「富本」
先の黒田の南西0.5k、宮古、保津の集落からも西へ約0.5k、飛鳥川堤防の下に30戸余りの小さな集落が富本に成ります。
集落の入り口に富都神社が有り、集落の横を流れる用水路わき、集落に入り口にこじんまりと佇んで居ます。
富本は富都とも表され、フト、フツから、布津御霊大神に通じるという説もありますが、富は豊かさをもたらす大きな川を表し「十三」と表記していたそうです。
本は田 原 本 下 同様 低湿地、河口堰を表スとされ、この集落から下流域は古代湖沼(大和湖)で有ったともいわれます。
黒田廬戸宮の中心が黒田池と保健センターの間だとすると、黒田、宮古、富本は廬戸宮を中心にトライアングルを表している事に成ります。
富本(とんもと)と言われる集落ですが、殆どが片岡姓を名乗って居ます。
大和国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地一帯には、中世、室町幕府の末期、宗徒、国人の名前が今も地名に沢山残って居ます。
半ばを紹介しますと、箸尾、金剛寺、伴堂、片岡、立野、桐谷、嶋、岡、北角、万歳、高田、楢原、吐田、越智、南郷、筒井、河合、櫟本、山田、福住、長谷川党、唐古、在原、大木、楊本、戒重、江堤、大西、大仏供、賀留、十市、味間、吉備、池内、安部、山中、丹生、柳生 等々
片岡氏は中臣片岡連の末裔だといわれ、総領家上牧、下牧の地に城(館)を築きますが、戦乱に引き込まれ消滅、その一族がこの地に落ちのび集落を築いたとされます。
陶芸作家の富本健吉氏もこの地の出で、生家跡と言われる地も残って居ます。
先の黒田の南西0.5k、宮古、保津の集落からも西へ約0.5k、飛鳥川堤防の下に30戸余りの小さな集落が富本に成ります。
集落の入り口に富都神社が有り、集落の横を流れる用水路わき、集落に入り口にこじんまりと佇んで居ます。
富本は富都とも表され、フト、フツから、布津御霊大神に通じるという説もありますが、富は豊かさをもたらす大きな川を表し「十三」と表記していたそうです。
本は田 原 本 下 同様 低湿地、河口堰を表スとされ、この集落から下流域は古代湖沼(大和湖)で有ったともいわれます。
黒田廬戸宮の中心が黒田池と保健センターの間だとすると、黒田、宮古、富本は廬戸宮を中心にトライアングルを表している事に成ります。
富本(とんもと)と言われる集落ですが、殆どが片岡姓を名乗って居ます。
大和国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地一帯には、中世、室町幕府の末期、宗徒、国人の名前が今も地名に沢山残って居ます。
半ばを紹介しますと、箸尾、金剛寺、伴堂、片岡、立野、桐谷、嶋、岡、北角、万歳、高田、楢原、吐田、越智、南郷、筒井、河合、櫟本、山田、福住、長谷川党、唐古、在原、大木、楊本、戒重、江堤、大西、大仏供、賀留、十市、味間、吉備、池内、安部、山中、丹生、柳生 等々
片岡氏は中臣片岡連の末裔だといわれ、総領家上牧、下牧の地に城(館)を築きますが、戦乱に引き込まれ消滅、その一族がこの地に落ちのび集落を築いたとされます。
陶芸作家の富本健吉氏もこの地の出で、生家跡と言われる地も残って居ます。
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