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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

帯解周辺の地蔵盆巡り

2018年09月08日 07時46分29秒 | 奈良市へ
この日はとにかくあちこちで地蔵盆がある。

どこへ行くかは選択肢が多すぎて迷いに迷う。

なんせ、在住地の大和郡山市内では7月にも8月にも地蔵盆がある。

7月は22地区で、8月は39地区にもおよぶ。

尤も大和郡山市内の地蔵尊は119地区にあるが・・・。

比率は大和郡山市内とは異なるが、7月、8月分かれの地蔵盆は天理市も奈良市もあるし、下市もそのような状況であることは認識している。

地域で行われる年中行事の中では最も多い行事が地蔵盆ではないだろうか。

それだけにどこを取材するか、実に悩まされる選択である。

大和郡山市内だけでも未だ40地区しか取材ができていない。

そこを振り切って出かけた目的地は奈良市の帯解地域。

かつて奈良市今市町帯解寺の子安地蔵会式や、そこより街道を南に下った奈良市柴屋町龍象寺の地蔵会式を拝見したことがある。

街道には夜店もたくさん並んで賑わいの地蔵盆に人々がごった返す。

その街道を東西に走る旧街道(五ケ谷街道)がある。

朱塗りの鳥居を挟んだ街道向こうに地蔵さんが目に入った。

鳥居がある神社は今市の春日神社。

今夕の子安地蔵会式の出発地である、その真ん前にあった地蔵さんを祀る祠の天井に提灯がぎっしり。

なんぼほど、あるんや、と声が出てしまうほどに多い吊り提灯に圧倒される。

奥には塔婆が数本ある地蔵尊は福徳延命地蔵尊。

野菜などのお供えがあった、その場に丸めたゴザがあった。

行事は終わったのか、それとも未だなのか。

尋ねてみる時間的余裕はないが、なんとなく念仏講の営みを想像してみた。

今市には「コネンブツ講」と呼ばれている講中がいる。

これまで公民館で行われる7月地蔵盆の数珠繰りやチバミ墓地内で行われる春彼岸の数珠繰りを取材したことがあるが、ここ福徳延命地蔵尊でもしているとは聞いていない。

別の講があるのか、それとも地区婦人会がされているのか、一度訪ねてみたい。

東西に抜ける街道を走る。

奈良市今市の一番西の集落外れに地蔵尊がある。

そこは通る度によく参拝者を目撃する。

高齢の婦人であるが、お顔は見る度に違うように思えてならない。

思わず車を停めて話しを聞いてみたいと思っては思うが、一瞬にして思いは消える。

そこから東へ、東へと行けば前回に紹介した福徳延命地蔵尊に巡りあえる。

そこよりもう少し行けば、JR桜井線を跨ぐ鉄橋越え。

最寄りの駅は右手にある帯解駅。無人駅である。

さらに東へ行けば古来は上ツ道と呼ばれていた南北に貫く旧街道(初瀬街道の名もある上街道)にでる。

さらに東に向けて走る。

それほど遠くない距離。

左手に地蔵尊がある。

そこもお供えをしているが、先を急ぐ。

もう一つは山町の八坂神社裏にある地蔵さんである。



お供えは採れたてと思われる野菜盛り。

白色のゴーヤに長茄子。

ピーマンに赤パプリカに、これまた赤いトマト。

仏花も飾って奉っていた。

それを拝見していたときのことだ。

南側にある道から一輪車を動かす男性の顔が見えた。

畑で収穫した帰り道に遭遇した男性は実に久しぶり。

長年において関わっている自然観察会でたいへんお世話になっていたY先生だった。

しばらくぶりに地蔵さんの前で立ち話。

お顔も喋りもお元気になられてはいるものの、見た目では気がつかない息苦しさを話してくださるのが辛い。

病いの状態は違うが、わが身もそうだけに辛さは共有できる。

愛鳥会も退いて、今は朝、夕の畑に孫の送迎だけの暮らしにしているそうだが、来年2月の馬見丘陵の観察会は一緒に行動できそうだといわれる。

「無理しやんといてください」と伝えて別れた。

(H29. 7.23 SB932SH撮影)

佐紀町・隆光墓の隆光大僧正顕彰会

2018年07月09日 09時20分17秒 | 奈良市へ
この日は近畿地方全域にわたって梅雨入りしたと気象庁が発表した。

この日が隆光僧正の命日にあたる日。

隆光僧正の遺徳を偲ぶ寺院僧侶たちが参拝すると聞いていた。

参拝される場は墓域。

昭和53年11月、遺徳を偲んだ有縁者らの手によって墓域を整備し顕彰碑を建之したようだ。

命日の法要であるが、お寺さんの都合もあって日にち、曜日は変動するから、出かけても外れることがある。

しかも、この日は梅雨入りの日。

雨天の日に命日供養をされるのか。

その確認もあって出かけた奈良市佐紀町。

場は旧佐紀幼稚園の南裏になる。

通りに立て看板があった。

ペンキ色は薄くなり錆も見られる立て看板は有志の人たちが立てたと思われる『隆光大僧正の墓石』に「この奥に隆光大僧正(慶安二年:1649~享保九年:1724)の墓石があります。隆光は慶安二年にこの付近で生まれました。長谷寺で学んだ後、江戸へ出て、関東新義真言宗本山の護持院を創設しました。大和の社寺修復につくし、特に東大寺大仏殿の再建にあたり、東大寺の公慶上人を助け、将軍綱吉とその母桂昌院に援助を勧めた人として知られています。後年はこの地にあった超昇寺に引退し、享保九年(1724)に没しました」が書かれていた。

2年前の平成27年6月7日にも訪れていた隆光墓である。

その日は日曜日だった。

供養されたと判断できる塔婆があった。

その塔婆に願文があった。

「平成27年6月4日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾壹年忌菩提也 顕彰会」である。

供養日から三日も過ぎていた。

この場で供養をしていると教えてくださった歓喜寺住職を尋ねて立ち寄った。

三日前だったのですねと伝えた住職の回答は「本来なら命日の七日にするのだが、法要に参列される僧侶らの都合で今年は早めた」と云っていた。

その都合は曜日の関係にある。

つまり、命日の7日が土曜、日曜の場合はしない、ということだった。

その年の7日は日曜日。

それで早めた金曜日であったわけだ。

今年の7日は水曜日。

間違いなく、聞いていた時間には来られるだろうと思ってやってきた

車が往来する通りに何人かが忙しく動き回っていた。

一人は僧侶でもう一人は事務の人だろうか。

本日の参拝に来られた顕彰会の人であろうと思ってお声をかける。

もちろん、この法要を教えてくださった佐紀二条町の歓喜寺住職のお名前も告げて承諾してくださった取材である。

歓喜寺住職が顕彰会を話してくださったのは平成26年7月23日に行われた二条町にある辻の地蔵尊の法要のときだった。

教えてもらってから3年経ってようやく拝見できる雨の日の顕彰会である。



会式に集まった僧侶は12人。

歓喜寺住職の他に長谷寺、元興寺、般若寺、福智院に、遠くは大阪泉南にある真言宗派のお寺さんも。

長谷寺からは僧侶以外に寺院職員関係者も来られて、一同揃って行われる顕彰会式である。

顕彰する墓石は「カラバカ」と聞いている。

その場に今年の塔婆を掲げてローソクに火を灯す。



墓石周辺にある石塔・石仏など、すべてに花を立てて唱える般若心経。

土砂降りの雨に心経は耳に届かない。

俄に張ったアウトドア用のテント内におられる僧侶に、入りきらずに傘をさしながら唱える僧侶も。

風はそれほど吹かなかったからいいようなものの濡れた身体では寒さを感じる。

いつもなら30分以上もかけて唱えるが、この日は昨夜から降った雨がやまない日。

簡易的に設営したテントでびしょ濡れは避けられたが、肩にどうしてもかかる土砂降り。

衣服も徐々に浸みこんで色が替わる。

参列者の中に隆光僧正が生誕した地に住む二条町の人たちがいる。

中でも本家を継ぐ川辺家に隣村の佐紀東に住む川辺家の分家になる3人の女性たちも参られる。

詳しいことは省くが、僧正隆光の初名は河辺隆長である。

ここ佐紀の川辺家出身。

名主二男の河辺隆長が出家されて、万治元年(1658)に仏門入。

その後、長谷寺に唐招堤寺で修学された。

心経を唱える間に焼香する僧侶。



顕彰会のみなさん方に隆光僧正に直接関係するお家の方々が終えてから一般焼香に移る。

一般焼香はこの日に取材していた私ともう一人であった。

塔婆の願文は「平成29年6月7日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾参年忌追善菩提也 功徳者 顕彰会」であった。



亡くなられてから293年目の顕彰供養。

7年後には記念の300年目を迎えることになるだろう。



供養を終えて一般の私にも配られた粗供養に「隆光僧正 顕彰会」の記しがあった。

なお、お布施は一切断っていると会の人たちが申しておられたことを付記しておく。

雨に濡れながらも顕彰会をされたそれからの毎日。

パラパラの小雨はあっても降ったような感じでもない日が続く。

曇りマークの日もあるが晴れ間ばかりの毎日。

20日ころまで続いていた。

(H29. 6. 7 EOS40D撮影)

窪之庄・幌を外した苗代田に立てるお札

2018年06月25日 09時21分29秒 | 奈良市へ
今年の5月4日も気になって立ち寄ったが、苗代田はあるもののごーさん札もイロバナもなかった奈良市窪之庄町の田んぼ。

たまたまの機会に田主から不要になったお札を貰ったことがある。

お札は三つの朱印を押した「牛王 八阪神社 宝印」である。

版木刷りではなく墨書である。

そのお札はイチジクの枝木に挿す。

その名は「ゴボウサン」だった。

昨年の11月8日、天理市楢町の興願寺で十夜の法会があった。

そこに来られていた4人の檀家は窪之庄の人だった。

神社行事が廃れてしまって何もかもなくなったと話していた。

苗代に立てるお札もないような言い方だった。

その件は数年前に訪れた田主から聞いていた。

神社に行ってもトーヤが納める御幣も昔のまんまに放置していた。

もうすることはないだろう、と諦めていた。

もしかとすればと思ってその日に取材する目的地コースを外して苗代田に向けてハンドルを切った。

4日は白い幌がかかっていた。

それから20日間は育苗。

気温が上がれば風通しする。

その状態を撮っておこうと車を停めたら、あった。



それで思い出した田主のお札立て時期。

初めて見つけた平成22年は5月16日だった。

その2年後の平成24年は6月5日であるが、田植えの真っ最中だった。

そのときに聞いた田主は苗代田をしてもついつい忘れてしまって、後日になってしまうと話していた。

その翌年の平成25年にお会いした時も苗代にお札は・・と聞けば、忘れていたであった。

その後もお会いしたが神社行事を続けていくことが難しくなってきたと云っていた。

心配はしていたが、平成28年に訪れた5月21日はあった。

今回も発見したのは5月半ばも過ぎたほぼ月末。

田植え前に気がついて立てているのだろう。

その田んぼ。

6月4日に通りがかったら水溜していた。

そろそろ始まる予感がする。

(H29. 5.26 EOS40D撮影)

七条西町に揚がる“風”のコイノボリ

2018年03月15日 09時07分08秒 | 奈良市へ
リハビリ兼用の散歩道にコイノボリが揚がった。

揚がったのはこの日ではなく4月2日の日曜日だった。

それからの毎日に揚げるわけでもない。

雨の日、曇りの日、強風の日は避けて揚げない。

どこともそうであるコイノボリ。

この日はさやさやと風が流れていた。

気持ちよさそうに青空を泳ぐコイノボリ。

同家に子供さんの名前は□風に風〇。

二人とも「風」があるお名前だった。

(H29. 4.14 SB932SH撮影)

人力車でならまち巡り

2018年02月10日 09時48分03秒 | 奈良市へ
これほどの賑わいになるとは思ってもみなかった「ならまち」。

行政区域にその名はない。

「ならまち」の中心部はどこであるのか・・・。

元興寺極楽坊を中心としてもあまりにも広範囲。

近鉄電車がお勧めしているならまち巡りのコースは近鉄奈良駅がスタート地点。

東向き商店街から南に歩いてもちいどのセンター街を突き抜ける。

信号を東折れして元興寺極楽坊を目指す。

そこから奈良町資料館、庚申堂、十輪院、今西家書院としていた。

奈良市観光協会がお勧めする大まかな観光コースは四つ。

文化財、満喫、昔話、高畑コースである。えらい増えたもんだが、私が初めて「ならまち」を訪れたのは随分前のこと。

一眼レフカメラなんてものは持ち合わせていない。

手でフイルムを送るパノラマも撮れるOLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラ一台をもって闊歩していた。

たまたま入手したならまちを巡るスタンプラリーシートに載っていた有形文化財、施設などを見て廻った。

走っていたのは人力ではなくマウンテンバイクに跨ってである。

そのころはマウンテンバイクに目覚めて遠出を計画していたころ。

足慣らしにあちこちを走っていた。

入手したシートは「スタンプラリーならまちウォーキング’98」ラリー。

’98の表記があるから1998年の平成10年。

その年は9月8日から9日の二日間もかけて淡路島を一周していた。

話は戻すが、ならまちを訪れていた平成10年は観光客どころか町の人も見当たらないほど簡素な状況であった。

それを長閑だとはいえない町屋の佇まいがあった。

スタンプラリーで訪れた施設は行った順に奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家、元興寺小塔院跡などなど。

24カ所の施設を巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。

スタンプは全カ所でなく13カ所。

それが目当てだったスタンプラリー

主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。

このスタンプラリーがいつまでしていたのかは覚えていないが、翌年の平成11年に再訪したときはわりあい、というか、そこそこの人たちが訪れていた。

この日に訪れた19年後のならまち界隈に人力車夫(平成5年設立・観光人力車やまと屋奈良)が観光案内をしていた。



ここまで賑わうとは想像だにしていなかった。

「ならまち」の町づくりの始まりから現在に至る変遷は『新奈良町にぎわい構想(修正案)』に詳しい。 

ちなみに撮影地は奈良町資料館の真ん前である。

先月の2月28日から開催されていた川島朱実さんの写真展は好評のうちこの日がラストデイ

何度見てもほれぼれする写真に感動していた。

私も何度か展示をしたことはあるが、展示する写真は定型版である。

大多数は大判であるが、私は4pwオンリー。

展示するサイズはすべて同じである。

それが一般的な写真展の在り方。

尤もクラブなど団体展は若干の差異はある。

それが、だ。

川島さんの作品は定型でない。

大きな枠の中にいろんなサイズの写真で表現している。

形式に拘らない写真作品は一枚、一枚、どれをとっても見飽きない。

無駄のない写真もさることながら無駄のないような配列は縦横自由往来。

余ったわけではないが、数枚の写真は床に2枚。

細めの壁板に一枚。

これらの写真もモノを言う。

まいった、である。

(H29. 3.20 SB932SH撮影)

ならまち散策

2018年01月01日 13時11分22秒 | 奈良市へ
2月28日から始まる写真家Kさんが表現する「つくるもの 祈りのかたち」写真展。

指定された前日の時間帯内に搬入・設営する。

前回の展示は私の作品展。

設営は慣れたものだと思っていたが、想定亥以上・・・。

私の作品は展示物品の大きさが一定していたが、Kさんの作品は実に多様な大きさ。

とらえた映像に合わせてフレームを大胆にも切りとっていく。

すごい人だな、と思った次第だ。

1時間もあれば設営できると思っていたが、倍ほどかかった。

設営が終わった時間帯はとうにお昼を過ぎていた。

食事処を求めて散策するならまち界隈。

奈良町資料館から離れてどこへ行く。

足の行くまま気の向くまま流離うならまち。

意外と思うような食事処が見つからない。

どこをどう歩いたのかわからない。

先に見つかったのは建物が新しい「真言律宗 元興寺玉華院(2016/1竣工)。



玄関だと思われる場に掲げてあった「面」に目が向く。

これは何だろうか。

木彫りの面はどことなく納曽利とか蘭陵王など舞楽に登場するような面に似ているような感じがするのだが・・。

ならまち界隈にはお風呂屋さんがとにかく多い。

昔からそう思っている。

井戸が多いのはわかっているが、何故にお風呂屋さんが廃れずに今尚現役でおられるのか・・・。

それはともかくもうここしかないな、と入店した食事処は和彩Restの「紅絲(こうし)」。

場所は西寺林町にある。

外に掲げていたメニューは数種類。

一つは丸揚げ湯葉刺し、手造りおからに湯葉胡瓜の酢の物、厚揚げ明太子挟み焼き、地鶏のささ身サラダ、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットの丸揚げセットが1800円。

二つ目に豆腐三種盛り、湯葉刺し、厚揚げ明太子挟み焼き、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのあっさりセットが1580円。

三つ目が一人用湯豆腐、湯葉刺し、河内揚げの素焼、地鶏のささ身サラダ、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのSpecialヘルシーセットが1800円。

四つ目にサラダ付き地鶏のカリカリ焼き、一人用湯豆腐、河内揚げの素焼、湯葉刺し、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのSpecialセットが2380円。

他にも1480円の自家製豆腐コロッケ定食や1630円の自家製豆腐ハンバーグ&豆腐コロッケ定食、1980円の特大サイズ地鶏のカリカリ焼き定食などがある。

これら定食には湯葉刺し、手造りおから、こだわり冷奴、ご飯、味噌汁に豆乳ぷりんが付いている。

車で来てなかったら湯葉刺し、河内揚げの素焼、手造りおからの3品が付いた1000円の地酒セットやこだわり豆腐、河内揚げの素焼、手造りおからの3品が付いた1000円の生ビールセットにしたかったが、相方のご希望により2380円のSpecialセットに決まった。



1時間半ほど、ゆっくりと寛がせてもらったお店に「おいしゅうございました」と声をかけて店を出たが、反応はなかった。

過ごした時間帯は午後3時ころから。



他にお客さんもなく、お暇だったようでこっくりと船漕ぎをしていたようだったが、後々にネットで拝見した「紅絲(こうし)」のランチタイムは午前11時~午後3時。

デイナータイムが午後3時~午後10時半までだった。そうだったんだ、と今ごろになって気がついた。

(H29. 2.27 SB932SH撮影)

写真展に向かう道すがらに拝見する角振新屋町の隼神社

2017年12月09日 08時41分50秒 | 奈良市へ
プリントはとても綺麗。

そこそこ上手い秀作が並ぶ素晴らしい作品群。

手慣れた造りの作品作り。

これまでいろんな写真展会場で、或いはSNSなどで、何度も見たことがある定番映像に感動するものはない。

度肝を抜くような、これはどうやって撮ったの?か、この映像はどこで撮ったのとか、というようなドキドキ・ワクワク感を味わえる作品を見てみたい。

なにより違和感をもったのは、あるイベントの公式写真についてであった。

停めた駐車場に戻る帰り道も隼(はやぶさ)神社の前を通る。

鎮座地は奈良市角振新屋町(つのふりしんやちょう)。

神社右に建つ地蔵堂に延命地蔵を安置する。

ネットによれば毎月の24日は地蔵さんの縁日。

近くかどうか知らないが、阿弥陀寺住職の法要をしているらしい。

地蔵像は立像ではなく、珍しい片脚を踏みさげて座る半跏像。

ところで隼神社で思い起こすのが薩摩隼人。

現在の薩摩隼人ではなく、古事記に登場する海幸彦を祖人とする九州の大隅・薩摩地域に居住していた隼人族である。

大和朝廷に制圧されて、後に朝廷に服属した隼人族。

宮廷守護や歌舞教習の任に就いて、大嘗祭などの節会に隼人舞を演じたとある。

未だに拝見していない隼人舞。

ぐるぐると渦を巻くような盾の紋様に特徴があったように思うのだが・・。

ところで、大和の宮廷を守護し、隼人舞をしていたと伝わるが、奈良県内では舞うことはない。

2010年、警固の職に就いた隼人族が居住したとされる京都府京田辺市大住・大住隼人舞保存会(昭和46年結成)が舞った場は平城京跡。

1250年ぶりに、古都奈良の都で披露された。

ちなみに大住は“おおすみ“。

かつての居住地であった九州の大隅(おおすみ)と同音。

地名は旧地を充てる漢字を替えていたことがわかる。

それはともかく、今まで何度も通っているのに、これは何っ、と思って撮っておいた。

ネットによれば境内に植わっている木は柿の木であるらしい。

その木に注連縄を架けていた。

長さは割り合いあると思われる注連縄を樹木の幹回りにぐるぐる巻いているのであれば、晦日若しくは正月に地域の人たちが架けているのだろう。

注連縄にエフ札のようなものがあるのが、気になるが・・。

と、思ったが違っていた。

きちんとした紙垂れのシデであった。

その奥に建つのは弁財天社である。

毎朔日が月次旬祭であるようだ。

なお、大祭は年に4回。2月1日の祈年祭。

例祭は7月7日に8月1日もある。

〆が11月21日の新嘗祭であることから、新年を迎えた1月1日の歳旦祭に注連縄を架けているように思える。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)

二条町の亀畑佐紀神社の砂モチ

2017年09月11日 08時37分00秒 | 奈良市へ
奈良市佐紀町に鎮座する二条町氏子の亀畑佐紀神社の境内に砂モチをしていると知ったのは随分前のことだ。

それから数年後の平成24年の大晦日。

12月31日に訪れた。

境内から階段下まで続く砂モチ。

量は少ないがその在り方を現認できた。

それから2年後の平成26年も訪れたが、簾型注連縄が架かっているだけだった。

その年の当番さんの都合で砂モチをすると聞いていたから、この年は遅いのであろう。

着いた時間には砂がまったくなかったが、待つわけにはいかない。

大晦日の行事や風習の取材は他所も行かなくてはならない。

諦めざるを得なかった。

この年に取材した二条町の亀畑佐紀神社の行事に宵宮祭がある。

そのときにお願いした大晦日の砂モチ。

是非とも記録に納めたい写真撮り。

3人の年番当役が予定される時間を教えてもらって伺った。

この年はこれまで何人かの年番当役に聞いていた時間からいえば最も早い時間帯。

家の正月迎えがあるから早く済ませて空き時間を確保するということである。

今回の取材は宵宮祭も同行した写真家Kさんの願いでもある。

落とせない砂モチ風習はここ佐紀町に2社もある。

西畑二条の佐紀神社門外の釣殿神社の砂モチである。

西畑二条も門外も前日の12月30日に砂モチ作業をしているはずだが、今回はどのような状態であるのか、取材時間・取材地の関係で見送る。

来られるまでの時間帯は前日に行われていた状況を知る。

12月30日は朝から大祓の祭典。

半年に一度の夏越しの大祓は県内事例に、そこそこ見られるが、ここ佐紀町にはされている様子はない。

ないが、とうぜんのごとく歳末の大祓はよほどのことがない限り、どの神社でもされているはずである。

亀畑佐紀神社の大祓は神事に先だって拝殿に掲げる前掛けと呼ぶ注連縄を作ってからだ。

二条町は西座・東座の両座があったが、現在は村座になっている。

簾型に縄結いをして大幣を垂らす。

村行事であるから氏子、座中が揃って神事をされる。

そのときに場を清めた痕跡がある。

清めに撒いた塩である。

お酒も撒いて清めたと思うが、痕跡はわからない。

大祓に清めた場は祓戸社。

いつもの行事に必ずやお清めされる場所であるが、ここにも砂モチをされる。

聞いていた時間ぴったしに来られた年番当役。

後継者育成のことも考えられて息子さんらとともに作業をする。

移動しやすい一輪車に砂を盛る。



かつては山にあった砂(山土)を採取して、それを盛っていた。

山には所有者が居る。

事情が発生してそこでは採ることができなくなった。

それからはいつでも売っているコーナンが販売する真砂土を買うようにした。

7年前までは門松を立てていた。



オン(雄)松にメン(雌)松も山に出かけて採取したが、これもまた採ることが不可能になってやめたという。

オン(雄)松にメン(雌)松が採れなくなって造園業者に注文するようになった地区はままある。

材料入手が困難になってきた時代。

採取が不可能であれば、購入しかない。

それもまた仕方のないことである。

そんな話しをしながら作業される代表の年番当役。

砂モチという表現はなく、家を出るときには神社へ行って砂盛りしてくる、という。

砂を盛る間隔は両肩の幅ぐらいだという。

人それぞれの両肩幅であるが大差はない。

形に決まりはないから、気にならんからかまへんでという。

息子さんもスコップをもって後ずさりしながら、少しずつ、少しずつ砂を盛っていく。

拝殿前から始めた砂盛り。

最初の一段目に合わせて次の段の砂を盛る。

一段、二段と下がっていくにつれ、一輪車も下げる。

社叢から差し込む木漏れの光。

樹木の間から差し込む光がなんともいえない。

もし、遮るものがなければ・・・砂盛りばかりが目立ってしまうことだろう。

そのころに突然現れたカメラマン。

なんと知り合いのNさんだった。

東にある水上池でカワセミなどの野鳥や朝の風景を撮っていたそうだ。

ふとざわめいた。

引き寄せられるように当地にやってきたら遭遇した、という。

なんという嗅覚であろうか。

Nさんが撮られた写真はいつも感心させられる。

感覚が優れているのだろう。

近年、特にそう思う。

同行するKさんもそうだが、真似のできない素晴らしい写真を撮る。

憧れる二人である。



それはともかく砂盛り作業は境内から階段を下っていく。

同じように後ずさりしながら砂を盛る。

スコップに何杯も掬ったことであろうか。

数を数えたくもなるが、先を急ごう。

鳥居を下って参道も。

そこは弁天社があるところだ。

ここへ下りてくるまでにしていた祓戸社も済ませば場を離れる。

ここから北に数百メートル歩いた場は「二条の宮さん」とも呼ばれている護摩堂がある所だ。



そこには「永禄十一(1568)」の刻印が見られる石碑がある。

中央に薄っすらと読める文字は「□行者金剛住」であろうか。

かつてあったとされる前期超昇寺の遺構でもある石碑はこれ以上の判読はできない。

護摩堂の前に砂盛り。



坂を下るようにここもまた後ずさりしながら砂を盛っていく。

これですべての砂盛りを終えた。

残す作業は今夜の夜中に始まる歳旦際の準備である。



下がり藤の紋がある幕を拝殿にかけてようやく終えた。

(H28.12.31 EOS40D撮影)

山陵町山上八幡神社の板注連縄

2017年08月18日 09時17分15秒 | 奈良市へ
山上八幡神社の年中行事表によれば12月18日の日曜日に板注連縄を結っていそうだった。

それは第三日曜日。

2年前に伺ったその注連縄の材となる稲刈りを拝見したことがある。

10月1日の月次祭のときと思っていたがそうでもなく六人衆が揃って作業できる日であった。

都合を確認されて集まる日を決めた。

そんなことがあったからもしかとすれば予定していた日を繰り上げるかも、と思って出かけたら案の定だった。

奇麗な縄結いに惚れ惚れする。



そこへ歩いてきた朱雀の観光ボランテイアガイドの人たち。

板注連縄が新しくなっていることには気がつかずに参拝されていた。

(H28.12.15 EOS40D撮影)

佐紀町亀畑佐紀神社二条町座中の宵宮祭

2017年05月30日 09時16分55秒 | 奈良市へ
バランの葉にシトギを載せて供える行事がある奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。

氏子たちは鎮座地の佐紀町ではなく二条町になる。

シトギを供える年中行事は一年に3回。

十月の宵宮に翌日のマツリや11月に行われる新嘗祭である。

供えたシトギを御供下げして座小屋でよばれる。

氏子座中はそのシトギをヒトギと呼んでいる。

県内事例においては数少ないシトギを供えると知った写真家Kさんに是非見ていただきたく誘っていた。

年中行事を務める年番当役のトーヤは3軒。

二条町は30戸であることから6~7年に一度の廻りのトーヤ勤めになる。

座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。

白抜き染めの紋は下がり藤。

春日大社と同じような形式をもつ紋であるが、一昨年の平成27年11月23日に行われていた新嘗祭のときに聞いていた幕の新調。

この日の宵宮祭に初張りをすることから3人のトーヤが参集してお祓いをしてもらっていた。

そのつもりで朝にお祓いをしてもらっていたが、今夜の天候は危ぶまれる予報。

折角新調したのに汚れては申しわけないとやむなく復活出番。

それこそ最後のお役目に幕を張った。

その旧幕に「式内佐紀神社 氏子婦人一同」の白抜き文字がある。



寄進者は氏子のご婦人方だった。

氏子一同とか座中、或は大人衆などのようにたいがいは男性であるが、当地では婦人方。

あまり見ることのない、珍しい寄進者である。

亀畑佐紀神社行事のお供えを調えるのは神職である。

材などはトーヤが準備しておく。

それらの御供は座小屋で調整する。

高坏に載せた神饌のなかにシトギがある。



バランの葉の上に乗せて供えるシトギはお店で購入した上新粉をトーヤが加工したもの。

ボールに入れた上新粉に沸かしたお湯を注ぐ。

温度はお風呂と同じぐらい。

かき混ぜた上新粉は手でこねる。

耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。

長老たちが話したかつての作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」である。



秋のマツリは宵宮、本祭の両日に亘って拝殿前に屋根付き提灯立てを設える。

屋根付き提灯立てを倒れないように土中に埋め込んだ支柱で支える。

固定するのはボルト・ナットではなく木片である。

ホゾ穴に木片を通して固定する。

四つの提灯を吊るす枠は紐を操作して上下に稼動できる仕組みだ。

神職に祓ってもらったトーヤの御幣と神酒口をそこに揚げる。

そのために一旦は紐を降ろして下げる。

梯子を遣えばいいものだと思ったが当地ではこうした作業で調えていた。

神酒口もそうするのかと思えば違った。

神酒口を載せる台がある。



背を伸ばせばそこに届く範囲内。

いとも簡単に載せていく。



丁度、調えたころに参られる人もいる。

正装のスーツ姿の氏子たち。

座入りした男性は拝殿に上がることができるが、トーヤ家の婦人であっても拝殿下で見守る。

いつもそうされている。

かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。

座小屋に一枚の記念写真がある。

「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真である。

当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。

神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠などである。

始めに神職が幣をもって移動した。



座小屋の裏にある祓戸社に参って修祓をされる。

その場は清めの塩を撒いていた。

神聖な場であるが、氏子たちはその場に並ばない。

戻ってきて社殿前の境内に集まっていた氏子に修祓。



神々しくも祓えの幣に光があたる場であった。

次が献饌。

座小屋に納めていた神饌を手渡しで本殿に移していく。



シトギの杯もこうして渡される。



祝詞奏上、長老の玉串奉奠に撤饌などを見守る婦人たちは座小屋の扉辺りに並んで見ていた。



亀畑佐紀神社の神事はこれで終わりではない。

一同は揃って場を移すのである。



神饌ものを抱える氏子たちの先頭を行くのは神職。

向かう先は階段を下りた鳥居の真ん前。



弁財天社に於いても神事が行われる。

神饌を献じて祝詞奏上、玉串奉奠。

そして、神社に戻るかと思えば、そうではなく。

北に数百メートルを歩く。



隊列を組むことなく歩く。

その場は森の中。

内部に佇む場に社殿がある。

その社殿は「ゴマンドウ」。

充てる漢字は護摩堂である。

平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。

境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。

前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構の護摩堂であるが、社殿造りで建てられた。



この場に於いても神饌を供えて神事を行う。

こうした一連の参拝を済ませて直会の座小屋に場を移す。

場を調えるまでの間である。

拝殿に置いてあったお供え物に目がいった。

相当古いと思える年代物の桶にいっぱいのリンゴがある。

桶には蓋もないし、年代を示す文字も見当たらないが、黒光りから想定するに相当な年代物だと推定する。



担ぐようなこともなかった桶に盛っている真っ赤なリンゴである。

重さがあったことからなのか聞いていないが、先に本殿に供えていたのである。

シトギなどの神饌ものは手渡しの献饌、撤饌であったが、このリンゴは扱いが違った。

現在はリンゴであるが、かつては柿であったと云う。

その時代は二老のKさんの親父さんのころにあったという。

マツリが終われば1軒に2個ずつ配るリンゴは座受けのリンゴ。

昔は男の数だけ貰っていたという。

男の子ができたときは「子酒料(こしゅりょう)」を納める。

納めることで座受けされる。

神事を終えた氏子たちは昭和41年10月12日に竣工した座小屋にあがる。

座は西の座、東の座に分かれて座る。

初めに年番の人が折敷を席に置く。

お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた氏子一人ずつにお神酒を注ぐ。



乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。

まずは一献ということである。

熱燗の二献、ヒトギ(シトギ)喰い、お重詰めの酒の肴などの作法もあるが、次の取材に間に合わせなくてはならない。



申しわけないが、この時点で失礼させてもらった。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)