鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

読書をするのは・・・?

2021-06-05 22:23:24 | 本・読書

時折、薄日が差すものの、梅雨を思わせるような曇りがちな一日。

明日にかけて、お天気下り坂のよう。

週間天気予報では、週明けから、晴れて暑い日が続く・・・との予想なのだけれども・・・。

 

会社員だった頃は、時間を気にせず、読書して過ごしたい・・・と思っていた。

会社員でなくなって、好きなだけ読書が出来る時間が、あったのに、ここ十年近く・・・殆ど、読書をしなくなった。

読書をしないのではなくて、出来なかった。

ひとえに、大きな不安があって、夜は眠れず、不規則に生活し、生きる意欲も殆どなくて、ただ、母に依存し、母のくれた自由に過ごせる時間を、ただ漫然と、過ごしたに過ぎなかった。

それでも、母が亡くなる迄ほぼ8年間、母の側で、過ごせたことは、私にとって有難いことであった(もっとも、身体の自由が徐々に奪われ、確実に死に向かっていく母の側にいることを、苦痛に感じていたことも事実なのだけれど)。

 

そして、中断・・・というか、本を読む・・・という行為自体にも、いろいろと疑問が出てきて、あれ程、好きだった作家の作品も、その作家のひととなりを、意外なところがから簡単に知ることができるようになり・・・(インターネットで、秒で、検索できる世の中になった。数十年前なら、図書館なり、本屋なりで、調べないとわからないこと、外部に出すことのできなような情報なども、遭遇できるようになった)。

最盛期には、あんなにチカラのあった文章だったのに、晩年には、衰えが見えたり(当然なのだけれど)、新作が世にでなくなり(社会的に規制や制限、或いは、世に出ては困る情報など、情報操作などもさかんに行われているようだし)、作家の意図するところと、出版社の利害が一致しなければ、売れない仕組みだとか。

純粋に良い作品を見極められるヒトというのが、少なくなってきているのかもしれない。

読書なんて、単なる娯楽・・・、ドキュメンタリーも、絵空事。

そんな感じで、読書から、乖離してしまった日々でもあった。

 

先日、異父姉に会い、私の知らない母を知った。

 

生前の母は、読書家でもあった。

『本を読む習慣があれば、辛いコトがあったときに、慰めになる。読書が出来るひとは、幸せだ。』

そんなことを言っていた。

 

母は、幼い頃、実母を病気で亡くし、(大抵そうなんんだろうけれど)底意地の悪い継母に苛められ、唯一の心のよりどころは、女学校だったけれど、卒業して、簡易裁判所の書記官になり、その後、結婚したけれど、その先に、幸せは、無かった。

最初の嫁ぎ先のことは、殆ど、私には話さなかったので、詳しいことは知らない。

話したくないほど、辛かったのか、既に忘れてしまおうと決心したのか、それとも、本当に忘れてしまったのか・・・。

 

そんなこんなで、波乱万丈だった母の人生を支えたもののひとつが読書だったようである。

 

 


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