マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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滝本・Y家の暮らし歴史・文化を知る民俗譚2

2024年07月24日 07時44分06秒 | 民俗あれこれ
サフランの香りに沸騰した天理市滝本

話題は、再び、地下倉庫に戻ってY家が所有する民俗の用具などを紹介してもらう。

昭和19年から20年の期間。

そのころは、13歳から14歳のYさん。

天理女学校時代に作業をしていた、という柳本飛行場の整地。

そこでの整地作業に、「さしいなう」をしていた、という。

えっ、「さしいなう」とは、なんだ?

Yさんが、いうには”さし荷担う“である。

つまり”さし”で”荷なう”こと。

二人で担ぐモッコ運び。

整地に出てくるゴロ石を、モッコに入れてオーコで担ぐ。

前に一人、後ろに一人。

二人で担いでゴロ石を運ぶ。

頭ぐらいの石をゴロ石、といい、16個ほどの石をモッコに入れて運ぶ女学生。

授業の代わり、週に1度や2度目は修身として習っていたそうだ。

モッコは2種類。

縄編みと稲藁編み。

数本の稲藁を掴んで放り込む。

ラッパのような口に数本の稲わらを入れて手動の足踏み式機械の縄綯い機。

その縄綯い機で、長い稲わら縄をつくっていく


なお、電動式縄綯い機に移ったのは、戦後復興の時代、私が生まれた1951年前後になってからだ。

その電動式縄綯い機でさえ、農作業から消えた。

1970年代と聞くから、大阪万国博覧会を境に営み、暮らしがどっと変化した。

ちなみに県立民俗博物館には、こういった縄綯い機が屋外展示をしている。

古民家の正面からでは見えない裏にある


さて、モッコで運んだゴロ石。

その石は、竹で編んだ“スダテ”のような場に収め、コンクリートを流して滑走路に固める。

その固めに、鉄筋はない。

鉄は、どんなものでも軍に集められた。

鐘楼まで軍に没収された鉄のない時代に、代用したのが竹である。

日本は、石灰を産出する国だから、コンクリートは製造できたが、鉄は軍備。

不足の時代に工夫した代用竹。

だから、“鉄筋コンクリート”でなく“チッキン(※竹筋)コンクリート”と呼んでいた、と笑うが、現在はSDGsの時代


「放置竹林の増加に伴い、土砂災害が多発するなどの“竹害”を解決できるのに加えて、強度や耐久性に優れ、環境にやさしい建築材を開発することでSDGsにも貢献できるとして、竹筋に着目した」事業が存在している。

天井を見上げ、あれが、“チッキンコンクリート”や。



そこに見た竹で編んだ“スダテ”の電灯。

そっくり似ではないが、竹編みの仕組みを観て、思い出したそうだ。

また、稲藁は”スサ”と、呼び、土壁つくりに。

山に出かけて採取した赤土と練り混ぜてつくった土。

その土壁つくりに必要な竹。

今風の家でなく、昔の家屋はみな土壁。

我が家もそうであるが、内部を見てもらったらわかるように、竹を編んだところに土壁塗り。

”スダテ”は、魚を追い込んで手つかみ漁をするときの竹で編んだ簀。

その生け簀は、簾と同じような道具


大和郡山市内に多くみられる金魚の養魚場がある。

出荷の際に金魚を追い込む道具もまた生け簀である


女学生も動員していた整地作業。

昭和19年の12月7日の午後1時36分に発生した南海沖大地震(後年に改め昭和東南海地震)

地震のときは天理女学校・桜井女学校と同じ学舎内で遭遇した。

その日は、たまたま女学校にいた。

大きな揺れに、すぐさま飛び出した場は運動場。

揺れは、体育館だけが収まっても横揺れにガッシャ、ガッシャ音がした。

その女学校の門は、今も残っている。

小学校は6年生、4月からは女学校の1年入学。

13歳の子どもは、5年生になった昭和24年に天理女学校を卒業した。

寒いから毛糸にミトンで編んでつくった。

軍手が手に入らん時代。

上は女学生だが、下はモンペを着ていた。

女子制服も作っていたから、今でも裁縫が達者。

戦時下の暮らしに、大地震を体感、記憶も話してくれた。

そのころに食べていた手造りのおやつ。

サツマイモを潰し、餡を混ぜた。

サツマイモ・餡は溶いた小麦粉に挟んでつくっていたしきしき焼き


鉄製のほうらくで焼いていた”しきしき焼き”。

山添村は、それを”しりしり焼き”と呼んでいたらしい。

12月30日は、正月の餅搗き。

知り合いを呼び、30人もの人たちが機械式餅搗き。

仕上げに杵と臼で搗いた丸餅の正月の餅。

ネコモチを何本かつくって、コウジュウタ(※コウジブタ)詰め。

乾いてから切り、キリモチにしていた

豆腐に大根、里芋に、餅もいれた雑煮。

雑煮の餅は、一旦取り出して、皿に移す。

その皿に盛っていたキナコを塗して食べるキナコモチ。

テレビ番組にでも取り上げられる奈良特有のキナコモチ雑煮
であるが、全県におよぶものではなかったようだ。

正月雑煮は、オトコが台所に立って調理していた。

初水は若水(※わかみず)を汲んで、その若水で雑煮を炊いた。

大晦日の夜の里芋は、頭芋(※かしらいも)を食べる。

お椀に入れた煮もの。これも大晦日の夜に食べる。

正月三が日、その年の厄年の人がにらみ鯛を食べる。

食べる、と云っても睨むだけだからにらみ鯛。

マツリの夜宮にカケダイをしていたかも・・と

マツリにカケダイの登場は極めて珍しい。

以前、拝見した民家でしていたダイコクさんとエビスさんに供えたカケダイ

また、奥大和にあたる川上村・高原十二社神社の夏季大祭のほか、田原本町蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社摂社に恵比須社の三夜待ちに拝見したことがあるカケダイ。

それら3例と、ここ天理の長滝と一致するのか、どうか確信がもてない。

トーヤの膳にはモッソがあった。

鯛やこんにゃく、豆腐、里芋にくるみの餡。

芋を包み込むようにくるんでいるから“くるみの芋餅”も膳にあった。

膳の食は、ヒノキの葉に盛っていたそうだ。

そうそう、モッソをつくる道具がここにある、と棚から下してくれたマツリの道具。



モッソつくりの円筒形のワッカが3種類。

虫喰いもある祭具に年輪、滝本の歴史の深さを知る。

大小三つのワッカ。



その大きさに飯を詰める祭具である。

詰めた飯を取り出した、ソレがモッソ飯。

そもそも”モッソ”と、呼ぶ道具は、地域によってさまざま



ここ滝本では筒型だが、四方系の枡型もあれば、バケツのような円錐型もある。

”モッソ”は、これら飯を詰める道具。

詰めてできあがった飯を”モッソ飯”と、呼ぶ。

長滝では、3段の飯を詰めてつくったモッソ飯を中央に、そして餅は四隅に配置する。

前月の9月12日に訪れた際に、聞いていた長滝の宮座

Y家が、トーヤに務めたのが最後に村座になった。

20年前に記録したビデオに最後の宮座を収録していた。

神饌御供を供えていた祭具、道具は燃やそうとする意見もあったが、大切な道具だけにY家が預かり残した“モッソ”がこれだ。

宮座は解散。

その行事の仕組みも解放された。

また、また箱から出てきた用具。

一目でわかった高枕。



明治生まれの私の祖母もしていた高枕は、台形よりもっと高い高枕だった。

ただ、Y家のような綺麗なものではなく、頭を支える部分はほとんど木材。

頭を支える布はもっと薄かったような気がする。

子どものころ、おばぁちゃん、ちょっと使わして、と言って枕にしたが、子供でも肩が凝ってしまうほどの高さだったことを覚えている。

家の高枕は、おそらく箱枕。

箱に二つの高枕がセットされているから「夫婦枕」




しかも家紋もあることから、嫁入り道具として持ち込まれたのであろう。

ときおり、オークションやメルカリに見つかる高枕。

価格帯は、そんなに高くない


そして、またまた見つかったY家の掘り出し物。

まるで、発掘調査をしているような気がしてきた銅鏡である。



古式鏡でなく、時代的には江戸時代。

左側の柄鏡にあった刻印は「藤原光長」の名が・・・



銘に「藤原光長」があった柄鏡は、以前にも見たことがある。

稲刈りの〆に行われる農家さんの習俗。

大和郡山市・田中町に暮らすM夫妻にお願いし、カマ納めのカリヌケを取材していたときだ。

お家に、柄鏡があると教えくださり、記録に撮らせてもらった


そのうちの一枚にあった刻印銘記が「藤原光長」。

三つ葉葵の紋がある柄鏡には驚いた。

「藤原光長」は、江戸時代の中期から後期にかけての鏡師。

ここY家が所蔵していた銅鏡の文様に松の木を描いている。

中央に刀の鍔のような紋様がある。

これもネットオークションに多くみられる「藤原光長」記銘

レファレンス協同データベースによれば、「広瀬都巽『和鏡の研究』(角川書店、1978年再版)P159~の“江戸時代の鏡工”中に“鏡師銘記集”として鏡師が紹介されている。そこに同名があり、鏡師であったようであるが詳細はわからない。インターネットにて“鏡師、藤原光長”で検索してみると、江戸時代中期以降~大正頃に“光長”を襲名していた鏡師のようである。鏡の作製数も多く、ネットでオークションに出されていたりもする」と、あった。

柄鏡はもう一枚ある。

右手の柄鏡も銅鏡であろう。

左の「藤原光長」記銘の柄鏡より大きい。

この柄鏡にも刻印があり、「天下一田中伊賀守」記銘。



ただ、紋様は皇室の紋章として知られる16菊花弁。

いわゆる菊の御紋の菊花紋章であるが・・・

江戸時代、幕府により厳しく使用が制限された葵紋とは対照的に、菊花紋の使用は自由とされたために、一般庶民にも浸透し、菊花の図案を用いた和菓子や仏具など、ほか飾り金具にも用いられ、各地に広まった菊花紋章。

銘に「天下一田中伊賀守」もまた、鏡師。



鋳物師や、ここ鏡師にも”天下一”を称した作品を製作する人たちがいる。

山梨県立図書館・レファレンス事例集によれば「柄鏡は、室町時代の末期から製作されていたようですが、文字入り鏡は主として江戸時代後期の所産です。桃山時代、織田信長の手工芸者の生産意欲の高揚促進を目的とした政策の一つで ある“天下一”の称号公許制度により、鏡に“天下一”の銘が施されるようになりました。江戸時代には鏡師全員といっても過言でないほど使用するようになったため、天和二年(1682)に、“天下一”の使用禁止令が出されました。そこで、“天下一”の代わりに、石見守、肥前守といった受領国名を使用し始めました。江戸後期になると、作者銘は“橋本肥後守政幸”というように、姓・守名・名乗という長いものが好んで使用されました」と、ある。

そうであれば、Y家が所有する「天下一田中伊賀守」柄鏡は、使用禁止令が出される前。

つまり、天和二年(1682)以前に製作した、と推定される逸品。

織田信長の時代にはじまった、とされる工人に「天下一」の称号。

鏡師だけでなく茶釜を作る釜師や、鉦などを製作する鋳物師、漆工品の塗師{(ぬし)にも付与されたという「天下一」。


旧いものであるには違いない。

ただ、Y家が所有する「天下一田中伊賀守」柄鏡に、三文字の墨書が見られる。

後年において、どなたかわからないが、墨で印しを入れた「丼イシ?」は何らかの暗号か?

「天下一」の称号はもう一枚ある。

柄鏡でなく、見た目では札型の小型手鏡。



たぶんにたわわに実った葡萄をあしらった紋様に、またもや天下一の称号の「天下一杢村因幡守」記銘。

年号でもあればいいのだが・・・

続いて取り出された一品。



見慣れない道具だが、柄鏡と同じ場所に保管していたことから、柄鏡を見ながら、お化粧をするおはぐろ道具。



当初は、仏具では、と思っていたが、柄鏡合わせにお化粧道具のおはぐろ一式であった。

次に見る道具は、ホッカイ(※地域によっては、ホッカイが濁ったボッカイ)。

ぼっかい事例を拝見した地区に吉野町・吉野山口神社がある。

ここ山口のほか、香束(こうそく)、西谷、平尾、佐東、峯寺の六カ大字からもちこんだ「ぼっかい」によって運ばれた神饌餅


ちなみにホッカイを充てる漢字は「行器」である。



Y家が所有する「ホンホッカイ」は、4本の足がある。

嫁入りの際、実家の両親或いは付き人が担いで婚家に運ぶ「ホンホッカイ」の中身は、目出度い赤飯だった。

赤飯は、婚家の隣近所に配るが、その際に配る容器は各家が使っている重箱。

一方、丸みを帯びたホッカイは、これも目出度い紅白饅頭を詰めていることから「マンジュウホッカイ」と呼ぶ



「マンジュウホッカイ」は婚姻から一週間、或いは一か月後に、実家の両親が「娘がこれからよろしゅうに・・」、と持ってくる、と話してくれた。

なお、「ホンホッカイ」に「マンジュウホッカイ」は、それぞれに一対ずつである。

この日も、また長居してしまった天理市滝本に住むY家の民俗譚。

午後2時から5時まで。



先に紹介してくださったサフランを含め、およそ3時間にわたるY家の暮らし民俗を聞き取りさせていただいた。

車に積んでもって帰ってや、といわれて受け取った雌蕊つきの4株のサフランに、家の実成りだから、と富有柿も、椎茸も受け取った。

同行取材していた写真家のKさんと、分け分け。



この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第だ。

(R3.10.31 SB805SH/EOS7D 撮影)


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