何を探していたのか記憶にないネット検索。
キーワードも覚えていないが、出現したのは明日香村の上居(じょうご)。
NPO法人のみなさんが村人に聞き取りされた上居の年中行事である。
民俗調査員が纏められたような記録は詳細記述に亘っている。
民俗探訪する上においては実に多くの示唆される内容である。
集落は史跡で名高い石舞台に近い小高い丘にある集落だ。
聞き取りされた史料にあった風日待ち。
8月18日とあったので、民俗探訪取材のキカッケになるやと思って出かけた。
行事の場は集落内にある上宮寺だろうと思って立ち寄った。
お寺の裏は墓地である。
そこから見下ろす石舞台が美しいと上居を案内する看板の立て札にそう書いてあった通りの景観に惚れ惚れする。
少し南側に視線をずらした。
そこは棚田が広がる明日香の田園。
そろそろ陽が沈む時間帯だ。
史料には弁当を持ちこんで会食をするというから夕刻であると思ったが、その兆しはなかった。
お寺で待っていても仕方がない。
村人の姿を発見して主旨を伝えた。
ご主人は村の人ではなく、息子さんがその家に住んでいるといって紹介してくださった。
当主は近年において村へ移住された男性。
兵庫県の出身だそうだ。
「こういうものを作っているんです」と座敷に誘ってくださった。
そこにはアコースティックギターが並べてあった。
オリジナル作品のフォークギターである。
懐かしいギターとは云っても私が愛用していたのはヤマハ製である。
二十歳のころに夢中になったフォークギター。
ガンガンひいて唄っていた。
ブルースハープも吹いていたが、なかなかモノには成らなかった。
そんな私であったが、村のコンサートに出演したことがある。
大阪の泉佐野市の日根野だ。
仕事場で友人が住んでいた村である。
よく遊びに出向いていた日根野の友人はエレキバンドを組んでいた。
バンド連中は青年団の仲間たち。
アンプから唸るエレキの音はロックだった。
一曲を唄うことになって舞台にあがった。
ソロである。
唄った曲は井上揚水の「傘がない」だった。
静寂だった観客を前にしてジャーン、ジャーン、ジャン。
イントロを引きながら、マイクに向かって「都会では・・・」。
足が震えていたことを思い出す。
完奏するまでの時間が長かったこと。
拍手が鳴りやまなかった。
その晩は青年団の連中と、ひと晩を飲み明かした。
そのとき初めて体験した冷や酒。
酒の味を覚えた二十歳のとき。
あとにも先にも舞台で演奏したのはその日だけだった。
そんな四十年も前のことを思い出せてくれた家は「明日香弦楽器」工房。
製作者の折坂諭氏の作業場である。
折坂氏はギターの他にウクレレやカリンバも作っている。
就業していた楽器商社を辞めて独立されて上居に住みかを構えた。
村人に温かく迎え入れられて入居したと云う。
氏が手にして鳴らした楽器はカリンバ。
上居に植生する竹を素材にして作ったカリンバの音色に感動する。
竹は一本、一本として同じものはない。
節目を削って器具を取り付けたオリジナルのカリンバは「あすかかりんば」と命名された。
作るだけでは惜しいと売り場を探した。
素材が明日香であることも認められて先月末から「明日香の夢市」で販売されることになった。
観光客がときおり買ってくれるらしい。
「あすかかりんば」は竹製のみならず、ヒノキ材を利用した楽器もある。
平成25年より製作活動を開始された「明日香弦楽器」のギター製品の数々。
「2013TOKYOハンドクラフトギターフェス」において出典された。
オーダー製作にも応じていると云う折坂家に置いてあった奉納板。
氏が云うには、その板が回ってくれば春日神社の境内を掃除し燈籠にローソクを灯す。
板は全戸が交替して勤める当番札であった。
そのような手作り楽器の話題を提供してくれた上居の新住民。
行事については総代に聞けばと紹介してくださった。
仕事を終えて帰宅された総代の話しによれば風日待ちは、どうやら八朔のようだ。
月末の日曜日に村の人が集まるのは鎮守社の春日神社。
この年は県土木の地元説明会も兼ねていることから遠慮を願われた。
マツリは10月19日であったが、現在は第三土曜日。
飛鳥坐神社の宮司の都合もあって、この年は26日になると云う。
朝は8時に集まって上宮寺境内で大量のモチを搗く。
千本杵ではなく杵と臼で搗くモチ搗きは午前中いっぱいかけて行う。
会所(仮宮の場)で食事をしたあとは「宮送り」。
トヤ(当屋)ら氏子たちが会所から春日神社に向かってお渡りをするそうだ。
村は18戸であったが、前述した折坂家が加わって19戸になった。
史料によればトヤをはじめとして3人が烏帽子を被って羽織袴姿(おそらく狩衣がトヤで他の人は素襖であろう)のお渡り。
「ごいのごいのごい」と唱和しながら歩くようだ。
マツリを終えればモチマキ。
大量のモチを撒くのであるが、一般の人も参加してもらって構わないという。
明日香を散策する観光客も立ち止まって受けるモチマキに大勢が群がるそうだ。
特に気になっていた庚申さんは、4年に一度のオリンピックの年の4月。
かつては旧暦の庚申であったと思われる行事は、おそらく稲渕と同様の「モウシアゲ」の呼称であろう。
1月にはネンネノキの塔婆をあげる初庚申や初祈祷と思われる「ムロクサン・ハゴウサン」もあるようだ。
墓地の六地蔵には竹で作ったローロク立てもある。
上居の行事・風習取材はあらためてお願いするとして帰路についた。
(H25. 8.19 SB932SH撮影)
(H25. 8.19 EOS40D撮影)
キーワードも覚えていないが、出現したのは明日香村の上居(じょうご)。
NPO法人のみなさんが村人に聞き取りされた上居の年中行事である。
民俗調査員が纏められたような記録は詳細記述に亘っている。
民俗探訪する上においては実に多くの示唆される内容である。
集落は史跡で名高い石舞台に近い小高い丘にある集落だ。
聞き取りされた史料にあった風日待ち。
8月18日とあったので、民俗探訪取材のキカッケになるやと思って出かけた。
行事の場は集落内にある上宮寺だろうと思って立ち寄った。
お寺の裏は墓地である。
そこから見下ろす石舞台が美しいと上居を案内する看板の立て札にそう書いてあった通りの景観に惚れ惚れする。
少し南側に視線をずらした。
そこは棚田が広がる明日香の田園。
そろそろ陽が沈む時間帯だ。
史料には弁当を持ちこんで会食をするというから夕刻であると思ったが、その兆しはなかった。
お寺で待っていても仕方がない。
村人の姿を発見して主旨を伝えた。
ご主人は村の人ではなく、息子さんがその家に住んでいるといって紹介してくださった。
当主は近年において村へ移住された男性。
兵庫県の出身だそうだ。
「こういうものを作っているんです」と座敷に誘ってくださった。
そこにはアコースティックギターが並べてあった。
オリジナル作品のフォークギターである。
懐かしいギターとは云っても私が愛用していたのはヤマハ製である。
二十歳のころに夢中になったフォークギター。
ガンガンひいて唄っていた。
ブルースハープも吹いていたが、なかなかモノには成らなかった。
そんな私であったが、村のコンサートに出演したことがある。
大阪の泉佐野市の日根野だ。
仕事場で友人が住んでいた村である。
よく遊びに出向いていた日根野の友人はエレキバンドを組んでいた。
バンド連中は青年団の仲間たち。
アンプから唸るエレキの音はロックだった。
一曲を唄うことになって舞台にあがった。
ソロである。
唄った曲は井上揚水の「傘がない」だった。
静寂だった観客を前にしてジャーン、ジャーン、ジャン。
イントロを引きながら、マイクに向かって「都会では・・・」。
足が震えていたことを思い出す。
完奏するまでの時間が長かったこと。
拍手が鳴りやまなかった。
その晩は青年団の連中と、ひと晩を飲み明かした。
そのとき初めて体験した冷や酒。
酒の味を覚えた二十歳のとき。
あとにも先にも舞台で演奏したのはその日だけだった。
そんな四十年も前のことを思い出せてくれた家は「明日香弦楽器」工房。
製作者の折坂諭氏の作業場である。
折坂氏はギターの他にウクレレやカリンバも作っている。
就業していた楽器商社を辞めて独立されて上居に住みかを構えた。
村人に温かく迎え入れられて入居したと云う。
氏が手にして鳴らした楽器はカリンバ。
上居に植生する竹を素材にして作ったカリンバの音色に感動する。
竹は一本、一本として同じものはない。
節目を削って器具を取り付けたオリジナルのカリンバは「あすかかりんば」と命名された。
作るだけでは惜しいと売り場を探した。
素材が明日香であることも認められて先月末から「明日香の夢市」で販売されることになった。
観光客がときおり買ってくれるらしい。
「あすかかりんば」は竹製のみならず、ヒノキ材を利用した楽器もある。
平成25年より製作活動を開始された「明日香弦楽器」のギター製品の数々。
「2013TOKYOハンドクラフトギターフェス」において出典された。
オーダー製作にも応じていると云う折坂家に置いてあった奉納板。
氏が云うには、その板が回ってくれば春日神社の境内を掃除し燈籠にローソクを灯す。
板は全戸が交替して勤める当番札であった。
そのような手作り楽器の話題を提供してくれた上居の新住民。
行事については総代に聞けばと紹介してくださった。
仕事を終えて帰宅された総代の話しによれば風日待ちは、どうやら八朔のようだ。
月末の日曜日に村の人が集まるのは鎮守社の春日神社。
この年は県土木の地元説明会も兼ねていることから遠慮を願われた。
マツリは10月19日であったが、現在は第三土曜日。
飛鳥坐神社の宮司の都合もあって、この年は26日になると云う。
朝は8時に集まって上宮寺境内で大量のモチを搗く。
千本杵ではなく杵と臼で搗くモチ搗きは午前中いっぱいかけて行う。
会所(仮宮の場)で食事をしたあとは「宮送り」。
トヤ(当屋)ら氏子たちが会所から春日神社に向かってお渡りをするそうだ。
村は18戸であったが、前述した折坂家が加わって19戸になった。
史料によればトヤをはじめとして3人が烏帽子を被って羽織袴姿(おそらく狩衣がトヤで他の人は素襖であろう)のお渡り。
「ごいのごいのごい」と唱和しながら歩くようだ。
マツリを終えればモチマキ。
大量のモチを撒くのであるが、一般の人も参加してもらって構わないという。
明日香を散策する観光客も立ち止まって受けるモチマキに大勢が群がるそうだ。
特に気になっていた庚申さんは、4年に一度のオリンピックの年の4月。
かつては旧暦の庚申であったと思われる行事は、おそらく稲渕と同様の「モウシアゲ」の呼称であろう。
1月にはネンネノキの塔婆をあげる初庚申や初祈祷と思われる「ムロクサン・ハゴウサン」もあるようだ。
墓地の六地蔵には竹で作ったローロク立てもある。
上居の行事・風習取材はあらためてお願いするとして帰路についた。
(H25. 8.19 SB932SH撮影)
(H25. 8.19 EOS40D撮影)