぶ。

稲藁で作る勧請綱は一年間保ちたい。

そのためには心棒を中にいれ込んでの綱結いだ。

そうした作業を終えた午後に再び参集する。

村人たちも集まってきた。

手には初祈祷で作法されるランジョーで叩くフジの木。

めいめいの人たちがご自身で伐り取ってきたフジの木であるゆえ太さはまちまちである。

風呂敷包みも持ってきた。

重箱に入れた15個の御供のモチ。

本尊に供えるモチは行事を終えて宮さん(5個)や社守(一人3個ずつ)に分けるという。

初祈祷の行事は村の初集会を兼ねている。

寺の行事を終えて総集会。

しばらくは会食の時間。

それから神社前に勧請綱を掛けるそうだ。

かつては正月5日が初祈祷であった。

藺生町は上、中、並松の3垣内。

全戸45軒からなる村である。

初集会ではすべての家が参集する。

年末に交替した役員の紹介、ならびに総代の所信表明挨拶があるという。

ウルシ棒に挟んだごーさんや勧請綱を置く青龍寺本堂内にあがる村人たち。

初祈祷に参集する村人はほとんど。

およそ40人が座るだけに肩を寄せ合うぐらいに堂名内はぎっしりと詰まる。

組頭の進行で始まった法要は隣村の小山戸の安楽寺住職が勤める。

初祈祷のお経を唱える3分後辺りで「ダンジョー」と発する。

それを合図に堂床に置いた板を叩きつけるフジの木。



20年から30年前までは本堂の廊下だけでなく堂外の壁や戸板も叩いていたというダンジョーの作法である。

それから2分後、4分後にも発せられた「ダンジョー」。

合計3回行われる作法である。

その後は真言を唱える。のーまくさらまんだー、なむだいしへんじょうそん・・・。

しばらく読経が続いたあとは場を替えた住職。

供えたごーさんと勧請綱の前に座って般若心経を唱える。



村の五穀豊穣、村内安全を祈願した初祈祷はおよそ30分。

重箱御供の10個のモチとごーさんを持ち帰る。

苗代播種の際にハゼ米とキリコを入れた一升枡とともに水口に祭る。

豊作を願う農家の営みであったが離農或いは兼業農家が増えた現在は持ち帰る人も少なくなったと云う。

かつてはダンジョー叩きを終えたフジの木は萱葺き屋根の本堂の屋根に放り投げて帰ったそうだ。

かつては10日に行っていた勧請綱掛けはこの日に済ませている。

神社前の道を進めば桜井市の小夫嵩方に繋がる。

そことの境界にあたる地手前に勧請綱を掛ける。

村に悪病や災いが入ってこないようにという綱掛けはもう1カ所あると聞いた旧道。

どこであるのか聞きそびれた。

ダンジョーの作法は悪病を追い払う意味がある。

オコナイとも呼ばれる行事は正月初めに村の安全を願ったのである。

(H25. 1. 6 EOS40D撮影)

小倉町観音寺の初祈祷

2013年04月03日 06時54分42秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
1月6日は奈良市都祁小倉町の初祈祷。

観音寺の行事であるが、先だって初祈祷で用いられるウルシ棒を氏神さんの八柱神社に持っていき祈祷してもらう。

寺総代らの役目である。

それから数時間後に行われる初祈祷。

かつては堂下や堂内に板を置いて叩いていた。

子供が大勢やってきた時代である。

当時はフジの木で子供が叩いていたダンジョー。

今から50年も前のことだと話す。

フジの木の皮は柔らかい。

それを剥がしてお札を挟んで持ち帰った。

苗代に挿せば豊作になると謂れがあるごーさんである。

現在は板に叩きつけることなく堂内の畳床。

それは静かなものだと話す。

(H25. 1. 6 EOS40D撮影)

苣原大念寺のケイチン

2013年04月02日 08時25分33秒 | 天理市へ
度々訪れる天理市の苣原を通過しようとする際に大念寺を見れば数人の顔ぶれ。

宮座の宮本衆たちである。

この日は正月行事のケイチンだ。

「ダンジョー」の声とともに堂下の階段を叩く音が道路まで聞こえてくる。

一老の代理で神名帳を詠みあげていたのはニ老だ。



回廊に置いた太鼓を打つのは三老。

二老が唱える場は西福寺があったとされる方角。

薬師さんの前の祭壇。

ゆらゆら揺れる百灯明の灯りが美しい。

神名帳は天照大御神、金峯神社、熊野神社、八幡神社、住吉神社、白山神社、笛島神社、立山神社、廣田神社、多度神社、諏訪神社に引き続き、1月守護神大和国の各神社、2月は山城国各神社、3月は河内国、4月は津国、5月は和泉国、6月は東海道十五ケ国、7月は東山道八ケ国、8月は北陸道七ケ国、9月は山陰道十二ケ国、10月は山陽道八ケ国、11月は南海道六ケ国、12月は西海道十一ケ国である。

読誦の最中、突然に発せられるダンジョウのひと声。

それを合図に太鼓を打って、サクラの木は板を叩きつける。



村から悪霊を追い出すダンジョーは3度ある。

山城国、東山道、西海道の辺りである。

今でこそ大念寺の行事となっているがかつては西福寺の行事のケイチンであった。

苣原ではダンジョーの字を「担昇」と充てている。

苣原のダンジョーはこの日を含めて3回ある。

かつては1月11日に行っていた惣社九頭神社のオコナイ。

10年ほど前からは天理教の祭礼と重なるために9日になった。

2月1日は公民館でのダンジョ。

須賀神社の行事であるが場は公民館に移した。

呼び名、祭礼場所はそれぞれになるがいずれも作法は同じである。

55年ほど前のケイチンにはワラで作った「ダイワ」があった。

直径1mにもなる丸い藁輪。

モチワラで作ったダイワであった。

そこに竹串を挿す。

串の先にクリ、ツルシガキ、ミカン、イノコロイモなどを挿す。

宮本衆以外の村人二人が作るダイワの製作は2、3日も費やしたそうだ。

イノコロイモは別名にショウガイモ。

草原や宮さんに生えていたというイノコロイモ。

後日に調べた結果はキクイモだった。

イノコロと呼ばれているのは別もの。

後宴というマツリの翌日に宮本衆が奉納する剣とクリの木は厄除けの仕掛けだそうだ。

イノコと云えば亥の日に搗くイノコのクルミモチがある。

それは各家が食べるモチのことだ。

それはともかく行事を終えた「ダイワ」はどうするのか。

炊事場にあった直径1mもあるような大きな釜の台にしていたというのだ。

毎年こしらえて使っていたと云うから捨てずに扱った再利用である。

3年前に訪問した際にはケイチンのモチも供えていたと話していた。

そのモチをとんどのときに焼いた。

もう一つのモチは家に持ち帰って焼いた。

これを「ブトの口焼き」と云った。

「ブトは刺しよるんで焼いたるんじゃ」と云う風習は害虫除けのまじないである。

(H25. 1. 5 EOS40D撮影)

染田十輪寺初祈祷のタタキアゲ

2013年04月01日 07時40分58秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
村の安全祈願を正月初めに願う初祈祷が行われる宇陀市室生の染田。

春日神社の社務所に寄り合う。

初祈祷を始める前はオソナエ作りの作業だ。

ランジョー作法において十輪寺で叩くウルシ棒を鉈で三つに割く人たち。

かたやその木に挟む牛玉宝印の書に文字を書く人たち。

いわゆるごーさんと呼ばれるお札刷りであるが文字は「十輪寺 牛の玉 宝の印」である。



その書にご宝印を押す人たちとの分担作業。

この年は33本を作った。

一方、机で『寿命帳』を墨書する人もいる。

東組、西組それぞれに存在する名を書いていく。

両組とも一老、二老、三老・・・・に続いて孫の名まである。

墨書するのは両組の当屋。

村で決まっている順に書き記す。

それらの作業を見守る人たち。



『寿命帳』には数種の供物も書かれる。

一、□(判読不能字)釛 参流、一、燈明 壱ツ、一、成玉 壱枚、一、花餅 壱桶、一、神酒 一升、一、成玉 一枚である。

「成玉」はナラシモチと呼ぶそうだ。

文字が判読できなかった「□釛」は刀のようだと思うのだがと前置きされて持ちだした薙刀のような形の木の棒を一本。

それにもごーさんを挟む。

「参流」とは一体何の数量なのか判らないと話す。

書き終えた『寿命帳』の最後に「だんじゅう」と書き添える。

30分ほどで調えたあとは直会に移る。

両組とも揃った大当屋と神主は下座。

挨拶されてのちに染田の初祈祷の謂れを伝える。

「そもそも始まったのは応永十三年(1406)。605年前のことである。平坦の国中(くんなか)では騒乱の時代であった。そんな時代に東山中を守るため村人の士気を高めるために染田の天神大明神に集まった村人が取り決めしたダンジョーとケッチンであった」と述べる。

この日はフジの木で十輪寺の縁側をフジの木で叩くダンジョー(一般的に乱声)の作法がある。

『寿命帳』記された「だんじゅう」のことである。

ケッチンは翌週の10日に行われる鬼鎮(きちん)の弓打ちだ。

シンブリの木の弓で鬼の眼の玉を射る作法はいわゆるオコナイの行事である。



言伝えを述べられて配膳された三種盛り。

ゴボウ、コンブ巻き、煮豆(かつてはアゼマメ)は酒の肴である。

およそ1時間は正月初めの顔合わせでもある。

場は移って十輪寺の本堂へ。



ご本尊の地蔵菩薩像の扉を開けて般若心経を唱える。

ゆったりとした唱和が堂内に流れる。

唱和を終えると同時に発せられた「ダンジョー」。

縁側に設えた板に群がる人はフジの木を手にしてダンジョー、ダンジョーと大きな声で唱えながら叩く。

ダン、ダン、ダン・・・。



それを合図に飛びだした村神主が向う先は山の神。

お神酒を抱えて走っていく。

雪が舞う中を走る、走る。



十輪寺からそれほど遠くない小高い丘。

そこには山の神とされる石仏群がある。



そこにお神酒を撒いてすぐさま戻る。

その間はダンジョーの縁叩きが続く。

山の神まで届くような騒々しさは村から悪霊を追い出す作法である。

4分後に戻ってきた神主の姿を確かめてピタリと止んだ。

若い神主の足は速い。

追いつくことはとうとうできなかったがダンジョー作法は携帯電話の動画に納めることができた。



そうして祈祷されたウルシ棒のごーさん札は持ち帰って春の社日に苗代へ挿す。

豊作を願うお札である。

こうしたダンジョーの作法であるゆえ染田では初祈祷の行事を「タタキアゲ」と呼ぶ。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)