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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

落し物はナンデスカ

2016年11月29日 08時21分20秒 | メモしとこっ!
2月より治療を再開して早や3カ月。

毎週、水曜日は歯医者さん通い。

この日もリハビリ運動を兼ねて自宅より歯医者さんまで歩き。

片道ジャストの1kmを15分かけて歩く。

予約してある日が大雨でもない限り、徒歩通院である。

歩きの道はいつも同じだ。

県立病院の新築工事を左に見て北へ向かう。

奈良市七条西町の住宅街を抜ける。

不思議な場所にある地蔵さんの前を通る。

毎日、庭の手入れをされているⅠさんに挨拶をして下る道。

自動車の往来が多い道。

そこに何かが落ちている。

黄色いサイフのように見えたモノが落ちていた。

車であれば気がつかないモノである。

ふと、通り過ぎようとしたが、何故か気になる真新しいモノ。

戻って拾い上げたら写真がある免許証だった。

年配の女性の顔写真に名前があった。

免許証だけに住所もある。

番地はどこか判らないが地元住所。

なにかのかげんで落としたのであろう。

広げてみれば紙幣を挟んでいた。

たしか近くに駐在所があったはずだ。

そこは歯医者さんからまだ向こう。

300m先にある。

歯医者さん経由で向かってみるかと思ったが、見つけた場所にパーマ屋さんがある。

もしかとして、だ。お客さんが出入りの際に落としたのではないか。

そう思って玄関を開けた。

パーマをあてているお客さんが一人。

「ここで拾ったんですが、店主はられますか」と声をかけた。

しばらくすれば顔をだした店主にその名を告げたらお客さんの一人だという。

ただ、免許証写真に写っている年配婦人ではなく、若婦人のようだ。

開業以来ずっと来店されるその人の家に電話を架けたら間違いないという。

すぐにそちらへ参るということでしばらく待つ。

待っている間に話しかけるマーパ仕掛り中の婦人が云った。

「バッグを何個も持っていたとき一個をよく忘れるのです」という。

財布ではなくバッグである。

店主も云った。

「これまで5回も財布をおとしてことがあるのですが、いずれも無事に戻ってきました」と話す。

そんな落とし物話しをしていたら落し主家の若婦人が顔だした。

免許証入れをみたとたんに「これです」。

「良かったですね」と云って手渡したら、「おばあちゃんの送りを急いでいるので、お礼もできませんが・・・」と云って車に乗って走っていった。

私がどこの誰べえであるのか聞きもせずに、である。

(H28. 5.11 SB932SH撮影)

利便性が良い街

2016年11月03日 09時27分01秒 | メモしとこっ!
おふくろが一人住まいしている大阪市営住宅。

生まれ故郷の市営住宅は戦後に建った戦災罹災者向けの木造住宅だった。

大阪と堺の間を流れる大河は一級河川の大和川。

源流は奈良県にある。

市営住宅はその川の北側に位置することから大和川住宅と呼ばれている。

私が結婚したころはまだ木造住宅だった。

数年間をかけて建て替える計画があった。

そのころに結婚した。

新居はここではなく3畳と6畳二間の文化住宅だった。

叔父叔母が経営する文化住宅に一年間ほど住まいした。

建替えた大和川住宅は5階建ての集団型鉄筋コンクリート造りになった。

管理開始年度は昭和49年。

新築できたてのときに入居した。

そういう約束だった建替えやむない住民優先事業に乗っかった。

当時は自家用車も乗っていた。

駐車場は割り当てられた住宅内の道路だ。

通行を妨げない道幅を確保しつつ住居者のマイカーに対応する。

区割りは白線で引いただけの場である。

暮らした数年後に現在住まいする奈良県に引っ越したが、おふくろは気がねない一人住まいが良いと云ってここに住んでいる。

住まいは別居という形であるが子供が小さいころは家族が泊まり。

狭い部屋だったが温かみがある環境下にあった。

そのころから気になりだした駐車場である。

住民は割り当てがあるが、お客さん用の駐車場はごく僅か。

幾度となく里帰りする家族は増えていったが駐車場の数は増えることはなかった。

住宅内に僅かな空きスペースがあった。

泊まりのときはそこに停めたがいつしか煩くなった。

住宅外には流行りのタイムパーキングもない。

住民に迷惑をかけず、しかも安心して停められる場はない。

用事が済むまでは車内で待機せざるを得なかった。

その時点では空いている場に停めて待っていた。

だが、本来の利用者が戻って来られたら場を移動する。

厄介な住宅の駐車スペースが一変していた。

案内看板をみれば駐車場の有料化である。

徐々に段階を経て工事が進んでいる。

これなら安心。

心置きなく停めることができる。

大和川住宅の南側は大和川の堤防がある。

川を隔てた向こう側は堺市の鉄砲町。

数年前から大工事していたダイセル堺工場の跡地。

ダイセルは大日本セルロイド株式会社の略称。

ダイセル株式会社の商号になったのは昭和41年だった。

中学生から高校生になるころだ。

その後の昭和57年8月に爆発事故が発生板。

一人住んでいたおふくろは大地震が起きたと思えるぐらいの揺れに天井に吊るしていた電灯が落下したのにびっくりした。

平成19年、阪神高速道路大和川線の予定地になり工場閉鎖。

それから9年後に開店した大型スーパー。

イオンスタイル堺鉄砲町の誕生である。

物珍しさもあって開店した当初に歩いてでかけたおふくろ。

近距離であるのに時間がかかったという。

住宅から歩きは近いようで遠い。

住宅からでかけてスーパーへ行く買い物客は自転車。

今までみたこともない大量の住民が往来する。

車から拝見した感じでは若い婦人。

子供用の椅子がある自転車ばかり。

利便性があると判れば暮らしやすい。

木造住宅地で育った子供の頃。

遊び場はご近所。

住宅地内もあるが、砂場が多かった大和川も多かった。

筏代わりの畳を浮かべて遊んだこともある。

泳いだこともある大和川は天然の鰻もいた。

多くの稚魚が遡上していたことを覚えている。

それはともかく本料理なにわの和食を食べた帰り道の寄り道に立ち寄るイオンスタイル堺鉄砲町。



平成28年3月19日がグランドオープンだ。

イオングループであるなら売っているものは同じと思っているがそうではない。

何割がたは同じであるが、ちょこちょこ違う。

大和郡山のイオンモールや富雄南のイオンタウンで買い物をすることがあるからだいたいが判る。

が、である。

さすがに堺の鉄砲町。

岸和田にしか売っていないB級グルメがある。

「かしみん焼き」だ。

「かしわ(ヒネ鶏)のみんち(ミンチ肉)焼き」を短くした商品名。

かしわ入りの洋食焼きである。

これが食べたかったとかーさんに伝えたら欲しくないような顔をした。

残念、であるが、「かしみん」を売っているのは海側の町である。

いろいろ見ては買いたくなる商品がとにかく多い。

じっと我慢で店を出た。

(H28. 4.30 SB932SH撮影)

第15回西井康元と藍山会本藍染作品展inやまと郡山城ホール

2016年05月08日 08時23分38秒 | メモしとこっ!
今年も案内状が届いた西井康元と藍山会本藍染作品展。

今年で15回目を迎える。

場所は例年とおりのやまと郡山城ホールの1階。

城ホール事務所前を通って会場に入ろうとしたときだ。

藍染したものであるのか判らないが一枚の案内があった。

それには「藍の光景」とある。

今年のテーマはそれだ。

FBでも案内されている西井康元さんにお会いするのは2月14日に行われた講演会以来だ。

受付におられた西井さん。

大和郡山市の地蔵尊情報に感謝される。

西井さんが担っている民生委員の仲間にHさんがおられる。

間接的にお願いされた地蔵尊情報はHさんに提供した。

足かけ何年間もかけて市内の地蔵尊の場所や管理者、地蔵盆の有無、特徴などを纏めた資料である。

届けたHさんはたいそう喜んでおられた。

資料を手掛かりに記録写真を撮り続けているという。

お役に立てていることは嬉しいことだ。

人とのつながりはどこで出合うか判らないが、いい形になれば嬉しいものである。

この日の受付をしていたSさんもそうだ。

出会いは平成26年の1月に遡る。

前年の1月8日に取材した平群町福貴畑の勧請掛けが発端だ。

勧請掛けに参加されていたのは女史のご両親だった。

話しによれば女史は自宅で仕事をしていると云っていた。

後日にメールをくださった女史に写させていただいた両親の写真を送ったことがある。

たいそう喜んでおられた。

一度、お会いしたくて自宅を訪問したら女史がおられた。

話題は広がり何故か藍染になった。

西井さんが主宰される藍染の指導を受けているというのだ。

いつかは作品も作られると思っていた。

デザイナー職でもある女史の作品はどのような作風を描かれるのか楽しみにしていた。

ご自身のFBにその作品を公開された。

これは是非とも拝見しなくては・・と思って会場に来たのだ。

出会いは行事であったが藍染に繋がった。

藍染会の作品展は何年か前から訪れるようになった。

毎回、新しい試みもあって楽しみにしている。

今回、一番に見たかったのは息子さんの元洋さんの作品だ。



それも「電線」を景観に入れている作品である。

これまでの藍染は幾何学的模様がほとんどだった。

風景・景観をあしらった作品もある。

西井さんの作品は独自性がある。

写真撮りにも役立つ作風にいつも感心して拝見していたが、今回の「電線」は感動ものである。



風景写真家は人工物を入れて描写することはない。

おつきあいしている風景写真家の吉崎さんは人工物も撮りいれている。

その作風にいつも感心している。

「干す」をテーマに撮り始めた民俗写真。

風景のなかに民俗性を入れて記録している。

民俗性とは生活感である。

里、野、山に暮らす人々が営む景観を撮る。

それが風景のなかにある民俗である。

息子さんの作品はまさにそれがあった。

「電線」である。

私から見れば画期的な作品だと思うのである。

親父さんの感性とは違った独自性をもつ藍染作品にしばし見惚れる。

今後はどのように展開されるのか、楽しみがまたひとつ増えた。



ちなみに女史の作品は月を表現したと思える黄色が特徴だ。

太陽ならば赤色であろうが、イエロームーンなのだ。

心に焼き付く色遣いに圧倒される。

(H27. 6.27 SB932SH撮影)

新世代のOB会

2016年01月06日 09時18分41秒 | メモしとこっ!
一か月前、さよならマイクロOB会に参加していたDさんから聞いていた定例のOB会。

日程・時間・場所をメールで伝えてもらっていた。

60歳を超えた定年満了組の男たちの集まりだ。

過去、何度か誘われて参加していたシニア会。

平成26年2月も出かけていた。

平成23年5月にもでかけたシニア会。

当時はOB会と云っていた。

そのころのメンバーは私より若干年上の年代若しくは同年代だ。

今回、声をかけてくださったメンバーは若干年下の年齢。

64歳の私より下ということは4歳下になる。

今月末にも満了する者もいる。

顔ぶれは若くなっていた。

会合の場は大阪・本町の船場センタービルの地下2階。

予め聞いていたお店の場はネット地図で確かめていた。

地下鉄御堂筋線・本町駅より徒歩数分。

一旦は外に出て船場センタービル9号館を探そうと思っていたが誘われるように歩いていった地下通路。

船場センタービル9号館地下2階に直結していた。

ドアをくぐって入った地下2階。

いろんなお店がいっぱいあるレストラン街。



ここではと思って数メートルも歩けば会合場所の中華料理居酒屋の「珍八香(ちゃこ)」があった。

店内を覗いてみたが予約席はない。

個室もない。

一杯飲み屋の様相だ。

集まる時間は17時。

めいめいが来られる時間帯で集まると云っていた。

ドア付近で待っていたが馴染みの顔は現れない。

何組かの団体が店を出る。

旅連れのような服装だった。

店の客は少なくなっていた店内。

奥のほうから手招きする二人連れ。

ここだ、ここだというように手を振っていた。

場所はここであったのだ。

ジョッキ片手に飲んでいたテーブルに盛った料理がある。



つきだしにフライものと5切れのギョーザ。

なんでもほろ酔いセットというようだ。

フライを天ぷらに換えることもできる。

数日前から口がうずうずしていた油もん料理。

カツ丼を食べたかった。

セットはフライが5品。

キャベツはどっさりある。

タレをつけてよばれる。

中ジョッキが小ジョッキか判らない生ビールはゴクゴク。

すぐになくなってしまう。

そこへやってきた初老男性の元上司は私より10歳上。

今でも現役だそうだ。

その後に続々と現われた若年層の7人や同年齢の定年二人組。

いつもなら5、6人らしいがこの夜は13人。

積もる話もあれば勤務していた過去形の話に盛り上がる。

彼らが思い出す入社直後のそれぞれの先輩の思い出話は尽きない。

中華料理のメニューはふんだんにある。

造りもあればスルメ天などの揚げ物も・・。



チューリップは食べ応えがある。

この会合には鬼平はいない。

思う存分話して楽しんだ3時間半。

支払いは一人当たりで3500円。

これなら何度も出かけたいが、近況報告や生存確認する会合は2か月に一度。

彼らの半数は現役続行の仕事人。

ちょっと行こか、と思えば行けるちょうどいい期間幅だが、街の風情はしばらくの期間は空けたい。



帰りの電車は座れたが座席の下から熱風。

むっとするような暑さでしんどくなった。

十数年前はビジネスマン。

これが毎日だったと思う通勤電車。

耐えるに堪えられない。

(H27. 3.26 SB932SH撮影)

さよなら消滅会社OB会in上海楼

2015年12月01日 08時01分21秒 | メモしとこっ!
平成27年3月31日を最後に31年間も勤めたNC社が消滅する。

翌月4月1日からは平成22年3月に100%子会社していたNIT社に吸収合併されるのだ。

NC社の創立は昭和42年12月1日。

当時の社名は略称NCS社だった。

平成元年に略称NC社に移り替った。

私は設立後数年経った昭和46年に途中入社した。

大阪市内にあったコンピュータセンターのシステム運用に携わった。

昭和58年4月からは所属替えでマイクロ撮影運営業務管理。

昭和60年4月のシステム営業部。

平成2年の4月には再び戻ったコンピュータセンターの運用管理。

翌年の平成3年には堺市にあるコンピュータセンターのシステム運用に移った。

平成5年4月からは人材開発部の兼任スタッフも勤めた。

数年後の平成9年4月より監査室。

これまでは運用業務を主に担当したが経営に関わる内部監査業務に携わることになった。

その後、平成11年7月に創業・設立されたNIT社へ出向として監査室に移った。

その後の平成14年9月、経営部署のリスク管理部を最後に早期定年で辞めることになったNC社。

31年間の勤めだった。

私が入社したときの従業員数は60人だった。

最大従業員数はたしか600人にもなったことがある。

NIT社の創業とともに出向若しくは転籍で最後になる今年は約370人。

一方、NIT社は1850人。

NC社は消滅するが人材はNIT社に移るそうだ。

48年もの長い期間を創業してきたNC社。

マイクロ業務に在籍していたのは昭和58年4月から60年3月までの2年間だ。

男ばかりの運用から女性ばかりの部門に馴染めるのかどうか不安だった。

不安を解消してくれたのが女性職員だった。

1月28日の夜だった。

自宅で夜食を食べていたときに架かった電話のベル。

誰だろうと思って受話器をあげたのはかーさんだ。

NC社が解散になるのでさよならOB会に出席してほしいと伝えるKさん。

懐かしい声である。

幹事をするHさんに携帯電話の番号を知らせたいという。

答えはもちろんである。

しばらくすれば携帯電話が鳴った。

Hさんの声も懐かしい。

およそ12年ぶりの声に懐かしさがこみあげる。

その夜のメールに彼女の電話番号とメルアドが送られてきた。

数日後に日程・時間・場所を伝えるメッセージが届いた。

場所は大阪市中央区道修町の上海楼横掘本店だ。

何人かは都合で欠席されるが当時の部長は参加するという。

数日後にも彼女から携帯メールが届いた。

発刊した『奈良大和路の年中行事』を持参してその場で押し付けて完売してくださいという。

ありがたい知らせであるが10冊もあれば重たい荷物。

ハンド付きのザックに詰め込んで出かけたけど買ってくれるやろか、である。

男のOB会ではそのような声もあがらず興味もない。

「おまえがこんな本を出版できるわけがない。ゴーストライターが書いたんやろ」と云われる始末である。

もう一人は「タダで配れ」という。

価値を認めない男たちである。

前日に送られたメールに二次会の案内。

もちろん参加する。

地下鉄出た処で案内人のNさんが案内札を掲げて待っていると云っていたが、出口には誰も現れない。

後から聞いたのは改札口だった。

それを知らずに駅から歩くこと5分。



上海楼横堀本店はすぐに判った。

階段を上った2階が会場。

Hさんは受付をしていた。



会費の5500円を支払って宴席テーブルにつく。

持ってきた本はここに並べておいたら見てくれると云われてテーブルに並べる。

売値は税抜き本体価格。

先月に鹿谷さんが作ってくれたプレートも立てた。

次々と上がってきた懐かしい顔ぶれ。

何人かは顔は覚えているが名前が思い出せない。

Kさんは覚えているが「名前は」と云われて「きょうこ」。

漢字はと云われて回答したが違っていた。

ありゃりゃである。

元部長のYさんや大先輩のYさんもやってきた。

元部長はマイクロ部門の次に職務した営業でもご一緒だった。

当時に発売されたシャープ製の漢字電子手帳を本社支社に持ち込んで販売したことがある。

1支社で60台買ってもらったことを覚えている機種は電卓から発展したPA-7000だったと思う。

昭和62年に発売された電子手帳は画期的だったが後々に販売された機種は多数行表示のPDAに譲った。

ほぼ同時に発売された3行表示のワープロも直販した。

このころの営業は楽しくて仕方がなかった。

十数年ぶりにお会いする人たちから「今、何してんのん」と尋ねられたら一人一人に伝えなきゃならない。

そう思って簡単にまとめたプロフィールを配っておいたが役に立たなかった。

関心は職務していた時代の懐かしさである。

在籍は2年間だったがその期間に会社指名の委員長をこなした。

ひとつは「さわやか委員長」で、もう一つは「社友会委員長」である。

「さわやか委員長」は職場の整理整頓を公式に進める役目。

「社友会委員長」は大手各社にもある職員組織。

組合ではない。

若い会社だったので他社にもあるようなOB会でもない。

規定があったのかどうか、まったく覚えていないが会社運動会や新入職員入社式で挨拶をしたことがある。

なにより覚えているのが運動会だ。

当時、幼児だった長男を車に乗せて出かけた運動会会場。

合間におむつを交換していた。

それを見ていた彼女たちは、今でいう「イクメン」だったのねと云う。

集まった女性たちのなかには私を知らない人たちがいる。

およそ半数である女性たちは営業部門に移ってからの新人だった。

話すこともないから覚えていないのは当然だ。

そこは同じ時期に職務していた二人の男性職員に任す。

マイクロ時代の2年目に入社したKさんは自宅でパン屋さんを営んでいる。

案内チラシを手渡す。

自然酵母のパンを販売するオーシャンズ・ベーカリー

チラシを貰ったので宣伝しておく。

オープンは月、火、水、金、土。開店時間は書いてなかった。

場所といえば大阪・吹田市の末広町。

JR吹田駅下車して東へ徒歩10分らしい。

お近くの人は是非立ち寄って味見をしていただきたく、ここで宣伝をしておく。

17時より始まったさよならマイクロOB会も3時間経過。

記念写真を撮って解散する。

持ってきた本は誰も関心がなかったが、何人かが寄ってきた。

私も買う、私も買うと云って手にしてくれた奈良本。

こんなに綺麗な写真集は見たことがないと云って買ってくれた5人の女性たち。

ありがたいことに顔も名前も存知しない当時の新人さんが買ってくれた。

なんでも奈良に興味があるらしい。



解散後は二次会である。

課長職を勤めるSさんは今夜も仕事だった。

早ければ夜8時に合流できると云っていたが無理だった。

お茶をしたいと何人かが残っていた。

行先は地下鉄淀屋橋の出入口。



すぐ傍には「かき広」の看板がある。

船座敷がある名大の牡蠣・鮮魚店だ。

ここへは入らない。

すぐ近くにあったお店はカフェベローチュ淀屋橋店。

注文は1階。

頼んだ一杯のアイスコーヒ-(200円)を手にして2階に上がる。

そこでゆっくり寛ぐ時間帯は21時。

しばらくお茶して帰路につく。

難波から近鉄電車で帰るのだが3人の女性たちと一緒だ。

なんでも今夜はHさん宅に泊まり込み。

仲がいい彼女たちはときおりそうしているらしい。

後日にメール添付で送ってくれた記念写真。

顔は判るが名前は相変わらず思い出せない人もいる。

送り主の幹事さんに名前をお願いしたら手書きした写真を送ってくれた。

これで思い出した。

(H27. 2.21 SB932SH撮影)

テーマ決めの後宴

2015年09月02日 08時40分54秒 | メモしとこっ!
奈良県立民俗博物館の事業である「第4回 私がとらえた大和の民俗」写真展はこの日に終えた。

直接の写真展閲覧者数ではなく入館者は前年より上回ったという。

この日の朝。柳生に向かっている最中に携帯電話が鳴った。

同写真展で協力しているMさんからだ。

今年も旧都祁村白石の親戚からいただいたというイノコのクルミモチ。

今夜の宴に食べてもらいたいという電話である。

モチはお店で焼くわけにはいかない。

で、あればモチもクルミも分け分けしなければならない。

早めに着いて百均ショップでモチと砂糖を塗した青豆のクルミを入れるジップパックを買おうということにした。

私と云えばこの日に取材した柳生山脇垣内の山ノ口講でいただいたバラン焼きのシトギもある。

今年度のテーマは「食」だった。

協力者のみなさんに食べていただくことにしたのだ。

打合せ兼後宴の会場は大和郡山市にある西友ビルの5階にある季乃庄ダイニングだ。

昨年と同じ場所である。

自宅に居た時間帯。

場所が判らないと電話で伝えてきたSさんはそれより1時間早く着いたと云う。

ぶらぶらしているというから早めに出かけた。

予定であれば近鉄郡山行きの奈良交通バスを利用しようと思っていたが時間帯が合わない。



仕方なく徒歩で向かうことにした。

普通の速度であるいて30分。

平成27年4月に完全閉店される西友ビル前に着いた。



民博職員が事業報告ならびに次回会場の検討案を議論する。

次は結論がなかなか決められない次回テーマだ。

時間切れとなって会食が始まる1時間前。

今回に閲覧された入場者の声は今まで体験したことのある暮らしの民俗である。

行事も含めて「食」に感動した声は多かった。

が、である。

その声を反映して「食」パート2をするわけにはいかない。

「食の暮らし」にしてはどうかと云う意見もあったが、大胆に替えてみようというわけだ。

会合時間内では意見が纏まらない。

場はとにもかくも宴の場に移る。



はじめに膳が出た料理は先付けであろう。

長皿に盛られた三品。

始めに生ジョッキで乾杯をする。

三品は何の料理であろうか。

さっぱり掴めない。

注文したのは懐石コースの1。



造り盛りも配膳される。

サーモン、ハマチにサザエだ。

キモも盛ったサザエがいちばん。

コリコリする食感がたまらなく美味い。

蒸し料理のホウラク皿もある。

始まってから17分後のことだが、いち早くビールで酔ったので味は覚えていない。

肉、カボチャ、キノコ、コンニャク、タマネギ、赤ピーマンなどなどをポン酢で食べたような・・・気がする。

その間に意見交換される次回テーマの構想。

次々と出されるが・・・。

次に出てきたのは真っ黒い代物。

アンコウの皮だ。

白い肉はぶつ切り。

キモもあるアンコウ鍋は紙スキ鍋でいただく。

小さな昆布が入っていた。

固形燃料の火で出汁を沸かす。

ほどよいときにアンコウ肉を入れる。

これもポン酢でいただいたような・・・。

酒量が増えてますます覚えていない料理の味。

宴が始まって何時になったのだろうか。

動物があがった。

それなら来年の干支十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)は未だ。

年中行事に登場する十二支は丑、辰、巳、午、申、亥があるが未はない。

「大和の民俗」を大テーマにしているだけに「動物」は何にするかである。

それなら「植物」という意見もある。

伝統行事に「植物」はけっこう見られる。

代案に「女」が出た。

「女」は女性、それとも女児・・。

「女」があるなら「男」はどうする。

年寄り、中年、若者、子供・・・。

どの年層でもいいのか、である。

今回は「食」がテーマだった。

それなら衣・食・住。

今まで以上に挑戦するなら、そう考えるのも面白いが「住」は撮り難い。

写真作品にはし難い。

「衣」なら・・・。

ということで決定したが、裸は館内展示には相応しくない。

ふんどし姿は面白い、女医のユニホームも良い・・・とか云った処で時間切れ。

「衣」は「い」ではなく「ころも」としようということで終わった。

おおきな魚のカラアゲが登場した。



一瞬はオコゼかと思ったが、ソイである。

大きく口を開けたソイ料理。

骨までバリバリと食べられるが身だけにした。

汁椀やデザートも膳に出た。

時間切れ直前にお題が決まった「衣」であるが、その後の記憶がまったくない。

どうやらタクシーで帰ったようだ。

残されたレシートを見れば1040円だった。

決まったお題は「衣」。

衣で大和の民俗を表現できるかである。

悩ましきお題であるが挑戦するにはやりがいがある。

始めに思ったのは神位衣や僧侶の袈裟である。

官位によっては色が違うしいろんな形がある。

その写真を撮ってどうするの、である。

それでは単なる違いを見せるだけだ。

衣でもう一つ考えられるのが演者の姿である。

能や狂言の衣裳も面白いが著作権からみで撮ることも無理だ。

村の行事に村人が演じる能・狂言があるが、伝統行事そのものになってしまう。

たいがいの人はこれだと思うだろう。

それは避けたい。

「衣の民俗館」が名古屋にあるらしい。

参考にしたいと思ったが、やはり能・狂言もの。

結局は服飾文化や染織ものになってしまう。

大和の民俗でもなく一般的な民俗だ。

仕事衣もそうである。

寿司屋、魚屋、野菜売り、医者などのユニホーム。

それとも制服姿。

女高生の制服を集めてどうすんの、である。

では、帽子や履物は衣なのか、である。

帽子も履物もいれての衣でいくのは、それとも別のものとしてとらえるのか。

奈良県の風土を生かした着衣はないのか。

柊風舎刊の野本寛一著『衣の民俗事典』があるようだ。

普段着と仕事着・作業着をみつめられることができるであろうか・・・。

そもそも奈良大和に民族衣装はあるのか、である。

衣装を着替えることによって気持ちが変わるというものがある。

例えば念仏を唱える在家半袈裟がある。

それ一つを肩から懸けることによって身の持ち方が変化するというのである。

四国八十八カ所巡礼される人たちもそれなりの半袈裟がある。

宗派によって異なるだけでやはり一般的。

奈良の特色でもない。

季節に合わせた衣替えとう考えもある。

ふっと思いついたのが虫干しである。

またもや「干す」である。

小夫の天神社では7月22日に紙魚ぶるいと称して祭りに着用する衣服を虫干しする行事がある。

行事といっても蔵から出して境内いっぱいに広げる天日の虫干しである。

虫干しは普段着ている衣服の洗濯干しと同じである。

それは撮りやすいが小夫以外でもあるのだろうか。

そういえば11月8日の待機当番の日に来館された當麻で行われている「けはや相撲甚句」会長がいた。

相撲力士が扮するふんどし。

これを洗って干す景観はどうだろうか。

調べてみたい。

ユニホームといえば民俗行事でお気に入りに田楽を奉納される渡り衆が着る素襖がある。

地域によって染色や柄も異なる。

何年かに一度は体験される即興の楽奏。

表情もそれぞれで豊かだ。

新調された衣装もあれば古くから使われているものもある。

着用されるのは一年に一度の晴れ姿。

着古した素襖は洗濯するたびに色落ちする。

その風情がたまらなくお気に入りだ。

新調するには高額な費用がかかる。

芸能は文化財に指定されているが、装束は費用援助の対象外。

村の出費は高額になる。

近年、宝くじ協会などの援助を受けて新調された地域もある。

装束の新調は京都の専門家によって製作されるらしい。

大和郡山市櫟枝町に座の衣装箱がある。

蓋に年号が墨書されているがはっきりと読めない。

「正」の文字は認識できるが次に続く文字は不明だ。

「正」が付く年代は1644年間の「正保」や1711年間の「正徳」がある。

櫟枝では9月半ばに行われる当屋祭がある。

お渡りの出発前にごーさん札を版木で刷る。

その版木の裏には「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村 升屋願主」が墨書されていた。

衣装箱の側面に「櫟枝村座中」と「一老善吉」の文字がある。

判読不能である「正」年号は版木年代より推定して「正保」と思われるのだ。

歴史がある衣装箱も「衣」テーマに値すると思われた。

また、巫女さんが着こなす装束がある。

仕事に着るユニホームは里の巫女によって異なる。

『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の調査のひとつに巫女装束の柄文様があった。

里の巫女が着用する舞衣(まいぎ)。

下着の上半身は前襦袢で、上着に白衣を身につける。

下半身の袴は緋袴(ひばかま)を着て白足袋を履く。

上着の白衣を舞衣(まいぎ)と呼ぶが、古来より継いできた巫女家によって絵柄は異なる。

三郷町の坂本家、大和郡山市若槻町の加奥家、同市小泉町の璒美川家、田原本町法貴寺の藤本家、同町蔵堂の守屋家などがある。

法貴寺の女児巫女が着る舞衣の絵柄文様は「菊」柄だ。

璒美川家の舞衣は「鶴」が舞う姿を表現した「千早(ちはや)」柄である。

加奥家や守屋家も同様の「千早(ちはや)」柄だ。

ところが坂本家の舞衣だけは特徴が見られる。

舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸辺り結んで締めている。

赤と緑の文様は両ひじ・方袖や背なかにもある。

それを「五紋」と呼んでいた。

赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのではと話していた。

そう話してくれた坂本さん。

古い絵馬に巫女装束が所作する神楽や御湯を作法する姿が描かれている。

古い絵馬にも現れる巫女装束も「衣」テーマであるが、写真にはし難い。

というよりも展示すれば民俗史料になるのだ。

それでは写真展にならない画材。

諦めた。

(H26.12. 7 SB932SH撮影)

なら民博ふるさとフェスタの伝統芸能②

2015年08月21日 08時28分38秒 | メモしとこっ!
11月15日、16日は関西文化の日。

各地でイベントが行われた。

奈良県大和民俗公園(奈良県大和郡山市矢田町)では「なら民博ふるさとフェスタ」が開催された。

両日とも大勢の人たちが訪れたが、やはり日曜日は多い。

15日は室生の獅子神楽、奈良市西九条町の千本杵餅搗き、御杖村桃俣の獅子神楽を拝見した。

16日は奈良市田原の里の千本杵餅搗き。

穏やかな天気に千本杵を搗いた家族連れで盛り上がった。

リョウブの木で餅を搗く。



搗くといっても一般的な杵ではなく千本杵だ。

リョウブの木はサルスベリだというご主人。

幾度となく民俗行事や家の風習・記録などで伺っている茗荷町の住民。

奥さんも存じている。

娘さんはKさん。

作出された陶芸展でお会いしたことがある。

Kさんは同じく作陶されている知人のTさんの友人である。

繋がりが広がった陶芸展だった。

そのときのことを覚えておられた娘さんが声をかけてくださった。

ありがたいことである。



千本杵餅搗きから時期的に話題はイノコモチになった。

12月1日に茗荷町の自宅でイノコノクルミモチをするという。

お言葉に甘えて、というよりも当方からお願いしたようなものだ。

平成19年に取材させてもらったイノコノクルミモチの味が忘れてはいない。

口が今でも覚えているクルミモチ。

久しぶりに食べたくなってお願いした。

(H26.11.16 EOS40D撮影)

なら民博ふるさとフェスタの伝統芸能①

2015年08月19日 09時15分31秒 | メモしとこっ!
奈良県大和民俗公園(奈良県大和郡山市矢田町)に伝統民俗芸能の獅子舞が二組もやってくる。

室生龍穴神社で奉納されている室生の獅子神楽と御杖村桃俣(もものまた)の獅子神楽だ。

開催は平成26年11月15日(土)の午後1時半。

その間に奈良市西九条町の千本杵餅搗きもある。

翌日の16日(日)には奈良市田原の里の千本杵餅搗きもある。

時間は午後1時半。

どちらも餅搗き唄を歌いながら餅を搗く「なら民博ふるさとフェスタ」。

イベントは両日とも盛りだくさんだ。

なお、この日は関西文化の日だ。

両日とも県立民俗博物館の入館料は無料になる。

玄関ホールで開催されている「私がとらえた大和の民俗」写真展の今年のテーマは「食」。

10人のカメラマンがそれぞれの切り口でとらえた作品を展示している。

主たる目的は御杖村桃俣の獅子神楽にあるが、先に始まったのは奈良市西九条町の千本杵餅搗きだ。

平成15年10月11日に訪れた西九条町の千本杵餅搗き。

千本杵で餅を搗く際に歌われる唄がある。

何曲かがあるが、当時拝見した資料の「餅つき唄」詞章は「コヅキ」とも呼んでいた。

歌詞は「アェ・・・・トロリトロリトエナ(囃子) ヨンヨエ ねむたい時はよ(囃子) ア・ヨイセーコラセ 馬になやノ五十駄のそうやで(囃子) コラショ あの金もいらぬよ(囃子) ホンマカーヤットコセ・コラヨイヤナ アレワイセ・コレワイセ コラヤヨイトセー アェ・・・・目出た芽出たのいや(囃子) 若松さまは(囃子) 枝もなあー繁ればそやで(囃子) あの葉も繁るやぞ(囃子)」だった。

会場は白いテント幕を張っていた。

法被姿の男たちが千本杵をもって登場する。

石臼に蒸したモチゴメを投入する。

石臼を囲むように千本杵で搗く。



歌い手が歌う曲に合わせて餅をコヅく唄は長調子。

「アーーェーーーエーー トローーリーー トーローリートナーーエ (囃子よーいよい) ねーむたーいとーーーきはー (囃子あーよーいせ こーらせ)  うまーーになーーーや 五十――駄のそうーーーやで (囃子こらしょ) あのかねーもーーいらぬ (囃子ホンマカーヨードーットコセー ホラ ヨイヤナ アレワイセ コレワイセ コラヨ――インイトセーー」 アーーエェーー 目出たのー 芽――出たの いや(囃子よいよい) わかーーまーーつさーーまはー(囃子ヨーイセー コーラセ」 枝もなあーーーしげーーれーーばーーーそーーやーで (囃子こらしょ) あのーー葉もしーげるぞや ほんまやか どこおーーいせーー ほらよーいやなー あれわいせ これわいせ そらよーいーんとせ」の「コヅキ」だった。

続けて「餅つき唄」も。

テンポは速くなる。



およそ8分間も搗いた餅は「せーの」よ声を合わせて千本杵で持ち上げる。

本来ならここでコジュウタに運ばれるがここでは見られなかった。

場の設営替えでしばらくは休憩。

次に登場したのが桃俣の獅子神楽だ。

御杖村には菅野にも獅子神楽がある。

平成12年11月、平成13年11月に訪れたことがある。

その後の平成17年11月にも訪れた。

獅子神楽が行われる場は四社神社だ。

菅野ではマツリだけではなく集落の一戸、一戸を巡る村廻しの獅子神楽もある。

これは平成18年11月22日だった。

マツリは11月23日。

前日に行われる荒神祓いの村廻しである。

御杖村には菅野の他、桃俣でも行われていたが未だに出かけることができずにいた。

桃俣の獅子神楽が奈良県立大和民俗公園で披露されると知ってでかけたのだ。

桃俣の獅子神楽は大字に鎮座する春日神社で行われていると聞く。

桃俣の獅子神楽は大字菅野と同様に戦後に曽爾村の長野住民から教わったものである。

伝承されている獅子神楽は鈴神楽系の「宮参り」、「荒神祓い」、「荒神祓い崩し」、「参神楽」、「長神楽」がある。

刀を振って邪気を祓う剣の舞がある。

他に荒廻し系の「新短」、「荒廻し剣」や魁曲系の「背継ぎ」がある。

この日に保存会が披露する演目は「宮参り」、「剣の舞」に「長神楽」、「背継ぎ」だった。

何年か前に立ち上げた保存会の人たち。

若い人たちが入らずに至り年齢は毎年繰り上がる一方だった。

このままいけば数年後には継承することができなくなる。

存続が危ぶまれていた保存会であった。

継承するために村人以外の人たちに協力要請をすることにした。

大阪や兵庫から支援に駆け付けた人たちが手伝うことになった。

習いにきたプロ集団もある。

「大升獅子神楽団」や「豊来家玉之助」も保存会一員となって演じる。



ピーヒャララ、ピーヒャララの笛の音色に太鼓打ちに合わせて登場した獅子神楽は幣を振りながら歩く。

「宮参り」は会場をぐるりと一周する。

チャンチャチャチャンと擦り鉦を打つ演者が後方につく。

次はピーーヒャーララ、ピーーヒャーララの笛の音。



笛の調子はやや長めになる「剣の舞」。

ダイナミックな舞である。

「長神楽」、「背継ぎ」を終えたら参拝者ならぬ観客に獅子頭を運ぶ。



頭を銜えてもらって厄祓い。

ありがたく受ける人たちも喜んでいた。

(H26.11.15 EOS40D撮影)

花火大会客帰り車の大渋滞

2015年03月20日 07時25分10秒 | メモしとこっ!
取材を終えて22時に簾集落を出た。

住民が云っていた。

丹原辺りではおそらく渋滞になるであろう、である。

そうであれば信号より西に向けて大野町を経て落合部より北上、国道24号線を西に向けて京奈和道の橋本東ICの方が早かろうと云っていた。

野原に着いたのは23時だった。

吉野川花火を見終えた観客の車で大渋滞。

五條病院手前500m辺りからだった。

丹原信号はすっと抜けたものの下田橋を渡ったとたんにストップした。

吉野川に架かる大川橋を渡って本陣信号まで続いていた。

1.5kmぐらいの区間を通過するに40分間。

その間に見た西からぞろぞろ出てくる車の流れ。

五條自動車学校にあった臨時駐車場から出てくるのだ。

ガードマンの誘導に従って駐車場から出てくる車の多いこと。

国道168線を北上する車は一歩も動かない。

そりゃあきまへんである。

それより南側にも臨時駐車場があった健民運動場。

着いた時間帯には一台もなかった。

先に掃きだしていたのだろう。

ノロノロと進む大渋滞は通り抜けたのは23時40分。

歩くほうが早いのである。

本陣信号から東に向かえば大渋滞が続く。

避けるには北上するしかない。

ラクラクスイスイ京奈和道路の五條ICにでるが、そこも避けてさらに北上する。

中之交差点を右折。道なりに走らせば五條博物館前を通る。

このまま行けば帰宅する時間は余裕で着くと思われたが、御所市の西佐味・鴨神を過ぎたところでまたもや大渋滞。

渋滞を逃れようとした車は山麓線を選んでいたのだ。

迂回路はない、というよりも慣れない道は暗がりで迷うだけだと思って渋滞車の列につくだけだ。

右下眼下の24号線が僅かに見える。

車のテールランプが動いている。

どうやら東佐味信号から山麓線に向かった車がそこに溜まっていたのであった。

選択をミスった。

長柄交差点よりは国道24号線。

通過したのは0時25分だった。

結局のところ帰宅時間は1時ジャスト。

吉野川花火大会は今年で43回目。

打ちあげ数は4千発。

およそ5万人もの人が集まってくる。

無料駐車場が500台と案内とあるらしいが、一般通行する身にもなって再考してほしいと思うのだ。

国道24号線にはところどころに通行規制の立て札があった。

18時から22時までの通行規制である。

規制外に発生する大渋滞は迷惑な話である。

この日は旧大塔村の取材であった。

往路も大渋滞だった。

16時半には三室に居た。

ガソリンの補給をしていた。

渋滞の始まりはどこであるか存知しないが、五條市街地を抜けるには国道24号線か山麓線しかしらない。

のろのろと続く大渋滞は花火見物客がほとんでであろう。

丹原まではおよそ12km。

着いた時間は18時半だった。

2時間もかかったのである。

駐車場を求める花火見物客は駐車場の存在すら知らないようだ。

車は奈良県ナンバーが大多数だが、県外ナンバーも見られる。

吉野川花火大会は平成15年に訪れたことがある。

花火と競演するレーザーショー。

正式名称は吉野川祭りである。

フィナーレを飾る大花火を見届けて停めてあった車を出した。

駐車場は難なく脱出できたことを覚えている。

それはともかく、交通規制がある道路は大川橋河川敷の川堤道だけだ。

道路が非常に混雑するため、公共交通機関の利用を勧めるとあるが、効果はまったくないといっていいほどだ。

駐車場はありませんと明示してほしいのである。

駐車場がなければ公共交通機関を利用する。

打ちあげ花火が終わるのはたぶん21時ぐらい。

駐車場も21時半には〆ればいいのにと思った日である。

(H26. 8.15 SB932SH撮影)

フラワー通りの小南より急行

2015年01月01日 08時05分22秒 | メモしとこっ!
田植えも終えた盆地平坦。

郡山城ホールに出かける前に立ち寄った町。



大和郡山特産の金魚を池で養殖を営む家もあるが、半数は農家。

門屋に通じる道沿いにお花を植えていた。

名付けてフラワーロード。

黄色い花を景観に入れて撮ってみたが、花の名前は知らない。



撮ってからは郡山城ホール展示室で開催されている「西井康元と藍染会作品展」を拝見しようと思っていた。

そこへ移動中の10時半に電話がかかった。

県立民俗博物館の吉本学芸員からだ。

小南町からはそれほど遠くない。

Uターンして県立民俗博物館に向かったのだ。

学芸員からの依頼は郡山の金魚養殖池。

それも金魚を池から掬い出して選別している写真やエサやりをしている情景の展示協力の依頼である。

数枚あることは認識しているが、なぜか携帯電話で撮った写真だ。

たまたま遭遇したのでカメラは持ち合わせていなかった。

撮った日は平成16年7月11日の市内丹後庄町と翌日12日の小林上池だった。

市制50周年を記念する「こおりやま50町ウォーク」の下見だった。

写真の送付は帰宅してからになるが、なんでもこの日は県立民俗博物館で奈良テレビ放送局がコーナー企画展の「祭りの用具」を取材しに来ていると云うのだ。

村からいただいた数々の祭り道具はすべて県立民俗博物館に寄贈した。

その中から一部をコーナー展で展示されたのである。

これをニュースで取りあげたい奈良テレビ放送局。

話しを伺いたいという希望もあって急行したのだ。

取材陣は県政フラッシュ担当者であった。

到着したときはコーナー展をビデオカメラで食い入るように撮っていた。

インタビューはそれからだった。

自己紹介から取材の対応などお話しした。

もちろん展示されている行事も詳しく説明させていただいた。

逆取材を受けて大急ぎで郡山城ホールで行われている藍染展示会に向かう。

いつものように笑顔で迎えてくれる西井康元さん。

大勢の女性に囲まれて解説されていた西井さんの姿はニコニコ顔だ。

なんとそこには昨年12月に笠でお会いした里山工房の婦人もおられた。

まさかまさかの出合いは、まさに一期一会である。

愛用のカメラで私を撮ってくださった。



ありがたいことだが、急いでやってきたので服装も顔も普段着。

夕刻に放映された「ゆうドキッ!」でニュース報道された姿そのものである。

緊張した顔で6秒間もしゃべっていた。

その映像は夜に報道される県政フラッシュにも放映されたようだが、字幕は消えていた。

(H26. 6.26 EOS40D撮影)