飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』に一文がある。
「Ⅴ 年中行事」の「明日香村の年中行事」である。
一年中、何がしかの年中行事がある明日香村。
習俗は県内の他地域とそれほど変わらない。
一部については地域固有の習俗もあるが、ここではトンドの火から派生する小正月の小豆粥御供についてあるお家の在り方を伝える。
文中の解説に「明日香村では、ほとんどの大字が1月14日のトンド(高齢者はドンドと言い慣わす)を行う。上(かむら)の上垣内は15日の朝に行う。前日までに子供たちが正月の飾りやワラをムラ中から集め回る。・・・中略・・・上居(じょうご)・上(かむら)・岡などもアキの方から火を点けるという。上(かむら)の火点け役はF家が担っている・・・」とある。
これから取材させていただくお家はF家。
ただ、『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』の一文に書かれたF家ではない可能性もある。
上(かむら)には数軒のF家がある。
上垣内に住む本家、分家のF家は存じているが、当人たちの記憶は尋ねていない。
F家を存じたのは前年の平成28年6月12日。
家さなぶりをされているお家を探していた。
伺ったFさんの話しを聞くうちに本家とわかった。
誌面で紹介されていたものの、そのときだけだったかもしれない。
当時に調査、報告された調査員に伺うしかないが、遙か30年前の状況に息子さんは覚えがないようだ。
と、いうのもかつては大トンドであったが、今は各戸がそれぞれにされる小トンド。
昔と今ではトンドの形式も替わっていたのである。
お会いしたこの日に数々の行事・風習を教えていただいた。
その一つが本日に取材させていただく小正月の小豆粥御供である。
炊いた小豆粥を供える。
粥はビワの葉に乗せて供える。
ビワの葉は裏側を表にして、そこに盛る。
ビワの葉は50枚にもおよぶと話していたから、屋内どころか屋外の50カ所である。
家にある神棚に戸口。
かつては火を焚いていた竃にも供えた。
屋外では庚申さんや田んぼまで供えていると話していた。
それはどのようにされているのか、写真を撮らせてくださいとお願いしていた。
時間は当日のある時間になる。
本来はもっと早い時間帯であるが、取材があるこの日は時間帯を考慮してくださった。
お会いするなり確かめたい上(かむら)の行事がある。
大晦日の31日に村の人たちは各戸めいめいの時間帯に氏神さんに供える鏡餅である。
供える神社は気都和既(けつわき)神社である。
息子さんの話しによれば今年は14軒も供えていたそうだ。
昔は40軒も50軒もしていたというから壮観な状況であったろう。
気都和既神社は上(かむら)に鎮座しているが、関係する大字は上(かむら)の他に細川と尾曽の近隣三カ大字だけに多かったのである。
正月の祭り方は早めに拝見しておくことも必要だと思った。
さて、F家の小正月の小豆粥御供の在り方である。
屋敷内は花輪に2カ所、庭に3カ所。
三輪明神に庭の神さん、トイレの神さん、床の間、仏さん、などなど・・。
供える場所を一挙に云われるが、どこにどうあるのか、探してみなければ・・。
息子さんが付いて案内してくださる。
実は、屋敷内については到着するまでに済ましていたのだ。
まずは玄関。金魚鉢ではなく、花輪と云っていたシクラメンの花鉢に、である。
ふと気がついた玄関内側に貼っていた2枚の小紙片。
一つは逆さ文字の「氷柱」で、もう一枚は正立に貼った「立春大吉」だ。
僅か数cmの小紙片には、それ以外の文字がない。
呪いを書いた特徴のない護符は、いつのころにもらってきたのか、誰が貼ったのか記憶にないということである。
「立春大吉」は度々お目にかかる護符。
邪気を家から追い払って「福」を招き入れるが、これまで訪れた民家の玄関内側のお札には「氷柱」の護符は見られない特徴的なもの。
2枚とも手書きではなく印字文字。
糊をつけて貼ったと思われるが、「氷柱」の護符の意味はさっぱりわからない。
風情がある中庭を先に拝見する。
何の神さんかわからないが供えているという。
それは五輪塔の名残とも思える石造物に大岩もある。
これらは庭の神さん。
祠に祀っているのは三輪明神のようだ。
離れの縁側にも供えている。
撮りやすくするためにガラス窓を開放してもらった。
トイレの神さんはトイレがある廊下の窓の桟に乗せていた。
屋敷内は数々あるが、部屋内を物色するわけにはいかず、仏さんに手を合わさせてもらってシャッターを押す。
今年のトンドは1月8日に行った。
かつては1月15日の朝にしていたトンドであるが、今は第二日曜日に移った。
その日は垣内の初集会があるからそれも日程を替えた。
現在のトンドの日は、祝日の成人の日の前日。
つまりは第二日曜日となる。
トンドで燃やす竹の具合もあるが、燃えていくにつれて竹は破裂する。
その音は大きな音でポンを発する。
景気が良い音が鳴れば今年は豊作やな、と云っていた。
長めの竹に串挿すようにモチを取り付けてトンドの火で焼く。
上垣内のトンドでは、「ブトも蚊もいっしょくた、まとめて口や」というて投げていた。
「ブトの口、ハブ(普段はヘビと云っている蛇のことをトンドのときはハブの名称になる)の口」と云いながら、小さく千切ったモチをトンドの火に投げ入れた。
噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる。
毒虫というて、ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する。
トンドの話題はまだまだある。
トンドに燃えカスがある。
カスと云えば失礼な表現であるが、竹など燃えた材は炭になる。
昔のことだが、という但し書き。
燃えた炭は持って帰って竃の火にした。
その火で炊いていた正月の餅。
炭火は薪直接には移らない。
畑で育てた黒豆を収穫した際に残しておいたマメギ(豆木)である。
マメギは火点けの常とう手段。
どこでもそうしていたが、昔は白豆だったというから面白いものだ。
毎年の餅搗きは4臼も搗いていた。
今では3臼になったというから、まま多い。
正月の餅搗きは12月29日。
現在は30日にしているという。
餅の名に「マルクタのモチ」というのがある。
これは小餅のことで、搗いて柔らかいうちに指で押してできるエクボの窪みを作る。
これを「マルクタのモチ」と呼んでいる。
雑煮は砂糖を入れた白味噌仕立て。
ニンジン、ダイコン、コイモに豆腐を入れた雑煮である。
トンドの話題は尽きないが、これより始まるのは屋外の神さんなどに供える小正月の小豆粥である。
坂道を下って参る地蔵さんもあるので息子さんも共にする小豆粥御供。
お供えする場はとても多い。
農小屋にあるトラクターをはじめに作業小屋、山の神さん、神社の庚申さん、金毘羅さんに地蔵さん。
地蔵さんは足痛地蔵もあれば子安地蔵もある。
杖をついて出かけるのは昭和5年生まれの母親。
この年には87歳になるご高齢の身。
供える小豆粥にビワの葉などを風呂敷に包んで運ぶのは昭和28年生まれの息子さん。
昨年来からの行事取材にたいへんお世話になっているご両人である。
まずは自宅すぐ近くにある農小屋というか農機のガレージも兼ねた駐車場がある作業部屋である。
その前にすべき場所は畑を耕してくれるトラクターだ。
今は農閑期だから埃を被らないように白い布で覆っている。
その次は事務室にもなっていそうな作業部屋である。
どこに供えるのかと拝見していたら、ダルマストーブの上に、であった。
こうした供え方をされているとは予想もしていなかった。
次は作業部屋から出たすぐ傍にあるコンクリート片である。
何本かあるが、何であるのか聞かずじまい。
ビワの葉に箸で摘まんだ少量の小豆粥を供えた。
ここまで見てきたが、いずれも手を合わせることはなかった。
そこからは急な坂道を下っていく。
今では集落の前を走り去る車路がある。
その道路は談山神社へ通じる自動車道。
10数年前に開通したそうだ。
下る道はそこではなく元々ある村の道。
つまりは里道である。
急な坂道だけにお年寄りには辛い道であるが、軽トラ一台ぐらいは通れる道に沿って流れる川がある。
その向かい側の茂古(もうこ)ノ森に鎮座する神社は気都和(けつわき)既神社。
江戸時代までは牛頭天王社の名であった延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する神社である。
上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した神社にも小豆粥を供える。
神社の前に供える場は庚申さん。
どなたかわからないが、先に供えたビワの葉に盛った小豆粥があった。
枚数を数えてみれば5枚。
いずれも積もった雪に埋もれていた。
何時ころに降ったのか知らないが、民俗取材に訪れた時間帯は10時前。
F家が屋外に供えていた時間帯は午前11時過ぎ。
白い雲に拡がる青空であった。
先行する村人の供えた傍に供えるご主人も一枚。
神社に登って本社殿にも供えて降りてくる。
次は金毘羅大権現の刻印がみられる場にも供える。
ここにも先客が供えていた。
神社の次は里道向こう側に立つ路傍の石仏地蔵。
ここにも先客が供えていた。
その次は西田地蔵。
厚めの石板のように思えるが、刻印文字が読み取れない。
そこよりすぐ傍にも石仏地蔵がある。
ご主人が供えている姿をずっと横で見ていた母親。
お供えを済ましたら、入れ替わるように降りてきて手を合していた。
たしか名前は足痛地蔵だったように思える地蔵さんは屋根付き。
隣に灯籠もあるぐらいの珍しい形態のように思えた。
その向こうにも石仏地蔵がある。
そこに供えている間も、足痛地蔵にずっと拝んでいた母親の姿が愛おしい。
こうして並んだ3体に供えたら母親は坂道を登って歩く。
ご主人はさらに下って子安地蔵にも供えるが、母親は先に自宅に戻ったようだ。
子安地蔵は高さが相当ある。
立派な祠の内部に安置されている地蔵さんは涎掛けもあるが、昔のままのようだ。
子どもの誕生がなかったのか、それとも信仰が薄くなったのか、そのことについては聞いていないのでわからない。
子安地蔵さんも先客が供えた小豆粥が3枚。
どれもビワの葉に盛っている。
そこへ一枚の小豆粥を供えたご主人も自宅に一旦戻る。
これまで拝見してきた小豆粥。
Fさんも云われていたが、昔は粥だったが、最近はご飯になったとか。
こうして並んでいるお供えをじっくり見れば、小豆ご飯であった。
この小豆ご飯をアズキメシと呼んでいた。
自宅に戻られたご主人は玄関前にも供えた。
次に向かう先は新墓。
自宅から歩いて近距離の場に新しく作られた。
旧墓は山の上。
そこへ行くには母親の足では無理がある。
他村でも聞く旧墓から新墓への移設対応である。
県内各地の民俗事例を取材していれば見えてくる私設墓地。
自宅近くに建てる場合が多いように思える。
朝一番はここにも雪が積もっていたという。
供えた場所は何カ所になっていたのだろうか。
正確な数字はわからないが、摘み取るビワの葉が50枚にもなるというから、相当な枚数というか、相当なお供えの数である。
すべてを供えきるまでの時間も相当要した。
お供えをしながらも上(かむら)でしていることもお話しくださった農作業など。
当地もハザカケをしていた。
3本の木材を組んで収穫した稲を干すハザ。
その作業を「ダシカケ」と呼んでいた。
「ダシ」とは何であろうか。
水平に架ける竿そのものの名であろうか。
用例としては「これからダシカケをする」という、作業初めの声かけである。
また、ダシカケをする3本組み足に水平竿をひっくるめて「カコ」と呼んでいた。
朝に干して、イネコキをする。
上(かむら)の上垣内は5軒の田んぼがある。
苗代をしているのは4軒というから、今年の苗代時期には寄ってみたいと思ったが、実際はJAから苗を買っているそうだ。
昔の苗代作りは直播き。
育った苗の苗取りをしていたという昭和5年生まれの母親。
田植え仕舞い(ウエジマイ)に家さなぶりをしているようだ。
また、3月に行われる「ハッコウサン」はかつて11日にしていたが、現在は12日。
祭事時間は午後になると伝えてくれた。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)
「Ⅴ 年中行事」の「明日香村の年中行事」である。
一年中、何がしかの年中行事がある明日香村。
習俗は県内の他地域とそれほど変わらない。
一部については地域固有の習俗もあるが、ここではトンドの火から派生する小正月の小豆粥御供についてあるお家の在り方を伝える。
文中の解説に「明日香村では、ほとんどの大字が1月14日のトンド(高齢者はドンドと言い慣わす)を行う。上(かむら)の上垣内は15日の朝に行う。前日までに子供たちが正月の飾りやワラをムラ中から集め回る。・・・中略・・・上居(じょうご)・上(かむら)・岡などもアキの方から火を点けるという。上(かむら)の火点け役はF家が担っている・・・」とある。
これから取材させていただくお家はF家。
ただ、『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』の一文に書かれたF家ではない可能性もある。
上(かむら)には数軒のF家がある。
上垣内に住む本家、分家のF家は存じているが、当人たちの記憶は尋ねていない。
F家を存じたのは前年の平成28年6月12日。
家さなぶりをされているお家を探していた。
伺ったFさんの話しを聞くうちに本家とわかった。
誌面で紹介されていたものの、そのときだけだったかもしれない。
当時に調査、報告された調査員に伺うしかないが、遙か30年前の状況に息子さんは覚えがないようだ。
と、いうのもかつては大トンドであったが、今は各戸がそれぞれにされる小トンド。
昔と今ではトンドの形式も替わっていたのである。
お会いしたこの日に数々の行事・風習を教えていただいた。
その一つが本日に取材させていただく小正月の小豆粥御供である。
炊いた小豆粥を供える。
粥はビワの葉に乗せて供える。
ビワの葉は裏側を表にして、そこに盛る。
ビワの葉は50枚にもおよぶと話していたから、屋内どころか屋外の50カ所である。
家にある神棚に戸口。
かつては火を焚いていた竃にも供えた。
屋外では庚申さんや田んぼまで供えていると話していた。
それはどのようにされているのか、写真を撮らせてくださいとお願いしていた。
時間は当日のある時間になる。
本来はもっと早い時間帯であるが、取材があるこの日は時間帯を考慮してくださった。
お会いするなり確かめたい上(かむら)の行事がある。
大晦日の31日に村の人たちは各戸めいめいの時間帯に氏神さんに供える鏡餅である。
供える神社は気都和既(けつわき)神社である。
息子さんの話しによれば今年は14軒も供えていたそうだ。
昔は40軒も50軒もしていたというから壮観な状況であったろう。
気都和既神社は上(かむら)に鎮座しているが、関係する大字は上(かむら)の他に細川と尾曽の近隣三カ大字だけに多かったのである。
正月の祭り方は早めに拝見しておくことも必要だと思った。
さて、F家の小正月の小豆粥御供の在り方である。
屋敷内は花輪に2カ所、庭に3カ所。
三輪明神に庭の神さん、トイレの神さん、床の間、仏さん、などなど・・。
供える場所を一挙に云われるが、どこにどうあるのか、探してみなければ・・。
息子さんが付いて案内してくださる。
実は、屋敷内については到着するまでに済ましていたのだ。
まずは玄関。金魚鉢ではなく、花輪と云っていたシクラメンの花鉢に、である。
ふと気がついた玄関内側に貼っていた2枚の小紙片。
一つは逆さ文字の「氷柱」で、もう一枚は正立に貼った「立春大吉」だ。
僅か数cmの小紙片には、それ以外の文字がない。
呪いを書いた特徴のない護符は、いつのころにもらってきたのか、誰が貼ったのか記憶にないということである。
「立春大吉」は度々お目にかかる護符。
邪気を家から追い払って「福」を招き入れるが、これまで訪れた民家の玄関内側のお札には「氷柱」の護符は見られない特徴的なもの。
2枚とも手書きではなく印字文字。
糊をつけて貼ったと思われるが、「氷柱」の護符の意味はさっぱりわからない。
風情がある中庭を先に拝見する。
何の神さんかわからないが供えているという。
それは五輪塔の名残とも思える石造物に大岩もある。
これらは庭の神さん。
祠に祀っているのは三輪明神のようだ。
離れの縁側にも供えている。
撮りやすくするためにガラス窓を開放してもらった。
トイレの神さんはトイレがある廊下の窓の桟に乗せていた。
屋敷内は数々あるが、部屋内を物色するわけにはいかず、仏さんに手を合わさせてもらってシャッターを押す。
今年のトンドは1月8日に行った。
かつては1月15日の朝にしていたトンドであるが、今は第二日曜日に移った。
その日は垣内の初集会があるからそれも日程を替えた。
現在のトンドの日は、祝日の成人の日の前日。
つまりは第二日曜日となる。
トンドで燃やす竹の具合もあるが、燃えていくにつれて竹は破裂する。
その音は大きな音でポンを発する。
景気が良い音が鳴れば今年は豊作やな、と云っていた。
長めの竹に串挿すようにモチを取り付けてトンドの火で焼く。
上垣内のトンドでは、「ブトも蚊もいっしょくた、まとめて口や」というて投げていた。
「ブトの口、ハブ(普段はヘビと云っている蛇のことをトンドのときはハブの名称になる)の口」と云いながら、小さく千切ったモチをトンドの火に投げ入れた。
噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる。
毒虫というて、ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する。
トンドの話題はまだまだある。
トンドに燃えカスがある。
カスと云えば失礼な表現であるが、竹など燃えた材は炭になる。
昔のことだが、という但し書き。
燃えた炭は持って帰って竃の火にした。
その火で炊いていた正月の餅。
炭火は薪直接には移らない。
畑で育てた黒豆を収穫した際に残しておいたマメギ(豆木)である。
マメギは火点けの常とう手段。
どこでもそうしていたが、昔は白豆だったというから面白いものだ。
毎年の餅搗きは4臼も搗いていた。
今では3臼になったというから、まま多い。
正月の餅搗きは12月29日。
現在は30日にしているという。
餅の名に「マルクタのモチ」というのがある。
これは小餅のことで、搗いて柔らかいうちに指で押してできるエクボの窪みを作る。
これを「マルクタのモチ」と呼んでいる。
雑煮は砂糖を入れた白味噌仕立て。
ニンジン、ダイコン、コイモに豆腐を入れた雑煮である。
トンドの話題は尽きないが、これより始まるのは屋外の神さんなどに供える小正月の小豆粥である。
坂道を下って参る地蔵さんもあるので息子さんも共にする小豆粥御供。
お供えする場はとても多い。
農小屋にあるトラクターをはじめに作業小屋、山の神さん、神社の庚申さん、金毘羅さんに地蔵さん。
地蔵さんは足痛地蔵もあれば子安地蔵もある。
杖をついて出かけるのは昭和5年生まれの母親。
この年には87歳になるご高齢の身。
供える小豆粥にビワの葉などを風呂敷に包んで運ぶのは昭和28年生まれの息子さん。
昨年来からの行事取材にたいへんお世話になっているご両人である。
まずは自宅すぐ近くにある農小屋というか農機のガレージも兼ねた駐車場がある作業部屋である。
その前にすべき場所は畑を耕してくれるトラクターだ。
今は農閑期だから埃を被らないように白い布で覆っている。
その次は事務室にもなっていそうな作業部屋である。
どこに供えるのかと拝見していたら、ダルマストーブの上に、であった。
こうした供え方をされているとは予想もしていなかった。
次は作業部屋から出たすぐ傍にあるコンクリート片である。
何本かあるが、何であるのか聞かずじまい。
ビワの葉に箸で摘まんだ少量の小豆粥を供えた。
ここまで見てきたが、いずれも手を合わせることはなかった。
そこからは急な坂道を下っていく。
今では集落の前を走り去る車路がある。
その道路は談山神社へ通じる自動車道。
10数年前に開通したそうだ。
下る道はそこではなく元々ある村の道。
つまりは里道である。
急な坂道だけにお年寄りには辛い道であるが、軽トラ一台ぐらいは通れる道に沿って流れる川がある。
その向かい側の茂古(もうこ)ノ森に鎮座する神社は気都和(けつわき)既神社。
江戸時代までは牛頭天王社の名であった延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する神社である。
上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した神社にも小豆粥を供える。
神社の前に供える場は庚申さん。
どなたかわからないが、先に供えたビワの葉に盛った小豆粥があった。
枚数を数えてみれば5枚。
いずれも積もった雪に埋もれていた。
何時ころに降ったのか知らないが、民俗取材に訪れた時間帯は10時前。
F家が屋外に供えていた時間帯は午前11時過ぎ。
白い雲に拡がる青空であった。
先行する村人の供えた傍に供えるご主人も一枚。
神社に登って本社殿にも供えて降りてくる。
次は金毘羅大権現の刻印がみられる場にも供える。
ここにも先客が供えていた。
神社の次は里道向こう側に立つ路傍の石仏地蔵。
ここにも先客が供えていた。
その次は西田地蔵。
厚めの石板のように思えるが、刻印文字が読み取れない。
そこよりすぐ傍にも石仏地蔵がある。
ご主人が供えている姿をずっと横で見ていた母親。
お供えを済ましたら、入れ替わるように降りてきて手を合していた。
たしか名前は足痛地蔵だったように思える地蔵さんは屋根付き。
隣に灯籠もあるぐらいの珍しい形態のように思えた。
その向こうにも石仏地蔵がある。
そこに供えている間も、足痛地蔵にずっと拝んでいた母親の姿が愛おしい。
こうして並んだ3体に供えたら母親は坂道を登って歩く。
ご主人はさらに下って子安地蔵にも供えるが、母親は先に自宅に戻ったようだ。
子安地蔵は高さが相当ある。
立派な祠の内部に安置されている地蔵さんは涎掛けもあるが、昔のままのようだ。
子どもの誕生がなかったのか、それとも信仰が薄くなったのか、そのことについては聞いていないのでわからない。
子安地蔵さんも先客が供えた小豆粥が3枚。
どれもビワの葉に盛っている。
そこへ一枚の小豆粥を供えたご主人も自宅に一旦戻る。
これまで拝見してきた小豆粥。
Fさんも云われていたが、昔は粥だったが、最近はご飯になったとか。
こうして並んでいるお供えをじっくり見れば、小豆ご飯であった。
この小豆ご飯をアズキメシと呼んでいた。
自宅に戻られたご主人は玄関前にも供えた。
次に向かう先は新墓。
自宅から歩いて近距離の場に新しく作られた。
旧墓は山の上。
そこへ行くには母親の足では無理がある。
他村でも聞く旧墓から新墓への移設対応である。
県内各地の民俗事例を取材していれば見えてくる私設墓地。
自宅近くに建てる場合が多いように思える。
朝一番はここにも雪が積もっていたという。
供えた場所は何カ所になっていたのだろうか。
正確な数字はわからないが、摘み取るビワの葉が50枚にもなるというから、相当な枚数というか、相当なお供えの数である。
すべてを供えきるまでの時間も相当要した。
お供えをしながらも上(かむら)でしていることもお話しくださった農作業など。
当地もハザカケをしていた。
3本の木材を組んで収穫した稲を干すハザ。
その作業を「ダシカケ」と呼んでいた。
「ダシ」とは何であろうか。
水平に架ける竿そのものの名であろうか。
用例としては「これからダシカケをする」という、作業初めの声かけである。
また、ダシカケをする3本組み足に水平竿をひっくるめて「カコ」と呼んでいた。
朝に干して、イネコキをする。
上(かむら)の上垣内は5軒の田んぼがある。
苗代をしているのは4軒というから、今年の苗代時期には寄ってみたいと思ったが、実際はJAから苗を買っているそうだ。
昔の苗代作りは直播き。
育った苗の苗取りをしていたという昭和5年生まれの母親。
田植え仕舞い(ウエジマイ)に家さなぶりをしているようだ。
また、3月に行われる「ハッコウサン」はかつて11日にしていたが、現在は12日。
祭事時間は午後になると伝えてくれた。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)