ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「竹田青嗣『恋愛論』1993」20240905

2024-09-05 | 参照

 

 


「愛すること」、その優れたモデルは信仰のよる隣人愛ではなく、
あの情熱恋愛にある。そこでは、他を愛することが自分を愛することと「一致」し、
そのことで愛の自己中心性を不思議な仕方で抜き取るからである。

         *

エロティシズムとプラトニズムを対立させるとき、
人は恋愛の欲望を最も誤解しているだけではない。
それは人間の実存の条件それ自体を誤解することになるのだ。

         *

ドストエフスキーにおいては、人間にとっての「美への希求」と「情欲」とは
本質的にひとつのものとしてつながっている。

人間の欲望はその生の意味への欲望に押されて、
自己の幻想のただ中で「美的超越」を夢見る。
この夢は滅ぼしがたいものだ。だから人間は「罪」を犯すことがありうる。
そのとき、人間は自分の生の核を扼殺するかもしれない。
しかしまた、それにもかかわらず人間は自分の内的モラルを救済し
自分自身を救う根拠をもっているだろうか。そう彼は問うているのだ。

         *

人間の実存の条件とは、それが一方では徹底的な「自己中心性」に基礎づけられており、
しかし、またそのことを根拠として、もう一方では他者と世界に向かって
己れを超え出たいという欲望を生み出しつづけるということにほかならない。

プラトニズムとエロティシズム、ロマンティシズムとリアリズムの、
また超越と頽落のパラドクス、それらはやはり同じ性質をもっている。
「恋愛」はいつもそれらが対立する極点の「つなぎ目」の場所で成立するのだ。

 

 

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