大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば旧東山村のほぼすべての神社において遷宮や祭祀を神宮寺(別當寺)の社僧が司っていた。
山添村の大字桐山は「本社ニハ別ニ社僧トシテハ無カリシガ旧北野山村明王院ノ住職等遷宮及祭祀ヲ行ヒシ傳説アリ」とある。
かつては隣村の奈良市北野山・明王院僧侶によって神社祭祀が行われてきたのである。
おそらく後述に登場するオトナとともに祭祀を勤めたと想起される社僧祭祀の在り方である。
卍文様に仕立てた鎌の紋がある提灯を吊した山添村桐山の戸隠(とがくし)神社。
このような農具の鎌を象った卍紋は諏訪明神信仰が考えられる。
まさしく長野県・戸隠神社(九頭龍)との関係を想起させる紋である。
この日は桐山のマツリ。
前日と同様に朝9時にはオトナの一老がウタヨミを奉納する渡りの五人衆を御湯で祓い清めた。
神社では4人のオトナ、3人の組頭、2人のドウゲがマツリの準備をする。
幕を張って提灯を吊る。
御供トヤが調達された御供も調える。
一方、オトナはマツリに欠かせない白御供(しらごく)を調える。
口にマスクをして息がかからないようにする。
手袋も白い。
白御供は丁寧に「おしらごく」と呼ぶ人も多い。
四つ調製される白御供は蒸し飯である。
平らな御供台に乗せて、両手で形を調える。
楕円形に盛った蒸し飯の高さはそれほど高くない。
その周りを藁で括る。
一本括って中央で括る。
それを繰り返すこと12本である。
重ねていくのだが、ひっかかりがないから外れやすい。
この作りが難しいと云いながらオトナが白御供を調製される。
12本は旧暦閏年であっても12本。
一年の月数を現していると思われる。
雪うさぎのように見える白御供の姿。
始めて拝見した平成17年の姿もそう思ったことを思い出す。
白御供は四つ調製される。
それぞれ皮を剥いた2個のドロイモに2本のハゼノキが置かれる。
2本のハゼノキは一膳の箸である。
調整を終えた時間ともなれば氏子たちが神社に参拝をされる。
肴をつまみに飲食する宴である。
前日に千本杵で餅を搗いた子どもたちもやってきた。
神社境内を走り回って賑わいをみせる。
年老いた婦人たちも杖を突いて階段を登ってきた。
急な階段は体力が要る。
途中で小休止する婦人たちはいつも元気がいい。
ほぼ毎週の休日には採れたて野菜を売っている売り子さんだ。
15時ともなればオチツキダンゴをよばれた5人の渡り衆も楽奏しながら登ってきた。
先頭をトウヤ(当家)にガシャガシャ(左右五本ずつのビンザサラ)、太鼓(締太鼓)、二人の笛が続く。
公民館を出発した直後は前日同様に山の神と弁財天を遥拝してきた。
手水をされて拝殿前に並んで拝礼する。
一列に並んでピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏する。
宵宮から何度となく繰り返してきた楽奏の調子は息もあっていた。
三社に小幣を奉って再び拝殿前に並ぶ。
一拝して柏手を打つ。
草履に履き替えた大御幣を持つトウヤ(当家)は本殿に奉る。
その間には三社に白御供を供えていく。
甘酒を入れた柄杓と白御供も本殿に供えた渡り衆はこれより「ウタヨミ」を奉納する。
宵宮と同じように立ったまま2列に並んで始まった。
扇を差し出すように前へ進み出るトウヤ(当家)。
扇を立てて謳うウタヨミは「やっとん とん とん」で始まる。
「おうまへなる おうまへなる」と詞章をあげれば、他の4人は「ハァ」と声を揃えて合いの手で囃す。
以下同様に「鶴は鶴 亀は亀」に「ハァ」。「
鶴こそふれて舞い遊び」に「ハァ」。
「鶴の子のよしやまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の」に「ハァ」。
それぞれ区切りに「ハァ」と囃した最後に「松やにゅうどう」と唱えながら時計回りに一回転する。
壱番を勤めたトウヤ(当家)は拝礼して元の位置に戻った。
弐番、参番はトウヤ以外の渡り衆が勤めるが、特に決まりもなく、この年は笛役の二人が勤めた。
「西洋の春のあしたには」に「ハァ」。
「かどに小松を立て並べ」に「ハァ」。
「おさむる宮のしるしには」に「ハァ」。
「民のかまどに立つ煙」に「ハァ」。
「松からまつのようごう おうごうの松」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
次の参番も笛役である。
「あかつきおきて空見れば」に「ハァ」。
「こがね交じりのあめふりて」に「ハァ」。
「そのあめやみて空はれて」に「ハァ」。
「皆人ちょうじゃになりにけり」に「ハァ」。
「「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
詞章を唱えた三人はいずれも右足を一歩踏み出し、右手に扇を翳していた。
桐山で奉納された「ウタヨミ」詞章は山添村の室津や北野、近隣の奈良市北野山にもみられるが若干の違いがある。
長い年月の間によって多少の訛りが地域ごとに変容してきたのであろう。
また、北野山では「ウタヨミ」を「歌詠(うたよみ)」、室津では「神歌(かみうた)」。
「豊田楽(ほうでんがく)」の字を充てているのは北野である。
この年に拝見した桐山は大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「神楽歌(かぐらうた)」である。
大きな違いがあるのが桐山の「ウタヨミ」だ。
室津や北野山では奉納をされる際に楽奏をされるが、桐山ではまったく所作がないのである。
北野の所作も違いがあるが、この項では省略する。
言い伝えによれば、永正五年までは桐山、室津、北野山の三カ村がもち廻る共社郷宮の戸隠神社の行事であった。
「ウタヨミ」の詞章は、その時代から変容したのか、それとももっと以前からすでに変容していたのか、検証できるものはない。
「ウタヨミ」を奉納し終えれば白御供を下げる。
渡り衆は参籠所に上がって、オトナから甘酒と白御供をいただく。
オトナは太い2本のハゼノキを用いて蒸しご飯を摘まんで渡り衆に渡す。
手が汚れないようにとされたのか渡り衆はビニール袋を反転して入れてもらう。
いわゆるテゴク(手御供)の作法であるが、清潔さを考えてこのような形式にされたのであろう。
併行して参拝者にも白御供を分けられる。
同じようにビニール袋を広げて入れてもらう。
下げた御供はみなでいただく村の在り方。
行列ができるほどに群がった。
そのさなかに階段を降りていく渡り衆。
楽奏は見られない宮下がりである。
公民館に戻ってきた渡り衆は予め鳥居近くにおいた紙垂れを括りつけた笹を手にする。
かつては帰路の途中で道脇に生えていた竹の枝を持ち帰ったそうだ。
懐に忍ばせていた半紙を手で裂いて枝に付けたという。
上がりこむ公民館の座敷にはブルーシートが敷かれていた。
中央には丸盆に盛った洗米と小豆が置いてある。
笹を手にした渡り衆は玄関から上がってきた。
隊列は円陣になって時計回りに動き出す。
洗米と小豆を手にして回る。
「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝を拝もをう」と謡いながら撒く。
撒けば再び洗米と小豆をてにして「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝をおがもう」と謡いながら旋回する。
これを三度繰り返して終えた。
この所作は「オドリコミ(踊り込み)」と呼ばれるのだが、峰寺のような縁側から上がることなく玄関からであった。
また、峰寺で見られるような「何の種をまきましょう」、「福の種まーきましょう」の所作は見られない。
最長老の一老の話しによれば桐山では昔からなかったと云われる。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「当家ノ門前ニ着スルヤ各自 あきのくにのいつくしまのべざいてんのいざやたからをゝがもよを・・・ト返スく歌ヒツヽ家内ニ踊リ込ミ、高膳ニ洗米ト小豆ノ混ジテ盛リアルモノヲ振リマキ竹笹ヲ打振リ舞踊シテ是ニテ当日ハ儀式ノ畢レルモノトス」とあることから、長老が云ったことは当時もそうであったのだろう。
なお、峰寺の「オドリコミ」の詞章に「ねじろのやなぎ あらわれにけり」がある。
以前謡われていた北野の詞章に「川岸の根白の柳」があったそうだ。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。
「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。
能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたのではないだろうか。
(H26.10.12 EOS40D撮影)
山添村の大字桐山は「本社ニハ別ニ社僧トシテハ無カリシガ旧北野山村明王院ノ住職等遷宮及祭祀ヲ行ヒシ傳説アリ」とある。
かつては隣村の奈良市北野山・明王院僧侶によって神社祭祀が行われてきたのである。
おそらく後述に登場するオトナとともに祭祀を勤めたと想起される社僧祭祀の在り方である。
卍文様に仕立てた鎌の紋がある提灯を吊した山添村桐山の戸隠(とがくし)神社。
このような農具の鎌を象った卍紋は諏訪明神信仰が考えられる。
まさしく長野県・戸隠神社(九頭龍)との関係を想起させる紋である。
この日は桐山のマツリ。
前日と同様に朝9時にはオトナの一老がウタヨミを奉納する渡りの五人衆を御湯で祓い清めた。
神社では4人のオトナ、3人の組頭、2人のドウゲがマツリの準備をする。
幕を張って提灯を吊る。
御供トヤが調達された御供も調える。
一方、オトナはマツリに欠かせない白御供(しらごく)を調える。
口にマスクをして息がかからないようにする。
手袋も白い。
白御供は丁寧に「おしらごく」と呼ぶ人も多い。
四つ調製される白御供は蒸し飯である。
平らな御供台に乗せて、両手で形を調える。
楕円形に盛った蒸し飯の高さはそれほど高くない。
その周りを藁で括る。
一本括って中央で括る。
それを繰り返すこと12本である。
重ねていくのだが、ひっかかりがないから外れやすい。
この作りが難しいと云いながらオトナが白御供を調製される。
12本は旧暦閏年であっても12本。
一年の月数を現していると思われる。
雪うさぎのように見える白御供の姿。
始めて拝見した平成17年の姿もそう思ったことを思い出す。
白御供は四つ調製される。
それぞれ皮を剥いた2個のドロイモに2本のハゼノキが置かれる。
2本のハゼノキは一膳の箸である。
調整を終えた時間ともなれば氏子たちが神社に参拝をされる。
肴をつまみに飲食する宴である。
前日に千本杵で餅を搗いた子どもたちもやってきた。
神社境内を走り回って賑わいをみせる。
年老いた婦人たちも杖を突いて階段を登ってきた。
急な階段は体力が要る。
途中で小休止する婦人たちはいつも元気がいい。
ほぼ毎週の休日には採れたて野菜を売っている売り子さんだ。
15時ともなればオチツキダンゴをよばれた5人の渡り衆も楽奏しながら登ってきた。
先頭をトウヤ(当家)にガシャガシャ(左右五本ずつのビンザサラ)、太鼓(締太鼓)、二人の笛が続く。
公民館を出発した直後は前日同様に山の神と弁財天を遥拝してきた。
手水をされて拝殿前に並んで拝礼する。
一列に並んでピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏する。
宵宮から何度となく繰り返してきた楽奏の調子は息もあっていた。
三社に小幣を奉って再び拝殿前に並ぶ。
一拝して柏手を打つ。
草履に履き替えた大御幣を持つトウヤ(当家)は本殿に奉る。
その間には三社に白御供を供えていく。
甘酒を入れた柄杓と白御供も本殿に供えた渡り衆はこれより「ウタヨミ」を奉納する。
宵宮と同じように立ったまま2列に並んで始まった。
扇を差し出すように前へ進み出るトウヤ(当家)。
扇を立てて謳うウタヨミは「やっとん とん とん」で始まる。
「おうまへなる おうまへなる」と詞章をあげれば、他の4人は「ハァ」と声を揃えて合いの手で囃す。
以下同様に「鶴は鶴 亀は亀」に「ハァ」。「
鶴こそふれて舞い遊び」に「ハァ」。
「鶴の子のよしやまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の」に「ハァ」。
それぞれ区切りに「ハァ」と囃した最後に「松やにゅうどう」と唱えながら時計回りに一回転する。
壱番を勤めたトウヤ(当家)は拝礼して元の位置に戻った。
弐番、参番はトウヤ以外の渡り衆が勤めるが、特に決まりもなく、この年は笛役の二人が勤めた。
「西洋の春のあしたには」に「ハァ」。
「かどに小松を立て並べ」に「ハァ」。
「おさむる宮のしるしには」に「ハァ」。
「民のかまどに立つ煙」に「ハァ」。
「松からまつのようごう おうごうの松」に「ハァ」。
「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
次の参番も笛役である。
「あかつきおきて空見れば」に「ハァ」。
「こがね交じりのあめふりて」に「ハァ」。
「そのあめやみて空はれて」に「ハァ」。
「皆人ちょうじゃになりにけり」に「ハァ」。
「「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。
「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。
詞章を唱えた三人はいずれも右足を一歩踏み出し、右手に扇を翳していた。
桐山で奉納された「ウタヨミ」詞章は山添村の室津や北野、近隣の奈良市北野山にもみられるが若干の違いがある。
長い年月の間によって多少の訛りが地域ごとに変容してきたのであろう。
また、北野山では「ウタヨミ」を「歌詠(うたよみ)」、室津では「神歌(かみうた)」。
「豊田楽(ほうでんがく)」の字を充てているのは北野である。
この年に拝見した桐山は大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「神楽歌(かぐらうた)」である。
大きな違いがあるのが桐山の「ウタヨミ」だ。
室津や北野山では奉納をされる際に楽奏をされるが、桐山ではまったく所作がないのである。
北野の所作も違いがあるが、この項では省略する。
言い伝えによれば、永正五年までは桐山、室津、北野山の三カ村がもち廻る共社郷宮の戸隠神社の行事であった。
「ウタヨミ」の詞章は、その時代から変容したのか、それとももっと以前からすでに変容していたのか、検証できるものはない。
「ウタヨミ」を奉納し終えれば白御供を下げる。
渡り衆は参籠所に上がって、オトナから甘酒と白御供をいただく。
オトナは太い2本のハゼノキを用いて蒸しご飯を摘まんで渡り衆に渡す。
手が汚れないようにとされたのか渡り衆はビニール袋を反転して入れてもらう。
いわゆるテゴク(手御供)の作法であるが、清潔さを考えてこのような形式にされたのであろう。
併行して参拝者にも白御供を分けられる。
同じようにビニール袋を広げて入れてもらう。
下げた御供はみなでいただく村の在り方。
行列ができるほどに群がった。
そのさなかに階段を降りていく渡り衆。
楽奏は見られない宮下がりである。
公民館に戻ってきた渡り衆は予め鳥居近くにおいた紙垂れを括りつけた笹を手にする。
かつては帰路の途中で道脇に生えていた竹の枝を持ち帰ったそうだ。
懐に忍ばせていた半紙を手で裂いて枝に付けたという。
上がりこむ公民館の座敷にはブルーシートが敷かれていた。
中央には丸盆に盛った洗米と小豆が置いてある。
笹を手にした渡り衆は玄関から上がってきた。
隊列は円陣になって時計回りに動き出す。
洗米と小豆を手にして回る。
「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝を拝もをう」と謡いながら撒く。
撒けば再び洗米と小豆をてにして「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝をおがもう」と謡いながら旋回する。
これを三度繰り返して終えた。
この所作は「オドリコミ(踊り込み)」と呼ばれるのだが、峰寺のような縁側から上がることなく玄関からであった。
また、峰寺で見られるような「何の種をまきましょう」、「福の種まーきましょう」の所作は見られない。
最長老の一老の話しによれば桐山では昔からなかったと云われる。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「当家ノ門前ニ着スルヤ各自 あきのくにのいつくしまのべざいてんのいざやたからをゝがもよを・・・ト返スく歌ヒツヽ家内ニ踊リ込ミ、高膳ニ洗米ト小豆ノ混ジテ盛リアルモノヲ振リマキ竹笹ヲ打振リ舞踊シテ是ニテ当日ハ儀式ノ畢レルモノトス」とあることから、長老が云ったことは当時もそうであったのだろう。
なお、峰寺の「オドリコミ」の詞章に「ねじろのやなぎ あらわれにけり」がある。
以前謡われていた北野の詞章に「川岸の根白の柳」があったそうだ。
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。
「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。
能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたのではないだろうか。
(H26.10.12 EOS40D撮影)