「客観」(ラング)が個の実存の位相にまで手を伸ばして、
世界の全域をみずからの説明体系、統制の下に置こうとするとき、
人間的生は不可避的にみずからの生成性の根を腐食させる道に入ることになる。
この主観同士の相互的な展開において、関係世界は貧しさを加算させるループに入る。
なぜか。
「客観」という関係子がはじめに願い、目指したもの、
はじめに信じられた役割と有用性が、その貢献の対象を見失うことになる。
それだけではない。
みずからが貢献をめざした対象を逆に制圧し、扼殺するようにそれは暴走する。