goo blog サービス終了のお知らせ 

マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

加茂町井平尾の勧請縄

2024年06月26日 07時19分23秒 | もっと遠くへ(京都編)
午前中に立ち寄り、取材していた加茂町銭司(ぜず)のオニの竿立て。

同行の写真家のK氏とともに撮影に魅入っていた。

初めて見た銭司のオニ。

その鬼は、立てた竿の先。

ひらひら風に泳ぐ様は、まるで凧揚げの足のように見える。

火点けは、午後の時間帯なために、一旦は離れるが銭司により近い集落に、勧請縄がある。

その縄を拝見しに移動した行先は、同町の加茂町井平尾(いひらお)。

実は、令和2年の1月10日に拝見していた。

だから、その場所は、鮮明に覚えている


コロナ禍の時代に、勧請縄は架けられているのか。



それを確かめたくて、立ち寄った加茂町井平尾に勧請縄があった。

どなたか、おられたら話を伺いたいと思っていた。

が、通りがかりの人には遭遇しなかった。



上空は、透き通るような青空。

白い雲が浮かぶ天に向けた矢が今にも射られるようだ。

(R4. 1. 8 SB805SH 撮影)

精華町菱田・春日神社の七草粥

2024年06月24日 07時49分51秒 | もっと遠くへ(京都編)
朝早くに、献供される七草粥の調えに支度される二人の宮守さん。

正月三日に続いて、この日の行事である七草粥にも伺った京都府・精華町菱田宮川原に鎮座する春日神社。

都合、午前9時過ぎに到着した、そのときは既に七草粥は献供を終えていた。

献供の様相をとらえたく撮影許可をいただき、数多く供えた七草粥の所在を確認した。

本社殿に、七草粥を供えた器は黒塗りの椀。

末社の小宮は四社。多賀神社・西宮神社に龍田神社と祈雨神社(※)の四社。

小宮は菱田に勧請した神さん。



ただ、祈雨神社は元々菱田にあった、と伝わっているらしく、かつて菱田に干ばつがあり、雨乞い満願した神さんでは、と推測した。



それぞれに七草粥を盛る器は白のカワラケ。

一杯ずつ供えた。

また、割拝殿のうち、御供などを調整する部屋、つまりは御供所があり、窓枠の空間の数か所にも供えていた。



特徴のある供え方に、初めて拝見したあり方に地域の暮らしを垣間見たような気がした。

菱田は宮座があり、現在は、本座に真座の両座が年交替にハリマトの道具を作る、という。

弓を射るのは二人の宮守さんらしい。

一年間のお勤めをする宮守さん。

とんど行事にハリマト行事を終えて、次の宮守さんに引継ぎするようだ。

もうすぐ一年になる宮守さん。

一人は、昭和26年生まれの本座のNさん。

もう一人が、昭和32年生まれの真座のIさん。

ハリマトについては、常に座の代表。

つまり、上位者である社寺総代の許可を得ないと・・・

宮守さん二人が勝手な判断で、取材許可はできない。伺いをたて、許可、承諾を受けるには、社寺総代に・・・

丁度、そのころに、神社に来られた代表寺社総代の昭和23年生まれのYさんに伺った、弓始式の件。

今度の1月10日に行う行事名は「ハリマト」。

えっ、「ハリマト」ってなんですのん。

思わず関西弁で、質問した「ハリマト」。

充てる漢字は、「張的」。

かつては「貼的」時代もあった、という。

的は、弓始式に行われる弓打ち。

的は、ハリボテ・・ではなく、的様式の三重丸の黒マトを書いた紙を貼り、綺麗に張って糊付けするから「ハリマト」。

これこそ民俗語彙例のひとつ。

矢を射る的つくりを、そう呼んできたのであろう。



その後に来られた方は、本座の一老を担っているAさん。

元消防署長のAさんは79歳。

詳しく話してくれた菱田の春日神社や年中行事のこと。

ハリマト行事を終えてから配っていた「トウビョウ」は、稲藁でつくる。

太さは8cmほどになる。

3段に括り、一番上を三つ割にする。

ハリマトの黒的は、オヒネリにして洗米を収めたものが「トウビョウ」だ、という。

その「トウビョウ」は、春の時季につくる苗代に立てる、と話してくれた。

そう、話してくれた一老のAさん。

なんと育苗のはじめに、手動式機械でモミオトシもしている、というだけに、是非とも10日の取材よろしくお願いします、と伝えたら承諾してくださった。

稲作は、神社行事に関連するしめ縄用途のモチ米も栽培している。

8月31日は、春日神社のしめ縄かけ。

10日ほど前に、青田刈り。

刈ったモチ米の稲藁は、小屋に収めて陰干し。

そのモチ藁を結って、綯うしめ縄つくり。

機会を設けて、一連の作業、特に苗代に立てる「トウビョウ」、しめ縄つくりにしめ縄かけを拝見したいものだ。

そろそろ御供下げをしますので、と伝えてくれた宮守さんのNさんとIさん。



御供下げの様相も、とお願いして撮っていた七草粥下げ。

およそ数時間を経て、神さんが食を摂った七草粥も下げる。

まずは、本社殿から。

代表寺社総代のYさんが、見てくださいと提示してくださった資料、平成30年2月発行の『精華町文化財宝典』によれば・・・



その本社殿は、社伝によれば、平安時代の前期・大同二年(807)。

奈良大和の春日大社から神を遷し祀ったことがはじまりとされ、天明元年(1781)、文政七年(1824)の棟札が見つかっている国指定重要文化財。

入母屋造りに、重厚に層を重ねた檜皮葺。

春日大社から神を遷し祀ったならば、社殿は若宮社伝を拝領した春日造りのはずが、屋根の上方が切妻で、下方が四方に勾配をもつ切妻造り。

軒を支える蟇股、正面階段にある昇り高欄(※てすり)の宝珠柱、階段下に透垣(すいがいなどの細部の意匠が優れている構造形式から室町時代の前期に建之(※再建であろう)されたものと判断したようだ。

社殿から下げた黒塗り椀に収めた七草粥。



膳もまた黒塗り。

大切な祭具に御供を下げまつる。



そして四社に供えた七草粥も御供下げ。

さらに、下げた窓枠の間に供えた七草粥も。



10日に行われる弓始式のことや、本日の行事、七草粥も拝見し、退出したそこに見た砂盛り。



なんと、いつの間にか、二人の宮守さんは正月を飾ったしめ縄も、門松も撤去していた。

面白いことに、門松を立てた砂盛りは、少し移動し新たな砂山に移っていた。

(R4. 1. 7 SB805SH/EOS7D 撮影)

精華町菱田・春日神社の正月三日

2024年06月19日 07時54分24秒 | もっと遠くへ(京都編)
正月三日のこの日に訪れた京都府・精華町菱田宮川原に鎮座する春日神社

昨年の令和3年の大晦日。

12月31日にも訪れていた菱田の春日神社


1月10日辺りにされている弓始式の日程確認もあって訪れた。

コロナ禍中だけに、年中行事も中止せざるを得ない状況になる可能性も考えられる。

その確認に立ち寄った正月三日も、二人の宮守さんが斎行される年中行事。

そう、大晦日から、今日まではずっと毎日が神社のお勤めをされる宮守さん。

初詣参拝に来られる氏子たち。

家族とともにやってくる。

この日に掲げられたのか、存知しないが、高札に別途掲示してあった内容は・・・

予定していたとんどは、急遽中止の判断。

大晦日までは実施の運びとしていたが、このコロナ禍に新型「コロナウイルス感染拡大防止のため、1月10日(月)のとんどは中止します! 社寺総代会」であった。

コロナ禍の状況に、精華町住民に罹患者がでたそうだ。

罹患者が一人でも発症となれば、リスクがある。

とんど焼き行事に多数の人が集まるのは、まん延防止に繋がらない、と元日に役員協議し、とんど焼きは中止とした。

断腸の思いに、この年のとんど行事は、やむなく中止の決断をとられた菱田の社寺総代会。

と、すれば同一日の10日辺りに行われる予定の弓始式も中止であるのか。

その確認にも、あらためて正月初詣を兼ねて立ち寄った。



初詣参拝に受付する宮守さん。

大晦日に見たコロナ対策の指示に従い、手指消毒に右側通行で参拝する。



本社殿に奉っていた二段積みの鏡餅。

階段右中段に数本の献酒。

そして手を合わせてコロナ退散を願うとともに家族の健康祈願。

本社殿参拝に合わせて、参拝した数々の末社。



正面の本社殿右に並列小社が二社。



正面右手は、すべてを覆った簾。

あげるわけにはいかない簾。

日差しがきつい西日を避けて簾を設けたのだろう。



そう思ったが、違った。

宮守さんの話によれば、ここは祭具などを所蔵している場。

いわば、それらを隠す扉の役目にそうしているようだ。

社殿左も同様の設え。

末社は四社だった。

10日辺りに行われる予定の弓始式の実施有無は、そのころにまた判断するが、その日より前に行われる7日の七草粥をしている、と・・

4日後の七草粥行事は、午前8時に参集され、なにかと準備を経て、七草粥炊き。

準備を調えてから、本日同様、本殿ならびに末社の四社に供える、と話してくれた。

ありがたいことに取材を受けてくださった二人の宮守さん。

当菱田には、かつて数座があった、という。

だが、現在は本座と真座の二座で斎行している、と・・

(R4. 1. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)

かつて鳥居、社殿に勧請縄をしていた精華町下狛本庄・春日神社に参拝

2024年06月18日 07時46分07秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府・精華町菱田宮川原の地に鎮座する春日神社の年中行事をネット調査。

その際に、出現したすぐ近くの神社。

所在地は、旧地名が「舟」。

近くの川に浮かべた船を動かす人たちが住む地区。

たぶんに、そう思えた地名考。

近くの川でいえば、煤谷川。

その川名は耳にしたことがある。

数年前の令和2年の1月10日。

春日神社の行事である弓始式について伺った日


春日神社前に流る川が、煤谷川(すすたにかわ)だった。

その煤谷川の東南辺りに該当しそうな精華町下狛本庄の地。

ネット調べであるが、その地の旧地名が「舟」。

舟集会所近くに鎮座する春日神社を訪問された方が、ブログに取り上げていた鳥居にかける勧請縄。

見事な造りの勧請縄。

鳥居にかけているから、しめ縄の判断もあるが、形態からして勧請縄に見える。

しめ縄そのものは、太く結った縄に、太めのわら束を据えていく形。

その数、多く13房。

まさに、旧暦閏年・大の月数にあたる一年間(※旧暦であっても、閏年でなければ12本)の月数である。

閏年の月数を示す時代は、近代でなく江戸時代以前。

明治時代のはじめに旧暦を廃し、新暦に移ったから、閏年13カ月の考え方が消えただけに、明確にわかる旧暦時代(※江戸時代のどこまで遡るのかはわかっていないが)の民俗。

特異な様式も見られた「愛しきものたち」ブログ

ずいぶん前になる2012年2月22日にとらえた民俗行事。

撮られた映像に身震いを覚えたくらい、特異な様式。

朱塗りの鳥居支柱に、からませようとしていそうなかけ方。

左右に一対かけ。

太く結った縄に組み込んでいる、と思われる葉っぱ。

植物はなんだろうか。

葉付きの枝を差し込み形成した勧請縄に歴史を感じる精華町下狛本庄・春日神社の行事。

「愛しきものたち」ブログによれば、同様の様式が本社殿にもかけられた状態をとらえていた。

なお、旧「舟」地名の認識は、精華町が挙げている「精華町域の木津川の渡し」が詳しい。

かつてそれぞれの地域に対岸まで往来する渡船業が成り立ち、つまり「渡し舟」があった
のである。

今日は、正月三日。

三ケ日の正月期間中であれば、勧請縄は、拝見できるかも、と思って訪問した。

ところがである。

「愛しきものたち」ブログが、アップしていた勧請縄が、見当たらない。

これは何事ぞ。

もしか、とすればだが、まず考えられるのがコロナ感染症対策である。

村の人たちの集まりに危惧。

コロナ渦中ではやむを得ない措置とみるか、それとも勧請縄つくりに材が集まらなかったのか。

つくっていた人たちが高齢化。

人の手も少なくなり、負担が大きい、と判断されての行事の中断。

この日、この時間に滞在していたが、ひとっこひとりも現れず、誰一人として遭遇しなかった。

正月期間中に、呼び出しするのも避けたい目出度い正月三ケ日に遠慮したが、参拝はしておきたい。

鳥居をくぐった正面に春日神社。



正月三日も白い神前幕を張っている祝い日。

神紋は、奈良大和の春日大社と同じく、下がり藤紋。

奉納者記銘の神前幕の寄進は、昭和四十七年拾月吉日。

秋のマツリに合わせて寄進されたのだろう。

拝殿前の柱に括り付けた門松。



割り拝殿に備えていたコロナ禍対策用途の消毒液。

そして、用意されていた撤饌。



たぶんに元日に催行された元旦祭に用意された撤饌であろう。

現在時間は午前10時過ぎ。

そのうち、家族そろって初詣をされよう。



元旦祭に奉った神饌。

二段の鏡餅などが見える社殿。



細めのしめ縄をかけていた。

参拝してから、じっくり拝見した下狛本庄・春日神社の狛犬。



特徴ある阿・吽の像。



どこかで見たような、ないような。

FB知人のMさんが、ときおりアップされる特徴ある阿・吽の像に見た顔。

にやっと笑う阿吽の二体に、思わずシャッターを切った。

奈良市のならまちにある鎮宅霊符神社に笑う阿吽像があるが、比較するとまったく異なる。

印象というものは、不確かなものだと再認識した次第だ。

(R4. 1. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)

北稲八間・中垣内のおしょうらいさん迎えの線香立ては花挿し飾りの砂造り

2024年06月10日 07時48分01秒 | もっと遠くへ(京都編)
滋賀県の伝統行事を主に取材してきた写真家のKさんが、奈良・大淀町大岩の地に写真展をされた。

会場は、平日だけが営業の喫茶きまぐれや。

大岩の神社行事撮影に応援してくれた写真家のKさん。

当時、身体がどうにもこうにもの状態に、大いに助けてもらった。

そのことがあって、Kさんも私同様、平日だけが営業の喫茶きまぐれや会場をお借りして写真展をされた。

そのときの作品展示を拝見し、いくつかの行事を拝見したくなった。

その一つが、12月8日の「熟柿祭」と呼ばれる地域行事

祭事の場は、三重県名張市大屋戸(おやど)に鎮座する杉谷神社である。

是非とも拝見したい、もうひとつの行事は、地域行事。

お盆迎えの行事だから、暑い夏の8月13日。

場所は、京都南部の相楽郡精華町・北稲八間(きたいなやづま)の地区に住まう家々によって行われる習俗。

各家の門口に砂の台を設え、ご先祖さんを迎える形式。

きまぐれや写真展に見た映像。

ほぼ同じような形式を他の地区で見たことがある。

そこは、忘れもしない京都南部。

木津川市の鹿背山(かせやま)。

取材日は、先祖送りであるが、砂盛り
の考え方は同じであろう。

東に鹿背山。

西が北稲八間。

両地区は、まま近い位置にある。

しかも、どちらとも背後に山。

その麓に住む人の動きが、暮らしの文化、民俗をもたらし、相似的な関係性を生んだ、とも考えられる。

さて、生憎の精華町・北稲八間の8月13日である。

令和3年8月13日に発令された洪水警報発令地域は、京都市内、宇治市、城陽市、京田辺市、井手町、宇治田原町。
大雨警報発令地域は、京都市内、亀岡市、南丹市、宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、久御山町、井手町、宇治田原町、木津川市、笠置町、和束町、精華町、南山城村まで。

広範囲に亘る警報発令地域。

各家が、それぞれに行われるその日の習俗に警報が発令された地域。

酷くなれば避難をともなうかもしれない先祖迎えの8月13日。

もしかとすれば、中止?の決断も想定される警報発令。

コロナ禍による不適応判断でなく、大雨などによる注意報。

警報発令が気になる秋雨前線の動き。

警報を発令されていても、雨、風が荒れていない場合もある。

悶々と待っているよりも、車を動かせば、屋外の状態が肌で感じる。

どうされるのか、雨量も心配であるが、とにかく行ってみよう。

到着した時間は午後2時。

風は吹き荒れる、とまではいっていない。

草木が揺れることもない、弱い風だが、雨はやまない。

実は、北稲八間の集落地図を予め見ていた。

写真家のKさんが、事前に送ってくれた資料地図。

地区北に八幡社。

後に取材することになった北稲八間の鎮守社の武内神社もある。

寺院は繁昌寺に福林寺、観音寺(※)、十王堂などがある。

その地図に①から⑧までの印を入れている箇所がある。

そこが、おしょうらいさんを迎えの場であろう。

自宅を出発、午後2時過ぎに到着した北稲八間。

雨はまだまだ降るだろう。

車から降り、歩いて探すその場めぐりは、ちと難しい。

仕方なく、取り敢えず、であるが、この筋であろう、と思った集落道。

時間に余裕があるこの時間に、集落西外れに落ちつく。

雨やみ待ちの時間を設けたが、気もそぞろ。

他の地区も見ておきたい集落巡り。

念のために確認しておきたい南の集落は、まったく動きがなかった。

再び、北上し集落を南北に貫く村の道。



数分後に見つかった場に、これがそうだろ、と判断した砂を盛った状態。

まだ、花のない午後2時半の様相。

降り続く雨に濡れた砂盛りを撮った一瞬の数秒間。

身体が冷たく感じた雨降り。

再び、車を動かした。

近距離に見つかったここも砂盛り状態。



玄関前に据えられたそれ以上は見当たらなかった。

集落道の四ツ辻。



見ての通りの土砂降りである。

降りることもできないこの場は、精華町の谷区。

左折れした狭い道の集落をぐるぐる。

時速5kmのとろとろ巡りに神社や寺の所在地を確認してきた。

結局は、ぐるっと一周して戻ってきた。

すぐ近くに広地がある。

ここは、北稲八間集会所の駐車場。



停めた位置からでも見える石標に「延宝四年(1676)建之 観音寺遺址」。

観音寺は、明治四年北稲八間村小学校を建築するため、この地にあった観音寺の本尊の行先。

明治初年に廃寺となった岡本寺に、安置していたご本尊並びに諸仏像・什器を移した




詳しくは、平成30年7月に立てた「観音寺跡」解説を参照のうえ、北稲八間の案内図に沿って寺院・怱墓巡りをされるのも、佳かろう。



なお、この地図は、右行きが北の方角。

観音寺跡へは西南の方角になるので、注意されたし。

この場に滞在していた午後2時50分。



四ツ辻の角地に建つ民家に人の動きを目撃した。

建物の真ん前に流れる水路。

おそらく山の方にある農業池からの水流であろう。

ごうごう流れる水路と建物の間に据えた野菜などを苗ポットを並べる用途のトレーに・・・砂。。

そこに盛った砂山。

山は綺麗に平坦状態にしていた農業・園芸用途の育苗トレー。

これが、おしょうらいさんを迎える場であろう。

土に被せるように真砂土で覆う。



その作業をされている動きを見て、慌てて開けた車のドア。

カメラを手に、小走り。

傘をひらく動作がもどかしい。

門屋を出たすぐそこに砂モチされるご婦人に緊急取材をお願いした。

主旨を伝えて了承してくださった婦人。

昭和8年生まれの「88歳の姑さん、とこれからしますので・・」、に、千載一遇のご縁に感謝する。

「うちは遅い方ですが・・」、といいつつトレーに真砂土を入れていた。

これから準備しますので、と伝えられて、十数分待ち。



老人車を押してきたおばあさんが「お嫁さんです」と、いった婦人の手には2枚のかまぼこ板。

なるほど、である。

真砂土を均す道具はかまぼこ板。

十分に役立つ。

おばあさんは、家で栽培したお花をバケツに入れてきたが・・

家屋・軒下での作業では、雨に打たれる。

雨がかからない門屋に移動し、砂盛りを成型されるお嫁さん。



ここなら雨にも濡れることなく、安心して作業ができる。



慣れた手つきで、二人仲良く、おしょうらいさんに花生け。

四方に階段をつくり、摘んできた自家栽培のお花を綺麗に並べる。

摘んできた花の枝切りは、長さをとって鋏を入れるおばあさん。



お嫁さんは、綺麗に並べる花挿し。



「赤や、黄色ばかりの百日花では、見かけもねー・・」、と、いいつつ、白花のトルコギキョウも、追加した。

グッドデザインの花挿し。

この日に迎えるおしょうらいさんも喜んでくれはる迎えの花挿し。



えー感じでできあがった。

「いつもなら、道向かい側にある消防団倉庫前の地に、直接作るのですが、こんなけ降る雨には、場所替えするしかない・・」、と緊急対応したおしょうらいさん迎えの場。

今年は滅多にない大雨。

たぶんに初めてだ、と・・・

「夕方になれば、線香3本に火を点けて、おしょうらいさん迎え。3本のうち、火の点いた線香、1本だけ持ち帰って仏壇に火移し。縁側に無縁さん。ササゲ入りのおかいさんを供えています」、と話してくれた88歳のTさん。

突然の訪問取材に、これ以上迷惑をかけては、と判断し、失礼した。



後日に訪れたときに話してくれたお嫁さん。

先日来の猛暑に身体をくずしていたようだ。

短時間の取材にご協力いただき、この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第だ。

砂モチに花挿しをされている時間帯なら、他所にも見られる可能性が高い。

再び、通りに入って見つかった階段もある砂盛り。



花も挿して、飾っている。

土砂降りの雨に、傘をさしていても背中から腰にボトボト落ちる雨。

ズックもボトボト状態に体力は、ますます消耗するばかり・・・

当初に巡ったときには、なかった位置に砂盛りが見つかった。



時間経過に、強い雨降り。

砂盛りは角がとれ、緩やかな形状になっていた。



周回して、また見つかった花挿したおしょうらいさん迎え。

再び駐車場へ。

車を近づけて窓越しに見たT家の砂盛り線香台に赤い火。

そういえば、お嫁さんのTさんが云っていた件。

「うちは食事前に線香立てますが、ご近所の皆さんは頃合いを見計らって線香をするようです」、と・・

えーーーっ、まさかここだ、とは・・・

大急ぎで車を停めて、線香灯しを拝見した午後4時。

どなたかわからないが、線香はもう立てていたのだ。



時間経過に灯した線香は5cmもないほどに短くなっていた。

なんとか火は撮ったものの、煙がたたなくて・・。

そこに、門屋から顔をだしていたご近所の男性に、名刺を渡して挨拶した。

「Tさんとこでしているの、なぜわかったんや・・」と、おっしゃる男性。

1時間ほど前に、初めてお会いし、取材許可をもらって・・・、と状況説明。



その男性曰く、大雨だからか「今日は、もうやらんとこか、思ってきたが、これならなんとか、線香の火点けはできそうやな」、といいつつ持ってきた線香に火を点けて、花飾りの線香台に立てた。

さっと抜いた1本を手にして、すぐさま戻って行かれた男性。



その時間帯、その様子を見ていたか、どうかわからないが、乗用車に乗ったまま、様子伺いの車が2台。

通過していた。

たぶんに、様子をみて、お家に戻られてから線香を取りにいったかもしれない。

この通りのご近所さんは、T家が設えた花挿し線香台を公認利用されているのだろう。

時間帯は午後4時15分。

見納めに、と思って、数十メートル西にある西山浄土宗寺院の太陽山阿弥陀寺

花挿しの際に話してくれたお嫁さんのTさん。

「お寺さんもしてはるし、ご近所の人も線香立てに来ると・・」、聞いていた太陽山阿弥陀寺。

このときの雨降りが、いちばんえげつない状況の土砂降。

水路の水は、あっという間に増水状態。

流れは早く・・・“ここに落ちたら、あっという間に流されてしまうやろな”、と・・・ひやひやしながらの駐車。

阿弥陀寺さんは、自転車もおける屋根付き駐車場下に設えていた。

傘はもたなくても、雨がかからない丈夫な屋根付きの花挿し線香台。

ただ、冷たい風が吹けば、心底、身体は冷たく・・・



気力で撮らせてもらったおしょうらいさんがやってくる印の煙に・・・ほっ。

帰りに、念のためと思って、最後の通り抜け。



砂盛り状態だった2カ所にも花挿しが見られた。



お寺さんを入れて5カ所にされていた花挿し線香台。

午後4時半に、撤退した北稲八間・中垣内のおしょうらいさん迎え。

これほどの大雨であっても、また未だコロナ渦中でもあるが、先祖さんを迎えるお盆の習俗は、とめるワケにはいかない。

北稲八間を離れてからだろうか。

夕方のニュースに京田辺、井手、に洪水警報を発令していたようだ。

昨日、今日の雨降りに広島や九州長崎、佐賀、福岡が記録的な大雨に見舞われている。

西日本どころか東海地方の各県も避難指示。

奈良も雨だが、住まいする地元、大和郡山辺りは落ち着いていた。

昭和8年生まれのTさんが嫁入りした北稲八間辺りの地区。

昭和28年8月は大災害を受けた、と話していた。

「亡くなった叔父の新盆のころやっただけに、はっきり覚えている」と、話していた。

記憶に残る大洪水。

木津川が氾濫し、ここら辺りの一面すべてが、海のようだった、という水ツキ。

Tさんが育った地は、ここ北稲八間より北になる高台地域。

「狛田、宮脇から見ていた木津川の大洪水に、恐ろしさしかなかった」。

後年に公表された「南山城水害」は昭和28年8月14日から16日にかけての災害

その後の9月25日。伊勢の志摩半島に上陸した台風13号がもたらした大災害は、さらに追い打ち。

Tさんが67年前に体験した記憶力が凄いと思った。

なお、さらに詳しい研究ノート『災害記録史料』があったので、ここにリンクしておくが、ロードに多少の時間を要する。

(R3. 8.13 SB805SH/EOS7D 撮影)

コロナ渦中であっても、円形の砂撒きを継承していた精華町祝園の民家

2024年06月04日 07時44分56秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府相楽郡精華町菱田。

コロナ対策中の春日神社で行われる年越し大祓。

宮守さんの御供あげを見届けて
、ハンドルをにぎった。

行先は、隣接する村落。

1月に行われる神事ごと。

「いごもり祭」行事をされている地域。

精華町の祝園(ほうその)。

年中行事に子どもたちが囃し立て中地区を巡る「二月節句の年越しおんごろどん」も取材した。

また、「いごもり祭」の際に受け取った稲籾を添える苗代の水口まつりも。

しかも、中秋の名月に子どもたちが集落を巡り、かつては月見団子、現在はお菓子を盗ってくる村公認の行事。

まさか、祝園にお月見どろぼうの行事が行われていたとは・・・

さらに、取材させていただいた大晦日にカドニワに砂を撒く習俗も記録した。

その砂撒きは、西北地区に限られ、今なお継承している民家は、ごくわずか。

平成30年に訪れ、数軒のお家がされている、とわかった。

あれから3年。その後も継承されているのか。

その確認に立ち寄った祝園の西北地区。

お家はどのあたりか、記憶に新しい。

確認がとれたお家は2軒。



馬場脇に住まわれるNT家。

また、同じく駐車場に大きな円を描いていたNM家。

午後3時過ぎの時間帯に表敬訪問したいが、久しぶりの対面に会話が長くなるかも・・

そう判断してお声をかけずに失礼するが、まだ見ておきたい大晦日の民俗。

地元、奈良県に戻り、次の行先に向かった。

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

精華町菱田・コロナ感染症対策中、春日神社の年越し大祓

2024年06月03日 07時42分15秒 | もっと遠くへ(京都編)
時間が丁度合えばいいのだが・・・

正月行事を調べていた京都南部地域。

御田祭や、ケイチン行事ともいわれる弓打ち行事。

さらにはお寺行事のオコナイなども調べたい。

奈良にいちばん近い位置にある京都南部。

奈良の行事、習俗からみて京都南部の類似例を探していた。

ネットに見つかった京都府相楽郡精華町菱田・春日神社。

弓打ち行事がある、と・・・

1月10日あたりにされるのでは、と推測して出かけたが、終わっていた
ようだ。

今日は大晦日の31日。

どなたか、氏子らがおられたら尋ねてみよう。

それぐらいのつもりでやってきた精華町菱田・春日神社。

到着時間は、午後2時過ぎ。

所定の駐車場に停めて、参拝兼ねる行事調査。

ここ菱田・春日神社には、砂もちとか砂撒きは見られなかった。



注連縄は、門松飾りに固定した葉付きの竹に、藁で包んだ竹に取り付けた形式。

これまで、私が調べた範囲内であるが、珍しい形態である。



さて、この藁を束ねたしめ縄。

昨年の令和2年の1月10日に訪れたときに見た祭具の残欠

なるほど、このような形態でしめ縄をかけていたのだ。

理解できるしめ縄であるが、ほんに珍しい。



振り返り、見た手水鉢。

コロナ感染症対策に使用を禁ズ。

どこともでもないが、あるところにはきちんと抑えている手水の停止。

大勢の買い物客がやってくるスーパーやコンビニエンスストアなどの施設もまた、手洗い場は使えるが、洗った手を乾かすハンドドライヤーも使用禁ズ。

これでないといけない、ということではなく、それぞれ施設の判断。

その、手水鉢に刻印あり。



「文化十二年(1815)九月」は、奉られた日付け。

今から207年前。

寄進された人たちは、当時の若者。



今でいえば青年団或いは若者組だと想定される菱田の「若中(※他所では若連中表記もある)」。

「手指の消毒」は、神社備え付けの手指消毒剤。

そして、参拝は右側通行。



必要最小限のコロナ感染症対策に手を打っていた。

午後2時半、白衣を着用していた二人の宮守さんが動いた。

午後3時から行われる神事の前にしておく御供あげ。



これよりはじまる祭典は、年越しの大祓えのようだ。

御供あげされた宮守さんに、挨拶申し上げ、尋ねた弓始式の日程。

「基本、1月10日の実施であるが、村行事のとんど焼きの火番に消防士が待機せなあかん。その日が出初式に重なると、消防士は出初式に参加しないといけない。だから、菱田春日神社としてのとんど焼きができない。その対応に、令和4年は1月9日が出初式、と決まった。弓始式は、1月10日の成人の日になると思うが、確定的なことは本日、資料を持ち合わせていないからわからない」、と伝えられた。

ちなみに、本日の午後3時ころに来られる女性の宮司。

年越しの大祓えに御湯立神事をされるのだろうか。

夕刻時間が迫ってくる午後3時前。

見届ける時間の余裕もなく、ぎりぎり時間。

京都南部地域の調査はもう1カ所ある

そちらを優先したく車を出した。

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

木津川市加茂町銭司・民家の砂撒き

2024年06月02日 07時17分45秒 | もっと遠くへ(京都編)
昨日の午前中に訪れた木津川市加茂町銭司。

氏神社・春日神社の遷宮仮宮期の砂撒きを拝見していた。

その場におられた氏子のひとり。

我が家でも同じように方形格子状仕様の砂撒きをしている、と話してくれたIさん。

おっと、この機会を捨てるワケにいかない貴重な暮らしの民俗。

かつて銭司(ぜず)では、24軒の家々がカドニワに砂撒きをしていた、という。

木津川河川にあった綺麗な砂を採取。

袋に詰めて軽トラに載せる。

家まで運んでいたが、現在は真砂。

乾くと白くなるが、購入した状態では水分を含んでいるので黒っぽい真砂。

春日神社は30日だから、お家に砂を撒くのは一日ずらした大晦日に行っている。

本来なら午前中に撒いていたのを、私たちの取材に合わせて大晦日の午後1時にしてもらった。

格子状に砂を据える。

肩にかける肥料置きに用いる道具に砂を入れて玄関前に砂撒き。

ニワツチ(※庭土)がある場に、砂を撒く。

石畳とか、コンクリートの場に砂を撒けば滑ってしまうので危険。

だから土にあるところだけに砂撒きをする。

格子状に象るのは、迷って神さんが住まいする社殿に入り込まないようにする仕切り。

魔が入らんようにするのが役目の砂撒きは、お家でも同じ考え。

いわば清めの砂であり、神さんの領域でもある印し。

お家に魔が忍び込まないように砂を撒くなど、砂撒きに関する貴重な話題を伝えてくれた。

さて、お忙し大晦日に伺った加茂町銭司に住んでいるI家の砂撒きである。

昨日もご一緒していた写真家のKさん。

待ち合せ時間を決めていた。

場所は、このあたり。翌年の正月は明日。

3日後に行われる行事の取材に、村指定の駐車場。

来られるまでのちょっとした時間にふらりと・・

そこに見た民家の井戸。

まさか、目を疑ったその井戸に、しめ縄飾りがあった。

旧村に暮らす人たちのすべてではないが、お家によっては、屋内のみならず屋外施設にもしめ縄を飾る。

もちろん、屋外トイレやガレージ、農小屋などなどの箇所に多くのしめ縄を飾っている。

しめ縄は、やや小ぶりの小〆縄。

井戸も暮らしを支えるお家の設備。

あるお家は、井戸は神さん。

供えるのはお家と同じ。

井戸に神棚を祭るお家もある。



これこそ暮らしの民俗だ、と判断し撮らせてもらった井戸神さん。

そうこうしているうちに時間も・・

どうやら、約束いただいているI家に向かったようだ。

ここから山の方に向かって走る。

くねくねする山道。

細い山道は、茶畑もある。

お家が数軒見られた、そこがI家だった。

写真家Kさんと合流し、今日の取材によろしくお願いします、と当主に挨拶。

そろったところでしましょう、と青いバケツ。

肩にかける肥料置きに用いる道具を置いてあった家屋の壁に、なんと・・



今では使うことのない農具がそこにあった。

かつて農耕の主役は牛だった。

家族同然とみていた働き牛が曳いていた唐耒(からすき)である。

昭和30年から40年代はじめのころまでの農耕は、働く牛が主役。

東海道新幹線の開通。

東京オリンピックに大阪万博の時代に人々の暮らしは大きく転換した。

農家さんの暮らしの民俗は、牛から機械化した耕運機に入れ替わった。

つまりは、世の中みんなが文化的な生活に暮らしぶりが変化した時代。

牛のいない農具は博物館行きもあれば、廃棄。

生きてきた暮らしの道具は愛おしく、こうして保存されたI家の所有の文化財。

なんせ、古墳時代遺物の発掘調査に出土していた事実がある唐耒(からすき)。

原型は、そのときから大きな変化もないスゴ腕道具だけに、ずっと眺めていたい唐耒(からすき)は、了解を得て写真に収めた。

その下に見た干しもの。

竹編みの籠においた白い餅。

正月の餅に見えたが、そうではなく真っ白な肌の大根。



大きく包丁を入れた乱切り大根。

干すテーマにこれも撮らせてもらった。



そしてはじまった砂撒き作業。

乾いている真砂(まさご)を肥料置きバケツに入れてカドニワに運ぶ。

玄関前には、すでに立てていた門松。

一対の門松それぞれに砂撒き。



一本の筋を引くように撒く真砂。

肥料置きバケツから一握り。



それをカドニワに撒いていく。

撒くというよりも、落とす作業に見える砂撒き。



門松の幅に合わせて撒いていく直線的な砂のカタチ。



垂直に、そして水平に撒いた砂は格子状のカタチ。

前日は、氏神社の春日神社の境内と同じように・・・



面積は、神社境内よりも狭いが、ここI家に年神さんを迎える場を調えた。

同行の写真家Kさんが記念にと、当主のIさんを撮っていた。

傍で私も撮らせてもらった記念の一枚。



この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第だ。

砂撒き作業は、およそ15分。

去り際に拝見した茶摘み道具。



おそらく現役の竹編み籠。

翌年もはじまる茶畑栽培に活躍が見込まれる。

そして、この日から3日目。翌年の正月3日に行われる村行事。

春日神社の遷宮仮宮期の勧請縄かけに再訪した際に、再びお逢いしたIさん。

この正月の三日間。

門松の松の上から”けんぎょ”と呼ぶネコモチ或いはカレーパンやラグビーボールのような形の餅を薄く切ったヒラヒラの餅を、上からぱらぱら落としながら、こう囃した。

「としとくさん としとくさん としとくさん・・・」と、ひと摘まみなくなるまで唱える。

としとくとは歳徳さん。

その年の福徳を司る神さん。

来訪神は年徳、歳徳、正月さんでもある、と話してくれたお家の習俗。

数々の民俗事例を記録してきたが、その作法は、初見聞き。

また、I家にお伺いできますように・・

(R3.12.31 SB805SH/EOS7D 撮影)

木津川市相楽西ノ宮・旧村社九頭王神社の正月迎え

2024年06月01日 07時39分11秒 | もっと遠くへ(京都編)
木津川市吐師(はぜ)。

正月迎えの簾しめ縄かけのあり方や、円形に撒く砂撒きがあるとわかった吐師(はぜ)に佇む大宮神社。

訪れて、新たに知った地域の伝統


午後2時なら、他所にも見つかるかも、と帰路の道中に立ち寄った神社。

その神社は、一度拝見したことがあるが、正月迎えはどうされているのか。

存じていた写真家Kさんが運転する車についていった。

どこを、どう巡ったのか。

知らず、知らずの短い行程に到着した地は、吐師と同市にある木津川市相楽(さがなか)の西ノ宮。

到着した時間は午後2時30分。

鳥居の両サイドに立てた祭りの高張提灯は御神燈。

晦日の30日に御神燈があるなら、氏子さんもおられるだろう。

そう判断して、登っていった石造りの階段。

しばらく登って振り返る鳥居の方向。



なんと奥ゆかしい石畳。

周りに見える苔むしさ。

一方だけに設えた手すり。

神社参りに、少しでも安全性を考えた配慮である。

本社殿が山にある地域の神社は、どことも急坂。

高齢者にとっては必須の介助用具。

石段を登りやすくするために、手すりを備える地区は多い。

取り付ける位置は、左右1対でなく、片方だけ。

或いは幅が広い参道であれば中央に設計する場合もある。

それにしても、この石畳参道は感動する。

この佇まい、この風情。

他所では見られない景観に魅せられた。

石畳を登り詰めた位置に中段があり、さらに登る石造りの階段。



その向こうに見えるのが、本社殿であろう。

幕を張っているから、そうに違いない。

神紋は橘紋。

ふと、浮かんだ橘諸兄は葛城王。

橘氏の祖先にあたるが、あくまで憶測の域・・・

すぐそこに賽銭箱があった。



珍しく、賽銭箱に墨書文字がある。

「曽根の山 森のこだちも 静かなり 心やわらぐ 九頭王の神」。

この山は曽根の山。

鎮座するは、九頭王の神


おそらく水を司る神さんではなかろうか。

カーナビゲーションにあった神社名は西宮神社であったが、旧社名は九頭王神社であったろう。

そこでお逢いした二人の氏子。

お二人は、氏神社を守護する宮守さんだった。

今から、しめ縄をかけるから、と云われて撮った映像。

冬場の午後3時は、ほぼ暗い。



撮影にストロボを焚かせてもらった手結いのしめ縄かけ。

なんでも、60年前は集落に砂を撒いていた、という。

まさかの情報が、この地でもされていたのであった。

採取地は神社裏手の山の赤土。

土がなくなったのか、地の道はアスファルト舗装に移った。

そのため、砂を撒くと滑りやすくなった。

滑る人たちが続発したか、どうかまでは存じないが、そのことは明らか。

滑って怪我でもしては、危険と判断し、砂撒きは消えたようだ。

そのことは、よくわかる。

私が暮らす奈良県大和郡山市。

市内に数か所の地域は今でも砂を撒いているが、現在は、氏神社から鳥居あたりまで


神社の前は、アスファルト舗装に移った。

ここ西宮と同じく危険と判断。

それからは、集落までは撒かなくなった。

お忙しく調えていた宮守さんにお礼を伝えて階段下り。

鳥居付近に建っていた石標。

刻まれた文字。



「昭和二十年四月十六日社名改称 九頭王神社改め西ノ宮神社となる」と、あった。

昭和二十年四月と、いえば戦時末期。

男たちは戦地。

地区の男たちは、おそらく少なかったであろう。

そこで決めた人たち。

年齢はいくつぐらいだったのだろう。

それにしても、石標は綺麗。

近年に建てられたと思える新しさだった。

ちなみに、その西宮神社にお神楽をしているようだ。

月はじめに行われるお神楽所作は巫女がされる


(R3.12.30 SB805SH/EOS7D 撮影)

木津川市吐師・正月迎えの簾しめ縄かけ・丸型砂撒きを終えた大宮神社に満願お礼参り

2024年05月31日 07時57分05秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日の午前中は、写真家のKさんとともに、同行取材していた。

これまで、幾たびか訪れては、拝見していた京都府木津川市加茂町銭司の・銭司(ぜず)宮小谷に鎮座する春日神社。

正月迎えに設える砂撒き作業。

氏子たちが、みなそろって整える境内一面に撒く砂の筋。

すべてが格子状態の撒き方だった。

実は、拝見していたのは、砂撒きをした後だった。

平成30年は1月6日


令和3年は1月3日に拝見した格子状の砂撒き。

併せて拝見した勧請縄もまた格子状に編み上げる様式に感動していた


氏子たちの作業は、どのようにされるのか。その状態を拝見したく、写真家Kさんのお奨め取材を了承した。

宮司を勤める中岡宮司は岡田国神社の宮司。

ここ銭司の春日神社も兼務されている、とわかり承諾を得て村行事を取材した。

お昼の食事を済ませて、さて午後はどちらへ。

私が訪れたい神社は、銭司より西方の地にある木津川市吐師(はぜ)宮ノ前に鎮座する大宮神社である。

大宮神社にはじめて訪れたのは、昨年の令和2年の正月過ぎ。

1月10日に訪れた目的は、御田祭の調査
であったが、どなたにも逢えなかった。

ただ、簾型のしめ縄の確認はしたが、鳥居から下して座小屋の床下付近に置いてあった状態。

それだけでも十分な調査になったわけだが、今日は12月30日。

もしか、とすればその簾型しめ縄が拝見できるのでは、と思って車を走らせた。

到着時間帯は、午後1時過ぎ。



な、な、なんとな遭遇である。

簾型のしめ縄も架けているし、神社下の道に、数多くの砂撒きが見つかった。

そのカタチは、すべてが円形から円形をつないでいく形態であった。



この形態は、同じ京都南部の民家の習俗に拝見していた同様の様式である。

取材地は、木津川市山城町・上狛(かみこま)。

平成28年12月31日の取材先はO家

終えてすぐさま取材したご近所のM家もまた同様の円形様式

砂の撒き方は、まったく同じ。

本日、拝見した吐師(はぜ)も同様の円形仕様。

加茂町銭司(ぜず)・春日神社は格子状仕様。

地域が違えれば、仕様も異なる、ということだが、2例だけでは判断できない暮らしの民俗である。

砂撒きの痕跡から、おそらく午前中に済まされたのだろう。



素晴らしき伝統を拝見させてもらった吐師(はぜ)の大宮神社に参拝する。

ふと、狛犬の下を見た視線にあった賽銭玉。



銅貨の十円玉を捧げたのはおそらく参拝者であろう。

本社殿右の建物。

たぶんに社務所と思われるが、軒下から吊っていた果物は干し柿。



熟し具合から判断した干し柿。

そろそろ食べどきか。

あくまで可能性か、の話であるが、この干し柿は、神前に供える鏡餅に飾る縁起物では・・

「中にこにこ睦まじく」の呼称もある10個の干し柿を串に刺した串柿にするのでは、と思った次第。

撮影していたそのときである。

一人の女性が参拝された。



拝礼する前に拝殿前においたお酒。

参拝を終えて伺った女性,Uさんの話によれば、目出度い祝いの奉納。

息子さんが、司法書士試験に合格したお礼である。

母親は、合格祈願に、ここ大宮神社に参拝し、願掛けしていた。

その結果、息子さんが合格した。

つまりは願満お礼に奉納した献酒であった。

そうこうしているうちに、また一人の女性が参拝していた。



その女性、Tさんは高校生。

実は、と話してくれた女高生。

空手の全国試合に優勝したので、お礼参り。

ずっと一人で、大宮神社に参拝し続け、願掛けしていた結果が優勝に繋がった。

ほぼ同時刻に満願のお礼参り。

ここ大宮神社は願掛けの来訪が多い、とみた。



去った跡にみた狛犬・牛像に、小銭賽銭が増えていた。

いい場所に、いい神社。



そして出合えた満願お礼の人たち。

私たち撮影者は、さらに頭を深く下げた。

ところで、砂撒きは何時ごろにされたのだろうか。

砂の乾きは、日陰と日当たりによって異なる。

日のあたる場所であれば、乾きに白くなる。

日陰であれば、まだ水分を含んでいるから、やや黒っぽい。

赤い橋は、おそらく宮前橋。

その前に見えた砂山。

そう、軽トラかなにかの運搬装置によって砂を持ち込み、そこに落とした。

そしてはじめた作業が、同市内の山城町上狛の円形砂撒きと同じように象る。

砂山から運ぶのは一輪車か。

なんらかの運搬道具に砂を積んで運び、所定の位置に撒く。

その状況は、平成28年12月30日に拝見していた京田辺市宮津宮ノ内・白山神社の正月飾りを参考にしていただきたい。

今の時間帯は午後2時。

そろそろ引き上げるが、砂撒きの地は車の往来もある参道の道らしい。



車輪の轍は、赤い橋から北に抜けるまで、ずっと続く痕跡があった。

(R3.12.30 SB805SH/EOS7D 撮影)