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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

漢字で伝わる客人

2014年11月24日 07時16分50秒 | メモしとこっ!
台湾からやってきた男性二人は次男の友人。

通じる言葉は英語である。

奈良観光を終えて我が家にやってきた。

話している英語は私では判らない。

何を話しているか判らないが談笑している。

カタコトの英語ワードで伝えることしかできない。

ところが、である。

筆記した漢字はとてもよく判ると云う。

なんでも台湾は漢字が日本と同じようであって通じるのである。

例えば、機関車は機関車で、電車は電車なのである。

お世話になったからと云って記念にスマホで写真を撮られた。

Facebookにアップしたかどうかは確かめていない。

買ったばかりのスズキエブリィJOINターボに乗せて宿泊先まで送っていった。

(H26. 5. 4 SB932SH撮影)

テーマ決めの後宴

2014年04月17日 09時16分11秒 | メモしとこっ!
奈良県立民俗博物館の事業である「第3回 私がとらえた大和の民俗」写真展はこの日に終えた。

終えれば次回をどうするかである。

今回はフリーテーマであったことからバラツキがあった。

拝観者にとっては判り辛かったかもしれない。

反省を込めて次回テーマを絞り込む打合せの場は西友5階にある季乃庄ダイニングだ。



32年前に越してきた大和郡山市のメイン処。

度々食事をしていたがいつしか人通りが少なくなった。

季乃庄ダイニングの場はかつて中華料理屋だったことを思い出す。

会食が始まる1時間前。

民博職員とともに会合する。

お題を投げられてお互いが意見を交換する。

結論を出さなければ会食はできない。

隣のルームでは早々と終えて宴が始まっている。

これだと評決されたテーマに民俗をどうとらえるか。

写真家の腕が発揮されるのは来年だ。

期間は今年とほぼ同で、トークの日も決まった。

展示も会合も終えれば後宴。

季乃庄のコース会席料理が運ばれる。

コースの品数はそれぞれお好み金額に応じた盛りになるようだ。



はじめに膳が出た料理は先付けであろう。

長皿に盛られた五品。

大きな牡蠣の殻に三つの小さな牡蠣。

ウニ和え、煮黒豆、ハムサラダにダイコン・ニンジンのナマス(かもしれない)。

エビ・タイ・マグロの造り盛りも出てきた。



蒸し料理のホウラク皿もある。

始まってから17分後のことだが、いち早くビールで酔ったので味は覚えていない。

肉、エビ、カボチャ、キノコ、コンニャク、タマネギ、赤ピーマンなどなど。

ポン酢で食べたような・・・。

それから28分後、次に出てきたのは真っ黒い代物。

アンコウの皮だ。

白い肉はぶつ切り。



キモもあるアンコウ鍋は紙スキ鍋でいただく。

小さな昆布が入っていた。

固形燃料の火で出汁を沸かす。

ほどよいときにアンコウ肉を入れる。

これもポン酢でいただいたような・・・。

酒量が増えてますます覚えていない料理の味。

宴が始まって何時になったのだろうか。

写真データから読み取れば20分後の20時15分である。

会席が始まって1時間経過したころである。

おおきな魚のカラアゲが登場した。



一瞬はオコゼかと思ったが、ソイである。

大きく口を開けたソイ料理。

骨までバリバリと食べられるが身だけにした。

汁椀やデザートも膳に出たかがその後の記憶がまったくないのに電車に乗って帰って自宅に着いた。

それから数日経って思った。

季乃庄ダイニングは打合せもできるし食事もできるが、コースの会席料理はいつも同じであることだ。

(H25.12. 8 SB932SH撮影)


藍染作品を斜めに観る

2013年10月09日 13時44分21秒 | メモしとこっ!
なんども見たくなる藍染の作品。

この年もやまと郡山城ホール展示室で開かれた。

今年は25周年を迎えた藍山会の人たちの作品展には師匠である西井康元さんと息子さんの作品もある。

毎回同じように見えるがそうではない。

年々深まる作品には何かをいつも教わる。

平面作品の藍染は真正面だけでなく、斜めから観ると感じ方が違って面白いと西井さんが云う。

それはカメラレンズを通せばよく判るというのだ。

なるほどと感心して持ち合わせの携帯電話のカメラ機能を使ってみた。

斜めだけでなく、横から、下からもレンズを向けてみた。

捉えた角度から観る被写体の藍染はまるで生きているように動きだす。

止まっていたタンチョウツルが羽根を広げて飛びだした。

裏側から観るのも大切だと聞いて試しに透かして撮った行燈。



なるほどである。

斜光が淡い色、濃い色合いの藍染が通り抜ける。

光をどう活かすかである。

西井さんのカメラアイから学ぶこと、多しである。

(H25. 6.22 SB932SH撮影)

奇遇な出合いのアートスペース上三条

2013年10月02日 06時48分46秒 | メモしとこっ!
「奈良いまむかし展」を拝見して一階に下りた。

豊田さんからいただいたコーヒーチケットはアートスペース上三条一階にある喫茶室で利用できる。

ドアを開ければほのかに漂う素敵な香り。

なんの臭いかと思えば挽いたコーヒー豆。

だと思う心地よい香りが包んでくれる。

店主であろうと思われるご婦人に尋ねてみれば、意外にも感じないという。

毎日、そこにおれば感じないのであろうか、香りいっぱいの喫茶室にはいろんな書物が置いてある。

落ち着きのある店内だ。

「豊田さんにもらったんです」と伝えて手渡したコーヒーチケット。

「いいイラストに写真が添えてありました」と云えば、「4日に私が住む集会所で写真家がお話しをするのが楽しみなんです」と応える。

「私も写真家ですが、本日2日に集会所で語ってきたばかりです」と云えば「あれぇ」。

地域に回覧した案内にそう書いてあったと思うと云うから、もしや地元自治会では・・・。

そう、店主の婦人が住む地域は同じ自治会の旭ケ丘。

なんと、なんと、奇遇な出合いです。

帰宅された娘さんも同じ自治会。

どういうことなのか。尋ねた結果は・・・。

アートスペース上三条がある地は婦人が生まれ育った処だ。

住まいは大和郡山市に移ったが、生誕地の建物はそのままにしておいた。

十数年前に憧れだったギャラリーを開きたかった。

そこで住居を建て替えた。

ギャラリーを開くことでいろんな人が集まってくる。

ご自身がその地に居てもさまざまな人が利用することで情報が集まってくる。

喫茶室は利用者、閲覧者に寛いでもらうために開店したというわけだ。

旭ケ丘には写真クラブの人たちがときおり寄ってくれるという。

地元のことを含めて話題が盛り上がるらしい。

「奈良いまむかし展」、「豊田定男さん」、「アートスペース上三条」、「店主」、「旭ケ丘自治会」へと繋がった奇遇な出合いの「アートスペース上三条」であった。

(H25. 6. 4 SB932SH撮影)

これからもがんばろ会in猿沢荘

2013年09月30日 07時50分08秒 | メモしとこっ!
受付会場は熱気でむんむん。集まった人たちは総勢80人余り。

「おーい、写真屋」と声を掛けてくれたのは上深川のTさん。

いつもの通りの挨拶言葉は嬉しい台詞。

写真家でなくて写真屋だ。

心に響くものだから、ところどころで自己紹介の際に使わせてもらっている。

八島のⅠさん、田原の里のOさん、同田原のOさん、北野のTさん、丹生のSさん、生駒のTさん、同生駒のTさん、白石のFさん、奈良市のAさんら多数が舞っていた、ではなく開始時間を待っていた。

いずれも取材地でたいへんお世話になった人ばかりである。

その場には紅一点の女史もおられた。和田のOさんだ。

存知している人たちは他にも多数おられたがご挨拶もできる時間もなく若草の間会場にあがった。

あがったといっても座敷ではなく洋間である。

テーブルは八つ。それぞれに名前が掲げられている。

「チャンガラカン」、「翁舞」、「火取り」、「大踊り」、「鬼はしり」、「祭文語り」、「題目立」に「太鼓踊り」だ。

行事の名称を付けたテーブル名。粋なものだと感心する。



会場に設えたスクリーンにそれらの行事を示す映像が映し出された。

どこかで観たような映像だと思った。

一枚、一枚、順番に映し出された映像は、県立民俗博物館で平成24年7月から11月にかけて企画展示された『大和の祭りと芸能-神を祭り、歌い踊った大和人のハレの世界』であった。

そのすべてではないがごく一部。

列席者関係の映像だけだったのか主役の鹿谷勲氏に聞く時間もなく始まった会場の猿沢荘は、昭和29年(1954)に地方職員共済組合県支部の保養施設として開業した。



猿沢荘はその名の通り、興福寺階段下にある猿沢池のすぐ近くにある宿泊旅館。

大規模に改修されてリニューアルオープンしたのは平成19年であったが、激化してきた低価格ホテル競争によって客足は伸びなかった。

苦しくなった組合運営での継続は難しく、今年の8月末にはやむなく廃業すると新聞報道が伝えていた。

猿沢池は存じているが、私は県職でもない。

これまで利用することもなかった。

この日の宴は県職員であった鹿谷勲氏の退職祝賀会。

『お疲れさん、これからもがんばろ会』の副題をもつ。



中央のテーブルに広げられたご馳走が並ぶ。

これらはわざわざ東京から取り寄せた江戸前鮒佐(ふなさ)の佃煮商品。

特別に頼んでおいたそうだ。

鮒佐は佃煮専業150年の老舗店。

伝統の江戸風味を味わってほしいと取り寄せたと後日に聞いたが、食べることを失念していた。

鹿谷氏との始めての出合いは三輪の初えびすで行われている「御湯の神事」である。

平成15年2月のころだ。

それまで知ってはいるものの遭遇したのは始めてであった。

鹿谷氏の著書に『やまとまつり旅―奈良の民俗と芸能』がある。

平成13年10月に大和崑崙企画から発刊されたご本である。

発売されたことを産経新聞が報じていた。

その切り抜きは今でも大切に購入した『やまとまつり旅』に綴じている。

平成13年のころの私は大和民俗に心を奪われつつあったころだが、民間企業のサラリーマン時代だった時期でもある。

休日には知った祭りや行事を拝見したくてちょこちょこと出かけていた。

ちょこちょこだから詳しくは知らない大和の祭りや行事。

それがどっさり書かれてあった『やまとまつり旅』に感動したのである。

感激した胸のときめきは礼状にしたためた。

『先月初めに産経新聞に紹介され、本屋さんに注文してやっと手に入れることができました。ならの祭りや行事を解説している本は古本屋さんにもなく、新刊本もなく本当にありがたく思いました。高名な神社や寺の行事は多くの本が出版されていますが、地域や村で行われているものは見つかりませんでした。読んで感じるのは少子化に伴って村々で昔から延々と続けられている行事を、これからも残していくことが難しい時代です。室生田口水分では、小学校が廃校になったので、ますます難しくなりました。今年始めて女性の笛や小太鼓役が担っていることがその一端をあらわしています。私は奈良に移り住んで20年になりますが、これだけ沢山の祭りや行事があることを知ったのは、ごく最近のことで写真にできるだけ残していきたいと思い、撮っては自分のホームページに登載している次第です。ただ現役のサラリーマンなので、撮影活動は休日に限られているので、何十年もかかるのではと思っています。もしよろしければ私のホームページも見ていただければ幸いに存じます。まずは御礼まで。「ならグルグル散歩」』は、いま読み返してみればファンレターのような文面になっている。

自己紹介をして名刺を手渡した祭場の三輪。

礼状を送ったことも伝えたが記憶にないようだった。

送付先は出版社であった。

ご本人には伝えられなかったようだが、大和崑崙企画の編集者からお礼のメールをいただいたことだけは確かだ。

続編が出版されることはなかった『やまとまつり旅』である。

三輪でお会いしたときは県教育委員会文化財保存課であったが、その年の4月には平城遷都1300年記念事業に携わることになっていたようだ。

その後の私は大和の民俗行事に没頭したいがために平成14年9月に民間企業を早期定年で退職した。

鹿谷氏と再びお会いしたのは平成17年に県立民俗博物館に異動してからのことだ。

実はそれ以前にもお会いしている。

川上村の「森と泉の源流館」スタッフからお誘いを受けた第八回いろりばた教室でのことだ。

川上村の民俗芸能をメインテーマに語られた太鼓踊りと盆踊り。

呼称、歴史、編成、絵馬資料等様々な角度から解説され、私にとっては大変勉強になった講演会。

今後の民俗行事取材にたいへん参考になる内容であった。

その年の4月に異動された県立民俗博物館。

長くなったおつきあいは、そこから始まった。

「県立民俗博物館は大和郡山市が所在地。できうる限り集めてほしい」と願われた。

それから数年かけて取材した大和郡山の祭りと行事は、博物館初のロビー写真展になった。

平成20年6月のことだ。

県下一円も取材してきたが、多くは大和郡山。

その後も継続してきた結果が2回目のロビー写真展。

平成21年10月に開催してくださった。

その年の7月に初著書である淡交社刊『奈良大和路の年中行事』に協力してくださった。

この本のことは未だに褒めてくださる春日大社の岡本彰夫権宮司。

恐縮するけどありがたい言葉である。

2回目の大和郡山の祭りと行事展を取材した産経新聞に応えていた鹿谷氏の言葉がある。

「田中さんのきめ細やかな取材活動に基づく情報収集力は、学芸員の数に限りがある博物館ではできないこと」と評価すると報道された。

大和郡山の祭りと行事写真展はさらに発展して企画展となった。

平成22年のことである。

その後は大和の民俗を捉えるカメラマンによる「私がとらえた大和の民俗」に発展継承された。

なにかとお役に立ってきた県立民俗博物館。

平成25年3月を最後に県職員を退職された鹿谷氏とのつきあいは今後も続くであろう。

この日の宴は題して「これからもがんばろ会」。

田原の里の三人が祝いのダイビキを披露してくださった。



これまでにも数か所で拝見したトーヤ家の祝い唄。

この場で拝見するとは思ってもみなかった。

突然のダイビキ披露に、心を引き締めて再びスタートラインに立ったと思ったがんばろ会。

会場をあとにしようと思った場におられた若い男性。

もしかと思って声を掛けたら鹿谷氏の息子さんだった。

おそるおそる聞いた出身高校名。

なんと我が家の次男と同じ高校である。

何年か前に次男が言った。

高校の卒業名簿に「鹿谷」の名があると言っていた。

どうやら同じクラスの同級生。

次男の名を伝えたが覚えていないと話す。

我が家の次男も同じくそう言っていた。

特徴がないのか、お互いに記憶がないようだ。

奇遇な出合いは息子たちには伝わらなかったようである。

(H25. 6. 1 SB932SH撮影)

帯解で聞いた矢田の民俗

2013年08月20日 06時53分51秒 | メモしとこっ!
窪之庄辺りの苗代調査を終えて今市に向かう途中のことだ。

街道を通過しようとしていたときの馴染みのある男性が立っていた。

なんとやまちゃん先生である。

車を降りて挨拶をする。

立ち話で聞いた矢田の民俗。

かつて勤めていた少年自然の家がある地である。

勤務の傍らに調査をされていたことを教えてくださった。

矢田坐久志玉比古神社の粥占(かゆうら)は、当時に任職していた宮司が始めたという。

その宮司は出雲の出身だったそうだ。

粥占をしていた品種は稲作中心。

それぞれの品種ごとに占ったと云う。

現在、行われている品種は野菜や果実が含まれている22種類。

ナスビ(春・秋)、エンドウマメ、インゲンマメ、キャベツ、ハクサイ、トマト、キュウリ、サツマイモ、サトイモ、ダイコン、ダイズ、イチゴ、ブドウ、スイカ、カキである。

もちろん稲作もある。

極早稲や早稲、中稲のウルチ米に早稲、中稲のモチ米である。

およそ30年前と思われる当時の粥占は酒を飲みながら行っていた。

朗らかな雰囲気であるが、占いは神事。

真剣な様相で行われていたと話す。

東明寺のツナカケは東明寺垣内と中村垣内の村人が行っていた。

ツナカケはカンジョウカケとも呼んでいた。

ツナカケの場の上流は東明寺院など八つの坊があった。

ツナカケをしていることもあるのであろう、中村垣内の家々では注連縄をしない。

カンジョウナワが村を守ってくれるので、個々の家ではする必要性がないというわけだ。

東明寺辺りの人たちはほとんどがツナカケの場から下りたが、意識はそのままで、今でも注連縄を掛けないというのである。

ツナカケの日は同時に行われる境内社の八阪神社のオンダ祭がある。

楕円形を四つに区割りした見たての苗代。

早稲、中稲、晩稲、粳米の品種である。

宮司によって籾撒き、松苗撒きが行われる。

神事を終えた松苗は村人が持ち帰って神棚に供える。

中村垣内ではナリキゼメ(成木責め)をしていた。

木を竹でビシバシと叩いた。

子供の遊びのような振る舞いであった。

作法を終えた竹はオクドサン(竃)がある処の土壁に立て掛けた。

その土壁の中から出てきたワラはモノモライの眼の病いのメバチコに当てたら治ると信じられていた。

同垣内ではわらべ唄があった。

機械で収録をしたが、ご詠歌のようなテンポの遅い節廻しだったそうだ。

明治から大正生まれの年寄りが唄っていたわらべ唄は文字にも落とした。

それら一式は奈良でわらべ唄を研究されていた教え子のAさんにあげたという。

そのような民俗・風習を教えてくださったやまちゃん先生家では七・五・三を注連縄を結っていた。

その数は60本。

家で祀る箇所それぞれに掛けた。

一部は屋根にも放り投げた。

遠くまで飛ばせるように割木を束ねて投げたそうだ。

(H25. 5. 1 記)

愛しの甲斐バンドin薬師寺

2012年10月15日 07時44分16秒 | メモしとこっ!
ラジオで伝えていた音楽祭。

薬師寺で催されると発信していたバンドは甲斐バンドだ。

そのことをかーさんに話せば行きたいと申す。

我が家は二人とも甲斐バンドのファン。

若い時には大阪城ホールでコンサート公演された甲斐バンドを聞きに行ったことがある。

レコードアルバムを繰り返し、繰り返し聞いていた奈良に転居した間もないころだ。

いっぺん生で見聞きしたいと申し出たかーさん。

願いが叶って出かけた大阪城ホール。

記憶によれば田中一郎さんが初参戦された直後だったと思う。

座って聞いていたが、いつしかスタンドアップ。

心地よい曲に思わず立って手拍子する。

資料によれば1986年(昭和61年)の6月18日。

それは6回目だそうだ。

大阪城ホールのコンサートは1984年(昭和59年)12月もある。

大阪城ホールが開業したのは1983年(昭和58年)10月。

開業直後の12月に初のロックコンサートをしたのが甲斐バンドというからこれかもしれない。

何十年も前からファンであるから奈良にやってくるなんて夢のようだ。

チケットを購入しといてと云われてネットを探した。

3千円なら絶対行くと云っていたが、8千円だった。

二人で一万六千円。

家庭を圧迫する料金では手がでない。

薬師寺は歩いてでもいける距離だ。

夕涼みを兼ねてでかけた。

正面辺りには誰もいない。

車の縦列もない。

音も聞こえない。

ほんまにこの日なんだろうかと思って裏手に回った。

池の傍だ。

そこから漏れる楽曲。

甲斐バンドの生声(尤もマイクを通してだが)に思わず立ち止まる。

大音響がその場に零れていた。

夕陽も落ちたが外気はまだまだ夏盛り。

持っていたウチワで調子をとる。

自然にでてくる楽曲の歌詞に○○だよねと相づちをうつ。

目の前を通り抜ける人たちがいる。

もっと聞きやすい場所にと思ってだろう。

同じように零れる楽曲を楽しむ人たちがいたことにほっとする。

この夜のコンサートは後日にBSで放送された。

見られなかった映像をリビング音声で楽しんだ。

曲は1.破れたハートを売り物に、2.翼あるもの、3.フェアリー(完全犯罪)、4.きんぽうげ、5.裏切りの街角、6.シーズン、7.ビューテイフル・エネルギー、8.BLUE LETTER、9.安奈、10.嵐の季節、11.氷のくちびる、12.ポップコーンをほおばって、13.漂泊者(アウトロー)、14.HERO(ヒーローになる時それは今)、15.ダイナマイトが150屯、16.100万$ナイトだった。

放送時間の関係で数曲が落ちていたようだが覚えていない。

最後の夜汽車、テレフォンノイローゼ、吟遊詩人の唄、バス通りは歌われたのであろうか。

(H24. 8.12 記)

光と影のファンタジー藤城清治影絵展

2012年07月14日 08時30分35秒 | メモしとこっ!
「光と影のファンタジー」が奈良県立美術館で開催されている。

影絵作家の藤城清治氏が創り出す影絵展だ。

影絵と言えば障子の向こう側で手を組み合わせて透過する影絵を思い出す。

子どものころにはいつもそうしていた。

学校行事でもあったような、ないような記憶は曖昧だ。

幻灯機で映し出した影絵は回り燈籠だった。

夏の夜のイベントはどこへいったのだろうか。

4月7日から6月24日までの開催は初の奈良展。

氏の米寿記念の特別展である。

開催されて一ヶ月目。

これは見ておかなければと思っていた。

そう思っていたら入場券が舞いこんだ。

ありがたく受け取ってやってきた美術館。

駐車場は近くのタイムパーキング。

たぶん長時間の利用になることだろう。



会場は第1から第6会場まである。

それぞれのテーマ別に展示されている会場だ。

初期のモノクロ作品から水彩画、絵本、最新作までの248点が並ぶ。

一つ一つの展示作品には解説文があるから嬉しい。

氏の思い思いも書き綴られているから製作プロセスにおける気持ちが伝わってくる。

作品タイトルだけでも映像が浮かんでくる『こびとのせんたく日』、『小鬼のしゃしんや』など。

物語になっている『雨を降らせた傘屋さん』や『ビルゼン』、『玉ねぎと子うさぎとねこ』は童話風。

拝観者のおばあさんが孫に一つ一つ読み聞かせる。

物語もそうだが、そんな光景に心が温まる。

会場は撮影禁止。

こんな素晴らしい情景をメモしたくなってボールペンを取り出した。

それを見ていた館の人から注意を受けた。

書くんでしたら鉛筆にしてくださいと伝えられた。

頭に記憶するのはたぶん無理。

200点すべてを見ていけば印象もどこかへ消えていくが、思い出すように記憶を記録しておこう。

印象に残った作品の一つが西遊記。

それも孫悟空と女の顔だ。

生き生きとした目と顔は大アップ。

迫力ある映像が飛び込んでくる。

1958年の作品というから昭和33年。

私が8歳のころだから小学三年生。

学校で見たことはないと思う。

見たような記憶があるのは思いすごしで、昭和33年から38年に亘って中央公論から毎号発刊された『西遊記』であった。

著者は邱永漢氏で、挿し絵を担当したのが藤城清治氏だった。

西遊記といえば、東映長篇漫画映画を思い出す。

手塚治虫の「ぼくの孫悟空」原作をベースに製作された昭和35年(1960)の作品。

小学五年生のころになる。

東映長篇漫画映画は「白蛇伝」が最初の作品で昭和33年(1958)10月公開。

翌年の昭和34年(1959)12月に公開されたのが「少年猿飛佐助」。

そして翌年の「西遊記」となる。

次は昭和36年(1961)の7月公開の「安寿と厨子王丸」。

東京オリンピックの年だ。

昭和37年(1962)7月公開の「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」。

昭和38年(1963)3月公開の「わんぱく王子の大蛇退治」。

そのころは中学生になっていたが、懐かしい作品の映像は今でも鮮明に覚えている。

平成24年は「古事記」が編纂されてから1300年目。

平成32年(2020)になれば「日本書紀」が編纂、完成後の1300年の節目。

記・紀万葉プジョジェクトを推進している奈良県。

記念事業は神話のふるさと所縁の地になる島根、鳥取、福井に宮崎県なども。

漫画映画の「わんぱく王子の大蛇退治」は神話を題材にした冒険活劇映画。

亡くなった母、イザナミ(伊邪那美)がいる黄泉の国を探して、冒険の旅に出たわんぱく王子のスサノオ(須佐之男)が、出雲の国でヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治する物語だ。

神話の世界を映画化した東宝映画の「日本誕生」も覚えている。

昭和34年(1959)10月に上映された特撮映画。

いずれの作品も子ども時代に脳裏に焼きついた。

私にとっては先鋭的な作品。

記・紀の原文をしらなくても映像で神話を伝えてくれる。

それがベースになったのか大人になったときに買いあさった本が棚に並んでいる。

大林太良著「神話の系譜」、森浩一著「古代日本と古墳文化」、直木孝次郎著「日本神話と古代国家」、松本清張著「カミと青銅の迷路」、古田武彦著「よみがえる卑弥呼」、梅原猛著「海人と天皇」、茂在寅男著「古代日本の航海術」、平川南著「よみがえる古代文書」、関和彦著「出雲風土記とその世界」、中江克己著「海の日本史」、渡部昇一著「日本神話からの贈り物」などなど・・・・。

数えればキリがないくらいの本だけに全てを列挙するには丸一日かかる。

それらの本はいつしか民俗にも繋がっていく道しるべ。

脱線したが、もう一度見てみたいくらいの作品は再放送を願うばかりだ。

そんなことを思い出しながら観覧する「光と影のファンタジー」影絵展の作者が創り出したケロヨン。

国民的に知られている「ケロヨ~ン」、「バハハァーイ」の流行語は今でも通用するのでは。

また、「つるの恩返し」、「泣いた赤鬼(童話作家の浜田広介原作)」の影絵劇などもある。

私が育ってきた年代と重ね合わさるが、何時、どこで見たのだろうか。

覚えていない。

宇津救命丸のコマーシャル映像も藤城氏の作品だった。

影絵の中の揺りかご。

すやすや眠る赤ちゃん。

メルヘンな映像とともに流れてくる流れるコマーシャルソングはお母さんの唄。

氏のコマーシャル作品はカルピスもあったことを知る影絵展。

懐かしさのあまり、なかなか前へ進まない。

氏の作品は切り絵の重ね合わせ。

いろんな画材を組み合わせる。

「ぶどう酒びんのふしぎな旅」では、なんと割れたガラス瓶まで使っている。

そのことも書かれている氏の言葉。

そこへ至るまで1時間の第2会場。

第6会場までの全ての作品を見るには2時間半。

駐車料金は1500円もかかった。

(H24. 5. 6 SB932SH撮影)

出版千家再興

2012年05月23日 09時18分24秒 | メモしとこっ!
我が国の茶の歴史は仏教伝来とともに喫茶の風習を受け入れた奈良時代に始まるそうだ。

大和奈良から始まった「茶」の文化。

奈良の「茶」をテーマに撮影巡拝した仏隆寺は大和茶の発祥の地。

空海が唐から持ち帰った最古のお茶を栽培したとされる。

村田珠光で名高い称名寺。

また、西大寺の大茶盛や生駒高山の茶筅に東山間における茶畑風景。

もちろん郷土料理である茶粥もある。

東大寺二月堂修二会を祈る連行衆の食事に出される茶飯も。

そういった大和と茶の関係を撮りたくて度々出かけたものだ。

千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』が著者から贈呈された。

利休と秀吉、それぞれの思いはどうだったのか。

秀吉の命を受けて天正十九年(1591)二月二十八日に切腹した利休。

その後の千家茶道は誰が引き継いだのか。

千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』。

著者である井ノ部康之(いのべやすゆき)氏から送られてきた寒中見舞いに、初の小説になる『千家再興』が中央公論社から文庫版で発刊することが記されていたのだった。

井ノ部氏との出会いは当時の勤め先の市民交流館であった。

小説を仕上げるために大和郡山を訪れていた氏と観光案内などで話したことを覚えている。

そのときはじめて知った時代小説作家の井ノ部氏。

その年の8月に贈られてきた著書をむさぼるように一気に読みあげた。

歴史を知らない私にとって大切な本になった『利休遺偈(ゆいげ)』。

行方不明になった利休の辞世の書の行方を探す表千家六代目家元の覚々斎に三人の息子たちの物語りに引き込まれる。

その後も贈ってくださった炎上シリーズの『琵琶湖炎上』に『大仏殿炎上』。

『大仏殿炎上』では、今井宗久、津田宗久、千利休(宗易)が登場する堺の納屋衆。

珠光流のわび茶を学ぶ三人だ。

松永弾正久秀の問いに対する三人三様の答えは生きざま。

その後の生涯がそこにある。

それはともかく千利休の後継者は長男の千道安ではなく、娘婿にあたる千少庵(後妻の連れ子で養子)だった。

2代目千少庵の長男の千宗旦(そうたん)が3代目を継いだ。

宗旦に息子たちがいた。

次男の千宗守、三男の千宗左、四男の千宗室は利休から続く四代目。

三人三様の三千家となった。

武者小路小川に官休庵(かんきゅうあん)を建てて始めたことから、次男の千宗守は「武者小路千家」を創設する。

父親の千宗旦から千宗左が継いだ不審庵(ふしんあん)。

裏にあった今日庵に対して表の位置にあることから、三男の千宗左は「表千家」を創設。

父親の千宗旦が家の裏庭に建てた今日庵(こんにちあん)。

それを千宗室が継いで始めたことから、四男の千宗室が「裏千家」を創設する。

話は遡って、贈呈されたことを機会に、そのお礼として平成21年10月に発刊した『奈良大和路の年中行事』を送らせていただいた。

出版社は京都の淡交社。

裏千家と深い繋がりがある出版社だ。

偶然とも思える井ノ部氏との出会いは「茶」をキーワードに縁が繋がったのであった。

そんなことを思い出しながらじわじわと味わいたい『千家再興』である。

(H24. 4. 9 SB932SH撮影)

どこかで見たような映像

2011年10月12日 06時45分59秒 | メモしとこっ!
大阪毎日放送で毎日放送されている「ちちんぷいぷい」。

西さんとくっすんくこと河田アナウンサーが巡礼の旅をしている、あれです。

毎日それを見続けているかーさんが言った。

行ったことのある御杖村の四社神社が出ているでー、と。

紹介していたのは同神社のシシ祭りのことでだ。

それは月9日に行われる行事のこと。

顔馴染みの宮司さんも出演していた。

菅野八カ郷から総代や当屋衆らが同神社の社務所で寄り集まっていた光景。

懐かしい姿は今でも変わらない。

当屋が扮する鼻長の面を被った者がササラ竹を手にもって、地区八カ郷全域を一戸、一戸訪問して巡るわけだが、社務所で両人が叩かれてイタイ、イタイを発しているテレビ映像だった。

シシマツリの主役は長い鼻の面をつけた「ハナ」。

手に持つササラで肩や腰の患部を叩くと治るといわれている。

叩いた患部が治り健康になるといわれており村人たちは喜んで叩かれにくるのだ。

祭りには時間帯が合わなくてその様相が2枚の映像で映された。

そのうちの1枚。

どこかで見たような映像だ。

あっ、これは。年老いた男性がハナに肩を叩かれにいっている一コマに目がいった。

黒塗りの単車が右側にある。



(H18. 9. 9 Kiss Digtal N撮影)

それはまぎれもなく私が平成18年に撮った映像だ。

それは「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」で紹介していたものだ。

http://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/ee2d6c1df7c7c3b959b82fc53c80c31f

一瞬だったので身誤った可能性もあるかも知れない。

だが、私が撮ったものは記憶にある。

この写真は撮らせてもらった男性に差し上げた。

それが使われたのだろうか。

気にかかる・・・。

(H23. 9.15 記)