マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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南山城村北大河原本郷の山の神

2017年08月16日 09時00分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府の南山城村・北大河原に山の神行事があると聞いたのは前月の11月7日だった。

そのことを聞いたのは国津神社の年中行事を務めている3人の宮総代だった。

当日の午後6時に集まる子どもたちは村を巡ってお米代わりの米代集めをすると聞いている。

タイショウと呼ぶ高校1年生の子どもが年長者に下の子どもたち。

およそ2時間もかけて120戸~130戸からなる村全戸を巡るお金集め。

かつてはカヤクメシの御飯に調達するお米集めだった。

各戸すべてを廻り終えたら国津神社にやってくる。

やってくる時間までに宮総代らは神社でカヤクメシを炊いておく。

戻ってきた子どもたちは役目を終えてカヤクメシをよばれて終える村行事である。

集合時間は聞いていたが場所は聞いていなかった。

唯一、電話番号を教えてくださった宮総代の一人に電話をすれば案内すると誘導してくれた。

そこで待っておれば子供会の子たちがやってくる、と云われて待つ。

しばらくすれば暗くなった通りを歩く子どもたちがいた。

駆け寄って取材を伝える。

後方についていた男性にも声をかけたら、子供会の代表者だった。

これから巡るお金集めの子どもの父親だった。

今夜の取材に至った経緯を伝えるとともに撮影取材を承諾いただき同行する。

2組の子どもがくると聞いていたが、実際は4人。

高校一年生の大将をカシラ(頭)に2組分かれの米代集めに各戸を巡る。

代表が云うには村の全戸は120戸。

すべてを廻りきる時間帯は午後9時を過ぎるらしい。

各戸を廻るが、不幸ごとがあったお家のお金集めはしない。

主役は子どもたち。

親や大人は後からついていくだけだ。

今は親になった代表者が子どものころはお金集めでなく、本来姿のお米集め。

お家を巡ってお米を貰う。

お米は糯米でなく、粳米の白米。

お米は白いサラシの袋に入れてもらった。

当時は不幸ごとの家もお米貰いがあったが、白米でなく、「クロ」だったという。

「クロ」とは麦のこと。

二毛作があった時代であろう。

サラシの米袋に三合、五合枡いっぱいに盛ったお米を入れてもらっていたというから米袋はどれぐらいの枚数が要ったのだろうか。

今年の金集め役目を担う子どもたちは4人。

高校一年生が一人で中学生は二人。

小学生が一人の4人組。

タイショウ(大将)は高校一年生。

行き先々を先導し、「あそこへ行ってこい」と下の子どもに指図する。

元々は男の子だけで行う行事であったが、少子化によって男の子だけでは無理な人数となり、2年前から女の子も参加を認めて継承している。

なお、子供会は30年前にできたというからこの日の代表者がお米集めをしていたのは仮に10歳とすれば34年前。

そのころはまだ子供会もなかった。

その当時の子どもは15、6人もいた。

人数が多いから5人くらいに分かれた3組があちこち方面を決めて巡っていたそうだ。

そのときの対象者は小学四年生から高校一年生まで。

人数制限で小学三年生は含んでいなかったようだ。

今夜のように子供会の役員がついていくようになったのは今から20年前になるらしい。

ちなみにお米集めならぬお金集めの子供らの対象年は小学一年生から高校一年生までである。

高校生がいない場合は年長の中学生がタイショウになるようだ。

玄関の扉を叩いて叫ぶ「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」と囃す。

しばらくすれば玄関に明かりが点いて家人が出てくる。

袋を差し出せばお米ならぬ現金を入れてくれる。

表口から声をかけても出てこない。

呼び鈴を押しても出てこられない場合は飛ばす。



年齢がいった婦人は子どもの姿を見て「大きくなったね」と云ってくれる家もある。

その付近の家に懐かしい情景を思い出す。



割り木をくべて焚くお風呂である。

釜口に割り木が燃える炎が見える。

今でも現役で使っている家は何軒もあるという。

私が生まれ育った大阪市営住宅。

40年前までは木造住宅だった。

お風呂はガス式に移っていたが、その前の時代は割り木をくべて焚いていた。

割り木は近くの風呂屋で余った木を貰っていた。

それを斧やナタで割って薪を作っていた。

子どもの役目やと思ってしていたが、弟は記憶にないという。

で、あればガス化は早い時期だったかもしれない。

薪の火を見て思い出にふけている場合ではない。

取り残されてしまえば、どの家に向かっていったのかわからなくなる。

村内には明かりはあるが、街灯はあったのかどうか覚えていない。

「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」と声をかけるのは年長のタイショウら。

玄関を開けられたら「入っていいですか」と声をかけて了承を得たということ。



「敷居を跨がないと乞食さんになるから中へ入らしてもらってお米をもらっていた」というのは子供会の代表者。

親から伝えられてきた迷信であろう。

タイショウら年長者は女の子ばかり。

お米代もらいに袋の口を広げるのは下級の小学生に任す。



サラシの袋の口を大きく広げて家人がお金を入れやすいようにしている。

現金は千円。

村で決めた金額であるのか、どうかは知らないが、入れてもらったら「ありがとー」とか、「ありがとうございます」の丁寧語でお礼の言葉を伝えて引き下がる。

北垣内だけでも43、4軒もある。

県道163号線より南の西。

久保垣内の各戸も巡る。

道を渡って木津川辺りに下るまでにも何軒かがある。

家から出てきた家人は「なんぼさしてもらえたらえんのん」と子どもたちに金額を尋ねる。

この婦人は千円であるが、子どもたちが「気持ちだけ・・」だと答えたら、五百円玉を差し出す人もいた。

金額は決まっていないようで、「気持ち」のお米代を受け取って「ありがとー」。

一旦は県道に戻って数軒を巡る。



道路沿いにあるガソリン屋さんも村の人。

子どもたちが来たらお米代を袋に入れていた。

真っ暗な中を歩いておれば方角がわからなくなる。

向こう側の岸にあるのは大河原発電所だと指をさしてくれるがどこになるのかさっぱりわからない木津川支流。

垣内渋久に沿って流れる支流からなのか、川の名前は渋久川(しぶくかわ)。

昔は川に架かる鉄橋(現在は大河原大橋がある)もなく、向こう岸に渡るには渡船の木舟があったという。

おじいさんやおばあさんはその舟で渡っていた対岸先は南大河原である。

丁度その辺りが渡船の乗り場。



現在も使っていそうなプラスチック製の渡し船が、その存在を証言しているが、舟に乗って遊んでいたら「乗ったらあかん」と云われて怒られたそうだ。

再び県道に戻って渋久垣内。



旧街道筋に立ち並ぶ家々を巡って「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」。

元気な子どもの声が至る所で聞こえてくれる。

大きな声で「おくれ」と云えば玄関を開けて現金袋詰め。

大らかな村の行事に町の人であればびっくりすることだろう。



ところがだ。

当地に越してきた若い家族もいる。

新天地で商売をする家も何軒かある。

そこでも「おばちゃーん シロや クロやのコメおくれ」。

よくよく考えてみれば、いつも台詞は「おばちゃーん」である。

出てくる人が若い女性や男性であっても、呼び出し台詞は「おばちゃーん」である。



高齢の婦人が云うには「ここらは農家がとても少なかった。茶畑もなかったけど、ある程度の農作物は作っていた」と・・・おばちゃん話し。

「わしらのときは、学校が終わってからやっていたから、午後7時に出発していた」。

「宮さんの掃除に加わって山へ出かけていた。山へ行くのは枝木を集めて焚き口の薪にしていたからや」と話してくれたのは宮総代らである。

お米代貰いに巡って2時間経過。

まだまだ先に家がある。

渋久川(しぶくかわ)に沿って向かう先は垣内山口。

山ノ口にあたる地区であろう。

いつまでも元気な子どもたちについていくことは諦めて先に戻った国津神社。

境内では宮総代らが火を起こして大釜でイロゴハンを炊いていた。

釜炊きは子どもたちがやってくる時間を見計らって火を点けてイロゴハンを炊く。

かつてはもらってきたお米をもって炊いていた。洗ったお米を釜に入れる。

イロゴハンの具材は神社もちの費用で賄った。

今でもそれは変わらないが、現在は神社費用で賄ったお米である。

子どもたちはお米ではなく現金集めになってからそうしている。

具材は油揚げにシメジ、ニンジン、チクワ、ササガキゴボウ、マグロ味付けフレーク缶、だしの素に薄口しょうゆにお酒である。

味加減は宮総代のさじ加減であろうか。



計量は聞いていないが、昔はマグロ味付けフレーク缶でなく、サンマの開きだった。

そう話す宮総代は「開きは箸で崩して細かくした。それをイロゴハンに入れていた」というから、ご飯の味はサンマの味が勝っていたのかもしれない。

大釜は二つある、それぞれ一升ずつ炊くというから相当な量である。

炊きあがったイロゴハンは楠の葉に盛って神さんに供える。

楠の葉は皿代わり。



予め準備しておいてお盆に並べる。

葉っぱが九枚。

それぞれに飯シャモジで掬って葉皿に盛る。



暗がりの早い動作にピントも合わない。

宮総代長はお盆ごともって社殿に向かう。

社殿は三社ある。



右端の社が山神社。

いわゆる山の神である。



わかりにくいが三社それぞれの神さんごとにイロゴハン御供は三つずつ。



供えたら神さんに向かって2礼、2拍手、1礼。

もう一人の宮総代とともに拝礼された。

「山の神」は宮さんの行事だからこうしているという。

丁度、そのころにやってきた子どもたち。



トンドの火に温まる。

神社周辺になる本郷区は北垣内をはじめとする欠ケ原、久保、渋久、山口、泉ケ谷、荷掛垣内など。

120軒の家を巡って到着した時間帯は午後9時ころ。

出発してから4時間も経っていた。

冷え切った身体は火にあたって暖をとる。

北大河原は本郷区以外にもたくさんの垣内に分かれている。

浅子、泉ケ谷、ウワノ、大稲葉、奥田、押原、釜ノ子、上押原、上中谷、川浦、コブケ、小松原、小休場、下中谷、白見、辻押原、鶴辺、殿田、殿田平尾、中谷、中山、長谷、七尾鳥、西谷、広手、前畑、丸山、柳ケ谷。

これらの地域とは関係なく行われている山の神は本郷地区独自の村行事である。

トンドで身体を温めた子どもたちは宮総代が迎える社務所に上がらせてもらって炊きたてのイロゴハンをよばれる。

イロゴハンを詰めてもらうのは家から持ってきたプラスチック製の弁当箱。

父親の時代はお茶碗に盛ってもらって食べていたそうだ。

時代によっては異なる生活文化を感じる。



同行取材していた私どもにもよそってくれたイロゴハン。

美味しいだけにおかわりは何杯も。

自家製ではないがこれまた美味しいタクワンでさらに食が進む。

2升も炊いたイロゴハンはどうされるのか。



お聞きすればお家で待つ家族へのお土産に持ち帰るそうだ。

家族も美味しくいただいて一杯が二杯、三杯のおかわりをするそうだ。

イロゴハンをよばれている間は子供会役員が忙しい。

村の各戸を訪れて集めたお米代の清算である。

昔はタイショウがしていたそうだが、今は父親らが務める役員が清算する。

集計した結果はこの日にお米代集めをした子どもたちに分配される。



高校生は2万円。

中学生は1.5万円。

小学生は・・・。

それぞれ封筒に入れてもらった現金を受け取る。



嬉しそうに紙幣を数えるタイショウ。

その様子を覗き込む中学生。

来年にタイショウを務める子どもは目を輝かせた。

冒頭に書いたように30年前の人数は15、6人。

人数が多ければ多いほど分配金が低額になる。

人数が少なくてたいへんやったけどその報いがご褒美になる。

昔、お米集めをしていた大人たちが話すには、もらってきたお米はお米屋さんに持っていって換金していたそうだ。

ところで、この場は社務所でもある。



壁にずらりと並べた木札がある。

還暦・61歳の厄除け祈願もあれば、42歳、37歳、33歳、25歳、19歳もある。

枚数は数えきれない厄除け祈願の札に年度は違えども2月吉日が多いように思えた。

(H28.12.10 EOS40D撮影)


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