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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

南山城村北大河原渋久・O家の小正月に小豆粥喰いのカヤ箸

2019年07月13日 10時36分41秒 | もっと遠くへ(京都編)
イロゴハンの炊きあげまでは少し時間がかかる。

一旦はお家に戻って用事を済ませたいという渋久垣内のOさん。

寒供養の御供つくりの際に話して下さったお家の小正月民俗である。

「今朝、カヤ箸で小豆粥食べていた」という小正月の習俗に飛びついた。

今朝、早くに訪れた奈良県天理市豊井町である。

毎年、小正月の朝は、小豆粥を食べた箸代わりのカヤススキを苗代に立てる。

その景観を見た、この日に教えてくださるO家のあり方は、「穂のある自生のカヤを採ってきて、家で炊いた小豆粥を食べる箸の代わりにカヤを・・・。一口食べて、残りすべてはお家にある箸で食べました」という。

おまけに「食べたカヤは捨てるんやけど、余り物のカヤは残してある・・」と、云われたので、思わず自宅訪問をお願いした。

承諾してくださったOさん。

自宅まで歩いて戻るには距離があるから時間もかかる。

送迎してくれはったら助かるし・・・と、逆にお礼の言葉をいただいた。

着いたお家の玄関土間。

昔ながらの風情を残す土間から入らせてもらって拝見する屋内。



な、なんと、おくど(※竈)さんがある。

元大庄屋の家だけに立派なおくどさんである。

両親、旦那さんも死別されたOさんは、私より2歳上のおねえさん。

「小正月の日は小豆粥を食べて、神さんは天に帰ってもらうねん」と、話していた。

天理市豊井町の田主がしている朝に小豆粥を食べるカヤ箸作法も、小寒の山行き御供も、翌年の取材をお願いしたわけである。

こういうことは大字田山や高尾でもしている人がいるらしく・・。

元大庄屋家の民俗はもう一つある。

おくどさんの上に祀っている戎さんである。

この年も参っていたという戎さんは、1月5日に行われる奈良市南市の初戎である。

南市に鎮座する春日大社の摂社になる恵比寿神社で授かった戎さんの福笹に吊るした大きな千両に千両俵。

商売をしていたわけではないが、なぜか恵比寿神社に参って千両俵を買ってくるのがO家の決まりだ、という。

その戎さんを祭っている神棚の端にぶら下げていたものにも目が行く。



カラカラに干乾びた大根は、自家栽培で育てた初成りの大根。

一般的な大根でなく、形が二股の大根である。

二股大根は、女体なので戎さんが歓んでくれるからそうしている、という。

後年であるが、平成31年3月31日に帝塚山大学出版会から発刊された『奈良の山里の生活図誌』。

極めて珍しい民俗行事を収録している。

天理市福住に住んでおられた故永井清繁さんが画いた絵に解説をつけた画帳である。

キャプションに「十二月二十三日 百姓の仕事おさめ 恵比寿さまと大黒さまに鯛一対と二股大根を供える」とある。

その日の行事名は、家の「亥の子」とある。

亥の子は括弧書きに「えびすさん」とある。

絵は、キャプションに書いてある通りの姿である。

この件で思い出す行事は2件。

一つは平成25年12月23日に取材した奈良県田原本町の蔵堂。

村屋坐弥冨都比売神社末社になる恵比須社行事の三夜待ちである。

ブログ記事にも書いているが、お供えは二股大根ではなかったが、本質は昭和59年に発刊された『田原町本町の年中行事』にある大字八田に田原本の町場のあり方。

いずれも12月23日の行事に二股大根を吊るしていた、ということだが、岩手県・種市町横手/九戸村伊保内戸田/二戸市下斗米など(※聞き書き岩手の年中行事)に山形県・庄内、宮城県も大黒さんに供えた記事がある。

どのような地域も12月9日に行ってきた行事。

東北地方では12月9日を「妻迎え」とか「嫁取り」、「お方迎え」などと呼び大黒さまが嫁を迎える日としてきたそうだ。

藁で編んだ皿に小豆飯を盛って二股大根を供える。

宮城県は、「大黒さんのかかさん」、新潟県北蒲原郡は「嫁大根」などと呼び、嫁大根を供えるときに、「嫁々」「嫁やい嫁やい」と唱えるのも興味深い。

行事の日は異なるが、戎さん、大黒(大国)さんは豊穣を象徴する。

(H30. 1.15 EOS40D撮影)

南山城村北大河原の寒供養の御供つくり

2019年07月10日 08時49分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
南山城村北大河原に寒供養とも呼ばれるカンセンギョを今でもしているとわかったのは、平成29年の1月20日に関係者のMさんと直接お会いできたことによる。

Mさんを紹介してくださったのは南大河原に住む南大河原稲荷講のDさん。

かつて15軒もあった南大河原稲荷講。

徐々に脱会された講中。

残った講中も高齢化となりやむなく中断せざるを得ない状況にあった。

当時のあり方を話してくださったDさん。

近くの山とか河原である。

キツネがおると思われる3カ所に出かける。

着いたらトーヤ家が作った御供を供える。

御供は3品。

一つはモッソと呼ぶ三角型のアズキゴハンのオニギリ(※オアゲゴハンとも)。

もう一つは焼いた開きのサイラ(サンマ)で、細かく切って供えた。

もう一つはキツネさんが喜ぶアゲサンである。

アゲサンは細かく切って、半紙を広げた場に御供を供える。

1カ所に5セットの御供を供えるというからカンセンギョに向かう際の運ぶ道具が要る。

それはコウジブタ。

量も多かったと思える御供を盛って施行するというから高齢者にとっては負担になったわけである。

施行を終えたら、ヤド(宿)と呼ぶトーヤ家に集まって、アゲサンを入れて炊いたショウユゴハン(醤油で味付けしたアジゴハン)とオツユ(汁椀)で会食していたと・・。

南山城村教育委員会編さん室(※平成14年~17年)ならびに学芸員として京都府の城陽歴史民俗資料館(平成10年~15年)に勤めていた前野雅彦氏と思われる方がブログ「やぶにらみ民俗学」で伝えていた。

平成15年3月16日に開催された「近畿民俗学会例会」に前野雅彦氏が発表された報告に「南大河原の寒施行」があるらしい。

論文あるいは報告書を拝見していないが、報告タイトルが「南大河原の寒施行」である。

南大河原稲荷講の様相を教えてもらい、また、紹介してくださった北大河原のMさんにお会いした。

取材の主旨を伝えて、翌年、つまり平成30年1月に行われる北大河原のカンセンギョにようやく巡り合えることになったが、行事の日程は固定日でなく、寿稲荷会が相談の上で決める都合のいい日である。

年末くらいになれば確定しているから、そのころであれば、ということであった。

都合が決まるころは年末の12月。

それも後半であれば確定しているだろうと判断して電話を架けた12月20日。

一年前に伺ったことを覚えておられたMさん。

二つ返事で伝えてくれた実施日は1月15日

当日の午後はカンセンギョに供える御供つくり。

寿稲荷会の婦人たち数人が本郷コミュニテイーセンターに集まって御供や寿稲荷会が会食に食べるイロゴハンをつくるという。

御供ができあがらないとカンセンギョには行けない。

手ぶらではカンセンギョに行けない。

カンセンギョをするのは男の人たち。

時間を見計らって集まるようだ。

会員16人からなる寿稲荷会は稲荷社に参拝してから御供を供えに山に行くが、穢れがある人は参拝できない。

この年は穢れの人が多く、山の奥までは行かずに稲荷社付近に留めるという。

カンセンギョを終えたら本郷コミュニテイーセンターでイキガミさんの会食に移る。

イキガミさんとは稲荷会の人たち、会食はいわば会の人たちの慰労会のようなもの。

カンセンギョの供養にお酒を飲んで御供下げをいただくから、是非起こしくださいと電話口で承諾してくださった。

午後の1時半。承諾を得たMさんの紹介で寄せてもらったと伝えた4人の婦人たち。

Mさんが“おなごし”と呼んでいた婦人たちである。

早速、御供つくりを拝見する。

御供つくりの食材は「寿稲荷 寒供養祭準備物」に沿って用意される。

稲荷社の供物は、鏡餅、洗米、酒、塩、スルメ、サイラ(サンマの開き)、油揚げ、昆布、大根、白菜、椎茸、蜜柑にお菓子。

山行きの供物は、24個の赤飯/丸(モッソ)、2個の赤飯/焦げ大(モッソ)、20匹の鰯に10枚の油揚げ。

ちなみに赤飯は、一升一合の米と小豆二合で炊きあげる。

会食にいただくイロゴハンは、米一升、鶏肉、牛蒡、人参、油揚げ。他に山行きの箱なども用意する。

料理の場は本郷コミュニテイーセンターの調理場。

婦人会の皆さんが手作りするこんにゃく作りを取材した平成28年12月のときと同じ場だけに、馴染みある調理台が懐かしい。

袋から取り出した山行きの材料。



包丁でザク切りする油揚げと鰯。

それを用意していたオカモチに盛る。



ラップを底に敷いて盛る鰯はぶつ切り。

頭、胴体、尾部分に分けたに三つ切り3等分にする。

オカモチは二つ。

一つはコジュウタ(※コウジブタ)から作った改良型のオカモチ。

婦人の一人が云った。

家にあるオカモチは百年前から代々が使ってきた、という古いオカモチ。

あまりにも古いし、新しいものもあると聞いて、「それは持って来なんだ」という。



炊飯器で炊いていた小豆飯ができあがった。

ほくほくに炊けた小豆飯は熱々。

これを手で握る。



形は三角。

その形から「ケンサキ」の名がある小豆飯(あずきめし)。

もう一つの形は真ん丸型に握る小豆飯。



さらに握った大きな小豆飯握りはオコゲで作る。

三角型はキツネさん。丸いのはタヌキに食べてもらうもの。

なるほどの名前のこれらは山行きに供える供物である。

供物が揃ったところで作り始めたイロゴハン炊き。



前述したようにお米、鶏肉、油揚げ、人参、牛蒡を切り揃えて炊飯器で炊く。

牛蒡が決め手になるという具材の味付けは醤油と本だしで炊く。

山行き終えて戻ってくる本郷コミュニテイーセンターの座敷でよばれる“イキガミ”さんたちの直会食に運ばれる。

二つのオカモチに盛った供物は4品。

真上から見たらケンサキらしい特徴のある三角錐形のアズキメシが12個。

丸目のオニギリも12個。

やや大きめに握ったオコゲの小豆飯オニギリは2個。

準備・調理の際にいろいろ教えてくださった婦人たち。

毎年の1月8日。

“小寒の日”は「御供さんの油揚げだけもって山行きしますねん」。

「男も女も云うてられへん、薄暗くなるころを見計らって山に行かしてもらった」と、渋久(しぶく)に住んでいるOさん。

小寒の日にしていたという山行きに供物だけをもっていった。

油揚げも供えた小寒の日。

昔は山から神さんが降りてきて、神主さんがどこへ行ってくれ、と云われて付いていった。

渋久(しぶく)の女性がオヤマに持っていくのは油揚げ。

お頭付きの鰯。

適当な葉を見つけて皿代わりにそこへ供物を盛る。

家に居たばあちゃんは、山に行くといって毎年供えていた。

愛宕山の方角の渋久の山とか寺谷(てらんたに)にも持っていったという。

渋久のO家と同様に小寒の日に供物を供えていると聞いた地域は、奈良県内の2カ所。

1カ所は奈良市興ケ原町に住む前宮司のTさん。

尤も、お供えをするのは奥さんであるが、大寒のころ、と思い込んで電話を架けたら、「もうとっくに終わっています」、ということだから小寒の日であろう。

もう1カ所は旧五ケ谷村の奈良市中畑町に住むIさん。

寒の入りに家の油揚げをお稲荷さんにおましている、と話していた。

稲荷さんの総本社は京都の伏見稲荷さん。

神主をしていたおじいさんが奥さんのお舅さんになるという寿稲荷会会長の奥さん。



“オダイサン“のお告げがあった処にお供えする。

お告げが伝える供物の場は毎年替わるようだ。

(H30. 1.15 EOS40D撮影)

加茂町銭司・春日神社の勧請縄と格子状砂撒き

2019年05月26日 10時00分22秒 | もっと遠くへ(京都編)
北大河原本郷春光寺の虫除け初祈祷会の取材を終えた時間は午後2時半。

帰宅するまではまだ時間がある。

南山城村からそれほど遠くない地域に同行取材していた写真家Kさんとともに向かった先は加茂町銭司(ぜず)。

民俗行事の下調べに訪れたのは平成28年12月18日

民俗調査の目的テーマは二つ。

勧請縄と砂撒き風習である。

場所は氏神さんを祭る春日神社。

その地がどこであるのか、地元住民に尋ねてたどり着いた加茂町銭司に鎮座する春日神社である。

山頂までとはいかないがやや中腹に建っていた。

距離はやや離れているが笠置町切山に鎮座する八幡神社も地元民に尋ねないとわからない地にあった。

奈良盆地のような平たん部であれば遠くから見てもわりあいとわかりやすい。

目印は鎮守の森。

街中では見つけにくいが、平たん部ならたいがいは見つかるが・・。

そのことはともかく、二つの行事の聞き取りである。

わかったのは1月3日である。

座中と思われる年番の人たちがしているようだった。

参籠所に貼ってあった「勧請縄奉仕者名」。

東頭(※東座)に4人。

西頭(※西東座)は7人だった。

砂撒きの場は境内であるが、勧請縄かけの場は聞き取りをしても不明瞭であった。

ある人がブログに公開しているがそれとて判然としない。

車を停められる場所まで走らせる。

急こう配で、なおかつ急な曲がり道。

慣れない山道に新調さが求められる。

たどり着いたところに車を停める。

停めた付近にあった石仏地蔵尊。

シダのような葉が見える。

敷物にした葉はウラジロ。

正月に御供餅を供えていたことが伺えるウラジロである。

その場から神社へ向かう参道道。



歩いた直後に出くわした勧請縄の大きさに圧倒される。

奈良県では見たことのない形態。

まるで編みの粗いネットのようにも思えた勧請縄。



継ぎ目、継ぎ目辺りにシデと榊と思われる葉を括っていた。

下に垂らした3本の荒縄。

本数は少ないが、どことなく縄暖簾の風情を感じる。

目線を上げたところに荒縄で編んだ太めの綱。



中央に何かがある。

ズームアップしてわかったオヒネリ。

たぶんに御供米を包んでいるのだろう。

勧請縄を拝見してから少し歩いた。



曲がり道を登ったところに見えた砂撒き。

直線、格子状に撒いた砂道。

勧請縄もまた格子状。

重さの関係でひし形に見えるが、本来は方形格子状ではないだろうか。



一段高い位置に鎮座する社殿。

小社との間に撒いていた砂は方形。



参拝する石畳には撒かず左側の小社との間も方形の砂撒きをしていた。

そこから境内を見下ろせばまるで碁盤の目のように見えた砂撒き。



右手にある材は「シバシ」に集めた割り木である。

(H30. 1. 6 EOS40D撮影)

南山城村北大河原春光寺の虫除け初祈祷会

2019年05月25日 08時34分57秒 | もっと遠くへ(京都編)
JA京都やましろのHPに月間やましろ記事がある。

月間の表記はあるが更新はしてなさそうに思えるが、その一つに“やましろ探訪”がある。

なかでも興味をもったのは民俗行事に関わる12情報である。

執筆者は城南郷土史研究会代表の中津川敬朗氏(元山城町教育委員会教育長)。

情報の一つに「南山城村に伝わる祈りの行事」として年頭の行事を紹介していた。

一つは田山の宮本座と中間座にあるオトナ衆によるオコナイ。

もう一つが本日取材させていただいた北大河原・春光寺の「乱杖(らんじょう)」行事である。

また、南大河原は山の神を紹介していた。

所在地を確かめたく訪れた京都府相楽郡南山城村北大河原の春光寺。

在所北垣内にある真言宗智山派春光寺である。

寺歴や有形文化財などはあるブログが詳しく紹介している。

春光寺に初めて訪れたのは平成28年11月7日

虫除け初祈祷会と称されるオコナイ行事は乱杖会である。

寺婦人に取材主旨を伝えてあらかたの行事内容を教えてもらった。

また、当日は鎮守社の国津神社総代がおられた。

そのときに聞いた北大河原の山の神行事は数カ月後の平成28年12月10日に取材したが、南大河原の山の神は実施状況に大きな変化があったことがわかった。

前年は1月7日に行われたが、この年は1月6日。

ご住職が兼務する野殿の福常寺の行事日などの兼ね合いがある関係で元々の行事日である1月6日に調整することが難しい。

だが、この日は本来の6日にあたった。

ありがたい日に寄せていただいた春光寺乱杖会である。

この日の行事にやってきた北大河原の子どもたち。

親たちも一緒になって所作するランジョー叩きの役を担う。

僧侶および寺檀家に氏子総代兼村神主にご挨拶してから本堂に上がらせてもらった。



平成10年、春光寺の本堂は、村をあげて平成の大修復が行われた。

ご本尊は奇麗になった本堂のお厨子に納められた薬師如来立像である。

御供は正月ならではの二段重ねの鏡餅。

その前、左右に乱杖会に祈祷される2種の祭具を立てている。



一つは5本の枝をつけたハゼウルシの木。

長さは全長2m50cmにもなるハゼウルシ。

5本の枝だけでも1mの長さである。

その長い1本のハゼウルシの木は、20本ずつ、長さが1mのハゼウルシの木の束中央に納めて崩れないようにpp紐で括っていた。



この二つのハゼウルシの木にごーさんともよばれる護符を挟んでいる。

尤も長い方のハゼウルシは股状になった5本の枝先に丸めた護符を付けている。

紅白の水引で括って落ちないようにしている。

短い方のハゼウルシは皮を剥いで切込みの細工をしている。



切込みはT字型。

幅のある切込みに護符を挟んで幅の短い方から外に出す。

その方法であれば護符は外れることはない。

護符はくるくる巻き付けて輪ゴム止めする。

長いハゼウルシは左右で2本。

短いハゼウルシは左右で40本(※以前は50本)にもなる。

北大河原の全戸数は120戸~130戸になるが、必要とする村の農家、檀家に配る初祈祷の本数は檀家総代の手によって作られた。

ちなみに行事を終えてから拝見したご祈祷の護符の文字は、住職曰くパソコン文字で出力した「牛玉 春光寺 宝命」だという。

一つ、一つの文字ごとにスタンプ型朱印がある。

かつてはおそらく「牛玉 春光寺 宝印」の墨書、或いは版木刷りの書であったと推測されるが、事実がわかる記録はないようだ。

副住職が動いた。



本堂外に吊っている鐘を打ってはじまりの合図をする。

カーン、カーンの音が村中に響いているようだ。



それから入道される住職と副住職。

内陣に座るのは住職たち。

その左横に置いた太鼓打ちは国津神社の祭主を務める氏子総代兼村神主。

本堂の両脇隅に座った人たちは6人の檀家総代に子供会の代表者。

ランジョウ所作に縁叩きをする子どもの親でもある。



もっと大勢の子どもたちが居たころ。

昔のことであるが・・と話す檀家総代ら。

その時代からみれば大減である。

この年は中学1年が2人。

小学生は5年生を筆頭に4年生、3年生、2年生が続く。

付き添う母親に子たちたちが手にした棒は青竹(篠竹)。

かつては青竹(篠竹)でなくウルシ(漆)棒のようだったという。

はじめにご真言を唱える。

金剛鈴を振ってシャンシャン・・ジャラジャラと鳴らす副住職。

壇を清めて、村の安穏、家内安全、五穀豊穣などをご祈祷する導師の住職。

次は、何々の大明神・・・日本全国におよぶ数々の神社名を詠みあげる神名帳詠み。

そのときだ。

大きな声で「ラーンジョー(※乱杖)」と発声された住職。



前に据えていた2mほどの長さの牛杖(ごーつえ)を取り出して、後ろに居る副住職に手渡した。

と、同時にドーン、ドーンと強く打ち鳴らす太鼓。

後方に廻った副住職が動いた。



それと同時にガタガタガタと音を鳴らして叩く竹の棒。

堂内に敷いた板を叩くランジョー所作。

檀家総代に子供会代表。

回廊に座っていた子どもたちに母親も揃ってガラガタガタと叩く竹の棒。

太鼓も鳴る。



竹も鳴る。

その間の副住職は本尊前と内陣の間をぬって右回り。

一周廻ってもとの席に戻る。

そして、牛杖は住職に戻される。

嵐のように打たれる鳴り物も静けさを取り戻す。

敬って申し不動坊修法を唱えて国家安全などを祈る。

そのときだ。

再び大きな声で「ラーンジョー」と発声された。

先ほどと同じように住職から牛杖(ごーつえ)を受け取った副住職が動く。



太鼓はドーン、ドーン。

竹叩きはガタガタガタ。

大きな音をたてることで村から悪霊を追い出す所作である。

牛杖(ごーつえ)を抱えるようにもった副住職は再び廻って位置に戻る。

この作法は「行道(ぎょうどう)」という。

法会の際に本尊仏、或いは本堂の縁周りを右回りに巡り歩く作法である。

再び静けさを取り戻して席に就く。

次の読経は観音経。

そして3度目も大きな声で「ラーンジョー」。



子どもたちも力強く竹を振り下ろしてカタカタカタカタ。

やや乾いた音のように聞こえたランジョー所作。

一般的に「乱声」の字を充てるが、当地では「乱杖」。

数日前に取材した奈良県榛原・萩原玉立(とうだち)に宇陀市榛原戒場(かいば)も同じくランジョーを充てる漢字は「難除」であったことを付記しておく。



おりんを打って始まった般若心経。

副住職が務める般若心経はドンドコ、ドコドコ・・、太鼓を打ちながら唱える。

ときには力強く、激しく太鼓を打つ般若心経である。

般若心経は三巻。

続いてご真言を唱えて退堂された。

その間、およそ20数分。

場を転じることなく氏子総代兼村神主が突然のごとく動いた。

ご祈祷法要を終えた次の所作は朱印を用いる牛玉捺し。

朱印の牛玉宝印を手にした氏子総代兼村神主は起立して、正面に向かって一礼する。

そして、天、地に四方の東、南、西、北に向けて判を捺す所作をする。

右を向いた東の方角。

印を突き出すような形で所作をする。

次もまた右を向いて南の方角。

印は突き出すのではなく、搗くような所作である。

次に西、北の方角。



四方を突いた次は天。

正面を向いて印を突く天の次は地。

天、地も突いて祓い清めた。

所作は慌てて撮ったものだから映像はかなりブレてしまった。



すべての所作を終えてから拝見した牛玉宝印。

護符は、この朱印の捺印でなくパソコン出力の印であった。



作法をしてくれた子どもたちをお礼に見送られた。



ちなみに子供会がこの日の行事を伝えた文書には“えんたたき”と表記していた。

まさに縁叩きである。

奈良県内にもランジョー所作は各地で見られるが、子どもの縁叩きはまず見ることがない。

かつては本堂回廊でしていた地域もあったが、今では語り草になりにけり。

ただ、内陣の縁を叩く地域があった。

大和郡山市小林町・真言宗豊山派新福寺のオコナイである。

本堂を建てなおすまでは築300年以上も経った観音堂。

内陣の板はフジの木で叩かれて、叩かれて薄く剥げていたことを思い出す。

子どもたちは解散されたが、檀家総代らは後片付けがある。

祈祷したハゼウルシ挟みのごーさんは40戸に配られるが、役目を終えた長いハゼウルシは2本ともとんど焼きで燃やすという。

焼かれる長い木の護符付きハゼウルシ。



いただけるならと住職、檀家総代にお願いしたら承諾してくださった。

我が家で一旦は預かるが、時機を見計らって京都府立山城郷土資料館に寄贈したいと思っている。

と、いうのも同館が平成11年10月30日に発刊した『特別展展示図録19 花と鬼と仏―春の民俗行事とオコナイ―』に報告されている「南山城村北大河原の―春光寺の虫除け初祈祷―」の頁に紹介されているごーさん挟みのウルシ棒である。

牛玉札とともに収蔵されているが、5本枝の長いハゼウルシは掲載されていないことから収蔵されていないとみた。

よろしければと、いつか訪れて寄贈したいと思っている。

お礼を伝えた一人の檀家総代。

うちでは味噌打ちに味噌壺を寝かすとき、雑菌に浸されないように、と蔵内部の暗所のところに立てたと話してくれた。

田山でも同じような話があったが、蔵ではなく味噌壺に、である。

味噌壺の蓋にごーさん札を置いとけば味噌が美味くなるという話であった。

奈良県内でも同じような話を聞いたことがある。

他にも苗代のときに立てるという人もいたようだ。

田んぼの苗代。

その苗代に水が入る水口のところに立てたという春の時季に行われるまじないの虫除けである。

ちなみに平成28年1月号に発行された『月刊むらびぃと』に、当時、春光寺の虫除け初祈祷会を取材されたウエブ記事がある。

発行は「道の駅 お茶の京都 みなみやましろ村」である。

そのウエブ記事に5股の枝があるハゼウルシのことが書いてあった。

たぶんに檀家総代の話だと思うが、5股の枝は「東、南、西、北に天」。

軸の部分は「地」を表していると・・・。

(H30. 1. 6 EOS40D撮影)

久御山町佐古・泥棒除けまじないの逆さ十二月十二日護符

2019年03月28日 09時59分37秒 | もっと遠くへ(京都編)
入院していたおふくろが無事に退院した2週間後の12月26日に尋ねた泥棒除けまじない。

その思い出はおふくろの生家である大阪の富田林の錦織。

私の記憶にあるのは茅葺民家の母屋である。

おふくろが云うには父親の仕事は石垣造り。

建屋の基礎部分を仕事としていた。

いつしか業態を替えて豆腐造りに転業したようだ。

その光景は今でも映像に出てくるというおふくろ。

12月12日の何時だかわからないが、母親が書いていたのかどうかも覚えていないが、玄関の庇(ひさし)に貼っていたという。

玄関に入ると左側は雑なものを隠すための引き戸の板扉。

その向かいが板の間の半床。

中は空洞で板を外して何かしらのモノを収納していた。

その板の間で茶粥を食べていた。

茶粥は椀に、よそってもらっていたことを思い出す。

その奥は座敷。

それはともかく土間を突きつけると正面に井戸があった。

その左側がオクドさん。

窯は二つだったか、三つだったか思い出せないが、種火を点けて竹筒を吹いてフーフーしていたような気がする。

井戸のすぐ左手は鉄釜のお風呂。

ここも竃と同じように薪を入れて燃やしていた。

お風呂は五右衛門風呂。

従妹の子らと入ったような記憶もあるのだが・・・。

五右衛門風呂に入るには下駄を履いたような気もする。

それか、丸い蓋があって、それを沈めて入浴。

動いたら危ないと思ってか、じっとしていた。

五右衛門は大泥棒。

盗人の大泥棒が入って来やんように玄関の庇に書いて貼ったお札の文字が「十二月十二日」。

縦に書いていた「十二月十二日」は逆さに貼っていた。

それが泥棒除けのお札。

効き目があったのか、泥棒に入られたという話しはまったく出なかった。

田中家に嫁いではみたもののその行為は継がなかったが、父親の母親がしていた。

田中家に生まれた私にとっては祖母である。

おおばあさんが「十二月十二日」と書いた貼り紙。

生まれ育った大阪市内の住之江に住んでいた住居の玄関の庇に貼っていた。

その光景は今でも思い出すが、書いて、貼っていたのは戦前まで大阪中央区の瓦町で呉服屋を営んでいた祖母のおおばあさんだった。

おふくろはそのことを継がなかったのであらためて聞いたわけである。

ちなみに家内の記憶である。

東大阪市内の枚岡が居住地だった。

ここも母親が書いて貼っていたという。

我が家の関係先は、いずれも女性が書いて貼っていた。

30云年前に大阪から奈良に引っ越した。

それから十数年後。

数々の民俗を記録する身になった。

親、或いは祖母がしていた泥棒除けのまじないは奈良県内にもままあることを知り、記録取材を重ねてきた。

私が記録した事例は、桜井市脇本のM家、同市脇本のN家、大和郡山市万願寺町のI家、天理市荒蒔のK家、田原本町矢部のN家の5軒。

他にあるように思えるが、いずれも民家だけに実態を掴むことは難しい。

京都検定受験者向けにネット公開している「京都通百科事典」なるものに書いてあった逆さ札の件。

12月12日は、三条河原で五右衛門が処刑された日と書いてあった。

子どものころから、そういわれて育った私も思っていたが、実際に処刑された日は別の日。

ウキペディアによれば、文禄三年(1594)の八月二十四日のようだが、なぜに処刑された日がまじないになるのか・・・。

広く流布された泥棒除けの護符は謎である。

京都住まいのある人がブログ「歴史探訪京都から」に書いていた事例。

大阪・松原市では十二月二十五日。

地域はわからないが大阪の南部では「十二月二十三日」の事例もあるらしい。

二十三日であれば二十三夜を思い起こすが、二十五日は・・。

四代目市川九團次さんがブログに綴った記事によれば、永禄元年(1558)12月12日は五右衛門生誕の日にあたると書いてあった。

またまた謎である。

関西ではなく九州の福岡県飯塚市にも事例がある。

事例の場は木造芝居小屋の嘉穂劇場

日付けは「十二月二十五日」である。

また、奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんがテレビインタビューに答える泥棒除け取材も参考になるが、放映された映像は消えている。

さて、本日の泥棒除け取材先は京都。

久御山(くみやま)町にお住まいのYさんである。

平成28年6月4日に取材した佐古の野神神事に奉る御供作りである。

私は事情があって、その夜に行われる神事は拝見していなかったが、製作に同行取材していた写真家のKさんが、神事取材に伺ったYさんから聞いた件が泥棒除けまじないの逆さ十二月十二日護符だった。

そのときの話しによれば、十二月十二日の護符は実家のお姉さんが書いていたそうだ。

その護符、貼る日をつい忘れてしまうことがあったらしい。

かつてはY家のおおばあさんがしていたという。

Yさんの奥さんは京都の宇治小椋。

割合近い地域であるが、奥さんの出里でもしていたところから、おおばあさんに倣って今でも自然体でしてきたという。

ただ、なぜにこのようなことをするのかは聞かずじまいだったようだ。

貴重な家の民俗を知って取材をお願いしたら、ありがたく承諾してくださった。

御供作りにも同行取材していた写真家Kさんとともに訪問するY家。

どうぞ、上ってくださいの声に玄関を開ける。

敷居を跨いですぐさま見上げる玄関土間。

視線は土間でなく庇である。

そこにはなかったが柱に貼ってあった一年前の護符である。

貼る場所は玄関と裏口の2カ所。

いずれも柱にしているという。

12月12日に書いて、その日の24時までに貼り終える。

本日は私どものために待ってくださっていた。



奥さんは出かけなければならない用事があるが、書いている様子も撮らせてほしいとお願いしていた。

いつも使っている硯石に墨。

墨汁でなく奥さんが墨を摺って護符文字を筆で書く。

書の卓はとても素敵な風合い。

落ち着きのあるパッチワークの紋様にあこがれる。

一年間も守ってくれた古式的セキュリテイの護符を柱から剥がして、新しい護符に貼りかえる。



玄関扉上のガラスに貼っていた護符の文字は「五大力尊御影 上醍醐寺」。

醍醐寺ご本尊の「五大力尊お分身、昼夜を問わず陰の形に従うが如く、その人の御身を守り、かつ家を護り、あらゆる災難を払い除け、その身は無事息災、一家は安泰隆昌になります」と、世界遺産京都醍醐寺・五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)が伝えている(※醍醐寺HP参照)。

また、五大力といえば、度々テレビで取り上げられる「五大力餅」の奉納である。

五大明王の霊験を授かりたく、巨大な餅を持ち上げる名物の「餅上げ」だ。

女性の場合は90kg。

男性であれば150kgの大鏡餅を抱え上げる。

抱える時間を競い、無病息災に身体堅固を祈ってもらう。



五大力さんの護符取り上げともにY家を護ってきた「十二月十二日」の護符は一年のお役ごめんをして新しくした。

ちなみに奥さんが書をしてくれた「十二月十二日」の護符は、物差しで計って綺麗に分離する。

カッターナイフで切断した護符は家にある扉の柱に。



残りの護符はどうされるのか、聞きそびれたが、たぶんに近い親戚筋におすそ分けするのであろう。

ちなみにY家の護符は、広い範囲に伝承されている「十二月十二日」の護符であるが、一つ、紹介しておきたい護符がある。

奈良市須山で拝見した護符は「十二月十二日 朝の水」だった。

平成29年の3月26日に拝見した「十二月十二日 朝の水」は、まさに防火のまじないであったことを付記しておく。

(H29.12.12 EOS40D撮影)

南山城村南大河原のヤマモリは・・

2019年03月25日 23時50分37秒 | もっと遠くへ(京都編)
今年もヤマモリの御供をしているのかどうか拝見したくなって一年ぶりに再訪する。

昨年の平成28年12月10日は土曜日だった。

伺った時間帯は午後5時前だった。

辺りは暗がりであったが、山の神の前に供えた竹で作った御供台があった。

風で飛ばされたのか、それとも鳥獣が食い散らかしたのか、御供のお米が散在していた。

御供台も倒れて常緑樹の椿葉も散らかっていた。

御供をされていることは行事が続けられていることである。

子どもがいなくなって大人の氏子総代が継承してきた「ヤマモリ」行事。

始まる時間帯はまったくわからない。

朝早くでもないように思えるし、昼頃でもなさそうと思って、午後も3時ころ。

行事をしておれば残欠を拝見したい。

もし、その場に人と出会えるなら、現状を聞いてみたい。

そう思って車を走らせた。

神社手前にあった地区の掲示板。

情報を掲示しているかもしれないと思って車を停めた。

そこにあった行事の通達は「ヤマモリのご連絡」であった。

ただ、時間帯は午後1時。

行事は2時間前に終わっている。

神社にはだれもいないだろうと、と思ったが、そうではなかった。

境内の一角に男性が3人。

話しを聞かせてほしいと願って声をかけたら新旧の氏子総代らであった。

10年どころか、もっと前。

当時子どもたちだった子たちは成長して立派な大人になったというから、20年も前のことであろう。

子どもが多かった時代は20人以上。

暗くなった地区を巡って各戸からお米をもらっていた。

そのお米でご飯を炊いた。

炊いたご飯は3カ所にあった山の神さんに供えた。

そのころの子どもたちは元気だった。

年長の子どもが下の子どもを引っ張っていた。

遊びでも一緒。

社務所内で火を起こしてご飯を炊いていた。



椀かなにかに盛って食べてともに過ごしていた。

成長は先輩の年長者がいたからだ。

ともに遊び、ともに地域で暮らしてきたコミュニテイがあった。

今ではゲームで個の世界。

ずいぶんと暮らし文化が替わったという。

残った御供飯はいただいた各家を巡ってお礼にさしあげた。

その際の囃子詞が「やまもりやでー・・・」だったそうだ。

何故に「ヤマモリ」であるのか、意味も分かっていなかった。

少子化の波を受けて、いつしか子供はいなくなった。

仕方なく、といえばではないが、村の大人たちで継承してきたが、それも中断することになった。

時代は移り変わって復活しようということになった。

それから子どもを呼ぶようになった。

神社行事でもない「ヤマモリ」は元々が12月10日の特定日にしていた山の神行事である。

来年はいつになるかわからないが、学校が休みの土曜、日曜になるであろうという。

行事日が決まれば1カ月前ぐらいに掲示するらしいから、そのころに伺って日程を掴むしかない。

掲示板にあった参加対象者は「就学前から中学生までの男子。

氏子・氏子の子どもおよび保護や」である。

参加人数を多くするに、外氏子にも声をかけて拡大する資格者も募っていた。

氏子総代がいうには、この日に集まった最年少者は2歳。

来年は3歳になることだろうが、御供のおにぎりを食べさせてくれる行事だと認識するだけだろう。

「ヤマモリ」=「おにぎり」のイメージが焼き付くのでは・・、と思った次第だ。

ちなみに今年の御供台は竹製でなく、一般的なお盆にしたそうだ。

そのような状況になっていた南大河原の「ヤマモリ」。

来年こそ、実態を拝見したいものだ。

それというのも、本日参加したと思われる5人のうちの3人の小学生の子どもたちは神社前にある児童公園で遊んでいたから、である。

(H29.12.10 SB932SH撮影)
(H29.12.10 EOS40D撮影)

山城町平尾涌出宮の饗応の相撲

2018年12月19日 09時10分13秒 | もっと遠くへ(京都編)
拝殿入口辺りに掲示している「宮座行事の日程変更のお知らせ」を通知している人たちは涌出宮関係宮座衆一同。

涌出宮は京都府木津川市山城町平尾里屋敷に鎮座する涌出宮(わきでのみや)であるが、正式社名は和伎坐天乃夫岐売(わきにいますあめのふきめ)神社である。

涌出宮に関係する宮座は与力座、古川座、歩射(びしゃ)座(平成5年復帰)、尾崎座、大座(おおざ)、殿屋座(とのやざ)、岡之座、中村座の八座であるが、本日行事の饗応(アエ)の相撲については大座、殿屋座、岡之座、中村座(※平成22年より一時的に休止していたが復帰のようである)の四座によって行われる。

宮座によって行われる涌出宮の秋祭りは2行事。

本日の饗応(アエ)の相撲に百味の御食である。

それぞれ9月30日、10月17日に行われていた両行事は平成26年に特定日を移して休日に移行された。

饗応(アエ)の相撲は9月最後の日曜日、百味の御食は10月の第三日曜日である。

饗応(アエ)の相撲は午後に行われるが、その前に座中が揃って会食をされる座直会がある。

座中饗応の宴であるが、この饗応を“あえ”と呼び、座中の関係する子どもたちが相撲の所作をすることから行事名が「饗応(アエ)の相撲」としたのであろう。

ただ、相撲の所作に出てくる詞章はアーエーと伸ばしている。

略した線描きの土俵の場は北側と南側の2カ所に設営する。

北の土俵は大座に殿屋座。

南の土俵は平尾の岡之座、中村座の場である。

なお、雨天の場合は拝殿内で行われるそうだ。

行司役を務める座中は白抜きの下り藤の紋を染めた素襖を着用し烏帽子を被る。

足元は白鼻緒の草履を履いて身支度を整えた。

相撲取りの所作をする子どもたちは普段着に赤、白色の相撲廻しを締め、相撲の所作に用いる太刀(※柄は白色、鞘は朱色)をもっている。



まずは本社殿下に登って鈴祓いを受ける。

子どもたちは神妙な表情をみせていた。



境内に設えた二つの土俵を祓ってくださる宮司。

その場に登場するのは二人の行司役と二人の子ども力士。

右に白廻し、左に赤廻しを着用した子どもが並ぶ。

まずは土俵入りの饗応(アエ)所作。

太刀を上段に構えて「アーエー アーエー・・」を繰り返し発声しながら前進する。

その際、太刀を前方に向けて振り下ろす。

これを何度も繰り返して向こう側の土俵までゆく。



初めて体験する饗応(アエ)の相撲の所作に戸惑いをみせつつお互いが顔を見合わせる。

テレがあるのか笑みがこぼれる。

その作法を見ている観客は優しい眼差しを送って笑顔になる。

温かみのある観客の目線も感じながらも所作を繰り返して向こう側の土俵に着く。

土俵の廻りに観客。

少し間をとって囲んでいる観客は座の関係者に子供力士の親たち。

初めての出番に目を細めている。

車椅子利用の人たちも観客。

涌出宮すぐ近くにある入所施設で暮らしている人たちも愉しみにしていた饗応(アエ)の相撲である。



行司がもっていた扇を広げて、その上に置いた太刀。

刃のある方を向かい合わせにして太刀を置いた。



そうすると力士は行司のいわれるままに腕をあげる。

おいで、おいでをしそうな掌。

そのまま腕を上下に振りながら後ろ歩きで戻っていく。



そのときも同じく「アーエー アーエー・・」を繰り返し発声しながら戻っていく。

出発地点の向こう正面(南)に戻ったらまたもや前進。

そのときも、おいで、おいでをしそうに腕を上下に振りながら「アーエー アーエー・・」を繰り返す。

また、土俵に着いたら置いていた太刀をもって後ろ歩きで戻っていく。

その際の所作は太刀振り。

「アーエー アーエー・・」を繰り返し発声しながら戻っていくと、思いきやそうではなかった。

その地点からお互いは背中を向けて太刀振りの前進。



これまで見せていた土俵内ではなく土俵外周に沿って半円を描くように前進して出発地点に戻る。

これより始まるのが相撲の取り組み。

先ほどの作法は取組前の儀式、つまりは土俵入り作法ではないだろうか。

さて、相撲の取り組みである。

2本の筋を引いた仕切り線。

東西に分かれた子供力士がこれより勝負をする。

行司の手には軍配がある。

ただ、「ひがーしー」とかの呼び出しはない。

さぁ、見合って、見合って・・・とする前に、子供力士に伝える三番勝負である。

一番、二番はお互いが一つ勝って、一つ負け。

勝負は引き分けになったところの三番勝負はガチンコである。

行司の指示は先に君が。

次は君にと勝負を伝えてから、見合って、見合って、はっけよーいっ・・・のこった。

相撲の技は押し相撲。

相手の胸を押して土俵に押し出す。

先に負けを決めていた力士は力を入れることなく押し出された。

二番勝負の勝ち負けは逆になる。



要領が理解できた子どもはあっさりと勝負を決めた。

さて、ガチンコ対決の三番勝負である。

気合いを入れた両力士。

はっけよーいっ・・・のこったに力づくに押しまくる。

押して、引いて、廻して、のこった、のこった・・・。

最後は力いっぱいの「おしだしーー」で軍配がくだった。

本格的な勝負に場内の観客たちが打つ拍手は鳴りやまない。

次の取り組みは順番を待っていたもう1組の力士たち。



初めの二座にもう一組の二座。

それぞれに出番があるから選手交代、でなく力士は2番手の二人である。



先ほどと同じようにまずは所作をする。

太刀をもって「アーエー アーエー・・」を繰り返しながら前進し、北にある土俵正面まで。



扇を置いて太刀も置く。



手振りで南の向こう正面に戻る「アーエー アーエー・・」の所作。

再び正面に向かって「アーエー アーエー・・」。



太刀をもって土俵の外周を「アーエー アーエー・・」。

そして三番勝負。

同じように一番、二番は役割通りに勝負をする。



そしてガチンコ勝負の三番取り組みに拍手喝采。



母親は勝負決めの一瞬をとらえていただろうか。

北側の土俵で相撲取りをした力士たちは場を替える。

今度は南側に設えた土俵である。



北側の土俵と同じように向こう正面から始まる「アーエー アーエー・・」の所作。



太刀をもって半周回する。

さぁ、見合って、見合ってはっけよーいっ・・・のこった。



2度目の登場に力士の目線は気合いの入った勝負の眼。





所作、取り組みは次の子どもたちに入れ替わっても繰り返す「アーエー アーエー・・」にガチンコ勝負。



頼もしくも微笑ましい饗応(アエ)の相撲を終えたら宮司から金一封、ではなく涌出宮の御供を授与される。



また、それぞれの座中からはお礼の品も授与されて、饗応(アエ)の相撲の役目を終えた。



稔りの稲作は収穫の秋。

取り込みまでの座中はゆっくりしている。

饗応(アエ)の相撲は成長した座中の子どもの初舞台を拝見する秋の祭りの予祝行事である。



翌月は収穫を祝う百味の御食が控えている。

なお、饗応(アエ)の相撲の実施日が雨天の場合は拝殿内で行われるようだ。

その様子をアップしているブログもあれば、毎年来られる人とか、座の人と思われる人は直会食の様子をアップするなど賑わいをみせている。

(H29. 9.24 EOS40D撮影)

久御山町佐古内屋敷・若宮八幡宮のお千度千燈明の宵宮放生祭

2018年12月02日 08時26分49秒 | もっと遠くへ(京都編)
久御山(くみやま)町は京都府久世郡の久御山町。

旧村を囲むように新町が膨れ上がった。

団地もある佐ここら辺りの神社は2社。

1社は佐山双栗に鎮座する雙栗(さぐり)神社。

1月15日に行われる御神差とも呼ばれる粥占神事や8月31日の八朔祭りをしているようだ。

もう1社は佐古内屋敷に鎮座する若宮八幡宮がある。

この年の6月4日に拝見した御供作り。

野神に供えられる御供調製の一部始終を拝見させていただいた。

その際に宮総代のYさんが話してくれた若宮八幡宮の年中行事である。

その一つであるお千度の名もある千燈明を灯す行事に興味をもった。

行事の正式名称は放生祭である。

宵宮とは本祭の両日に行われる。

都合、14日の宵宮に訪れた若宮八幡宮である。

放生祭の主役は子どもたち。

この日の宵宮は宮総代らに親子連れでやってきた60人もの参詣者で境内の千燈明が美しく光り輝いていた。

子どもたちは30人。

とても賑やかな放生祭になったことを先に触れておく。

本社殿、拝殿、境内など、それぞれに燭台を据えていた。

鳥居を潜った境内が数多い。



1脚の燭台に灯す蝋燭台の数は38もある。

長めの燭台の数は68もある。

やや短い燭台でも28。

境内だけでも134。

鳥居の前にもある燭台も数えてみれば124本立てと16本立て。

合計すれば274本にもなる。

それぞれが長さを測って作った手作りの木製燭台。

予め挿してあった蝋燭の数に圧倒されるが、燭台はまだある。

境内の燭台は高さを子どもに合わせた下段も入れた2段型。

それに対して拝殿の両脇の棚に据えた燭台は上下に3段。

一段が14灯だから42灯。

二つ合わせて84灯。

これらすべて合計しても蝋燭は358灯。

千燈明の呼び名もある蝋燭灯しの放生祭は半分も満たない。

実は、千燈明の呼び名もあるが、千の数の蝋燭を灯すわけではない。

それほど多いということである。

ちなみに数が少ない百灯明の名がある行事もあるが、これもまた百灯に満たない。

千よりは少ないが、まま多く灯す在り方である。

また、百より、千より多い万灯籠もある。

これもまた「万」の数ほどに多いという意をもつ燈籠の火灯しである。



本社殿の燭台の蝋燭に火を灯したら子どもたちの出番である。

社殿階段下に置いた箱がある。

その箱には長年使われてきた竹串がある。



色褪せた竹の色。

風合いから一挙に作られたものではないような気がする。

かなりの年数を経ている風合い。

子どもたちが握った汗が染みているのかもしれないその竹に墨書。

判読できないくらいに色褪せ。

寄進者の名前が書かれてあったのだろう。

数はどれくらいであろうか。



相当な数だと思ったその竹串を手にした子供は駆けていった。

本社殿の周りを反時計廻りに走っていった子どもは一周して社殿前に戻ってきた。

それで終わりかと思えば、そうではない。

そのまま駆け抜けていくわけでもなく、一本の竹を箱に戻したのだ。

そうして再び走り出した子ども。

本社殿を反時計廻りにまた戻ってきた。

一体、何周するのだろうか。

宮総代らの話しによれば、走る子どもの年齢に1歳プラスした数を周回するということだった。

そういうわけで1歳児であれば2周。

3歳児なら4周である。



年齢プラス1周した子どもは本社殿に向かって手を合わせて拝礼。

当たり年の数だけ周回するこの行為がお千度参りであろう。

お千度といっても千回も周回するわけではない。

お百度参りなら百往復する願掛け行為であるが、お千度は、それほど数多く参るということである。

ただ、子どもの年齢で数多くといってもそれほどでもないが、宮総代がいうには本来は百回廻りだったという。

つまりはお百度参りであるが、いつしか年齢の数になったようだ。

男の子が駆けぬけたお千度参り。

次に走り出した女の子も早い。



やがて小さな子どもたちも兄ちゃん、姉ちゃんを見習って駆けていくだろう。

「お千度」の響きでいつも思い出すのが、おばあさんが孫を叱る台詞だ。

小さいころ、よく言われたのが、「まこと、せんどいうてもわからんのか・・・」って。

“せんどいうても・・”というのは、、なんぼいうても(※たくさんの意)聞きよらん、というようなことだ。

つまり“せんど”とは“千度”。

多いということだ。“なんぼ、いわなあかんのや・・”と云われて叱られたことが、私の記憶の片隅に残っている。

それにしても暗がりに駆け抜ける子どもの姿はとらえ難い。

あまりにも早すぎる走り。

ピンはブレブレである。



適正に設定したとしても、駆け抜ける子どもの早さに暗がりが、シャッタースピードと同期してくれようもない。

十数人ぐらい駆けていたので、ままチャンスはあったが、思うような映像が出現してくれない所有カメラの限界。

なにが限界といえばISOである。

所持するカメラはEOS40D。

ISO1600以上の設定はない。

せめてISO6400程度は欲しいものだが・・。

お千度に駆け回る子どももおれば、設えた千燈明に火点けをする子どももいる。

場所が離れているから両方とも一枚の映像に収めるには無理がある。



八幡宮から拝殿通路から境内にかけて繋がる燭台に始めの火を灯すのは宮総代。

続いて子どもたちや、親子連れできた参拝者も点けている。

ところが今宵はやや強い風が吹き抜ける。



本社殿に拝殿通路は風の通り道になっていないからまだしも、境内に設営した燭台はまともにあたる風。

舞う風に点けては消える、点けては消える、の繰り返しはイタチごっこ。

「例年でしたら、ぜーんぶの蝋燭に火が点いて、そりゃもう、壮観になっているんやけどなぁ・・・」とぼやいていても始まらない。

そう、思って一人の宮総代が動き出した。

公民館にあった紙コップに挟みを入れて細工した。

金属製の蝋燭立て芯を紙コップの底面に串挿し。



風に煽られて倒れないように固定したら火を点けた。

手軽に作った風防がお役に立つが、境内の燭台数は274台。

今から作っても到底間に合わない。

次回、というか明日もまた風吹く日なら作ってみようかと・・今夜の作業は諦めた。



いずれにしても大勢の参拝者が詰めかける。

火点けの蝋燭1本を受け取って、予め立てていた蝋燭に点けて廻る。

ほぼ全灯した拝殿通路は煌々として明るくなった。



若いおばあちゃんに連れられた幼子も火点け。

子どもたちも火点け。

親たちも火点けに廻る火の点いた蝋燭はそのまま手で持つわけにはいかない。

蠟でもたれたら火傷する。



それを補助する道具は芯を尖らせたペンシルのような形の補助具である。

宮総代が手作りした補助道具は子どもたちに優しい道具になった。

子どもたちは総勢で30人。



若いご両親に若いおばあさん、お爺さんに宮総代らも入れた60人もの人たちで大にぎわいになった。

ちなみに野神祭りのマコモ造りの取材に来ていた二人の男性は、今夜も地元行事の取材。

積極的に取材したその広報は地元に広げていることだろう。

(H29. 9.14 SB932SH撮影)
(H29. 9.14 EOS40D撮影)

笠置町切山・二日目の土用垢離

2018年09月17日 09時43分06秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府相楽郡笠置町の切山を初めて訪問した日はこの年の1月15日だった。

場所だけでも把握しておきたいと訪れた。

その日は寒垢離の初日。

翌日も寒垢離を行っている。

伺った時間帯はすでに行事を終えていた。

他の人は場から離れていたが、そろそろ引き上げようとしていた社寺総代と前総代がおられた。

訪問した主旨をお伝えてして、毎年の1月15日、16日に行われている切山の寒垢離について教えてもらった。

切山はその1月の寒垢離だけでなく、8月には土用垢離もしている。

土用垢離は7月31日が初日で翌日の8月1日は二日目の作法がある。

基本的な作法は同じであるが、初日との違いは垢離の回数だけである。

寒垢離も同じく初日は午前中に2垢離。

社務所で昼ご飯を済ませた午後は2垢離の作法をするが、二日目は、午前が2垢離で午後は1垢離で終える。

初日の7月31日は、同じ京都府の京田辺宮津の茅の輪くぐりの取材に、奈良に戻って月ケ瀬嵩ならびに月瀬の他に桜井市の箸中の行事調査もあったから土用垢離は拝見できていない。

集まる時間帯は1月に訪れた際に聞いていた。

朝に集まってきた男たち。

この年は4人の寺社総代に新旧宮守の2人と宮守経験者の7人で構成していた。

初日にあたってはさまざま作業があるがら二日目よりも1時間早めに集まる。

まずは注連縄である。

垢離をする浅間の井戸(あさまのいど)に浅間神社横にある土山に植わる大樹のご神木。

それと籠り堂の名もある社務所床の間に掛ける注連縄である。



井戸用も土山用も長さ1mの注連縄。

床の間は2mの注連縄。

それぞれに1本ずつ掛ける。

床の間に長めに伐った葉付きの篠竹(シノチク)を左右2本立てる。



土山盛りに挿す御幣は7本。

50cm程度に伐った篠竹(シノチク)に挟んで立てる。

その数は7本。

垢離をする人数分の本数である。

ちなみに切山では篠竹(シノチク)を「ジク」と呼んでいた。

これらは垢離を始める前に調整ならびに設営をしておいたという。

この日は二日目。

籠り堂とも呼ばれる社務所の床の間に浅間神社に供える神饌を供えていた。

神饌は洗米、塩にお神酒。



床の間には浅間神社で灯す行灯もある。

床の間に掲げた掛軸は2幅。

関東の富士山本宮浅間大社から賜った掛軸である。

左側に書けたのが富士浅間大神(ふじせんげんおおかみ)。

右は木花咲耶姫(さくやこのひめ)のお姿である。

掛軸の前に立てているのは3本の金の御幣。

切山に鎮座する氏神社の八幡宮に末社の高良神社、御霊神社に相当する。

なお、床の間付近に立てている詞札がある。

これより始める垢離取りの詞章に浅間神社の参拝真言、般若心経である。

他にも籠り堂の参拝に詠みあげる神名帳詠みもある。

時間ともなれば社務所で着替えた7人は白装束姿。

白足袋に白色の鼻緒草履を履いて出発する。

行灯を手にした人を先頭にみなが揃って浅間の井戸に向かう。



大樹に囲まれた鬱蒼とする森林帯。

井戸手前の参道に鎮座する浅間神社に立ち寄る。

水垢離を終えてからすぐさま作法されるご真言の前に供える神饌や行灯である。



その場に浅間神社の参拝真言の詞札も立てていた。

先に奉っておいて、向かった先が水垢離をされる浅間の井戸である。

浅間の井戸と呼ばれているが、場は八幡宮谷川から谷水を引いた水溜め場である。

水溜め場は砂防指定地の傾斜地にある。

かつては山地傾斜地に設えた石囲いの水溜場。

竹樋で谷水を引いていた。

井戸の周りに板を作法していた。覆い屋などもない状態に冬場に行われる寒垢離は辛かったという。

その当時の状況は、富士市立博物館学芸員の志村博氏が調査・報告された調査報告書が詳しい。

現在は東屋型の覆い屋が建築されたから直接の風当たりは受けることはない。

ただ、夏場はともかく、冬場の寒垢離はやはり寒くて、谷水はとても冷たいという。

地すべり対策が主たる事業の砂防工事は平成13年度から始まって平成26年度に終えた。

その事業に相まって建築された東屋(垢離堂とも)である。



建築された東屋の水溜め場はコンクリートで固めている。

これまでは谷そのものの傾斜地であったが、水平に保たれた場になった。

谷水を堰き止めていた口栓を開けると流れてくる。

ある程度の水深になるまでは時間を要する。

しばらく待てば一定量になる。

水垢離をするには立ったままでもできないし、座ったままでもできない。

板を置いてそこにひざまずく。

一同が並んだところで、垢離始めに手水で清める。



この日の導師を務める代表は一人、一人に谷水を掬った柄杓を手元に運ぶ。

導師以外の6人が清めたら、柄杓は他の人に譲って導師も清めた。

手を清めたら口を濯いで身を清めた。

では、始めますと合図があって始まった水垢離に詞章がある。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ」と八ツ唱える際に掌で水を掬って飛ばす。

前方でなく右手で掬った場合は左側に。

左手で掬った場合は右側に飛ばす、という感じで八回繰り返し、連続して「ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」を唱える間も水垢離をする。



これを33回も繰り返す。

33回目のときの水垢離速度はやや緩めて終える。

33回繰り返して1垢離。

およそ5分間であった。

夏場は汗を流すほどの運動量である。

1垢離したら、10分ほどの一旦休憩。

続けて2垢離目の作法をする。

では、お願いしますと合図がかかって始まった。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」の唱え詞にチャプチャプの水垢離音が谷間に広がる。

33回の垢離が終わればまた静かな山間地の姿に戻る。

耳を澄まさなくとも野鳥の囀りが聞こえてくる。ホトトギス、イカル、シジュウカラなどの野鳥が鳴く音色に混じって、カナカナカナカナ・・・ヒグラシが鳴らす音も聞こえてくる。

切山に冬場の寒い時季に行われる寒垢離と夏場は土用垢離をしていると教えてくださった人がいる。

平成28年の8月24日に行われた奈良市都祁上深川の富士垢離である。

上深川の富士講の人たちが垢離されると知って来たという大阪在住のF夫妻が、切山の垢離を拝見したことがあるという。

実は、夫妻の話しを聞くまでもなく、切山の寒垢離・土用垢離は先に挙げた『京都府笠置町に伝わる富士垢離について』を事前に読んでいたからある程度のことは把握していた。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン・・・」に唱える1から8までの数値である。

富士講或いは浅間講とも呼ばれる講中が夏場の暑い時季に、近くの川に入水する水行がある。

これまで拝見してきた奈良県内の事例である。

奈良市都祁の上深川富士講が営む富士垢離、奈良市阪原町の阪原富士講の富士垢離

また、神社祭祀を務める宮座中が所作される奈良市柳生下町および柳生町の土用垢離がある。

平成29年の5月30日に出かけた奈良市教育委員会史料保存館。

「奈良町信仰・講の行事とその史料」展示企画展で学ばせてもらった富士講行事である。

現在は面影すらないが、次の一文を遺した史料があるらしい。

その一文にあった「南都では、富士登拝のかわりに在所の川に入って入水。身を清める垢離を行う富士垢離が行われていた」である。

奈良町では「毎年六月に吉城川に入って富士講中が垢離をしていたという記録がある」とあった。

何十年も前に途絶えた曽爾村小長尾のセンゲンサンも水垢離をしていた。

川水をかける回数は伝わっていないが、水行に身支度した白装束姿を思い出す長老もおられた。

小長尾の水行の場は曽爾川とも呼ぶ正連寺川であった。

当時、小長尾にあった土用垢離を浅間講はその行事を「センゲンサン」で呼んでいた。

富士講でなく浅間講であった。

切山の水垢離の回数は8回。

私が取材してきた奈良県の富士垢離或いは土用垢離の回数もまた同じ8回。

8回に意味があるとわかったのは、私が公開したブログ記事を読んでくださった大谷正幸氏の教えである。

岩田書院から発刊した『富士講中興の祖・食行身禄伝 中雁丸豊宗『冨士山烏帽子岩身禄之由来記』を読む』の著者である。

論文も多く執筆されている氏が云うには「8」は富士山頂の八つの峰(八神峰)にあるという。

八つの峯を「八葉」と呼ぶこともあるそうだ。

神仏習合に由来する「八葉」は仏教でいうなら八葉蓮華である。

富士山頂の八峰を神仏にたとえた富士信仰。

八つの謎は山頂にあり、ということであった。



33回繰り返した水垢離を終えたら栓を抜いて溜めていた水を流すこの日の午後は3度目の垢離をするが、それまで水を溜めたままにするのでなく、すっかり流して綺麗にしておく。

午後になれば、また東屋に来る。

到着したら、また口栓を開けて新しい谷水を引くのである。

水抜きを終えたら参道にある浅間神社に下っていく。

先に塩、米、お神酒を供えていた。

行灯に火を点けて導師が前に。

手を合わせて拝む詞章は、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」に「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」である。

唱える前にすべきことは神事拝礼。



2礼、2拍手、1礼をしてから唱える。

まずは、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱える。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回唱えたら、再び神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をして浅間神社の参拝を2分間で終えた。



ちなみに現浅間神社の建之は平成十年六月吉日と刻印があった。

午後の参拝までは時間がある。

八足台だけ残して籠り堂に戻って切山に関わる神名帳を詠みあげる。



杖の世話になっていた長老は正座ができない身。

膝や腰に持病を抱える人もいるが、正面に掲げた富士浅間大神、木花咲耶姫に向かって、先ほど参った浅間神社のご真言同様に、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回、唱和した。

そして、最後に神名帳を詠みあげる。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼で終えた。

こうして午前の部の2垢離を済ませた7人はお茶をいただき一服。

注文していた料理をいただいて、ヒンネ(昼寝)をする。

午後の部の1垢離を始めるまでの時間を籠り堂で過ごす。

こうした在り方は、奈良市都祁の上深川も奈良市の阪原も同市柳生町、柳生下町もみな同じ。

これこそ籠りの在り方である。

その間は一旦切山を離れて取材する私どもも昼食できる場に移動した。

再びやってきた切山。

ヒンネを済ませて身体はすっきりしたという。



白装束に着替えて午前の垢離と同じように作法をする。



先に浅間神社にお供え。

東屋(垢離堂とも)に入って水垢離。



柄杓で掬った水で手を清めて口を濯ぐ。

そうしてから始める1垢離。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」。

これを33回。

途切れることなく繰り返す水垢離である。



導師の手が動いていた。「・・・ナムダイボーサツ」と唱えてすぐに動く掌。

よく見れば、何かを動かしているようだ。

終わってから聞いた掌の動き。

それは33回の数取りである。

左手にもっていたカウンターを動かしていたのだった。

かつては大きな葉と小さな葉の組み合わせて数えていたという。

大きい葉は大の位。

小さな葉は小の位の数取りであったろう。

ちなみに垢離(取り)の目的である。

垢離とはその字のごとくである。

神仏への祈願や祭りなどの際に、冷水を浴びて身を清めるとある。

清浄な水を利用して不浄を取り去る行為。

川に入水するなど、禊ぎでもあるが、回数はなぜに33回なのだろうか。

富士講や浅間講に限らず、33回とする地域は多い。

大宇陀地方の栗野で行われている垢離は33回。

隣村の野依もそうであった。桜井の瀧倉、修理枝もかつてしていた願掛けの在り方。

奈良市都祁相河町では薬師籠りに33回の垢離取りをしていた婦人も居たが、いずれも何故にその回数なのか知る人はいなかった。

かつての水垢離は身体に水を浴びて行をしていた。

頭から水を被る行であったという。

水垢離を終えたら午前の部と同じように浅間神社に参る。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱えて、引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

八足台も行灯もすべて引き上げる。

次は籠り堂で行われるご真言に神名帳の詠みあげ。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をもって二日間に亘って行われた土用垢離を終えた。

この年の1月15日に訪れた際に聞いていた在り方がほぼわかった。

そのときに云った「寒垢離も土用垢離も、作法に詞章唱和はまったく同じ。二日間とも見ても同じやから・・」がよくわかるが、写真は撮りようによって違いがでる。

撮影者の腕がものいう取材であった。



二日間に亘って行われた長丁場の垢離を終えた一同はお神酒をいただいて一段落された。

左方の合間に切山の年中行事を教えていただく。

一つは4月3日に行われる節句である。

ヒシモチを供える節句はこの年に取材させていただいた。

気になるのは正月の1月1日に行われる元日祭である。

この日は切山の初祈祷。乱声(らんじょう)と呼ばれる作法がある。

乱声は仏事。

かつては神宮寺があったという証拠である。

朝早くに集まる寺社総代に宮守さん。

ごーさんと呼ばれる宝印がある。

“午王 八幡宮 宝印“の文字があるというごーさん札にその宝印をもって朱印を押している。

そのごーさん札は柳の枝に挟んで供える。

本社殿に登って般若心経を二百巻唱える。

心経10巻でも長いのに二百巻も所作されると思いきや、「ヤーテ ヤーテ」の繰り返しだという。

単調であるが、百巻目と二百巻目に鈴を鳴らすそうだ。

その間、である。

籠り堂に待機していた人は柳の枝木で縁板を叩く。

その際に揚げる「ランジョー」。

叫ぶように声を揚げるというから、オコナイの作法に違いない。

また、正月三日間は自宅から布団を運んで籠りをしていた。

亥の日である。

初穂にウスヒキをした米は糯米であろう。

亥の子の餅を搗いていたその日は宮司が出士されて神事をしていた。

8月28日は二百十日の願掛け。



数週間後の9月15日は願すましがあるという切山は山間地。

鹿に猿、猪、狐にヌートリアまでがやってきて切山の田畑を荒らしているという。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)

京田辺市宮津の茅の輪くぐり

2018年09月16日 10時04分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
茅の輪の設営具合を拝見した30日

御幣を手にして茅の輪を3回潜っていた婦人が話してくれた。

潜るのは決まった時間でもなく、集落の各家のめいめいが自由な時間にしているという。

集落道際に茅の輪を設営する京都府京田辺市の宮津。

宮津の集落戸数は40戸。

垣内は白山神社が鎮座する白山を中心に屋敷田、北浦、宮ノ前、塚本、鳥羽田などがある。

茅の輪を立てた地区は北浦垣内。

茅の輪に近い地区の人はその存在に気づく機会が多いことから、潜られる人も多い。

逆に北浦垣内以外の人は場から離れているから気づくのが遅れる。

茅の輪潜りは7月31日に決っているが、つい忘れてしまうことがある。

近くであれば気づきで思い出す。

通ることもない離れた垣内の人は気づかずに終わってしまうこともあるようだと話していた。

ちなみに、前日にお会いした婦人は北浦垣内の住民。

買物帰りに茅の輪の存在を知って潜ったという。

朝早くに潜る人もいるらしい宮津の人たち。

その姿を一人でも拝見できればいいと思って再訪したのである。



北浦垣内に到着した時間帯は午前8時半。

サラリーマンの人であれば潜ってから出かけたのであろうか。

見張りをつけているわけでもないから実態は不明である。

昨日に訪れた時間帯は午後4時半。

夕方近い時間帯と朝の時間帯では光の具合が異なる。

夏場の朝はお日さんが燦々である。

夕方よりも光が明るいから、その状況も撮っておこう、とあっちこちの方角から撮っていた。

昨日と大きな違いは御幣である。

昨夕は村神主のYさんの判断で夜露に濡れないようにどころか雨は降るやもしれないので、御幣にビニール袋を被せて保護したと云っていた。

今朝の茅の輪には袋がない。

今朝は天気の良い快晴の日。

これなら大丈夫と判断されたYさんは朝早くに外したそうだ。

本来の姿になっていた茅の輪をカメラに収める。

朝の8時半から9時前までの時間帯はどなたも来られない。

この日の気温は何度であったのか存知しないが汗がどっと落ちる暑い朝だった。

撮っているときにバイクの音が聞こえてきた。

集配達の人であろうとおもったら、そうではなかった。

茅の輪を設営した南側にゴミ捨て場がある。

そこに袋に詰めたゴミを捨てに来た婦人である。

この日はゴミの収集日。

カラスなどに喰われないよう囲ったゴミ捨て場に入れた婦人は再びバイクに乗ってエンジンをかけた。

用を済ませて家に戻るのだろうと思っていたら、茅の輪に向かってバイクを近づけた。

恐る恐る尋ねた茅の輪潜り。

ゴミ捨てのついでに潜るというので慌てて許可取り。

取材の主旨を伝えて承諾される。

「髪の毛は乱れているし、格好もこんなんで恥ずかしいわ」、と云いつつもはじめた茅の輪潜り。



あんばいカメラを構える間もなくシャッターを押し続けた。

婦人は茅の輪に挿してあった御幣を1本抜く。

左手に御幣をもって茅の輪を潜る。

方角的にいえば南から北に向けて跨ぐ。

左に廻って出発点に戻って再び潜る。

反時計廻りに3回繰り返す茅の輪潜りである。

手にしていた御幣を茅の輪に挿した婦人はバイクに跨って自宅に戻っていった。

茅の輪の場は再び静寂状態に戻った。

またしばらくは茅の輪付近に佇んでいた。

たまたま遭遇した婦人に撮らせてもらった貴重な写真。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。



そろそろ引き上げようとしたときである。

昨夕にお会いした婦人もやってきたがゴミ捨てに、である。

おかげさんで記録することができたとお礼申し上げた婦人は「・・・みなづきの・・・」を唱えながら潜っていたが、バイクの婦人は心で唱えていたのだろうか、お声は聞こえなかった。

婦人が云う。

ゴミ収集車が来るまでの時間帯に間に合うように捨てにくる。

朝7時前後から大勢の人たちがゴミ捨てのついでに茅の輪潜りをしていたようだと話していた。

(H29. 7.31 EOS40D撮影)