前日、Ⅰさんに案内してもらった旧大塔村簾の光圓寺を目指す。
場所は下見をしていたので判っているが、余裕を持って出かけた16時半、御所市の三室・蛇穴辺りで大渋滞に遭遇した。
ノロノロと続く大渋滞は花火見物客の車だ。
五條市の丹原まではおよそ12kmであるが、着いた時間は18時半だった。
喫茶店ミキの駐車場で待ち合わせ・合流した安堵資料館学芸員さんとともに出発する。
ここを出たのは19時過ぎだった。
簾の標高は645m。
天辻を通るころは真っ暗になっていた。
簾の山道は判っているものの恐る恐るの道。
灯りがまったく見られない急カーブ・急坂の山道を登る。
着いた時間は19時45分。
お寺から歌うカラオケのど自慢の音色が聞こえてくる。
まだ盆踊りが始まってなかったのが救いであるが、村人とはお約束をしていない。
代表者の方々に取材主旨を伝えて撮影に臨む。
本堂におられた人のほとんどは里帰りをされた簾の元住民たち。
久しぶりに集う懇親会はカラオケ余興の場で食事をされていた。
料理は手作りのオ-ドブル。
「甘酢漬けのミョウガもあるから食べてや」と云われて席についた、箸をもつ余裕もなく聞取り調査をする。
昭和35年ころの村の戸数は38戸。
「村の昔はこんなんやった」と教えてくださる。
天辻・簾の山尾根は弘法大師が通った道があると云って地図を見せてくださる盆踊り実行委員会の会長・副会長ら。
私たちを待っていたかのように口々に話される。
今年は弘法大師高野山開創1200年。
金峯山寺修厳者・高野山僧侶らは弘法大師が歩んだ道を踏破するプロジェクトがあった。
尾根・乗鞍岳を駆け抜けていたと村自慢のお話しであるが、実際はバス移動であったようだ。
現在の簾在住者は2軒。
「村を代表するのは区長や、挨拶したか」と云われて憩いの場をおろおろする。
挨拶させてもらって平成24年に入った県文化財調査の件を伝える。
私もUさんも勤めていた当時の調査員。
二人とも他所の調査にあたっていただけに天辻・簾とも初取材。
発刊された『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の件を話せば、天辻の区長と同様に簾の区長も県文化財調査の件をたいへん喜んでおられた。
分厚い報告書に村の盆踊りが紹介されたことを誇りに思っておられたのだ。
20時10分より始まった簾の盆踊り。
かつては国王神社の踊り堂で踊っていたそうだが、平成10年の台風7号で損壊したことによって寺境内に移したと話す。
住民が多くおられた時代の簾の盆踊りは青年団が主催であった。
極度に減ったことによって中断の時代が続いていた。
村を盛りあげたいと立ちあがった簾出身者は「一期会」を組織化して平成元年より主催・実施するようになった。
10年間続けてきた「一期会」の役目は一応の区切りをつけた。
2年ほど経過したころである。「盆踊りをして欲しい」という声があがった。
そのような経緯があって現在の簾盆踊り実行委員会に発展したと云う。
実行委員会主催事業は今年で14回目。
「ふるさと おかえり」と書いた看板を立てて里帰りの人たちを迎えていた。
境内周りには多くの提灯を吊るした盆踊りはて里帰り盆踊りなのだ。
桜と思える大樹に吊るした行燈風の提灯。
内部は電灯であるが、行燈は手作りである。
樹の下に太鼓台を設えた。
踊りの場は手作り仕掛けであるが、ミキシングマシンなどもある大掛かりな音響装置を設営していた。
音頭取りは簾出身のHさん。
大阪に住んでいると同級生になる天辻の区長が話していた。
踊り子は浴衣を着た親子の阪本組が2人。
普段着姿の村人は8人ほどで踊る簾の盆踊り。
踊り初めの「開き」はなく、「祭文」を2曲、「さっさよいこえ」、「なんちき」、「大文字屋」などなどだ。
踊り始めのときには子供も踊っていたが、踊りが覚えられないのか、それとも飽きたのか堂内に戻っていった。
そんなこともあって5人になった踊りの輪は途切れた格好。
空間ばかりが広がる。
美的な情景でもないが、村の盆踊り風情も記録である。
踊り演目は天辻地区と同じ。
「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があるが、音頭取り、踊り子の希望リクエストもあって実際踊る曲目は数曲だった。
演目に「天誅踊」があるが、踊りを伝える天誅踊保存会は10年以上も前から活動を休止している。
現在はされていないが、刀を使って踊る。
敵味方に別れて2人で踊るので偶数人を要する。
殺陣(たて)のような振り付けがあるようだ。
かつて簾の盆踊りは旧暦8月18日。その日を大踊りと呼んでいた。
周辺地区から青年らがお互いに呼びかけて天辻、阪本、簾の他、天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)からも行ききしていただけに踊り子たちで踊りの場が広がった。
天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)の三名踊りには江州音頭系の「よいしょ よいやまたどっこいさのさ」の囃しがある「祭文口説(祭文数え歌・祭文踊り)」があった。
平成7年に保存会を立ちあげたものの、高齢化や移住などで過疎になった郷村の踊り。
「祭文口説」は平成7年に立ちあげた保存会によって伝承されていたが、平成24年8月をもって解散されて旧西三名郷の踊りは中断した。
最後の踊りは「はりや」、「祭文踊り」、「やっとんまかせ」などだったそうだ。
阪本の踊り子を迎える簾では提灯を掲げて伊勢音頭で歓迎したと述懐されたのは現区長さん。
戻っていく際にも青年団が伊勢音頭で見送った。
こうした村の盆踊りの在り方は各村とも同じようだったと云う。
今ではそのような様相もなく、村の踊りが始まって50分。
〆に「さっやよいこえ」に「踊ろうや踊ろう」と掛け声がでて7人で踊り明かす。
小雨だった雨もほんぶりになりかけた21時過ぎに終えた。
濡れてはいかんと云って、手際よく太鼓台・行燈を仕舞われる。
踊り終えた簾の会場は本堂に移って抽選会。
子供が籤を引いていく。
引いた子供自身も当たる抽選会にどっと笑いがでる。
こうして里帰りを終えた元住民は帰る人もあれば、滞在する人も。
翌日はあとかたづけをすると云う。
簾の住民たちはこの日だけでなく、新年会など年に3回も集まって盆踊りに興じるそうであるが、冬は積雪で登れない。
仕方なく五條市内のホテルで会合をしていると云う。
取材を終えて落ち着いたひととき。
差し出されたオードブルやミョウガの甘酢漬けをよばれた。
心のこもった料理はあまりにも美味しい。
特に甘酢漬けのミョウガが美味いこと。
絶品である。
「お腹が減っているやろ」とカーレーライスまでいただいた村人のもてなしにまた来たくなる。
五條市の丹原に着いた時間は23時。
またもや大渋滞に巻き込まれて帰宅時間は1時になった。
(H26. 8.15 EOS40D撮影)
場所は下見をしていたので判っているが、余裕を持って出かけた16時半、御所市の三室・蛇穴辺りで大渋滞に遭遇した。
ノロノロと続く大渋滞は花火見物客の車だ。
五條市の丹原まではおよそ12kmであるが、着いた時間は18時半だった。
喫茶店ミキの駐車場で待ち合わせ・合流した安堵資料館学芸員さんとともに出発する。
ここを出たのは19時過ぎだった。
簾の標高は645m。
天辻を通るころは真っ暗になっていた。
簾の山道は判っているものの恐る恐るの道。
灯りがまったく見られない急カーブ・急坂の山道を登る。
着いた時間は19時45分。
お寺から歌うカラオケのど自慢の音色が聞こえてくる。
まだ盆踊りが始まってなかったのが救いであるが、村人とはお約束をしていない。
代表者の方々に取材主旨を伝えて撮影に臨む。
本堂におられた人のほとんどは里帰りをされた簾の元住民たち。
久しぶりに集う懇親会はカラオケ余興の場で食事をされていた。
料理は手作りのオ-ドブル。
「甘酢漬けのミョウガもあるから食べてや」と云われて席についた、箸をもつ余裕もなく聞取り調査をする。
昭和35年ころの村の戸数は38戸。
「村の昔はこんなんやった」と教えてくださる。
天辻・簾の山尾根は弘法大師が通った道があると云って地図を見せてくださる盆踊り実行委員会の会長・副会長ら。
私たちを待っていたかのように口々に話される。
今年は弘法大師高野山開創1200年。
金峯山寺修厳者・高野山僧侶らは弘法大師が歩んだ道を踏破するプロジェクトがあった。
尾根・乗鞍岳を駆け抜けていたと村自慢のお話しであるが、実際はバス移動であったようだ。
現在の簾在住者は2軒。
「村を代表するのは区長や、挨拶したか」と云われて憩いの場をおろおろする。
挨拶させてもらって平成24年に入った県文化財調査の件を伝える。
私もUさんも勤めていた当時の調査員。
二人とも他所の調査にあたっていただけに天辻・簾とも初取材。
発刊された『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の件を話せば、天辻の区長と同様に簾の区長も県文化財調査の件をたいへん喜んでおられた。
分厚い報告書に村の盆踊りが紹介されたことを誇りに思っておられたのだ。
20時10分より始まった簾の盆踊り。
かつては国王神社の踊り堂で踊っていたそうだが、平成10年の台風7号で損壊したことによって寺境内に移したと話す。
住民が多くおられた時代の簾の盆踊りは青年団が主催であった。
極度に減ったことによって中断の時代が続いていた。
村を盛りあげたいと立ちあがった簾出身者は「一期会」を組織化して平成元年より主催・実施するようになった。
10年間続けてきた「一期会」の役目は一応の区切りをつけた。
2年ほど経過したころである。「盆踊りをして欲しい」という声があがった。
そのような経緯があって現在の簾盆踊り実行委員会に発展したと云う。
実行委員会主催事業は今年で14回目。
「ふるさと おかえり」と書いた看板を立てて里帰りの人たちを迎えていた。
境内周りには多くの提灯を吊るした盆踊りはて里帰り盆踊りなのだ。
桜と思える大樹に吊るした行燈風の提灯。
内部は電灯であるが、行燈は手作りである。
樹の下に太鼓台を設えた。
踊りの場は手作り仕掛けであるが、ミキシングマシンなどもある大掛かりな音響装置を設営していた。
音頭取りは簾出身のHさん。
大阪に住んでいると同級生になる天辻の区長が話していた。
踊り子は浴衣を着た親子の阪本組が2人。
普段着姿の村人は8人ほどで踊る簾の盆踊り。
踊り初めの「開き」はなく、「祭文」を2曲、「さっさよいこえ」、「なんちき」、「大文字屋」などなどだ。
踊り始めのときには子供も踊っていたが、踊りが覚えられないのか、それとも飽きたのか堂内に戻っていった。
そんなこともあって5人になった踊りの輪は途切れた格好。
空間ばかりが広がる。
美的な情景でもないが、村の盆踊り風情も記録である。
踊り演目は天辻地区と同じ。
「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があるが、音頭取り、踊り子の希望リクエストもあって実際踊る曲目は数曲だった。
演目に「天誅踊」があるが、踊りを伝える天誅踊保存会は10年以上も前から活動を休止している。
現在はされていないが、刀を使って踊る。
敵味方に別れて2人で踊るので偶数人を要する。
殺陣(たて)のような振り付けがあるようだ。
かつて簾の盆踊りは旧暦8月18日。その日を大踊りと呼んでいた。
周辺地区から青年らがお互いに呼びかけて天辻、阪本、簾の他、天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)からも行ききしていただけに踊り子たちで踊りの場が広がった。
天川村旧西三名郷(塩谷・塩野・広瀬・滝尾)の三名踊りには江州音頭系の「よいしょ よいやまたどっこいさのさ」の囃しがある「祭文口説(祭文数え歌・祭文踊り)」があった。
平成7年に保存会を立ちあげたものの、高齢化や移住などで過疎になった郷村の踊り。
「祭文口説」は平成7年に立ちあげた保存会によって伝承されていたが、平成24年8月をもって解散されて旧西三名郷の踊りは中断した。
最後の踊りは「はりや」、「祭文踊り」、「やっとんまかせ」などだったそうだ。
阪本の踊り子を迎える簾では提灯を掲げて伊勢音頭で歓迎したと述懐されたのは現区長さん。
戻っていく際にも青年団が伊勢音頭で見送った。
こうした村の盆踊りの在り方は各村とも同じようだったと云う。
今ではそのような様相もなく、村の踊りが始まって50分。
〆に「さっやよいこえ」に「踊ろうや踊ろう」と掛け声がでて7人で踊り明かす。
小雨だった雨もほんぶりになりかけた21時過ぎに終えた。
濡れてはいかんと云って、手際よく太鼓台・行燈を仕舞われる。
踊り終えた簾の会場は本堂に移って抽選会。
子供が籤を引いていく。
引いた子供自身も当たる抽選会にどっと笑いがでる。
こうして里帰りを終えた元住民は帰る人もあれば、滞在する人も。
翌日はあとかたづけをすると云う。
簾の住民たちはこの日だけでなく、新年会など年に3回も集まって盆踊りに興じるそうであるが、冬は積雪で登れない。
仕方なく五條市内のホテルで会合をしていると云う。
取材を終えて落ち着いたひととき。
差し出されたオードブルやミョウガの甘酢漬けをよばれた。
心のこもった料理はあまりにも美味しい。
特に甘酢漬けのミョウガが美味いこと。
絶品である。
「お腹が減っているやろ」とカーレーライスまでいただいた村人のもてなしにまた来たくなる。
五條市の丹原に着いた時間は23時。
またもや大渋滞に巻き込まれて帰宅時間は1時になった。
(H26. 8.15 EOS40D撮影)