コトバのない世界
コトバなしには何も語れないけれど、
世界はコトバで名づけられたものだけで出来ている訳ではない。
あたり前ですが、そのことをしばしば忘れています。
そして、コトバで語られない世界について、
コトバの初心者である子どもからあらためて教えられるということがあります。
コトバを習う前の子どもの生きる世界は、
いわばコトバによる〝未記述〟の世界と言えるかもしれません。
どんな世界か。察する以外ない記述されざる世界にコトバを与えて、
おとなの世界に引き入れていく。
コトバを覚えながら世界の輪郭が少しずつかたちを結び、
おとなが作る世界の一員になっていく。
いいかえると「言語ゲーム」のプレーヤーとして育つことになる。
子どもとのつきあいで気づかされます。
未だ記述されざる子どもが生きる世界は完全にコトバに世界に移行したわけではなく、
未記述のままに残されているものがある。
おとなは強引にコトバに落とし込み、おとなの世界に引き込んでいるかもしれない。
社会の一員になるとは、一面でこの〝強引さ〟に出会うことかもしれない。
そしてこのことは子どもだけでなく、おとなの世界でも同じことが言えそうです。
名づけられない経験
モノや事柄には名前がついている。
けれども名前がまだつけられていないものもある。
そのことを示し語りあうのはとても難しい。なぜなら名前がないからです。
モノや事柄だけでなく、ずっと名前のないまま生きられる感情、
思い、考えというものも考えられます。
それをどうもてなしてよいか、おとなにとっても曖昧なままです。
生きるうえでいろいろな感情が生まれる。
生まれたての感情に、心はさまざまに色めき立ちます。
そしてそれを経験し、味わっているのはただ本人だけです。
おなじ感情を同時にふたりで経験することは決してできない。
うれしい、かなしい、おそろしい、にくらしい。
未記述のものになんとか名づけることで、
わたしたちは自分の感情を確認したり、ほかの人に伝えようとする。
辞書を開けば、そうした名前のリストがたくさん載っている。
コトバを生み出してきた永い歴史をまとめたものと言えるかもしれません。
けれどもそれは完全な記述というより、むしろ未完の記録であり、
痕跡でしかないとも言えるかもしれません。
おとなも記述されざる世界を抱えながら生きている。
にもかかわらず、さしあたり目星つけて、辞書を引いたり検索したり、
思いつくままに既存のコトバを用いて名前をつけられるものだけを伝えあう。
なんとなくそれでお互いに満足している。
そんな〝言語ゲーム〟が常態化しているのがおとなの世界と言えそうです。
子どもの世界に想像をめぐらせば、
おとなよりはるかに「どう語ればよいかわからないもの」に満ちている。
なんとかコトバにしたい。経験はとても鮮明なのにコトバに置き換えることができない。
そんなときはとても苦しい感じがする。そしてその苦しさそのものにも名前がない。
子どもはそのことをおとなに対する問いかけとして表現することがあります。
したり顔、わけ知り顔のおとなは、子どものさまざまな問いに、
「こうに決まっている」と断定したりします。
この場面で子どもの感情や思いとすれちがったり、
おとなの傲慢さを感じさせたり、コトバを覚えることへの不信や忌避感を生むかもしれない。
反省的にいえば、おとなには同じように記述されざる世界を抱えて生きる者としての自覚、
子どもに対するある種の謙虚さや礼節が必要だろうと思います。
社会を生きるにはコトバは必須。
しかしコトバを学ぶプロセスに不信感や強引さが紛れ込むほど学ぶ楽しさが消え、
一種の〝苦行〟になるかもしれない、そんなふうに感じます。