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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

運搬・配送形態の対比

2022年06月29日 07時13分24秒 | 民俗あれこれ
拝見していた写真展会場を離れて、一歩でた舗道を歩いていたときに目撃した光景。

今どき流行りの“食”の請負委託配達人と大きな荷物から小物まで、さまざまな依頼物品を運ぶ専業従業者。

信号待ちしていた2組の後ろ姿に思わずシャッターを押した。

配達人はスピードが売り物の軽快な小型折り畳み自転車であるが、従業員は安全性を考慮したゆっくリズムの手押し車。

ちなみに、右手の業者はヤマト運輸。

行動範囲が拡がる運搬形態として後方にリヤカーを牽引する自転車仕様もある。

物流を運搬するリヤカーは道路交通法上「軽車両」扱い。

単体でも、自転車とセットでも車道左側通行であるが、港湾や卸売市場などではどういう扱いになるんだろうか。

(R2. 9.15 SB805SH撮影)

福住町氷室神社・垣内の風の祈祷は垢離取り

2022年06月08日 08時03分18秒 | 民俗あれこれ
長谷町から南に向かう。

峠を越えたそこは天理市山田町。

そこから西へ車を走らせると同市の福住町に着く。

目的地は中定の十輪寺。

カーナビゲーションには表示されない寺院を探して集落を動く。

立ち話をされていた二人の男性に尋ねたら、ここがそうだという。

紹介してくださった宮総代。

この日の朝いちばんに出かけた氷室神社。

本日の行事は神職の姿はない。

混雑しないように垣内ごとに参拝時間を決めて出向くコオリトリ(垢離取り)をしていたと、いう。

手水に竹箆を濡らして神社に参る。

この行為を33回繰り返すコオリトリ。

なぜに33回なのか、知らないという。

中定・十輪寺の地蔵盆法会がはじまるまでに足を伸ばして立ち寄った氷室神社。



33回のコオリトリの数を数える竹箆を確認した。

また、そのときたまたま遭遇した参拝のお二人。



願掛けに来られたようだ。

ちなみに日程は異なるが、中定に鎮座するハツオージさんでもコオリトリをしている、という。

茶畑の上の方にあるハツオージさん。

充てる漢字名は八王子神社。

ハチオージが訛ってハツオージになったようだ。

かつてハツオージさんのコオリトリは、各家がめいめいにしていたそうだ。

人によっては南天の葉を水に濡らして往復33回。

氷室神社同様の竹箆と同じ方法をする家もあった。

バラバラだったコオリトリの作法。

40年前、1軒について1人が参加し、階段下から社殿まで並んで、南天の葉を手送りする形に替えた。

一人で33往復するのもたいへんだから、バトンリレーのように手送りに替えたというコオリトリは、7月7日の朝6時にはじめるようだ。

(R2. 8.23 SB805SH撮影)
(R2. 8.23 EOS7D撮影)

長谷町・奈良市指定文化財南田原摩崖仏前の願掛け草鞋吊り

2022年06月03日 07時18分12秒 | 民俗あれこれ
奈良市水間町の砂もち調査を終えて、天理市の福住町に向かう。

一般的ルートであれば西名阪国道にハンドルを切るのだが、ふと奈良市別所町の様相を見たくなり、右折れした。

懐かしい景観にまだコスモス花は咲いていない。

郵便ポストのあるお家の景観

記憶に重ならないのはなぜか・・。

奥にある地蔵尊も見たかったが、そこへ行く里道から離れ、茗荷町に繋がる新設のトンネル越えになってしまった。

ならば、長谷町から峠越えの天理市山田町に出るのがいいだろうと車を走らせた。

久しぶりに拝見する奈良市指定文化財の南田原摩崖仏である。

摩崖仏に変わりはないが、囲っていた前面の木塀が消えていた。

なんとなく伺える経年劣化。

倒壊する前に撤去したのでは、と思った。

その加減もあって椿の樹に吊ってあった願掛けの草鞋もそのままの形で遺っていた。

と、いうことは満願のお礼であるかもしれないと思った、その草鞋。

2年ほど前に訪れた長谷町のTさんが、教えてくれた足痛除けの願掛けだと話していた。

きりつけ地蔵と云っていたその場は、この南田原摩崖仏だった。



その摩崖仏に遺る斜め状のひび割れ。

昔、昔の話のようだが、ある剣豪が試し斬りをした痕だと伝わっているらしい。

ちなみに高札によれば、摩崖仏二尊(※右手が弥勒菩薩、中央に阿弥陀如来)の造立は元徳三年(1331)。

東大寺の宗詮が願主となり、伊行宣が作ったとあり、石工は、東大寺再興のために、建長五年(1253)に宋の国から来日した伊派の作である。

なお、少し離れた左下位置の六地蔵菩薩は、大永三年(1523)の作である。

(R2. 8.23 EOS7D撮影)

今年は3密を避けて・・・

2022年05月24日 07時36分59秒 | 民俗あれこれ
コロナ禍の今年。

日本の国が全国的に、あたかも相談したかのように、行事ごとは中止を決断された。

大きなイベントは規制も働く3密を避けたウイルス対策。

意思決定は、どことも中断、中止。

病院、施設関係者はもとより介護関係者たちは、中断、中止というワケにはいかない。

夏祭りをする予定だった地元の神社。

実施の方向だったが、一部の行事は中止。

多くの人が集まる生け花展や子供たちが愉しみにしていたビンゴゲーム大会、ジャグリングショー。

祭りを彩る華やかなショー的要素の縁日も食事をともなう模擬店も中止。



大人数にはならない地蔵盆でさえ、何かが起こっては、と中断、中止。

いずれも役員だけで執行する部分を残して、その他のすべてを中断。



行事案内や伝言板で報せていた。

(R2. 6.30 SB805SH撮影)
(R2. 8.18 SB805SH撮影)

中山町・地域文化を継承するとんどから繋がる民俗事例

2021年10月01日 10時22分52秒 | 民俗あれこれ
セットしたカーナビゲーション。

奈良市の秋篠町からすぐ、と思って再び車を走らせる。

この筋を行けば押熊八幡神社に着く。

そう思って細い道を行く。

すとんと落ちる道。

さてさて、こんな道に記憶はない。

どうやら間違ったようだ。

1月5日、車を停車したその地に神社があった。

鳥居の注連縄を拝見してもここがどこだか判断できない。

掲示していたとんど行事の案内にはっとした。

ここは中山町の八幡神社。

カーナビゲーションが示した細い里道は秋篠町に鎮座する八所御霊神社からの抜け道だった。

気になるのはポスターに映っている大とんどだ。



太めの竹を三本組んで立てた立派な形のとんどである。

会場は中山八幡神社前にある多目的広場。

以前、行事取材に駐車場利用させてもらったことのある広場はとんど行事に解放するようだ。

掲示していたポスターにご縁をもらった中山町のとんど行事。

火点けの時間になんとか間に合った。

受付の人たちに許可願いしてから大とんどの姿を拝見。



ポスターで見るよりも実物の大きさに感動を覚えた中山町の大とんど。

3本の太い竹で組んだとんど。

筒状のてっぺんに挿した葉付きの細竹。

その下はぐるぐる巻きの注連縄。

神社に架けていた注連縄である。

内部にしっかり詰め込んだお家の注連縄。

その周りにも細く編んだ注連縄もある。

火点け前にも持ち込む人もいるが、大多数は午前中に組んだときのようだ。

大とんどの姿を撮っているときである。

高齢と思われる男性が居た。

注連縄をとんどに入れるわけでもない。

今まで拝見したことのない動作をされている。

近くに寄って何をされているのか、教えてもらった。

家に神棚がある。

そこに供えていた洗米を折敷ごととんどにくべるという。

私にとっては初めて知るとんどの習俗である。

その方のお家の神棚は、一般的な装置だと思っていたが、聞いてみたら・・・。

えっ、である。

板一枚の神棚。

あれこれの神さんを祀っており、正月さんの神棚には正月三ガ日の洗米を供える。

神棚は固定でなく、稼働型。

中心位置に棒があり、その先は天井吊るし。

神さんを祀る場の埃をかぶってはいかんから一枚の屋根がある。



話してくださった形状をスケッチ画にして見てもらったら、そのとおりだという。

棒に注連縄をぐるぐる巻き。

中山町のとんどと同じようにぐるぐる巻き。

貴重な形態と思われる神棚。

よろしければ実物を拝見願ったら、正月は無理だが、前後の日なら来てもいいよと言ってくださった男性は79歳のMさん。

中山の八幡神社の神主務めをされた方。

以前、お世話になったO総代やおとな衆。

結縁儀式に荘厳。

龍王社の宵宮行事も取材したことがあると伝えたらたいそう喜んでくださった。

Mさんが語ってくださったお家の神棚で思いだしたほぼ同型と思える神棚。

平成26年の正月の日に取材させてもらった大和郡山市・城下町にある旧家である。

神棚といえば、屋内の桟さんなどに板一枚の棚に並べる情景。

いくつかの民家に寄せてもらって拝見する神棚。

角に三角板をかます場合もあるし、壁の一角の棚板、或いは箱型の場合もある。

お家の事情、構造などによってさまざまなケースが生まれる。

そのようなことはさておき、大和郡山市内・雑穀町の旧家もまた天井から1本の棒で支えていた神棚であるが、それは当主の記憶の中にあった。



写真は撮られていないので、当主の記憶を頼りにスケッチ画に落とした。

中山町の神棚と見比べてみればわかる若干の違い。

大和郡山は六角ボルト締めで棒を固定。

いずれも回転できるようにしているが、構造は異なる。

中山町は二枚の板。

大和郡山は箱造り。

どちらも歳神さんに供える御供棚仕様。

気になった神棚の一例にもう一つ紹介したい。

神棚の前に別途に設けている御供台の例である。

文字では説明し難い、天井から吊るしている御供台である。

拝見させていただいた桜井市・笠の旧家。

平成28年の6月12日、当主と会話をしていた座敷の上にあった神棚。

これまで見たこともない形式に、思わず写真を撮らせてくださいと願ったほどの貴重感にゾクゾクした。

神棚の前に張り出す一枚の板に供えていたお神酒はワンカップ酒。

人柄がよくわかる容器はともかく、吊っていたのは2本の棒。

釘打ちでなく、底止めもまた木片。

注連縄を張っている御供台の形態から、私は「張り出し御供棚」と仮称した。

タイトル「張り出し御供棚がある神棚」で紹介したブログの公開。



その記事を見つけた知人のNさんが、メールで送ってくれた写真に、これは・・・。



ほぼ形態が同じ仮称「張り出し御供棚」である。

違いは1カ所。

一枚板がもう一枚。

その位置は、まさに中山町の元神主務めのMさんが話してくれた、それと同じである。

本人了解のもと、FBやブログに公開するNさんが伝えてくれた御供棚は奥さんの出里(※宇陀市菟田野)の実家にあるという。

用途はローソク立て。

まさかの倒れたときの火防。

上の板については、神棚にある“雲”を表している、と推定されたが、そうであれば天井に「雲」の書を貼ってあるはずだが・・。

あるイベント会場にお越しくださったNさん。

「いつでも構わないから、撮りに来てもらってもいいよ」と、ありがたいお言葉。

早めに拝見したいものだ。

さて、神棚事例から外れ、本題の中山町のとんどに話題を戻そう。

定刻時間ともなれば村神主に裃を着用したおとな衆がとんど場にやってきた。

八幡神社で般若心経を唱えて祈祷したオヒカリ。

神火を移した青竹造りの松明を手にしたとんど実行委員長。

大とんどの前に立ち神主祓い。

4カ所廻って四方祓えではなく、三面体だけに三方祓え。

次にとんど実行委員への祓え。

そしてとんどへの火移し。

あという間に燃え上がる。

弱火になったところで準備していた書初めの書。

葉付きの竹に括りつけた多数の書をとんどに近づける。



勢いが衰えたといっても近づけば一気に燃え上がって天まで・・とどけ。

いわゆる“天筆”の習俗。

高く上がれば上がる、天まで昇れば字が上達する、といわれている天筆である。

と、まぁここまでは一般的な様相・・・。

火点けから2分後の天筆に子供たちが盛り上がる。

今でこそこんなに大きなとんどになっているが、かつては小とんどだった。

中山町は三つの地区に分かれる。

それぞれの地区で行われていたとんどは小規模。

農家さんの田畑を借りて、とんど場にしていた、という。

借用できる田畑は少なくなり、やがては意識も変化。

年神さんを迎えた注連縄をゴミ捨てする人も・・。

それではいかんと平成14、15年ころに実行委員会(自治会)を組織化しとんど焼きを運営するようにした、と話してくれたMさん。

火点けから7分後である。

ふと振り返った場に設えていた小とんどに火点け。

かつて3地区でしていた名残でなく、トイレに飾った注連縄は別途に離れた場に設えた小とんどで燃やす。



大昔は雪隠と呼ばれていた便所。

トイレ、お手洗い、洗面所、化粧室の名称もあるご不浄の場に注連縄をあげる家があるという。

その注連縄は不浄のものの忌嫌だから別の場のとんどで燃やす。

この習俗は、大和郡山市の豊浦町で拝見したことがある。

また、大とんどから離れた場で小とんどをしていた矢田町の一部地域でも拝見したが、そこは服忌のお家だった。

大とんどから避けるようにこっそりされていた光景を思い出したが、ここ中山町では、服忌の家はそもそも注連縄をしない、とMさんは話してくれた。

なるほど、である

(R2. 1. 5、11 SB805SH撮影)
(R2. 3. 2、 6 SB805SH撮影)
(H28. 6.12 EOS40D撮影)

南田原・長谷町のきりつけ地蔵に願掛け足痛除け

2021年09月15日 08時08分02秒 | 民俗あれこれ
正月行事に伺った奈良市長谷町。

「ハチ」とも呼ばれる神さんの茶碗にイタダキの膳などを見せてくださったT家。

民俗の話題のひとつ。

T家に来る途中に見た草鞋に思わず急ブレーキ。

車から降りて撮った草鞋はたぶん足痛まじないの願掛け。

つい最近か、若しくは今日なのか。それほどに新しい草鞋。

市販の草鞋でなく、手つくりしたものであろう。

あそこにあった摩崖仏があるところだろう、とTさん。

そうそう、そうなんです。

板でつくった生垣に、正月を迎えたしめ飾りもしていたその場にある樹木に吊るしていた草鞋は一足のみ。

一対二足の草鞋ではなかった、と伝えた。

そうか、あったか。

正月前には見なかったという草鞋。

弥勒さんに、阿弥陀さんを彫った摩崖仏は白砂川の上流地にある。

村では、その摩崖仏を、きりつけ地蔵と呼んでいる。

よく見ればわかるのだが、摩崖仏に大きなひび割れがある。

阿弥陀仏でなく、弥勒菩薩である。

右から左へ刀を下ろした傷痕。

まるで切りつけられたように見えるひび割れ現象の状態からきりつけ地蔵と呼んでいる。

そこには、かつて多くの人が草鞋を吊っていたそうだ。

それこそ20足もあった、という情景を頭の中に映像。

弥勒さんに、阿弥陀さんを彫った摩崖仏は、奈良市が平成2年に指定した有形文化財。

史跡指定名称は「南田原摩崖仏」。

走行中に気づく人たち。

思わず足を停めて拝観、ブログに搭載する人も何人かおられる。

うちおひとりがとらえた映像は平成31年6月2日訪問・撮。

私が拝見した日から6カ月後の映像は摩崖仏だけをとらえていた。

石仏に興味をもたれる方であろう。



その方が、とらえた画像に写りこんでいない願掛けの草鞋。

暮らしの民俗には、意識を投入されなかったようだ。

また、あるコメント者は、「・・・地元の方の情報では、石仏に残る斜めのひび割れは、むかし剣豪が試し斬りをした跡とのことで“切りつけ地蔵”と呼ばれているそうです。また、秀吉の大阪城築城の際に石垣の石が足りず、この岩を使うことになったが、地元の大切な信仰対象とのことで取り止めになったという逸話も聞きました。」と書き込んでいた。

剣豪に大坂城築城に石垣云々もTさんが話していたことと一致する。

同じ話者でなく、他の話者が話した逸話かもしれないが、これもまた暮らしの民俗でもない。

特に剣豪が切った大岩なんていう逸話は、そこいらじゅうにある。

例えば、柳生の剣豪こと、柳生石舟斎が刀で切断したという、大岩の一刀石ストーリーも、その一つにすぎない。

弘法大師が杖を搗いたら水が噴き出したという事例もまた多い。

(H31. 1. 2 EOS7D撮影)

小林町・新車の軽トラに注連縄

2021年09月14日 10時17分42秒 | 民俗あれこれ
おせち料理を食べきったから買い出しに出かけた大規模スーパー。

駐車場でばったり出会った大和郡山市小林町の住民。

なにかと村の行事に毎度世話かけてもらってきた2人の高齢女子に明けましておめでとうさん。

はっと気がついたナンバープレートに注連縄。

そういやずいぶんと減ったもんだ。

実際、市中に何台が登録されているのだろうか。

かつては所有する自動車どころか、農家ならトラクター、耕運機に農小屋にまで注連縄かけ。

今でもそうしている家は山間地旧村に多く見られる。

杖つきの身体にいつも同乗している高齢女子のHさん。

「今でもそんなことしてんねんなぁ」っていうが、Hさんも農家をしている。

「おまんとこは・・」と言いかけたHさん。それを聞いたSさん。

「おまんとこ・・」って、そういうのは、あんただけや、と返す。

それはともかくSさんの軽トラは新車。

お願いしていた2020年東京五輪エンブレム

正式には「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会特別仕様ナンバープレート」というそうだ。

有料で購入できる江戸の伝統「市松模」がモチーフにしたエンブレム文様は「組市松紋」。

図柄はとても気にいっている。

(R2. 1. 3 SB805SH撮影)

下山田・明けの明星、一番星に供える

2021年09月08日 07時56分49秒 | 民俗あれこれ
元日早々に出かける初取材。

行先は天理市山田町の下山田。

東村垣内にある薬師寺は神仏混合の地。

隣接に春日神社。

午後にオコナイをされると聞いていたので、時間に間に合うよう自宅を出た。

所作はお堂外の回廊の縁叩き。

2人のドウゲが漆の木で叩く縁叩きを取材し終わってから年始挨拶拶を、と思って、近くに住まわれる東村のS家を伺った。

時刻は午後3時。

元旦の日にお出かけをされたのであろう。

ですが、玄関に七五三注連縄を吊っていた。

これは、何であろうか。

正月の神さんに供える形態にしては、初めて見る形態だ。

民俗の不思議を感じた正月のしめ縄。

特に不思議を感じたのは、藁束で作ったと思われソレである。

これまで拝見した正月迎えの数々。

藁束にしたソレに雑煮の具材を盛って供える形があった。

それは玄関に吊るしていた。

奈良市長谷町の事例は、「カミサンのチャワン」若しくは「ハチ」だ。

長谷町に住むもう1軒の事例は、「シメナワサン」。

長谷町に隣接する天理市福住・別所の事例は、「カンマツリ」。

もう1カ所は、やや離れた地域。

宇陀市室生の小原の事例がある。

設置場所が門の事例である。

いずれもほぼほぼよく似ている事例であるが、ここ下山田のS家の事例は、水平形態。

白餅と蜜柑の受け皿は、藁束を折って、その下部を御供棚のように考えた形態。



作られたご主人に、是非とも伺いたく、12日に再訪した。

当日も、また山田町の正月行事の取材。

中山田の蔵輪寺で行われたオコナイを見終わってから伺った。

Sさんは、この御供棚に名前はない、という。

一番星の「明けの明星(火星)」が昇る方角に向けて、奉るソレには名前はない。

Sさんが小さいころからしていたソレは、おじいさんとともにしていた注連縄。

注連縄はウラジロにユズリハも括り付けた七・五・三のしめ縄。

中央には、橙などの柑橘類もある。

おじいさんから、代々継いできたしめ縄にかける御供棚はそのものに、名前はなかったなぁ、ということだ。

撮った写真では、白餅と蜜柑しか写り込んでいないが、レンズに映らなかったところに、クシガキ、朔日雑煮、昆布なども供えていた。

元旦の午後を不在にしていたのは、毎年に参拝する東村から見える山の方にあるイナリさん(稲荷神社)の初参拝に出かけていたからだ。

下山田の春日神社の元旦祭は、参拝者迎えに詰めていた。夜明け前の朝4時に帰宅してからの正午は、お家のイタダキをしていたそうだ。

正月迎えの注連縄に御供棚を仕掛けるのは大晦日の12月31日の夕どき。

おおつごもり(大晦)の一番星迎えに鏡餅(クシガキのうち串付きの2個の柿に蜜柑、昆布を添えて)を供える。

雑煮は夜が明けてから支度する。

ご家族も食べる雑煮の白餅、大根、ドロイモ(※コイモ)の汁を、この棚に供える。

今年の大晦日、年明けにまた拝見させてくださいとお願いしたのは言うまでもない。

(R2. 1. 1 SB805SH 撮影)
(R2. 1.12 聞き取り)

切幡・T家のブトクスベのシシオドシ(猪脅し)

2021年07月01日 09時46分24秒 | 民俗あれこれ
平成25年の5月12日

立ち寄った山添村大塩に住むYさんが話してくださったブトクスベ

数年前、母親が作っていたブトクスベは、端切れの綿生地を丸太のような形に。

それを藁でぐるりと巻いて固定した。

梅雨が明けたころから虫がわきだす夏場の畑。

あまりにも多い虫に、難儀する農作業。

今も虫除けに使っているブトクスベは、夏場以降、秋の稲刈りが終わるころまで使用している、と話していた。

さらに、話してくれた虫除けのブトクスベ。

実は、数本が残っている、というブトクスベは、Yさんの母親がつくった母親の遺産である。

昔ながらのブトクスベは、腰のベルトに挿していた。

女性の場合は手に持ってである。

火を点けたブトクスベはじわじわと燃えるが、炎にならない。

煙だけが発生するブトクスベ。

その煙の威力は、蚊取り線香よりも虫によく効くという。


(H25. 4.27 SB932SH撮影)

Yさんが話してくれたブトクスベの形は、どんなものなんだろうか。

見たこともないブトクスベは、もう見ることはないのだろうか。

Yさんの話によれば、農小屋にある、という。

できれば見せていただきたい、とお願いを何度かしたが、お家の事情もあって、拝見することはなかったブトクスベが、県立民俗博物館に展示された。

春の企画展「お米作りと神々への祈り」に展示された「ブトクスベ」はガラスケース越しに拝見できた。


(H28. 5.24 SB932SH撮影)

展示キャプションに書いてあった呼称「ブヨクスベ」※()表記の別称は「ブトクスベ」。

地方、地域によって「ブト」を「ブヨ」と呼ぶところもある。

うちの大ばあさんは、農家ではないが、「ブヨ」と、呼んでいた。

農業もしていた母方の母屋も同じく「ブト」だったらしく、他に言い方はなかったのか、問うた95歳のおふくろは、「ブト」しか知らん、という。

一方、家人は枚岡が出里。

「ブト」とも「ブヨ」とも、どちらも通じていた、という。

「農作業、山仕事の際に、蚊や虻(あぶ)、”ブヨ”などの害虫から、身を守るための道具。

内部にヨモギや粟殻、布などを入れて、火を点ける。

立つ煙で害虫を追い払う。

腰に吊るしたり、手で持ったりして使った(※若干補正)」の解説である。

「ブヨクスベ」の入手先は、宇陀市菟田野の松井。

私が県内の記録中に耳にしたのは、「ブヨ(蚋)」でなく、「ブト」がほとんど。

「ブヨ(蚋)」は、正式には「ブユ(蚋)」と呼ばれるハエによく似た「ブユ」科の昆虫。

人畜から血を吸う害虫として嫌われていると、ウイキペディアにあった。

体長が、3mmほどの害虫は、農家にとっては、嫌われ者。

「アブ」と同じハエの仲間だが、刺されたときは、痛いし、痒くなるわ、翌日に腫れるわ・・。

実は、刺しているわけでなく、皮膚を嚙みちぎって吸血する。

尤も、吸うのはメスだけだが・・。

ちなみに県内各地で行われている小正月のトンド焼きの習俗に、ちぎったモチをとんど火に投げ入れながら詞章を唱える「ブトの口焼き」がある。

事例は少ないが、ブトクスベを話してくださったYさんと同じ山添村の大塩に住むK家は「ブトの口焼き」の実例を見せてくださった。

場は、トンド場でなくお家の囲炉裏。

家族そろって行っていた「ハチノハリ ムカデノクチ ハミノクチ サシタリカブレタリ ミナヤケヨ」。

詞章を囃しながら、ちぎった餅を囲炉裏に投げ入れて、危害を加える嫌な虫とか蛇に見立てた餅を囲炉裏の火に・・・みな焼けよ、だ。

同村の切幡に住むOさんは、囲炉裏でなく火鉢に餅を投げ入れていた、という。

K家もまた、「ブトクスベ」があった。

綿の肌着を藁で巻いて火を点ける。

夏の農作業に出かける際、腰に挿した「ブトクスベ」は、日常の生活に必要な農道具だった。

宇陀市榛原の額井では、トンドに投げ込む「ブトノクチ」を拝見したことがある。

「ブトノクチ ハミノクチ」と、いいながらちぎった餅をトンドの火に投げ入れる。

無病息災を祈るまじないとされる「ブトノクチ」である。

額井から近隣村の小鹿野の大とんど取材のときに聞いた「ブトノクチ」。

かつては、トンドのときに「ブトノクチ ハミノクチ」をいいながら、ちぎった餅をとんどにくべていた。

「アブの眼や」と、いって餅をちぎり、火中に投げ入れた。

Tさん夫妻が、昔の情景を思い出してくれたとんど焼きの習俗である。

昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。

「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口も、シラメ(※虱;しらみ)の口も焼こう”と云って餅を焼いた。」

明日香村の上(かむら)で取材したお家行事の小正月の小豆飯御供巡拝の際に、話してくださった上垣内のトンドでの行為。

「ブトも、蚊もいっしょくた、まとめて口や」と、いうて投げていた。

「ブトの口、ハブ(※普段はヘビと云っている蛇のことを、トンドのときはハブの名称になるそうだ)の口」と、云いながら、小さく千切った餅をトンドの火に投げ入れた。

噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる毒虫。

ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する、と話していた。

天理市苣原町で聞き取った「ブトの口焼き」

「ブトは刺しよるんで焼いたるんじゃ」も、また害虫除けのまじないである。

数々の事例をあげたが、どこともが「ブト」と、呼んでいた害虫の呼び名である。

たまに、「ブヨ」も口にする人は極めて稀。

ウイキペディアが紹介する「ブユ」の呼称

私が聞き取った範囲内では、誰一人、呼称する人はいなかった。

前置きが長くなってしまった。

さて、これよりが本題である。

逸る気持ちを抑えつつ、車を走らせた。

目的地は、山添村の切幡。

さまざまな年中行事の他、農家における豊作願いなど、習俗も撮らせてもらった切幡である。

FBでもお付き合いさせていただいているUさんが、前夜に発信された映像に度肝を抜かれた。

何年も亘って探していた「ブトクスベ」が、切幡に見た、という報告である。

撮ったのは、その日のようだ。

そこに疑問がわいた。

これまで伺ってきた地域の人たちが話す「ブトクスベ」は、梅雨明けくらいから夏場まで。虫の多い季節に、害虫除けの「ブトクスベ」に火を点けて煙らす。

Uさんが目撃された日は、令和元年の9月16日。

切幡は、山間地にあたり、平たん部に比べて1カ月も早く田植えを始める。

成長も早い作付けは、早米。

早い地域では8月末の稲刈り。

9月半ばでは、ほとんどが収穫をし終わっている。

農作業中に、傷み痒さに腫れなどの危害を加える「ブト」の発生・生息期間は、およそ3月から10月。

地域によって揺れ幅はあるかもしれないが、活動期間は6月から9月ころである。

活発な時季は過ぎているのに、「今日もブトクスベが、電柵にあった」、と伝えてくださった。

アップされた映像を記憶。そして走った切幡。

思った場に、難なく見つかった。



車を停めてじっくり拝見した切幡の「ブトクスベ」。

刈り取った稲で作った藁。

カラフルな布が崩れないようしっかり縛って、固定している。

電柵に直接ひっかけている、と思い込んできたが誤りだった。

中は空洞の鉄管に藁ごと縛り、落ちないように固定していた。

土中に挿して立てた錆びつき鉄管支柱。

使い古しの再利用であろう。

それにしても「ブトクスベ」を横から眺めて、どうしても想定してしまう姿は、大きな芋虫。



こんなけ大きな芋虫なら・・・モスラーーっや、と口に出そうになった・・。

芋虫が頭を下げているような様と思えば、口にあたる部分が焼けこげ。

歩道にその焼け跡が、そうであろう。

いつ、焼いて、いつ、火が消えたのか。田主に聞くしかないのだが・・

電柵の向こうは作付け地。

刈ったばかりの稲作地に危害をもたらす害虫は何だろうか。

ぐるっと見渡した稲刈りを終えた地に、人の姿は見つからない。

走ってきた道路の反対側は、畑作地。荒れ地の畑作地を耕す重機に乗っていた男性は、見覚えのある方だ。

拝見した「ブトクスベ」のことはご存じだろうか。



重機作業は、相当な時間がかかりそうだが、いずれどこかの時間帯に一服されるのでは、と思って歩道柵から、作業風景を眺めていた。

しばらく拝見していたら、気がつかれたのか、重機を停止してくださった。

お声をかけた男性は、Kさん。

取材していた寺、神社行事の他、村行事など、なにかとお世話になったことがあるKさん。

平成17年、18年8月が初めての取材に神明神社の一万度ワーイ

続いて、平成22年1月7日に行われた極楽寺のオコナイ、さらに翌週に行われたとんど弓始め

その後も、たんびに取材させてもらった村行事にお家の習俗畑作における豊作願い
も。

数えきれないほどの行事に、これは、と思った貴重な行事までも・・・

来年の3月には、「ゾーク(※造営事業)するから、また来てや」、ということだった。

なんども伺うようになったものだから、顔見知りも多い。

そのうちの一人がKさん。

今日は、何しに・・・に尋ねた用件は、これは、と指さした答えは、まさしく「ブトクスベ」。



Kさんが、いうには、今年はじめて設置したシシ除け対策。

稲刈り前に、大暴れでもされたら困るから、設置したというシシ除け対策。

昨年までは、ランタンのような防獣ライトソーラの灯り道具でしていたが、ふと思いついてした、という。

今年もまた柵にシシこと猪に、入り込まれても困るから、設置したそうだが、設置したには、Kさんでない。

設置した田主は、たびたび伺って稲作習俗を取材させてもらったTさんだった。

オコナイ行事にたばった護符。

自生のウルシを伐ってT字型に切り込みを入れ、護符を挟んで挟み、3月の“社日(しゃにち)”の日に立てる

ミトマツリに立てるその場は、苗代田の土手にある水口である。

すくすく育った稲苗は、田植えに。

その田植えの際にも農の習俗がある。

5月初めころにされるウエゾメ(植え初め)である。

いちばん最初に田植えする田地に挿す12本のカヤススキ。

旧暦閏年の場合は、13本にする月の数を挿すウエゾメ儀式を済ませてから、本格的にはじめる田植え作業。田植え機に乗って運転するのは孫さんだった。

ウエゾメに栗の木を3本。

フキダワラは三つ供える、と話していたが、「ブトクスベ」の件は、話題にもあがらなかったが・・・。

その足で、伺ったT家は不在。

夕刻なら戻っておられるだろうと思って電話をかけた。

受話器に出てくださったのは、息子さんの若奥さん。

「久しぶりやね、元気にしてた」と、明るい声が、受話器の向こう側から聞こえてくる。

昼間は不在だったのは、夫婦で出かけていたそうだ。

シシ除けのブトクスベを拝見してきた、と伝えたら、びっくりされた声が返ってきた。



あそこの稲作地は、「シシがくるさかいに、シシオドシを仕掛けた」、という。

せっかく育った稲作地を荒らす猪。

電柵を潜り抜けて田を荒らす。

稔りのころになると猪がやってくる。

古着、特にハギレの綿があればいいのだが、今どきすぐ手に入らないから古着で作った、というブトクスベ。

昔からおばあさんが手作りしていたブトクスベ。

今回、作ったのは80歳代のTさんの奥さんのようだが・・・。

米の収穫時期に作るブトクスベ。

農作業に手を焼かすブト(※ブヨとも)などの害虫を追い払う道具。



焼ける匂いが嫌いなのか、とにかく柵内に入らんよう、シシオドシの道具として設えたブトクスベ。

“クスベ”とはまさに煙で燻して、“クスベる”と、いうことだ。

腰に火を点けたブトクスベで虫を追いやる。

いわゆる防虫策であるが、移動式の蚊取り線香が市場に出るようになってからは作らなくなった。

今でもシシオドシの役目に作るという。

夜になったら火を点ける。

焼ける匂いに猪は嫌がって柵を越えない。

火は点けたままに放置する。

夜露に濡れたブトクスベは、やがて火が消える。

その一夜にしかしないシシオドシ。

おかげで、猪の侵入はなかったそうだ。

昔、おばあさんが農作業をしていたころ。

作ったブトクスベの周りに生の草を巻いていたそうだ。

その効果は、何か。

材料がハギレだけに燃え広がることを考えて、燃えにくい生草を巻いて燃え移らないようにしていた。



この日に拝見したブトクスベのシシオドシを設置したのは3、4日前。

夜露に濡れても焼けた匂いが残る、という昔ながらの生活の知恵を教えてくださった。

ちなみに道路側のシシオドシに対して山側にも柵をしているが、そこは電気仕掛け

夜にはチカチカと点灯する。

費用対効果を考えたらブトクスベの方がずっと安上がりになるはずだが・・。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)
(H28. 5.24 SB932SH撮影)
( R1. 9.18 SB932SH/EOS7D撮影)

路地裏・・・

2021年04月01日 09時44分00秒 | 民俗あれこれ
今夏、はじめて聞いたクマゼミの鳴き声。

7月9日の朝10時に11時。

近いところから聞こえてくるシェミシェミシェミ(※セミセミセミセミ・・)・・・。

翌日の10日もシェミシェミシェミ・・・。

しばらく鳴りを潜めていたクマゼミの鳴き声。



16日の朝8時に再び、であるがやや遠い処から。

たぶんにご近所のクマゼミは、シェミシェミなのか、シャワシャワ・・それともジャワジャワ。



翌日の17日も朝8時。

そろそろ梅雨明け近しの季節に、子供時代のころの蝉取りを思い出した。

木々にもいたし、板壁の小屋家にもいた。



当時はアブラゼミばかり。

ジージーの鳴き声に釣られて路地裏に入りこんだ記憶が蘇ったここはどこ・・。



迷い込んだ袋小路。

行先を見失った

(R1. 7. 8 SB805SH撮影)