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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

山城町涌出宮居籠祭・勧請縄取換の儀

2019年12月12日 09時48分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
いごもり祭の2日目は、与力座が朝に集まって座料理の調整から始まっていた。

午前中いっぱいは座中が詰めて準備を整えた。

その途中に、古川座本家に伺い、饗応の場に来ていただくよう七度半の呼び遣いをもって招聘した。

午後は、古川座、尾崎座、歩射座(びしゃざ)の三座中をもてなす饗応の儀

そして五穀豊穣、家内安全を願って祈願申し上げた。

長時間に亘った座の儀式に御田の式を無事に終えてほっとする間もなく次の準備のための作業に移った与力座の座中。

ゆっくり落ち着く間もない夕暮れの時間帯は、一年前に収めていた四脚門の勧請縄の取り換えである。

長い梯子を架けて門の梁上に登った2人。

この時間帯の四脚門内部は暗がり。

2人作業の状態を記録するにはストロボの力を借らざるを得ない。

ぐるぐる巻きにしていた一年前の勧請縄は2本。

古川座の勧請縄と歩射座の勧請縄である。

風雨に晒されることなく枯れていった二座の勧請縄。

古川座の勧請縄は、房などすべての材は樒を用い、弓矢は竹製。

一方、歩射座の勧請縄の材は涌出宮に自生するヤブニッキ。

生木状態のヤブニッキはとても気持ちの良い香りがある。

葉っぱを折ればもっと香しくなる。

以前、参加していた大和郡山市少年自然の家主催事業の自然観察会に参加していた。

矢田山丘陵のある一角に自生していたヤブニッキ。

指導先生の目利きで探してくれたヤブニッキ。

あのときに嗅いだ香りはとても心地よかったことを覚えている。



そのことはともかく、そろりそろりと下ろしていく旧の勧請縄。

枯れて零れた葉っぱの残欠がぼろりぼろりと零れ落ちて四脚門下に広がった。

樒やヤブニッキは枯れているが、稲藁で作った勧請縄はほぼ一年前と同じ風合いである。

すぐにわかる材の違いである。

四脚門から降ろした勧請縄を広げて、早速始まった作業がある。

板元や古老役が鋏を持つ手が動く。

勧請縄の縄でなく、ヤブニッキである。



しっかり葉が残っている枝を探してはパッチンと鋏で伐り落とす。

それを傍に置いたコウジブタに納めていく。

何本も、何本も伐っては置いていったヤブニッキは山のように盛る。

写真でもわかるように手前の勧請縄は色が違う。

枯れても色でわかる樒の色。

その樒より濃い色合いがヤブニッキ。

葉っぱの色合いも違うから見分けやすい二座の勧請縄である。

七杷半採りも枝伐りしたヤブニッキ。

どうぞ匂ってください、と云われて鼻で嗅いでみる。

葉、枝とも甘く香しいヤブニッキ。

たくさん盛ったヤブニッキは今深夜の神事にある「御供炊き神事」で、焚き付け柴に用いられる。



焚き付けたとたんにパチパチと燃え上がり、煙も立ち上るが、それよりも艶めかしいほどにヤブニッキの香りに包まれるらしい。

その体験をするのは宮司と二人の御供炊き役だけである。

座中がヤブニッキ選別をしているときである。

ここにあると声をかけてくれたのが、京都府文化財保護指導員Aさんである。

歩射座の勧請縄に括りつけていたヤブニッキ製の弓・矢だ。

奇麗な姿で残っていた弓・矢。Aさんの話によれば、見つけた者は持ち帰ることができるという。

Aさんの役割は、文化財保護関連業務の関係で、京都府指定無形民俗文化財に指定されている「いごもり祭」の実施状況を観察する立場。

祭具、用具なども検証する。

ヤブニッキを選別した旧の勧請縄は廃棄・焼却することになる。

文化財記録として保存することもある。



何度か採取しているので、これは貴方に、ということでありがたくいただいた。

こうしたケースに遭遇すること多々あり、焼却或いは捨てるとわかった場合は、主催者に了解をいただいて入手、自宅保存している。

いずれ時期をみて、関係する民俗博物館に寄贈する考えで保管・保存してきた。

京都の事例であるが、比較研究のためにも必要となる用具、祭具は後々に貴重なものになるだろう。

もう一つ確認しておきたい勧請縄の特徴である。

前日の17日

両座の勧請縄架けに立ち会い、撮影していたときである。

中央辺りによじって作った瘤のような突起物が男根、と云われたが、どこにあるのか見つけられなかた。



そのことを思い出して、探してみたら・・・これだったのか、とわかる捻じり瘤だった。

話によれば、かつて江戸時代のころは瘤ではなく、はっきりとわかる男根の形だったそうだ。

江戸時代から明治時代。

明治維新後である。

公衆衛生上よろしくない、ということで、今のような形に切り替えたそうだ。

弓・矢はもう1組ある。

古川座の弓・矢は竹製。

これもまた見つけたものが持ち帰ることができる。



これも、といただくわけにはいかず、もう一人の客人の手に手渡された。

こうしてヤブニッキ選別作業が終われば、前日に架けられた新の勧請縄を取り換える。



青々とした樒にヤブニッキの葉に包まれた勧請縄を持ち上げて、四脚門の本柱を渡す冠木の上に待っていた役の人に渡された。

巻きを入れて仕立てた勧請縄は、こうしてまた参拝するすべての人が頭を下げて勧請縄を潜る際に、清めてくださるのだろう。

一年間、潜る度の清めは、たいへんありがたいことである。

ところで本日の取材にある書面を手にしていた女性がおられた。

書面は報告書の写しであるように思えた。

お若いので民俗を調査されている大学生、それとも学芸員さんのように思えた。

お声をかけたらそうではなく、市井の人であった。

趣味が高じて、わざわざ東京から足を運んで現地で拝見する。

その在り方に論文若しくは民俗報告書を丹念に読んで臨まれる。

すごい人がいるものだと感服した。

その女性が手にしていた書面は昭和初期の(京都民俗萌芽期)の民俗を記録した井上頼寿著の「京都民俗史(平凡社刊)」であるのか、それとも京都府教育委員会編集・発刊の「京都の田遊び調査報告書」であろうか。

その女性が運営されているブログがある。

毎回記録される「菊約の京都ブログ」。

京都文化を誘ってくれる菊約さんが紡ぐブログは、大いに参照させていただいたこと、この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

また、「京都の民俗学の父と言われる井上頼寿氏が中心となって、始めは精華町にある祝園神社の「いごもり祭」を調べに来た。その時に棚倉の方でも、同じような火を使った祭りがあるとの話が出てきて、こちらの方へも調査が入った・・・・云々」と書かれた「切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記」も参照した。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・御田の式

2019年12月05日 10時07分39秒 | もっと遠くへ(京都編)
午後4時に始まったいごもり祭のお田植え儀式。

京都府山城町棚倉に鎮座する涌出宮で行われる。

ついさきほどまでは座饗応の儀をされていた。

与力座の人たちが居籠舎に座る古川座に尾崎座、歩射座(びしゃざ)の座中をもてなす饗応の儀であった。

小休止を挟むことなく続いて行われる儀式が御田の式。

一連の農耕を模擬的に行う所作は、その年の豊作を願う祈願祭でもある。

昭和59年10月に発刊された京都府立山城郷土資料館編集する展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』が手元にある。

地区の砂撒き行事を下見していた際に拝読した史料である。

京都府南部の神社で行われている“御田植祭”事例を掲載している。

一つは本日、立ち寄った木津川市山城町平尾・涌出宮(わきでのみや)である。

涌出宮については、いごもり祭における一連行事のうちの一つである御田の式は本編で紹介するが、近隣地の相楽郡精華町祝園(ほうその)・祝園神社の御田行事は、後年の平成30年に訪問したが、決して誰も見てはならない、他見を許さない秘儀は禁忌の神事である。

資料報告として所作などを再現、掲載された祝園の御田植えのあり方は、展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』によって、その一部は読書お形で拝見できるので参考にされるのもよろしい。

また、山城町からそれほど遠くない木津川市相楽清水の相楽(さがなか)神社の御田行事は前年の平成29年1月15日に取材したことがある。
御田植え所作は拝殿、歌われる田植え歌の詞章も間近で耳に、また拝見も、可能だ。

さらには、木津川市吐師(はぜ)にある大宮神社にも御田行事が行われている、やに聞く。

年の初め、神前に行われる稲作の過程を演じ、模擬苗の松苗をあたかも田植えしているように所作をする。

行事を終えたころには田んぼの荒起こし、鍬初めなどを経た数か月後には籾落としに苗代作り、代掻きに田植え作業。

稲苗はすくすくと育ち、実際、稔りの秋のころは豊作になるよう願う年初の予祝行事。

村の重要な行事は、稲刈りを終えたら、氏神さんに参って豊作を感謝する新嘗祭が待っている。

古来より連綿と継承してきた農事行事。

現在も伝承されてきた四地区四葉の御田植祭であるが、御田の所作はなくとも模擬苗の松苗を奉って豊作を祈願している地域もある。

一つは、5月13日に行われている木津川市鹿背山。

神職が松苗を植える所作をする御田式。

図録の『企画展―祈りと暮らし―』に載っているが、発刊が昭和59年。

今から34年前。

聞き取り調査を要する件である。

また、木津川市木津の岡田国神社ではかつて1月15日に田植式をしていたそうだ。

南山城村田山の諏訪神社では5月1日に松苗祭があるらしい。

南山城村田山は11月の祭りの「田山の花踊り」が知られているが、豊作を祈願する松苗祭が行われているとはまったく知らなんだ。

1月6日に行われていた修正会は、事情によって現在は中断している。

松苗祭も、ふと気になった田山の豊作祈願であるが、神前に奉った松苗は、実際の農事に登場する。

大昔の村は、大多数が農家だった。

農家にとって豊作を願うのは当然。

村の行事で祈祷された松苗は、授かって苗代田の水口に立てる。

ほとんどがそうしてきたが、近年になって継承する家は極少に転じた。

奈良県内の事例調査においても然り、であるが、農事の場でなく、神棚に祭るという家が多くなっている。

その一因にあるのが、苗代田作りから始まる育苗は、JA購入に転換したことが大きい。

作業力の減少もまた一因である。

家族の協力をもってさまざまな作業をこなしてきたが、子どもたちが大きくなり、村を出る。

戻って作業を手伝うのは、田植えのときか、稲刈りに・・。

残された労力は高齢化。

かつては三世帯が住まいする構造で農事も行事も継承してきたが、土地を離れた若者が、戻ってくるケースは多くない。

話が横道に行きかけたので戻してみよう。

さて、苗代の水口に立てる松苗である。

平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』に掲載された御田の式の写真も載せている。

写真は涌出宮いごもり祭の御田の式に、隣村になる祝園の居籠祭の御田植祭。

尤も、祝園の場合は、秘儀であるゆえ再現してもらった映像であるが・・。

この写真は、前述した図録『企画展―祈りと暮らし―』とまったく同じ。

つまり図録、京都府立山城資料館技師当時、学芸員だったと思われる著者印南敏秀氏が撮影したのであろう。

さて、饗応の儀に続いて行われる涌出宮いごもり祭・御田の式である。

”ぼうよ“が板元とともに田舟を曳く所作をはじめに、宮司による籾撒き所作、神前に供えていた樫の葉一枚ずつに盛った御供を下げて座中に配りがある。

次に、いごもり祭のいちばんの華になるそのいち、”ぼうよ“、”とも“の3人によって行われる「田植え」、参拝者に向けて配る松苗配り、給仕によるこかぎ・榊落としにおかぎ・榊配り、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で御田の式を終える。

居籠舎の北側扉は開放状態になった。

撮りたいシーン確保のためにどっと群がるカメラマン。

そこは神さんの田舟が通る道。

大きな本物の田舟が通りますから、道を開けてくださいと板元が大きな声を揚げる。

そこに登場した”ぼうよ“に板元。

一人はベテラン板元のKさん。

若坊の板元は後続に就く御供桶運び。

田舟曳きに詞章も演奏もないが、若い板元が打つ太鼓の音がある。

登場された3人は、古川座・座中に観ていただくような感じでぐるぐる廻る。



所作する場合の御供桶はベテラン板元が左手で持つ。

内部には樫の葉一枚ずつに盛った御供がある。

零さないように注意しながら水平を保ちつつ、左手は田舟を持ち上げ、右から左へ。

時計回りに廻る際、先導を行くのは”ぼうよ“。

白い布を手にした”ぼうよ“が田舟を曳く真似ごとをする様は、まるで船頭のように思える。

ちなみに後日に判読した田舟に薄く記された墨書きに「元禄(1693)六年」とあった。

また、曲物の御供桶の側面に「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とある。

ストロボの光があちこちから散光するなかを三周する。

その状態を動画も記録していた菊約さんが公開するブログが参考になる。

田舟曳きの所作を終えたら、田舟を下げる。

次の所作は、中谷勝彦宮司による籾撒きである。

宮司が登場する前にすべきことがある。

座中一人、一人が家から持参した自前の風呂敷である。

色合い、風合い、柄違いなどが多様の風呂敷を広げた中央に扇を広げておく。

その場に登場した宮司は左手に鍬を抱え、首からぶら下げた籾籠持ちの姿。

中央を歩み出て一老の前に立つ。



籾籠に入れていた稲籾を一握り、上からパラパラと落とす。

いわゆる籾撒きの所作である。

広げた扇に当たる音はパラパラ。



まさに籾落としの作法である。

パラパラと音を立てた稲籾は弾けて風呂敷に広がる。

一老への籾落としを終えたら次は二老。

二老から三老・・・・そして十老まで座中一人ずつに所作される籾撒き。

一巡したら再び一老に戻って籾落とし。

これを三度繰り返す籾撒きである。

次は、御供配りである。

神前に供えていた御供を下げて座中一人ずつ配られる。



御供桶にある御供の数は11枚。

樫の葉一枚ずつに盛った御供。



古川座中は十人。

不測の際に供えて予備の一枚をおいておいたのだろうか。

模擬苗の松苗をもった田植え所作に移る。

巫女のそのいちと女児の“とも”と“ぼうよ”が役に就いてはじめる田植えの所作。

北向きに並んだ3人の姿を見て、立ち位置が・・。



田植えは後ろに下がりながら苗を植える。

所作は松苗の軸先の部分をちょんちょんと床に押し当てるような恰好をしたら、ぽいっと前に放る。

そんな感じだったが、ストロボの閃光はすごく多い。

巫女そのいちよりも可愛い姿の“とも”狙いのカメラマンが放つストロボの光にも耐えて笑顔で所作していた。

後ろ下がりは、実際の農作業も同じである。

現在は、田植えイベントでしか見ることのない人力による苗植え。

神田の水田に足を浸けて模擬的に田植えをする儀式がある。

奈良県内事例では桜井・大神神社があり、大阪では住吉大社のお田植え祭に見られる儀式がある。

人力であれば、みな後ろ下がり。



植える苗から数本を取り出して植えたら後ろに下がる。

下がった位置で植えたら、また後ろに足を進める。

それと同じように涌出宮いごもり祭の田植えもまた同じであるが、昭和30年代のころから全国に広がった現代の田植えは機械植え。

ギコギコと動く機械の手によって苗を植える。

田植えの機械は運転席の位置から前進しているかのように思えるが、実は後ろ向きに植えている。

撮影には不都合な立ち位置に今さらどうすることもできないが、逆に続けて行われる“とも”と“ぼうよ”の豊作を願って所作した松苗渡しが眼前に観られたのが嬉しい。



座中一人、一人が受け取った松苗は扇の近くに添えた。



そして、“とも”と“ぼうよ”は窓際に移動し、参拝していた観客たちにも1本ずつ差し上げる。

その中に古川座本家の家族がいた。



七度半の呼び遣いに給仕をされていた一家である。

なお、松苗を束包みしている奉紙に涌出宮の印を押しているそうだ。

次の所作は、給仕によるこかぎを中に入れた榊落とし。



枝付きの榊を座中、一人ずつに配られる。

先ほどまで群がっていたカメラマンの姿はない。

喧噪としてした情景はすっかりおとなしくなって、ごくごく一部の人たちだけが撮っていた。

おそらく役の関係者であろう。

そして、再び登場した中谷勝彦宮司。

次の所作は、前夜に行われた松明の儀に作法された“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米(白米)。



“ごまいさんまい”の用具に盛られた玄米、洗米を一握り掴んでは、座中にパラパラと落とす。

籾撒きと同じように玄米、洗米を扇に向けて落とす米落とし。

紙片とともに散らばった米は風呂敷が受け止めてくれる。

次も“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米。



宮司と同じように作法される板元である。



そして最後は給仕による”おかぎ“とともに束にした榊配り。



授かった稲籾に松苗、こかぎ・榊、玄米、洗米、おかぎ・榊は風呂敷に包んで持ち帰る。

春ともなれば育苗。

苗代作りを終えた座中は、水口に立てるのであろうか。

すべてが調った御田の式。

式典を終えた上座に座る座中に声をかけた。

小声で尋ねた結果は、唯一のお一人。



なんと、横で作法をずっと拝見し、声をかけさせていただいていた一老が、している、というのだ。

奇遇なことであろうか。

実は一老の他に苗代作りをしていたのは2人。

いずれも現在はJAから苗を購入することに切り替えたものだから、苗代に立てることはない、という。

苗代作り取材の了解をいただいた一老のFさんは電話番号も教えてくださった。

時季になる前にご連絡させていただくことも承諾してくださった。

良い出会いを与えてくださった宮司さんにも感謝する御田の式の豊作願い取材は4月末になりそうだ。

さて、御田の式の〆もまた、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で終える。

座中〆の儀を終えてやっと解放された与力座の一老。

いごもり祭神事が始まってから座饗応の儀、御田の式を営まれる2時間。

社殿に座わり、神ごとを守護するようにしていた一老が降りてきた。

居籠舎の下座に座った一老は深く頭を下げた。



2日間に亘って行われてきたいごもり祭の〆にご挨拶。

古川座に尾崎座、歩射座の座中に感謝と無事に終えたお礼を述べる。



斎主を務めた宮司もまた一老の横につき、「本日はおめでとうございます」と、祝辞を述べ、一同は場を離れ、解散した。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・座饗応の儀

2019年11月21日 09時55分05秒 | もっと遠くへ(京都編)
文化庁の委託事業として記録映像化された『重要無形民俗文化財 京都府木津川市・涌出宮の宮座行事』がある。

媒体はDVDである。

平成22年度・京都府ふるさと文化再興事業推進実行委員会が企画(事務局は京都府立山城郷土資料館)したDVD記録映像は、一般に市販される対象ではなく、行事に関係する神社、保存団体や教育機関などの限定配布媒体である。

涌出宮居籠祭取材にあたり、中谷勝彦宮司から参考にと、一時貸し出ししてくださった。

本DVDは、「女座の祭、饗応(あえ)の相撲、百味(ひゃくみ)の御食(おんじき)、に居籠祭の準備を記録した1時間48分の記録編に居籠祭の全編を記録した2時間5分ものの記録編がある。

また、39分に短縮された一般編もある。

貴重な映像を取材前に見てしまっては、初めて拝見するさまざまな在り方に先入観をもってしまえば取材に影響をおよぼすであろう、と判断して後に回した。

奈良県内の行事取材においても同じやり方。

先駆者が纏められた出版物も手元にない。

尤も私が出かける取材先に行事はかつて記録されたことのないそれこそ無形の村の文化財。

ある程度まではお住まいする村の人たちの聞き取りくらいで、大まかなストーリーを描くようにして臨んでいる。

本番の取材に入ってから、意外なものを見つけることがある。

聞き取り段階では、まったく話題に出なかった貴重なものを発見することも多い。

どこへ行っても、村の人が意識していない、貴重性に気付かないことは多々ある。

普段、見慣れているからこそ気づかない側面がある。

とはいってもいつも、どこでもそうなるとは限らない。

貸し出してくださったDVDは専門家の監修が入っているから信頼性がある、と思う。

特に所作などが気になるところであるが・・。

DVDに記されている解説文によって、いごもり祭のほぼ全容が見えるから一文を紹介しておく。

「近世では今の2月中旬にあたる1月の二の午の日に行われていたいごもり祭(※居籠祭)。

近代の時代になれば、2月の14日の深夜から。

さらに平成19年度からは、2月の第三土曜、日曜に行われ、涌出宮周辺の座中・与力座が中心になって進行される(※文は若干補完)」。

「2月に入ると、与力座をはじめ、いごもり祭に参列する古川座、歩射座(びしゃざ)は、祭りに必要な材料集めや道具類を製作する。与力座は大松明用の樫の木、藤蔓、竹、松苗用の松、箸用の樫の木などを近在の山から伐り出す。大松明用のニッキ(肉桂)やシバ(柴)、おかぎ用の榊は、涌出宮の森から採取。松苗、おかぎ、箸、野塚に供える小型の農道具(唐犂、馬鍬、鋤、鍬の4種)なども作る」。

また、「古川座は、祭りの門の儀・饗応の席に出す膳の材料(生鰯、ごまめ、畦豆の水炊き、柿なます、酒の粕、サイコロ大に切った生大根)を準備し涌出宮に持参する他、八手繰りの長さの勧請縄も作る」。

「勧請縄は、歩射座も作る」、とある。

「祭りは、金曜日の深夜に“もりまわし”が行われる。その役の者が、付近の山中や涌出宮近くにある11カ所の塚を廻って、神さんを迎えることから始まる」。

「土曜日は、朝から大松明を作る。作っている合間に、歩射座が作った勧請縄を吊るす。大松明が、完成するお昼前には、古川座が作った勧請縄も吊るすが、先に吊るした歩射座の勧請縄に絡めて一体化させる」。

「その夜、居籠舎に集まってくる三座。与力座が来席される古川座、歩射座、尾崎座の三座をもてなす饗応の儀。門(かど)の儀の名があるもてなしの場が開かれる。そして、門の儀を終えた直後から始まる大松明の儀。大松明が境内を赤々と染める」。

「その日の深夜に役が動く。農道具を野塚に供える野塚祭である。役の人が立ち去った後、村人は競い合うように供えた農道具をいただくことができる野塚祭は、日曜、月曜の両日とも深夜に行われる」。

「日曜日の朝、午前中いっぱいをかけて膳の準備をする与力座。時間を見計らって動き出す七度半(ひったはん)の呼び遣い。与力座の使者が、古川座の総本家の家に立ち寄り、午後に行われる饗応の儀の招待の任に就く。最初の挨拶と、帰り際に6回半の挨拶のある作法は、独特のものである」とあるが、七度半の呼び出しは意外と全国的にある習わし。

どこの地域でもしているか、といえば、そうでなく、ごくごく一部の地域。

作法の意味はたぶんにどことも同じような気がする。

事例は少ないが、奈良県の事例を見ているとそう思うのである。

そして、招かれた三座を迎えて座を営む「饗応の儀」が行われる。

解説文に「午後は、居籠舎で与力座による三座の饗応の儀。種蒔きから田植えまでのあり方を真似る所作をする。年の初めに祈念する豊作祈願の所作は、御田植式の形で繰り広げられる」。

棚倉の地が豊作になるように願いを込めた所作。

一連の所作を終えて三座の饗応の儀を終える。

三座は解散され、観衆は揃って引き上げるが、いごもり祭(居籠祭)はまだまだ終わることのない行事である。

「これら、すべてが終わった夕刻。表門(四脚門)にある昨年に納められた勧請縄を降ろす。そして、前日に吊るした古川座と歩射座の勧請縄を降ろし、表門に新しい勧請縄を据える。一方、古い方の勧請縄は解体し、枯れたニッキ(肉桂)は午前零時過ぎの深夜に行われる御供炊き神事に燃やすシバ(柴)にする」。

こうした一連の作業も与力座が行っている。

一般の人は見ることのできない、いごもり祭の最終章である。

解説文に「御供炊き神事が行われる日曜の深夜。宮司と役を務める与力座の一人が動き出す。涌出宮の本殿ならびに社周辺にある四つ塚に参って御供を供える。これら御供は、神さんが食したことを受けて、朝日が昇るまだ前の時間帯。早朝を迎えるまだ暗いうちに、役の人は“明けの太鼓”を打って、集落をふれ廻る。いごもりの祈りが、成就されたことを告げる“明けの太鼓”で祭りを締める」。

宮座が取り仕切る古風な儀礼がよく保存継承されてきた棚倉のいごもり祭は、昭和58年に“棚倉の居籠祭”として京都府指定無形民俗文化財に指定された第一号。

女座の祭、饗応(あえ)の相撲、百味(ひゃくみ)の御食(おんじき)も含め、“涌出宮の宮座”として昭和61年に指定された。

長々と書き連ねた2日間に亘って行われる居籠り祭。

これより始まる儀式は三座の饗応の儀。

類例を見ない膳作法のあり方を、これより記していく。

三座を迎えて与力座がもてなす饗応(あえ)の儀。

前夜も“門の儀”もまさに同じ饗応(あえ)の儀であるが、キョウメシ(京めし)など膳のあり方がまったく異なる。

作法はほぼ同じようであるが・・。

本日の撮影は、居籠舎の外からとらえることにしていた。

昨夜の座饗応の門の儀の撮影は中谷勝彦宮司や京都府文化財保護指導員Aさんのご配慮をいただいて居籠舎内から撮らせてもらったが、儀式に作法する給仕らの動きに邪魔をしていたと思われ、また板元もそういうように本日の饗応は外から拝見することにした。

が、儀式の途中に居籠舎に座っておられた中谷宮司が手招きをされる。

顔と手を横に振って断ったが、どうしても屋内に上がって撮ってください、と合図。

むげに断るわけにもいかず、膳の作法からは居籠舎にあがって撮るようにした。

ただ、黒子に徹したい私は、他のカメラマンが撮るレンズに写り込まないよう、極力、背なかを丸めて、その場から動かないようにした。

左右には動かないが、ときには選んだ場面によっては、すっと立ち上がり、すぐさまシャッターを切る。

構図を決めている余裕の時間はない。

撮ってすぐさま陰に隠れる。

それでも数回は向かい側から撮られていた菊約さんが公開するブログ画像に写り込んでいたので申しわけないと思った。

さて、神事が行われる午後2時。

それ以前から居籠舎に座した三座。

昨夜の“門の儀”と同じ位置に座る古川座に歩射座、尾崎座。

装束も同じく古川座は烏帽子被りに黒地の素襖。

歩射座、尾崎座は裃姿。

当初の撮影立ち位置は神事が行われる拝殿側と向かい合わせになる居籠舎の北扉。



そこに置いてある祭具はお神酒注ぎの長柄の銚子(ながえのちょうし)に酒器の提子(ひさげ)。

華麗に細工した彫金模様が美しい酒器が黄金色に映える。

載せる八足庵に枝ごと挿した榊。

この場は神聖な場である。

神事の進展によってその場は宮司、巫女、板元らが通る場。

立ち位置は、邪魔をしないように気配り、気遣いがある。

さて、神事が始まった。



饗応の儀に御田式の最中は、昨夜と同様に社殿に座ってじっと神ごとを見守る与力座一老。

座に動き回る板元と給仕。

一老は紺色の素襖。

板元と小学6年生の男児3人が役をする給仕は緑色の素襖を着用し烏帽子被りだ。

その横に立っている女児は御田の儀に板元とともに所作をする幼児の”ぼうよ“。

真綿の帽子を被る特徴ある姿である。

立ち位置の関係で映り込まなかった小学1年生の“とも“も並ぶ。

巫女姿はそのいち役を務める大学生のお姉さん。

子どものころから毎年務めてきたそうだ。

粛々と神事をされる宮司。



祓詞に修祓、祝詞奏上・・・。

居籠舎の上座に座する古川座一老の後ろ姿。



凛とした背中に下がり藤の紋がある。

白抜き下がり藤の紋は奈良の春日大社の社紋と同じである。

北扉脇に座った”ぼうよ“と天冠を被る“とも“。

神事に祓いを受けた両人は先に着座し、板元が身支度を整えていた。



その間に奉納されるそのいちが舞うえびす神楽。

太鼓打ちは若い方の板元である。

舞う間は、一老に寄り添うように並んで座った宮司。

しばらくはこの位置に座していた。

舞を奉納したそのいちは直後に鈴祓い。

三座の座中一人ずつに鈴で祓っていた。

神楽舞に鈴祓いを終えたら御供下げに移る。



前夜と同じ形の御供を下げ、白湯(さゆ)を入れる銚子におかぎも下げて居籠所に運ばれる。

その間に、そのいちは“とも“が座る隣席に就く。

まず初めにされる作法は榊祓い。



給仕が一人、一人の座中の前に座って祓う榊。

その榊の葉を枝から契っては右肩から、左肩後方に放って身を清める「清めのちょうず(※手水)」所作である。

その次に三座への挨拶。

古川座、歩射座、尾崎座の順に、昨夜と同様に作法される板元の挨拶。

3人給仕も三座の前、それぞれに座っては頭を下げる。

その際、手にしていた扇は前に置いていた。



それから宮司も席に就く。

”ぼうよ“が座っていた隣席に宮司が座る。

御供の形は特徴ある△型に成形した盛り飯である。

折敷に一つの御供を載せる。

それを運ぶ給仕。

三人の給仕は、それぞれが三座に給仕をする。



上座に座る一老から二老、三老・・・と一人ずつに御供配り。

樫の木を削って作った箸でほんの少し摘まんで座中が広げて受ける両手に差し出す。



手で受けた御供を口にする作法。

いわゆるテゴク(手御供)の作法である。

古川座の座中すべてにいきわたったら、そのいちの席に就く。



同じように作法されて御供を口にする。

隣席に座っている“とも”に御供はない。

御供の作法は三座とも同時進行する。

古川座、歩射座、尾崎座それぞれの座に就く給仕は3人。

座中の人数に若干の差異があることから、動き出すタイミングは板元が指示をする。

次の所作は、三献である。

南側の扉向こう。

その所作をしっかり収めたいカメラマンは2人。



一人は静止画であるが、もう一人は動画撮りのビデオマンであろう。

北側から、南側からいずれも解放している扉付近からしか撮ることのできない饗応の儀であるが、こと細かな所作は、座中の近くまで寄ることもできないだけに難題である。

まずは上座に座る古川座の一老席へ進み出る給仕。

高く掲げた銀色の銚子を運ぶ給仕。

席に就いて頭を下げる両者。



給仕は調子を両手で持ち、右肩から上方へ大きく腕を上げて廻すような格好で3回。

カワラケで受ける座中に酒を注いだら、三口つけてから酒を飲み干す。

御酒の順は榊清めと同じように古川座、尾崎座、歩射座の三座中一人ずつ、厳かに酒を注いでいた。



静かな動きに緊張感漂う饗応の場に座る天冠を被る“とも“。

一般家庭では見られない作法に不思議を覚えたことだろう。

”ぼうよ“の隣席に座った宮司も御酒を口にする。

ちなみに御酒の酒。



実は、お酒でなく白湯(さゆ)である。

室町時代、興福寺の修正会にも見られるように酒は白湯(さゆ)であったとされる記録があるそうだ。

中谷勝彦宮司が話してくれた、現在は見られない修正会の白湯は、いごもり祭に見られた。



饗応の儀を直に見ることない与力座一老。

神子のごとき姿で凛として座っていた。

次の作法は、古風な作法で行われる三々九度の“盃ごと“。

給仕は、古川座の一老に差し出す塗り盃は台付き。

盃は伏せられている。

次に給仕が運ぶ塗りの盃もまた二枚重ね。

重ねる盃は蓋するように伏せた盃を、二老、三老に二人同時に給仕が運ぶ。

次も同じく二枚重ね盃。

伏せたままの形で宮司の前に差し出して頭を下げて戻る。

次に登場する給仕は真っすぐ向かった一老の前に。



頭を下げた次に、横を向き、左膝を立てて、盃を表返す。

そして下がった、次に二人の給仕が同時に進んで、二老の前と三老の前にそれぞれが就いて頭を下げ、一老にしたように盃を表返す。

その際の作法は一老の眼前にて行われる。

特徴的なのは盃のおもて返しの作法である。

一老のときと同じように左膝立ての形である。



おもて返しをする盃を両手で取り上げて、高々と揚げて瞬間にさっと被せる。

相向かって所作する2人の給仕。

見事に決まった奇麗な所作に見惚れることしばし、である。



おもて返しをした盃を二老、三老に差し出し、頭を下げる。

これを宮司の盃も同じように表返す。

このおもてがえし(おもて返し)、どう見ても盃に蓋であろう。

饗応の儀にキョウの飯もある。

次に登場するそのキョウの飯は二枚のカワラケもまた、一枚は皿に、もう一枚は蓋である。

塗りの盃も同じあり方。

類例があるのかどうか、今のところ、事例は持ち合わせていない。

盃が用意できたところで始まる酒注ぎの作法。



長柄の銚子(ながえのちょうし)をもった給仕が登場し、一老の前に進み出る。

一度、盃に注いだように見えたが・・振り返り戻って・・と思ったところに、酒器の提子(ひさげ)をもつ、もう一人の給仕が登場、座の中央に出合うような恰好だ。

大阪・富田林に鎮座する佐備神社。

一年に一度の神楽祭がある。

平成29年4月4日に訪れて拝見させていただいた神楽舞の一つに注目すべき演目がある。

その年は久しぶりに奉納された“神酒調進(みきちょうしん)”。

大阪神社庁版式目、富永正千代師が唱えられた「浪速神楽式目数え歌」の一曲にある神酒調進である。

その作法を拝見していてこれは、と思ったので、次に書き記しておく。

「雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)の金銀の長柄の銚子。お神酒を注ぐ祭具は祝い事の酒盃に用いられる。衣装も独特の特徴をもつ“「神酒調進”。金の長柄の銚子から銀の長柄の銚子へ。そして酒盃に注ぐ。金から銀。銀から盃へ。一舞、舞っては盃に神酒を注いで、これを三回繰り返し。三々九度の儀式であろう。その間にあった所作に長柄の銚子から長柄の銚子の酒注ぎである。まるで酒を継ぎ足しているかのようの思えた所作は加御酒(くわえごし)であった」。

涌出宮・いごもり祭の座饗応の作法に見たのも同じく加御酒。



たしか「くわえごしゅ」と呼んでいたような気がするが・・。



酒器は長柄の銚子(ながえのちょうし)、提子(ひさげ)で所作する加御酒(くわえごし)。



宮司にそのいちにも同じ所作をもって酒を注ぐ。

酒盃の儀は長丁場。

ときおり水を打ったようなタイミングでカチャッと音を立てる器。

静寂さに緊張感が続く作法が決まった給仕。

拍手をすることはもってのほかの場である。

座中に宮司、そのいちが使用した盃を引き上げて次に移る。

時間帯は午後3時20分。

座饗応の儀が始まってから1時間20分も経っていた。

動きのない作法に飽いて居籠殿から離れるカメラマンに見学者も少なくない。



平膳に盛った4品は、この日の朝に与力座が調整した膳。

滑らないように気を配りながら給仕が運ぶ。

素焼きのカワラケに盛った膳料理は4品。



五つの茹で大豆に千切り大根と人参のカキナマス。

ゴマメもあれば板状の酒粕と角切の大根の盛りである。

一老から十老までの古川座・座中に宮司、そのいちの席に配膳される膳。

次に運ばれるキョウメシ(京めし)である。

2枚の素焼きカワラケで挟んだキョウメシ。

湯のみ茶碗いっぱいに詰めて固めているからやや高さがあるキョウメシは、ゲタ付きの三方に載せている。



膳手前に置いた箸は樫の木の皮を剥いで奇麗に削った手作りの箸。

中央辺りにやや太さをもつ箸。どことなく正月に使う祝い箸を思い出す、末広がりの八寸箸。

両方とも先端が細く作る両口箸。

両口の一方は神さん用、もう一方の先端は人が使うためであり、"神人共食"を意味しているそうだ。

ちなみに中央がもっと太目の箸は、その形状から五穀豊穣を願って俵箸と呼び、さらに太めの孕んだ形状の箸は孕み箸。

子孫繁栄を願う箸もまた祝い箸。



例年の正月に我が家も使ってきた祝い箸にこのような願いがあったとは・・この歳になってはじめて知った箸の意味であるが、このような形状の作り箸は、神社の年中行事に供える神饌に添える地域もまた多いことをあらためて知るのである。

ゲタ付きの三方に載せたキョウメシは古川座の一老だけ。

二老以下の座中に三方はなく、略したキョウメシである。



また、尾崎座、歩射座にも蓋付きのキョウメシを配膳されるが、一老だけに限られる。



このキョウメシの蓋は、酒盃にも用いられる。

歩射座の一老は、その蓋を手にして給仕が注ぐ提子(ひさげ)の酒を受けていた。



酒盃は三献。

ちなみに御酒の酒は、お酒でなく白湯(さゆ)である。



前夜に行われた・座饗応の儀においても御酒でなく白湯を注いでいた。

宮司曰く、室町時代、興福寺の修正会に見られるように、御酒は白湯(さゆ)であったそうだ。

座饗応(あえ)の儀の締めを告げる板元。



頭を下げて退き、次に登場する給仕も頭を下げてから、板元が締めの向上を述べる。

座中に向かって「どうぞ、お納めください」と挨拶された板元の声に従って京めし膳の調理料理を予め用意していた半紙に包む。

つまり、御膳は一度も口にすることなく、京めしをありがたく受け取って持ち帰るのである。

そのときに使うのが樫の木で作った箸である。

尾崎座、歩射座の二老以下は、キョウメシだけである。カワラケを逆さに、ポンと振って半紙に落としていたが、汁けがあるのか、零れないような袋も持ち込んで収めていた。



帰り支度の最中に宮司が座中に伝えた古代の素焼きカワラケのことである。

「ゴマメを盛っているカワラケの裏面を見てください」と、いう。

そのなかに平成3年から4年にかけて行われた社務所建て替えの際に発掘調査によって出土、発見された南北朝時代・室町時代の素焼きのカワラケである。

かつてのいごもり神事に使ったカワラケは土中に埋めていたのであろう。

いごもり祭の歴史を語ってくれる出土カワラケは埋蔵文化財。



ナンバリングされた付番を、しかと見入る座中たち。

室町時代に使われていたカワラケは、現代に蘇り、座饗応(あえ)の場に提供された。

「みなさん方も、こうしていごもり祭行事に参加されているのです」と・・。

午後3時50分、膳を下げて小休止と言いたいが、そうでなく、続いて始める農耕を模擬的に行うお田植え儀式である。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・七度半の呼び出し遣い

2019年11月04日 10時37分41秒 | もっと遠くへ(京都編)
呼び出し役のYさんは与力座の古老役。

任期が3年間の一老を経て役に就いた古老であるが、Yさんは、座中の事情で実際は4年間も務めたそうだ。

大役に袴裃に着替えるが、朝いちばんに涌出宮に来られたときは和装に下駄履き姿。

そのお姿から七度半(ひったはん)の呼び出し遣いをされる方だろうと判断してお声をかけた。

古川座の総本家に出向き、七度半の呼び出し遣いのあり方を取材したく同行許可をお願いしていた。

総本家当主に向かって最初に挨拶。

歓談を済ませて、帰りに就く際に挨拶を6回半もすることから、七度半(しったはん)の呼び出しと呼ばれている儀式。

つまり、古川座の総本家当主が腰をあげて、涌出宮・居籠祭に参集されますようお願いにあがるのである。

総本家当主が来られて始まる居籠祭。

重要な任務をもっている呼び出し遣いである。

かつて呼び出し役は独りで歩いて出向いたそうだ。

涌出宮から古川座の総本家までは遠い。

北に直線距離にして1.5kmの片道。

座饗応の儀が始まる時間帯は午後2時。

その時間に来ていただくよう願いする七度半の呼び出しは午前中に行われる。

電話などのない昔であれば、まさに直接、本家まで出向いてお願いであるが、現在は電話で伺うことを伝えてから涌出宮を出る。

遣い役のYさんは、与力座の人が運転する車で送り迎えしてもらう。

車に乗った私は後ろに着いて走りますので、よろしくお願いした。

どこをどのルートで走行されるのか、追っかけ取材である。

送迎運転手役を務められたNさんが運転する車を見失わないように走った。

本家近くになれば、遣い役は降りる。

畑が広がる農道辺りで降りた遣い役が頭を下げて近づくお家が古川座の総本家。



当主の息子さんが、お待ちしておりましたと案内する。

遣い役は玄関から入るのではなく、座敷のある縁からである。

縁や廊下から上がる作法は奈良県内にも見られる。

事例は多くないが、山添村室津的野、桐山などには渡り衆と呼ばれる歌詠みをする集団がある。

祭りの日にトーヤ家の縁から上がって、座敷で踊りながら歌詠みをする。

その縁から上がることを「オドリコミ」と呼んでいる事例も、ここ七度半の呼び出し遣いが縁から上がることも同じである。

当主が待っていた座敷にあがった遣い役。

頭を下げ、閉じたままの扇を置く。

これが七度半の1度目にあたる作法である。

行ったり、戻ったりする六度半は、座敷内でなく、退座の後、屋外で作法される。

挨拶を済ませてしばらくは歓談。



笑顔で歓待する当主のFさん。

今日まで歴史ある古川座の代々を継承してきた総本家を継ぐ者でもあり、古川座中の三老でもある。

涌出宮の社伝によれば、天平神護二年(766)、伊勢国(三重県)渡会(わたらい)郡五十鈴川の舟ケ原から、天乃夫岐売神を勧請したのが起こりとされている。

この地の平尾、綺田に在住する古川座は、伊勢から下ってきたご祭神を迎えた。

その時代から1250年間、今もなお長きに亘って継承してきた古川座の総本家。



この日、酒注ぎなど、総本家がもてなす給仕役をされていた息子さんも継承者。

三々九度の酒盃に作法をする。

この給仕役は長兄男子。

女子は務めることができない、という。

塗り三盃のうち一枚を手にした呼び出し遣い。



三々九度の作法で酒杯を注ぐ給仕。

零すことのできない緊張の間である。

ちなみに同じ塗りの高坏はその酒盃やこれから給仕される酒の肴を食べてもらうための置き台である。

呼び出し遣いの与力座が着用する裃にみる家紋は下がり藤。

一方、古川座総本家当主が着用する裃の紋は丸に二つ引。

詳しくお聞きする時間などのない緊張の空間である。

両者が三々九度の作法で飲み干す酒盃の場に提供された酒の肴は3品。



儀式を終えてから撮らせてもらった3品は、砂糖醤油で味付けしたカツオ風味の数の子に胡麻和えの牛蒡と砂糖に漬けていただく煮豆の黒豆。

毎年に決まっている調理の品々である。

当主が話す経緯。

高校生のころの当主。

当時、おじいさんが当主を務めていたころは給仕をしていたという。

昔のいごもり祭(居籠祭)は特定日だった。

平日の場合なら、その日の午前中だけは学校を休んで給仕をしていた。

給仕役から解放された午後は、学校に向かったと話す当主。

そのおじいさんが60歳で亡くなられた。

急なことであるが、その年からおじいさんの跡を継いで当主になった。

なぜに父親が当主にならないのか。

お聞きすれば、父親は養子だったという。

直系でなければ、当主を継ぐことはできない。

現在は養子であっても認められるようになったが、昔は厳格なしきたりがあったということだ。

若いころに当主になったことにより、年齢が上位の古川座の座中と付き合うことになった。

諸先輩座中の教えもあって今こうしているという。



午後に行われる饗応の儀に出仕する女児。

“とも”と呼ばれる女児は小学1年生。

酒を注ぐ役目にあるという“とも”は、本来年長さんのようだ。

一生に一度の出仕を逃しては、と思って宮司にお願い、相談したという。

綺田に平尾もそうだが、年々に子供の数が減っている。

子どもが一番の愉しみにしている屋台も減った。

かつては棚倉の駅前にずらりと並んでいた屋台であったが・・。

息子さんが子供のころの状況のようだからずいぶんと前の時代。

今では、というか、昨夜の屋台に回転焼きはなかったから、わざわざ近鉄まで買いに出かけたという。

思い出話は松明に移って「昔の松明の火は、ヤカタのところまで転がしていた」と。

世間話から居籠祭まで、多彩な村の話題を交わした歓談の時間はおよそ1時間余り。

場を移して残りの六度半の作法をする。

呼び出し遣いは上がった縁から降りて玄関前の坂道を下り、辻に出る。

玄関から出てきた当主の立ち位置。

呼び出し遣いはやや坂道の玄関前を下って辻に出る。

見立て役の息子さんの立ち位置も決まった。



それぞれが、お互いの立ち位置を確認してから動き出す呼び出し遣い。

当主に向かって顔を合わせたら両者はともに頭を下げる。



すぐさま辻に戻る。

その間に聞こえる音は下駄の音だけだ。

呼び出し遣いが辻に戻ると同時に当主は玄関奥に入る。

これを繰り返すこと六度目。

両者が頭を下げて戻る際。

呼び出し遣いは坂道の中腹辺りに停まって「半」。

当主は玄関入り口から。

そこから動き出す七度目半は、お互いが確認し合って動き出す。

おち合った処で頭を下げた当主。



「本日はご苦労さまでした。お帰りになりましたら、みなさんによろしくお伝えください」、「また、午後にはご厄介になりますのでよろしく。どうぞお気をつけてお帰りください」と、当主の挨拶で七度半の呼び出し遣いを終えた。

昭和58年に刊行された山城町教育委員会著の『城州相楽郡涌出宮宮座「古川座文書」仮目録』がある。

古川座の歴史を学びたく、できれば一度拝読してみたいものである。

奈良県内事例にも「七度半の呼び出し」がある。

事例はそれほど多くはないが、山添村大塩の八柱神社の祭礼に“寺座”を呼び出す七度半のあり方を拝見したことがある。

(H30. 2.18 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・古川座饗応の京めし調整

2019年11月03日 10時05分22秒 | もっと遠くへ(京都編)
前日からこの日も続く行事に再び訪れた木津川市山城町・平尾里屋敷の涌出宮。

午前中いっぱいかけて調える作業がある。

社務所に集まってくる人たちは与力座の人たち。

散らかっていた境内を奇麗に掃除。

作業を済ませてとんどを焚いた場で暖をとっていた。

掃除機を利用して座饗応の場になっていた居籠舎も奇麗にしていた。

いち早く参拝される人たちもいる涌出宮。



昨夜に行われた大蛇こと大松明を燃やしていたときとはうってかわって静けさを取り戻していた。

近くに流れる鳴子川上流の山から来た由来がある大蛇。

焼きはらわれてすっかり姿を消していた。

涌出宮は元禄五年(1692)に造営の三間社流造の本殿を主格に末社が並ぶ。

右手にある末社は三社造り。

右から大国主神社、市杵島神社、熊野神社があり、その向こうに稲荷神社、天神社・・・。

左手の末社は右から八幡宮、日枝神社、熱田神社の三社造りに春日神社もある。

清々しい朝いちばんに供えた御供。



籾盛りに人参、鏑大根、ピーマンなどの野菜盛りに林檎、蜜柑もあれば昆布巻きもある。

「おはようございます」、朝のご挨拶をさせてもらった中谷勝彦宮司の案内で拝見した本殿御供に前日も見たミニチュア農具がある。



マグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワの4品。すでに神さんにお供えしている道具だけに近寄ることはできない。

遠目で拝見した三方乗せのミニチュア農具。



ピントは合っていないが、見えたマグワのそれらしき一部でそれがわかる。

さて、社務所内で行われている作業である。

午後の行事に座饗応の儀がある。

前夜と同じように古川座をはじめ、尾崎座、歩射座の座中に与力座がもてなす儀式にだされる膳料理の調整ごとである。

座ごとに調整される膳作り。

はじめに調整されたのは古川座の平膳である。

脚のない黒色の平膳に盛る素焼きのカワラケ。

中央の皿に茹でた大豆。

個数は五つである。

角々に置いた一皿に千切りした大根と人参のカキナマス。

二皿目にゴマメ。

三皿目に酒粕と角切の大根。

平膳に箸を添えている。

皮を剥いだ樫の木を奇麗に作った一膳の箸である。



これらを調理し、ここ涌出宮に持ち込むのは古川座の一老。

受け取った与力座の人たちが膳の形に調える。

空いている角にも並べる。



素焼きのカワラケには違いないが、特別なカワラケである。

平成2年から3年11月までの期間に社務所に神楽殿の改築工事、その際に森林を含め境内整備事業をされた。

そのとき、発掘調査もされたら、なんと、南北朝時代・室町時代の素焼きのカワラケが出土した。

枚数は4、5枚。

いごもり祭の座饗応に使用している素焼きは土に還ることなく、いごもり祭の歴史を語ってくれる物的証拠。



付番されたナンバリングカワラケとなって現代に蘇り、座饗応の場に活用されている。

なお、涌出森境内一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されており、弥生期の居住跡に弥生式土器や石器等類が出土。

また、竪穴式住居跡も確認されたそうだ。

古老役が作るキョウメシ(京めし)がある。



小さな茶碗というか、湯のみ茶碗にうるち米で炊いたご飯を盛って、素焼きカワラケにひっくり返して盛る。

その上に皿よりもやや小さめの素焼きカワラケで蓋をする。

二枚のカワラケで挟んで作ったキョウメシ。

充てる漢字は饗飯。

つまり、午後に行われる饗応(※あえと呼ぶ)の儀に相応しい“饗飯“であろう。

奈良県内事例に多くみられる”キョウノメシ”。

略して“キヨウ”と呼ぶこともある。

できあがったキョウメシは、平膳に並べるわけでなく、別途コウジブタに並べておき、饗応の儀に出されるときに移す。

そのわけは、平膳の高さにある。

黒色の平膳の高さすれすれに4種の品はあるが、キョウメシの高さは2倍ほどにもなる。

重ねることのできない高さの関係でキョウメシは後ほどの、持ち込まれてから盛ることになる。

黒の平膳は一枚、一枚重ねて4段。

その上に膳蓋をのせる。

座の場に持ち込む量として計算された段数である。

ほぼ古川座のキョウ(饗)を調えたころに裃に着替えを始めた一人の古老役のYさん。

支度を調えて出かける七度半(ひったはん)の呼び出し遣いである。



尾崎座、歩射座の膳作りは引き続き行われるが、前もって取材をお願いしていた七度半呼び出しに同行させていただく。

(H30. 2.17 EOS40D撮影)
(H30. 2.18 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・大松明の儀

2019年10月15日 08時25分56秒 | もっと遠くへ(京都編)
座饗応の門の儀を終えてから始まる大松明の火点け。

その燃える状態を観たくて大勢の人たちが集まってくる。

境内は松明見たさにごった返していた。

大松明の下にかませた太目の樫の木。

二股の形の支柱である。

鉄骨櫓に吊るしたチェーンブロックで支えていたが、松明を燃やすには櫓は無用。

昔から、ずっとしてきた大松明を支える道具。

重さでやや斜めになった大大松。

その辺りに潜った一老が火を移して燃やす。

葉付きの桧を葉付きの樫の木にさし込む。

与力座の一人が火打石で発火させた火点けと同時にパチパチと音を出す役目がこの葉にあるという。

大和朝廷軍と戦った戦武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)軍は敗北。

敗れた安彦命は打ち首。

その首が飛んだ地は西方にある隣町の精華町・祝園。

首は飛んだが胴体は棚倉に残ったという古潭。

その胴体はとてつもない巨大化した大松明。

この夜の門の儀において燃やされる。

祝園で行われるいごもり祭にも松明が登場するが、同じように(※広地で)燃やされる。

敗北した者は成敗したが、その霊を鎮めるため、供養に燃やす、慰霊の儀であろうか。

火を点けた途端に大きな炎をあげて燃え上がる。

炎が大きい場合は豊作になるという大松明。



蛇の胴体も燃える、と声が聞こえた。

その前に祭壇を組んで、与力座一老とともに並んだ中谷勝彦宮司が祝詞を奏上する。

五穀豊穣を願う祝詞に籾、玄米、白米を松明火に投げ入れる。

この日の朝に拝見した細かく切った金色、銀色紙片とともに炎に投じる。

この作法を“ごまいさんまい(御撒散撒)”と呼ぶそうだ。エーエー ノートーと聞こえる詞らしい。

おそらくは、造営儀式(※上棟祭)に見られる大工棟梁が発声する“永々の棟(※えぃ えぃのとう)“と、同じように思えて仕方ない。

エーエー ノートーはどうやら発声的に「えぃ えぃ のっと」ともあるようだから、強ち間違ってはいないと思う。

これらの儀式を拝見することなく、先回りした四脚門で待っていた。

そこから様子を伺っていた大松明の儀。

大松明が燃え盛る。

かつては支えの太い樫の木を取り払って松明をどすんと落とし、ごろごろと引きずり回していたそうだ。

現在は、そうすることなく、安全性を選んで午前中に作っておいた小松明に採火、小分けした小松明移動に切り替えた。

小松明であればごろごろと引きずり回すことなく、白の浄衣を身に着けた2人が小松明を抱えて運べる。

尤も小松明といえども松明。



火の勢いが強くなった小松明の火を後方に行くよう駆け足で向かって四脚門の外に出す。

すぐさま立ち位置についた宮司と榊をもつ与力座一老。

炎が燃え盛る小松明の火に向かって祝詞奏上に由来を述べる。

そして作法は、大松明に向かって行われる“ごまいさんまい(御撒散撒)”と同じ作法。



ストロボの光が閃光するシーンを避けて・・・。

(H30. 2.17 EOS40D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・門の儀に三座をもてなす

2019年10月10日 09時25分06秒 | もっと遠くへ(京都編)
涌出宮境内にとてつもない巨大な大松明を作りあげた

まさに大蛇の名に相応しい大松明である。

作業を終えた与力座の人たち。

社務所で食事を摂る人もおれば自宅に戻る人たちも。

再び集まるのは夕刻である。

再開するまでの時間は6時間以上もある。

木津川市山城町平尾付近に佇んでいるわけにもいかず、一旦は場を離れて日が暮れるころに戻ってきた午後6時半。

参道にある数店舗の夜店で梯子買いをする子供たち。

昔も今も変わらぬ風景にほっとする。



与力座座中も再開されて始まる座饗応の儀。

もてなしする座は与力座。

もてなしを受ける座は古川座、尾崎座、歩射座の三座である。

今夜並びに明日の儀式に役目をする与力座の人たちがいる。

今夜の門“かど”の儀に明日の座饗応および御田の儀を進行する板元(いたもと)がおられる。

進行などは板元がされるが、所作は給仕と呼ばれる子供たちが就く。

この年の給仕は小学6年生の男児が3人。

両日とも所作をする。

また、神事ごとや座の儀に出仕される“そのいち”と呼ばれる里巫女がいる。

今夜は大学生のNaさんに明日が出番のNiさん。

支度・着替えを済ませて登場する。

先に始まったのは神楽殿に参集した巫女さんたち。



太鼓を打ち、笛を奏でる雅楽奏者に神楽舞を奏するのは棚倉から見て西方寄りの隣町になる精華町北稲八間北垣外に鎮座する武内神社の宮司や巫女さんたち。

中谷勝彦宮司が紹介してくださった宮司さんは、なんと漢字が同姓同名。

当社もお越しくださいと伝えられた。



神楽殿では巫女さんたちが参拝される人たちに神楽を舞う。

龍笛や太鼓の音色に神楽を舞う2人舞。

右手に鈴を採り、袖を揚げながら右回り。

宮司が吹く龍笛の音色が美しく響きで奏でられる。



お神酒を注ぐのも巫女さん。



盃を手にした参拝者に三々九度の作法でお神酒を注いだらぐいと飲み干す。

後年、この神楽舞の振り付けを観られたFB知人のFさんがいうには、習っているからわかる浪花神楽だという。

奏でる曲は式神楽第一のようだ。

次から次へと参拝される氏子たち。

家族連れがもっとも多いようだ。

午後6時半の時間帯での参拝者はそれほどでもないが、時間が経つにつれて増えつつある待ち行列。



女の座行事でもお世話になった京都府文化財保護指導員のAさんもまた一人の参拝者。

声をかけられたのは参拝後である。

中谷勝彦宮司からもこれより始まる儀式に居籠舎に、と云われていたが、初めての取材に遠慮と思っていたところにAさんからはご一緒しましょう、と誘われた。

Aさんは京都府文化財保護指導員。

指定文化財の実施状況を確認する役目を担っているから、毎年が担当。

居籠舎に座る位置も決まっているから、その隣席でという。

古川座の座中が参拝され、居籠舎にあがるころには、と少し時間をいただいて神楽清祓の様相を撮っていた。

そろそろ来られる時間帯と思って神楽殿に待機していた。



そこにやってくる装束に烏帽子を被った古川座の人たちの参拝模様を撮っていた。

座中が差し出す招待状を受け取って三々九度のお神酒。

黒塗りの盃もあるが白のカワラケでいただく人も。

三度口にして飲み干せば鈴祓い。



そして御田式の絵が描かれている絵馬付きの破魔矢に涌出宮のお守りと紅白米の御神饌を拝受する。

さて、参拝を済ませた古川座の人たち。

黒地に下り藤を白抜き染めした素襖(※そうまたはすおう)を着用。

下駄履き姿に足元は黒足袋で来られた。



家から持ってきた風情ある提灯にローソクの灯りが美しい。

本来なら座中は十人衆であるが、この年は都合があって9人。

上座中央、本殿に向かって一老が座り、その横に二老、三老以下十老までが順に座る。

座る場所は赤の毛氈。

そこは古川座に尾崎座、歩射座の指定席。

宮司の許可を得た人たち(※おそらく給仕の親であろう)もこの居籠舎に座ることはできるが、その毛氈を外した位置になる。

壁際いっぱいに背をつけて身は一切動かしてならない条件。

これより始まる儀式は神事だけに、言わずもがなのマナーモードである。

座饗応の儀は中央に古川座を配し左右の座に羽織袴の裃姿の尾崎座(本殿に向かって左座)、歩射座(同、右座)が座る。

尾崎座は、天平神護二年(766)に伊勢から下ってきたご祭神のお供した人たち。

歩射座は、その道中を警護した人たちと伝わり、座中はその末裔にあたる。

そして、古川座は、元々この地の平尾、綺田に在住し、伊勢から下ってきたご祭神をお迎えた人たち。

与力座はご祭神をお守りしてきた社家・神職とも考えられる。

居籠舎に居たものだから舎外で行われる様子の一切がわからないが、なにやら音がする。

どうやら祝詞を奏上するなど神事が始まったようだ。

居籠舎の扉が開かれて登場したのは宮司に拝殿で神楽を舞ったそのいちと称する巫女さんである。

座、それぞれの席に向かってお祓いをする宮司。

次は巫女さんの鈴祓い。



シャンシャンの音がする。

本殿で行われる神事は宮司、巫女さんの神職の他、与力座一老のKさんも座する。

座饗応の間はずっと本殿に向かって座ったままの姿。

黙して語らずの位置はまるで涌出宮の神子のように思えるが、2月半ばの寒さはやはり厳しい。

しばらくすれば烏帽子被りに緑色の素襖を着用した板元が登場されて下座に座る。

扇を手前に置いて頭を下げ、これより儀式が始まる。

と、同時に入っていた子どもの給仕も続いて座中それぞれに頭を下げて饗応の座の始まりである。

実は居籠舎の扉は両方とも解放である。

観ようと思えば、それなりに拝見できるようだが、細部の所作は座中でないとわからない。

初めの所作は榊の葉の清めである。

所作は3人の給仕。



まずは正面の一老席に向かって高く掲げた榊を立てて前進み。

一老はその榊より葉を摘む。

摘んだ一老は右後方へ、次に左後方へ肩越しに放る。

給仕が動いて次は二老席前に就く。

同じように立てていた榊をやや前に傾けて葉をもぎ取る。

右、左へ肩越しに放る。

続いて三老。



そして四老から十老まで。

この所作は榊の葉をもって身を清めるものだ。

尾崎座も歩射座も、もう二人の給仕が座中の前に出でて榊を手向け、もぎった葉をもって身を清めていた。

3人の給仕は同時進行される所作。

座中の人数に合わせて動き出すタイミングをとっていた。

奈良県内の事例であるが、まったく同じ所作をしていた地域は、山添村春日の春日神社の風ノ祈祷における作法に似ている。

次の所作は三献。

まずは上座に座る古川座の一老席へ進み出る給仕。

高く掲げた銀色の酒器を運ぶ給仕。

席に就いて頭を下げる両者。



給仕は銀色の酒器を両手で持ち、右肩から上方へ大きく腕を上げて廻すような格好で3回。

カワラケで受ける座中に酒を注いだら、酒を3口つけてから飲み干す。



三献の順は榊清めと同じように古川座、尾崎座、歩射座の座中一人ずつ、厳かに酒を注いでいたこの席に鰯一尾を皿に盛った見せ膳があったようだ。

座のあり方、動作に一切の音無し。

静寂な場に、参拝者を迎えるお神楽の音色が聞こえてくる。

後に、菊約さんから聞いた神楽は「えびす神楽」とのこと。

よく調べておられる。

次の所作は御供膳である。

折敷に乗せた三角錐のような形に成形した盛り飯の御供(ごく)。

両手でもった折敷は目の上以上に高く揚げながら前に進み出る。

御供が倒れないようにしっかりともった給仕の右手にあるのは箸である。

箸は樫の木。

皮を剥いで奇麗に作った一膳の箸。



席に就いたら少しつまんで、座中が広げた手中にそっとおく。

蓋をするような感じで御供が零れないように、両手で包むようにされた。

給仕が次の座中に移ったさいによそってくれた御供を口にする。

いわゆるテゴク(手御供)のあり方である。



これもまた奈良県内事例によく見るあり方。

事例に山添村大塩・八柱神社の夏神楽に見られる。

次の所作は「おかぎ」配り。

座中一人ずつに「おかぎ」と「松苗」を配られる。

次の所作は、座始まりにされた榊の葉による清め。



同じように右肩、左肩後方に放って身を清める。

涌出宮ではこの所作を「清めのちょうず(※手水)」と呼んでいる。

こうして一連の所作を終えた給仕たち。

緊張感に高揚していたと思われるのだが・・無事に済ませてほっとしたことだろう。

下座に就いて頭を下げた給仕に板元もされてお開きと相成った。

ちなみに三献に酒。

実はお酒でなく白湯(さゆ)である。

室町時代、興福寺の修正会にも見られるように酒は白湯であったと記録がある、と中谷勝彦宮司が話してくれた。

現在は見られない修正会の白湯は、ここいごもり祭に見られたということだ。

座も含めたいごもり祭の神事中の宮司と与力座の一老である。

紺地に下り藤を白抜き染めした素襖姿である。

神さんが居る場に居籠っていた。



いわば神使いの一老でもあるが、寒風に吹かれていようが、じっと我慢。

座の見守り役でもあったかもしれない。

神事を終えた一老。

氏子たちとつかの間の会話に思わずシャッターを切らせてもらった。

与力座一老のKさんはこの年で2年目の任。

3年間を務めた一老は翌年に座の古老役として座を支援するそうだ。

この日の大松明作りにも従事していた長老5人が古老役であった。

(H30. 2.17 EOS40D撮影)
(H30. 2.18 SB932SH撮影)

山城町涌出宮居籠祭・二座の勧請縄かけ

2019年09月29日 09時33分54秒 | もっと遠くへ(京都編)
境内で大松明を作っている最中に始めた二座の勧請縄かけ。

二座は古川座と歩射(びしゃ)座。

歩射(びしゃ)座の勧請縄は前週に涌出宮付近にある小屋内で作っていたようだ。

できあがった勧請縄は涌出宮の倉庫に保管していた。

古川座の勧請縄は、座中の一老家もしくは十老家(※一年ごとに交替するが繰り上がるので同じ家にならない)の作業小屋で作られるらしい。

二座の勧請縄かけをする時間は特に決まっていないようだ。

おもむろに始まった勧請縄かけ。

長く太い勧請縄は歩射座の勧請縄。

数人が担いで運んだ場所は神社の境内地。

意外と気がつかない2本の樹木に架ける。

その場所は戦後に建之された2代目の神馬(しんめ)像がある処。



境内から見れば神馬像の後方に架ける。

大蛇になぞらえている、という歩射座の勧請縄は12房の垂れがある。

間隔が狭い形状だけに房を確認するのも難しい。

勧請縄の材料はヤブニッキ。

神社境内に自生するヤブニッキを伐採して作る。

勧請縄は餅藁縄を依って作り、ところどころにシデを付けていた。

中央辺りによじって作った瘤のような形は男根、と云われたが、どこにあるのか見つけにくい。

房の形態もわかりにくいが、2本の藁依りを垂らしたところにヤブニッキの枝。

うち一本は葉付きのヤブニッキ。

水平に取りつけているように見える。

また、房下も葉付きのヤブニッキ。

翌年に下げる勧請縄を燃やしたときはいい匂いがするという。

良い香りはヤブニッキが焼ける匂い。

機会があれば嗅いでみたいものである。

架け終わったら、予め作っておいた弓矢を勧請縄に括りつける。

曲げた弓も、真っすぐな矢もヤブニッキ。

矢羽根は紙片であろう。

矢の数は12本。

閏年の場合も12本のようだ。



矢は紐で弓に括りつけて外れないようにしていたが、スポっと抜ける矢もあって、目で本数は確認していた。

なお、弓矢は勧請縄の頭と尾、それぞれに括りつけていた。



古川座が与力座に預けた勧請縄がある。

この日の朝に勧請縄作りをしていた古川座。

一老家若しくは十老家(※毎年交互に替わる)で作業をして作り上げた勧請縄は、涌出宮に伺って与力座の一老に手渡す。



受け取った一老は、預かって本殿の裾に置いて一時保管していた。

時間帯は昼前。

大松明つくりを終えて、しばらくしてからだ。

与力座の数人が動いた。

一人の座中が担いだ古川座の勧請縄。



歩射座の大蛇よりは小さめの勧請縄。

大蛇に対して小蛇の名があるのか、聞きそびれた。



古川座の勧請縄は樹木に架けるのではなく、歩射座の勧請縄に被せる、いやそうでもなく巻き付けるような具合で架けていた。

古川座の勧請縄は、房などすべての材は樒を用いる。

また、弓矢は竹製。

座によって材は違っていた。



ちなみに、本日に架けた二座の勧請縄は、翌日に行われるすべての居籠祭を終え、片付けなどをする際に外して勧請縄を移される。

移し先は四脚門の本柱を渡す冠木の上。

参拝するすべての人が頭を下げて勧請縄を潜ることになる。

勧請縄は、一年間に亘って参拝者を清めることになるのだろう。

(H30. 2.17 EOS40D撮影)

山城町棚倉涌出宮居籠祭・大松明つくり

2019年09月26日 09時51分00秒 | もっと遠くへ(京都編)
正式社名は和伎座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめ)。

鎮座地は京都府木津川市山城町平尾里屋敷。通称名は棚倉の涌出宮(わきでのみや)である。

称徳天皇年代の天平神護二年(766)五月。

「天夫貴売尊の神託により平尾邑和岐に遷し奉る・・」とあり、「伊勢国渡会(わたらい)郡五十鈴川の舟ケ原岩部里から、天乃夫岐売命を勧請したのが起こり」とも。

その「勧請した際に、祭神は飛来し一夜に森が生まれた。四町八反余りが、神域と化したことから、世の人は畏れ、その神徳を称えて“涌き出森”」というわけで涌出宮と称した。

たぶんにその字、“涌”水のごとく、当地は地下水が豊かに流れる土地であったろう。

初めて訪れたのは、平成29年の3月15日

「女座」と呼ばれる行事取材のお願いに伺った。

お会いした中谷勝彦宮司が話してくださった涌出宮の年中行事。

主な行事の「女座」に「アーエーの相撲」、「居籠祭り」を説明してくださる。

取材許諾を得て訪れた同月20日が「女座」行事だった。

続いて拝見した行事は饗応(アエ)の相撲。

訪れたのは平成29年の9月24日であった。

そして、いよいよ本日のいごもり祭である。

「恒例の涌出宮の宮座行事(※京都府の重要無形民俗文化財)の一つである祈年祭の「いごもり祭」を、今年も厳粛に執り行いたく・・」と案内する通知葉書が届いた。

祈年祭は、一年の初めに、その年の豊穣を祈る祈年(としごい)の祭り。

祈年(としごい)の年(とし)とは、年穀、稲米の稔りを意味する。

「郷土の伝統文化を継承するため、ご支援をいただきたく賜り存じ、ご参拝お願い申し上げます」に続いて「所願成就、清祓いの御鈴、撤饌を福授させていただきますので、本状を受付に提示」とあったありがたい通知葉書の差出人は連名。涌出宮与力座座衆一同に氏子総代一同、宮司中谷勝彦とある。

神社由緒書によれば、いごもり祭を充てる漢字は居籠祭若しくは齊籠祭。

起源は諸説・伝承あり

「祟神天皇の御代に、天皇の諸兄で、当地山城地方を任されていた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が、大和朝廷軍と戦い、敗北し、安彦命は非業の最期を遂げた。その後、数多くの戦死者の霊が祟り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。そこで、村人たちは齊みこもって、悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった」と、日本書紀に記載があり、このことが、いごもり祭の起こり、と伝わっている。

朝いちばんに集まってきた与力座の座衆。

境内に設えるとてつもなく巨大な松明作りが始まった。



ちなみに、「棚倉から見て西側にあたる木津川対岸に鎮座する祝園神社(ほうそのじんじゃ)にも、いごもり祭を斎行されている。伝説によれば、安彦命が斬首されたとき、首は木津川を越えて祝園まで飛んでいき、胴体が棚倉に残ったといわれる」

「祝園神社では、安彦命の首を象った竹の輪を祭りに用いて、涌出宮は胴体を象った大松明を燃やす」との説の他、「昔、鳴子川から三上山(さんじょうやま)から大蛇が出てきて、村人を困らせた。そこで、義勇の士が退治したところ、首は祝園に飛び、胴体が棚倉に残った」説もある。

いごもり祭は、“音無しの祭”ともいわれる。

「昔、村中の人たちは、家に居籠って、年乞い(※おそらくトシゴイと発音する祈年を、“年を乞う”の漢字に充てたのであろう)の祈りが成就されるまで、一切の“音”を立てなかった」、という。

現在は、「室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願(※予祝行事であろう)、春を呼び、村に幸せを招く、除厄招福所願成就の祭りとして大いに世人の注目と信仰を集めている」と、神社由緒書に記している。

祭りの最中は家内に居籠り、静かに終わるのを待っていた。

その居籠りを称して「いごもり祭(※居籠祭)」の名が付いたのであろう。

いごもり祭は、与力座による運営を中心に、古川座、歩射(びしゃ)座、尾崎座が参画して祭祀が行われる。



平成19年より日時改定された居籠祭の現在は2月第三土曜、日曜両日の2日間であるが、以前は、2月15日、16日、17日の3日間であった。

15日は、午後8時ころより、座の饗応になる門(かど)の儀に大松明の儀。

16日は、午後2時ころに、勧請縄奉納の儀。

17日が、午後2時から4時の時間帯に行われる座行事の饗応(あえ)の儀に御田(おんだ)の式の3日間であったが、改定された現在は、第三土曜の午前9時半より、大松明作り。

時間を経た午後7時半より始まる座行事の饗応(あえ)の儀に場を境内に移して行われる大松明の儀。

翌日の第三日曜に、座行事の饗応(あえ)の儀とお田植祭を詰めた2日間にされた。

これらの行事は、一般の人たちが観られる主たる行事であるが、秘儀とされる「森廻り神事」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」は他見をはばかる神事として、所作など、その一切を観ることは禁じられている。

その四ツ塚は祭祀後であれば拝見できる、と云われてそれぞれの場所を中谷宮司が案内してくださったことがある。

朝いちばんに始まった与力座の作業は大松明の調製である。



中谷宮司にお話を伺おうと思って声をかけた社務所・神楽殿の正面口に飾っていたヒイラギイワシ。

2月3日に行われた節分の印しであるが、ほとんどの人は気づいていない。

目の上にある年越しのまじないは神楽殿だけでなく幕を張った居籠舎にもある。



もちろん四脚門にもあるが、視線は上に向かないようだ。

その四脚門にもう一つ。

前年に架けた勧請縄がここにある。

ぐるぐる巻きにした勧請縄。

これもまた気づく人は少ない。

社務所に在して当番していた与力座の婦人たちにお声をかけて上がらせてもらった。

宮司は用事で出ているがすぐ戻って来られるとのこと。



その間に拝見した数々の供え物。

三方、折敷などにそれぞれを盛っている。

手前にある白木の造りものは4種。



榊の木で作ったマグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。

接着剤や釘は一切使わずに組み立てる。

ホゾ穴を開けて組む差し込み式で造った農具はノミ削り。

見た目も一級品の供え物は前週に作っていたそうだ。

右にあるのは松苗。

その向こうにもたくさんある稲の穂を模擬的に見立てた松苗は56本。

8本ずつに束ねた松苗の軸に紙片を巻き付けている。

文字なのか判なのかわからないが、奈良県内の模擬的農耕の御田祭で拝見したような護符と同じ形式だと思うのだが・・・。

左側に盛ったものは御田式で所作されるモミマキである。



たくさんの洗い米に紫、緑、黄、赤、白色の紙片が一枚。

もう一枚は細かく切った紙片は金色に銀色。

お米は玄米である。

戻ってこられた中谷宮司の所用は、兼務社の祭礼に出仕していたとのこと。

平尾に鎮座する中古川・西古川辺りに鎮座する春日神社に東古川に鎮座する春日神社。

アスピアやましろ(木津川市山城総合文化センター)の前辺りにある春日神社。

大字は平尾の小島に北河原堂ノ上や綾杉であろうか。

現宮司は与力座の一員でもある中谷勝彦宮司。

かつて涌出宮の宮司は中谷家、喜多家、大矢家、土屋家の4軒で廻っていたそうだ。

おじいさんがしていたという女性はこの年与力座一老のKさんの奥さん。

はっちょうなわて(※八丁縄手であろうか)の道にコエダメ(肥え溜め)があって、と言いかけた昔話は棚倉小小学校の生徒たちに話してきた。

コエダメはコエタンゴとも。

懐かしい呼び名は私が生まれ育った大阪・住之江の市街地にもあった。

大方、55年も前のころである。

冬になればカチコチになった表面。

他地区の子どもが学校帰りに遊びふざけてそのコエタンゴにのっかった途端にどぼーん、というかズボっと。

身体全体でもなかったから助かったが・・。

そんな経験は同年配者であればどこともあったようだ。

棚倉駅に市電が通っていて、神社に保育園もあった。

通いの市電の車中で勉強していた、という思い出話。

川越えに「いちひめさん、いちひめさん、いちひめさん」を3回言うて、渡っていた。

「春日さんからお姫さんが出てきて悪さするから、早よ帰ってこい」と云われた“いちひめさん“は市姫の地区であろうか。

さて、本題の大松明作り、である。

作業を始めてからおよそ1時間。

本体部分を束ねて崩れないようにする道具作りがある。

隣村の神堂寺地区の山から伐り出したフジツル(藤蔓)。

使用するのはフジツルの根っこの部分である。

大量に採ってきたフジツルが自生する山は知り合いの山。

了解を得て、伐りだして運んできた。

フジツルの根っこは冬の季節になれば、その存在がわからなくなる。

目印は咲いた藤の花。

5月から6月にかけて咲く藤の花。

その時季に山入りして目印を付けておく。

こうしておけば埋もれている根っこも見つけられる。

根っこは土の中。

掘り起こす作業はたいへんだし、細い根っこもあれば太目の根っこも。

巻きに利用する根っこを伐りだした本数は長短の差もあるが、相当な量である。

根っこはそのままでは使えない。

柔らかくするには槌が要る。



力を込めて打つ槌。

何度も、何度も打って柔らかくする。



皮を剥いだりして根っこを加工する。

使い方は結びである。

太く束ねて作る松明は61束の樫の木。

相当な量である。

樫の木のシバの本数は例年が61本であるが、新暦の閏年の場合は1本増えた62束となる。

なぜにシバは61本であるのか。

翌日に出合った菊約さんのブログによれば、神さんを山にお返す12月行事の森廻しと翌年の2月に迎えるまでの期間日数が61日というわけ。

旧暦の場合は“大“の月が一つ増えることなのだろうか。



力仕事は男の作業。

太さ3cmくらいの長い藤の木の根で締めて崩れないようにするが、見ての通りの機械道具の力も借りる。

ラチェット型万力だと思うがこのあたりは機械締め。

締めて広がらないようにして柔らかくした根っこで縛る。

心棒のような太い木は「アテギ」と呼ぶ。



この木も例年は12本であるが、新暦の閏年の場合は13本になる。

現在は新暦であるが、かつては旧暦であったろう。

一年の月数は12カ月。

旧暦の場合の月数は13カ月になるからだが・・。

旧暦閏年の間隔は2年→3年→3年→3年→2年の繰り返し。

その廻りの年が旧暦の閏年。

月数は13カ月。

明治時代になる前の江戸時代は旧暦であった。

今なお“13“の数で表すことがあれば、江戸時代にもしていた、ということになる。

先祖代々が継承してきた民俗行事に旧暦閏年を示す”13“があれば、江戸時代以前から、であるが、昨今は暦の本を見ることも少なくなり、誰しもわかりやすい4年に一度の新暦閏年に移す地域が増えつつある。

縛って崩れないようにしてから持ち上げる。

下部に這わせていた丸太は長い竿のようなもの。

作業初めから据えていた丸太を揚げて木材をかます。

空洞ができあがって竿は重さでしなる。

そうして空洞が広くなったところで細めの根っこを通す。

作業工程は毎年のこと。

職人気質のベテランの人たちが指図する根っこの締め方にも技術が要る。

力を合わせて引っ張り合う。

下部の木材はチェーンソーで切断。

不要な部分は伐り落として、周りの葉っぱも落として奇麗な形にする。

本体の重要なものができあがれば鉄骨で櫓を組む。

材料は仕事上で使っている鉄骨やチェ-ンブロック。

座中提供の道具は大掛かり。

崩れないように安全性を確保して組み立てたら引き上げる。



その状況を見守る座中の奥さま方。

鉄骨やぐらがなかった時代はどうしていたのだろうか。

たぶんに考えられるのが丸太の3本組。

その中央部にジャリジャリと音を出して引き上げるチェーンブロックを架けていたのだろう。



鉄骨やぐらの場合は足場もある。

これなら安心して作業を進められる。

全容が見えてきた大松明は垂直に立てるのかと思えば違って、斜めの状態で固定する。



最後に化粧と、いうか葉付きの樫の木を挿して埋めていく。

中木以下の葉付き枝を何本も何本も隙間に挿して埋めていく。



大松明の本体(※故伝によれば斬首された武埴安彦命の胴体)は奇麗になったこの状態で完成である。

作業はもう一つある。

昨年に賜った初詣参拝の際に授かった破魔矢や十二支絵馬を付けた矢に前年の居籠祭でたばった稲穂に御田式の所作を描いた絵馬付きの祈祷守護の矢などがある。



氏子たちの家々を守護し終えたこれらは今夜の大松明の儀において焼納される。

よく見れば柳の枝木に結んだ“瓢箪“もある。

その枝木には願い事を書いたと推定される短冊も結んでいた。

こうしてできあがった大松明の出番は、この日の夜である。

古川座に尾崎座(※中世から幕末まで参列することはなかったが、明治期になって参列し始めたものの再び中断であったが、平成5年に復帰)、歩射座を与力座がもてなす座行事である門(かど)の儀を終えてからである。

始まるころには参拝者で境内がいっぱいになる。

作業の合間に中谷勝彦宮司が見せてくださる「かぎ」。

「かぎ」は、「おかぎ」と「こかぎ」の2種類。

与力座の一老が作っておいた榊の「おかぎ」束。

御田式の座に参列される古川座(9束)、尾崎座(3束)、歩射座(3~4束)の座中たちに手渡す「おかぎ」の形に特徴がある。

よく見ていただければおわかりになると思う形。



短く伐った枝付きの葉茎。

その形はまさに「かぎ」である。

「かぎ」で思い起こす囲炉裏の自在鉤。

そう、鍋などを引っかけて吊るす道具の「鉤」である。

そう思えるのは「おかぎ」の鉤形状。

軸中央でなく、いずれも端に寄せており、その形状はまさに自在鉤である。

なお、「おかぎ」は座中一人ずつに手渡されるが、「こかぎ」はばら撒き用にしているようだ。

また、「かぎ」の中に一本の松葉を入れているそうだ。

また、最後の作業に一つ。

この夜に燃やされる大松明。

その松明火から移される小松明。

白衣を着た2人が、この小松明を転がすようにして四脚門にもっていく、と聞いたが・・。

それはともかく最後の調整である。



葉付きの樫の木を巻き付けて落下しないようにきっちり縛るロープ。

力を込めて作業を終えた。

なお、いごもり祭については祭りや座の調査当時に担当された若いころの中村彰氏の調査報告書ならびにブログが詳しい。

また、論文発表から縁が繋がり、昭和61年に京都府の無形文化財1号指定になった経緯も書かれている。

一つは、京都府教育委員会が1979年に発刊した『宮座と祭祀―棚倉涌出宮の場合 京都の田遊び調査報告書』。

また、映像記録された山城ライオンズクラブ・制作解説本の『天下の奇祭 いごもりまつり』もある。

もう一つに1986年に幻想社から発刊された『天下の奇祭 いごもりまつり-涌出宮の宮座行事』もある。

いずれも拝読していないが民俗視点などさまざまな視点で執筆されていると思われ、参考になるだろう。

(H30. 2. 6 SB932SH撮影)
(H30. 2.17 EOS40D撮影)

南山城村・北大河原の寒供養

2019年07月21日 08時45分41秒 | もっと遠くへ(京都編)
前身は120人もいた大河原稲荷会を継いだ寿稲荷会。

本来なら大勢いる会員みなが山行きできれば良いのだが、この年は会員のほとんどが服忌にあったことから、会長のYさんとお手伝いする孫さんの二人になった。

その手伝いが嬉しいという会長に奥さんも顔を出して手伝っている「山ちゃん」食堂がある。

息子さんが新規創業した南山城村・北大河原にある「山ちゃん」食堂。

仕出し料理に弁当、総菜などの移動販売もする。

元々は会長と奥さんが商売していた「山本食料品店」であったが、平成28年5月に新装開店された「山ちゃん」食堂である。

1時間ほど前に作った寒供養のお供え

オヤマ(お山)に持っていくのは御供さんのケンサキ。



形が特徴のある三角錐からケンサキと呼んでいるアズキメシ(小豆飯)。

三角のケンサキはキツネとも呼ぶ。

方や丸く握ったアズキメシはタヌキの名がある。

それぞれ12個ずつを収めたオカモチにもう一つのアズキメシもある。

これもまた1個ずつ。

やや大きめに握ったオコゲのアズキメシも。

山行きさんが持っていく御供は他に頭、胴、尾の3分割した生鰯に油揚げもある。

オカモチは二つ。

本来なら二手に分かれてそれぞれの組が供えるからオカモチが二つ。

この日は孫さんが手伝う2人組。

山行きに向かう先は2カ所。

行先の方角は逆方向。

1カ所に一つのオカモチ。

神社へ戻ってから受け取るもう一つのオカモチに持ち替えて再び山行き。

2方向に参ることになった。

まずは神饌を供えた寿稲荷社へ参拝する。

小正月のカヤススキを見せてくださった渋久のOさんとともに参拝する。



ローソクに火を灯して神事する祭主は会長である。

寿稲荷社は、もともとすぐ横にあった建物に住んでいた信者さんがセンギョをしていたという。

尤も「とうこうじさん(※東光寺)」の山に住んでいた人が稲荷社を祀ってくれ、と頼まれて建てたようだ。

センギョは施行。寒中に山行きし、山に住む獣たちに施しをする、いわゆる寒施行(カンセンギョ)である。

信者さんがカンセンギョをしていたころ。

Yさんのお爺さんとともに稲荷社を監理していたようだ。

その後かどうか曖昧であるが、地区にあった40人の稲荷講とともに行うカンセンギョも組織団体は、いつしか大河原の稲荷講に纏まった。

昭和42年に神社を建てなおし、翌年の43年に簡素な拝殿を建てた。

そのときの寄進者数はざっと120人。

ここ北大河原だけでなく南大河原に、隣村の大字堂仙坊、野殿からも少人数だが加入していた大河原稲荷会である。

信者数は徐々に減りだして、さらにはもっと減った。

信者数は時代を経てぐんと減ったが、寿稲荷会として再出発された。



そのような状況下であったが、お爺さんの時代からもずっと“オダイサン”を務めてきたというYさんである。

祓えの儀、祝詞奏上など、神事を終えて山行きに向かうが、“おなごし”は付いていくことはない。

山から戻ってくるまで神社で待つ。

当初、足が痛くて山行きは厳しいと云っていたYさん。

そろり、そろりの山登りになると思っていたら、ひょいひょい動く。

二人の後を追いかけるのも難儀な急坂。

ほぼ道なき道を登っていくが、なかなか追いつけない。

孫さんは御供を入れたオカモチを持って“オダイサン”の後につく。

山慣れしていることもあるが、若い孫さんの動きはきびきびしている。

急勾配の山行きに、先頭を行くYさんは幣を振りながら登っていく。

積もった落ち葉で滑り落ちそうなところばかり。

獣しか通らないような道なき道を登って、ふと停まる。

ここ、にと、周辺に生えている青葉をつけた木を枝ごと手で千切って地面に敷く。

御供は直接のおかず。

センギョに供える作法は昔から、そうしているという。

まずはお祓い。



センギョの場を清めてから御供をする。

オカモチからそれぞれの御供を取り出して葉っぱの上に載せる。

ケンサキことキツネ、丸いタヌキにオコゲのアズキメシ。



頭、胴、尾の生鰯に油揚げを供えてお祓い。



丁寧に低頭されて次の場に向かう。

距離的にはそれほど遠くはないが、獣道のような山道は歩き難い。



そこも同じように場を祓ってから、葉付きの枝を数本折って御供敷きを整える。



キツネ、タヌキに生鰯と油揚げを供えてお祓い。

祓った幣を立てて山道を下った。



本来なら、もう1カ所あるお告げの場。

ここより、もっと、もっと上の奥になる。

そこは「とうこうじさん」の名がある山の上のほう。

足の加減もあるし、この年は一人でもう1カ所行かねばならないから、ここ留まりである。

ちなみに廃東光寺は南山城村田山の華将寺とともに柳生藩主の墓があったと伝わるそうだ。

山を下って、一旦は寿稲荷社に戻ってから、次のお告げの場に山行き。

持ち替えたオカモチを手にして山行きするが、次も近場。



春光寺・国津神社の真裏というか、真上のような感覚に陥りそうな崖っぷちの坂道を登る。

服忌でなければ参拝人数は多かった。

2組に分かれていく山行きの場であるが、さっきよりかは急勾配。

雨天後であれば、まず滑って登れない崖登り。

「こちらは若手組に任してますんや」という“オダイサン”のYさんは77歳。

何度も登ってきた崖登りは滑ることなくするする登る。

ここでも同じように葉付きの枝を敷いて御供さんする。



そしてお祓い。

雑木林の中は暗い。



時間帯は午後4時40分過ぎ。

1月半ばの夕暮れは早いから懐中電灯を持っての山行きである。

ここからもう1カ所。

そこを最後にセンギョは終わる。



この年はここも2カ所にしたが、本来はここも、もっともっと登ったところに御供している、という。

距離は長くなるから、例年戻ってくる時間帯はもっと暗い。

道なき道の下りは逆に危険を生むから、慎重に下りてくるようだ。



山に住む獣に捧げるセンギョの行為。

ここ大河原は害獣だらけだという。

山では猿たちがギャッ、ギャッ、ギャッと叫んでいる。

シカ、イノシシ、ハクビシンもおるし、川には大きなネズミ、でなくヌートリアまでいるという。

寒供養とも呼んでいる寿稲荷会のセンギョはこうして終えたら、今度はイキガミさんへのご褒美。

お神酒をよばれて口にするイロゴハンにオードブル料理。



「御供作りをしていた本郷コミュニテイーセンターに慰労会の準備をしているから食べて行きや」と云われてありがたく同席する。

ここに座ってと上座にお誘い。

昨年、そして、ついこの前に取材許可をいただいた寿稲荷会役員の83歳のMさんが、山行きできなかった会員に紹介してくださった。

持ち込まれたオードブル料理は、現在はYさんの息子さんが経営している“やまちゃん”食堂の手作り料理。

イロゴハンも美味しくいただいた。



早く帰りたいが、あまりの美味しさにお代わりするイロゴハン。

大鍋で炊いたイロゴハンが旨すぎる。

かつては四つ足のもんしか食べたらあかん、と云われてきた。

だから二本足の鶏すきをしていたという。

ジュンジュンのっている魚も美味しい。

そのジュンジュンというのは油の音。

昨年は、とても寒くて雪も積もったが、今日は温かったから助かったという。

人数は少なくなったが、今もこうして寒供養を続けてきた寿稲荷会。

希少な行事、伝統を継ぐ人たちに感謝申し上げる次第だ。

また、来年も寄せてもらうことになりそうです、と云って席を離れた。

(H30. 1.15 SB932SH撮影)
(H30. 1.15 EOS40D撮影)