ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「固有時の消失」20240806

2024-08-06 | 参照

 

 


──真木悠介『時間の比較社会学』1981年岩波書店

かせいだり、たくわえたり、節約したりすることの可能な「時間」、
──そこではたとえば、夜明けの時と午後の時、恋愛の時と別れの時、
わたしの時とあのひとの時、そのような時のそれぞれの固有性、
絶対性は捨象され、たとえば夜明けの三〇分を「浪費する」ことをやめたり
恋愛の三時間を「節約」したりすることの可能な対象へと還元される。
時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的還元のうえに、
一般化された商品交換のシステムとしての市民社会の総体は存立している。

われわれがみずからの生きる世界を構成している事物──
自然や他者たちの交流のうちに生きられる時のおのおのに、
「等価物のない」固有の絶対性を感受する能力を喪ったとき、
われわれの時間関心は、使用価値でなく交換価値それ自体に
向けられた関心と同様に、抽象的に無限化される。
それはわれわれの人生が、完結して充足しうる構造を喪うということだ。

第一にそれは、ひとが現在をそれじたいとして愛することができず、
人生の意味を、つねに「時間」のかなたに向かって疎外してゆく、
そのような時間意識の形態を前提にしている。
第二にそれは、「時間」がひとつの自存する実体のように物象化されて存立し、
そのことによって時間関心が抽象的に無限化されてゆくという、
そのような時間意識の形態を前提にしている。

 生死のあわいにあればなつかしく候 
    ……
 かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにて
 われもおん身も ひとりのきわみの世をあいはてるべく なつかしきかな
    ……              (石牟礼道子『天の魚』)

現在が未来によって豊饒化されることはあっても、
手段化されることのない時間、
開かれた未来についての明晰な認識はあっても、
そのことによって人生と歴史をむなしいと感ずることのない時間の感覚と、
それを支える現実の生のかたちを追求しなければならない。
われわれがもはやかえることのできない過ぎ去った共同態とはべつな仕方で、
人生が完結して充足しうる時間の構造をもどしえたときにはじめて、
われわれの時代のタブー、近代の自我の根底を吹き抜けるあの不吉な影から、
われわれは最終的に自由となるだろう

 

 

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