未熟なカメラマン さてものひとりごと

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伏見酒造の町並み散策と東福寺庭園の探訪

2013-06-10 22:54:37 | 観光名所

伏見・月桂冠大倉記念館前の通り 

(前回のつづき)
寺田屋を出るころには、メンバーはもう誰もいませんでした。濠川の柳と酒蔵との雰囲気有る景色を撮りたかったのですが、なかなか余裕もありません。龍馬が逃げて行ったという龍馬通りを左手に見ながら進むと、板塀や漆喰の蔵屋敷が見え、以下にも酒処伏見と云われる景観です。ここは、明治時代の酒蔵を改修した月桂冠大倉記念館です。このあたりまで来ると観光客も随分目立ってきます。入館料300円を払うと、記念のお酒が付いてきました。右側には、試飲や販売コーナーがありました。展示コーナーでは、350年の酒造りの歴史・道具・工程を紹介する資料が展示されていましたが、特に興味を引いたのが、レトロなレッテルが張られた酒瓶や時代の美女が描かれたポスターでした。中庭には、酒造りに使われる井戸の水。こちらは実際に飲むことができました。伏見は古く「伏水」と書き表されていたように豊富な地下水が流れ、上質な軟水に恵まれてきました。その水と盆地特有の底冷えによって名酒が生まれ、繊細でまろやかな味わいは灘の「男酒」に対して伏見の「女酒」と呼ばれるそうです。

この頃、やっとメンバーが揃い、折角なので、中庭のレンガの煙突が見える広場で記念撮影をすることになりました。帰りにおみやげにとワインを購入。時間までに、急ぎ濠川を散策することにしました。川岸には遊歩道が整備され、季節の花であるアジサイが花を咲かせ初めていました。川には観光用の十石舟が係留され、この先に乗り場があるようでした。何枚か写真を撮ると、もう時間となっていたので、あわててバスに戻ると、何と私が最後で少しあわてました。次に向かったのが、本日最後の目的地、東福寺です。

日本庭園を特別愛する私としては、今回のコースに東福寺を入れていただいたことに感謝したい気持ちです。小型のバスは、随分近いところまで来たはずですが、さすがに広大な敷地を持つ東福寺。ここから、通天橋のある拝観受付まで、随分歩いた気がしました。通天橋から眺める紅葉は、京都を代表する観光スポットですが、この木造の橋はよく時代劇のロケに使われます。鬼平犯科帳では、エンディングで秋のシーンに、紅葉を背景に橋を行きかう人々の様子が映し出され、まさに絵になる景色です。通天橋を渡り回廊の階段を上がると、開山堂に出ます。門を潜ると、正面に開山堂、石畳の右側には江戸時代初期に作庭されたといわれる、見事な庭園があります。小さなサツキや、庭石が見事に配置され、杉苔や、季節のアヤメやスイレンも咲き、グリーンの庭に彩りを添えています。左側は、川砂が敷かれた空間となっており、回廊の縁側からはこれらを一体的にみることができます。休みながら大勢の人が鑑賞していました。この開山堂の庭園は、私のお気に入りの一つです。

次に向かったのが方丈庭園です。別途拝観料が必要でした。考えてみれば自由行動となっている今日のコース、拝観料もばかになりません。寺田屋400円、大倉記念館300円、東福寺通天橋・開山堂400円、東福寺方丈庭園400円。ま、京都を巡るなら当たり前のことですが、桜や紅葉のシーズンは、さらに値段が上がって特別料金となり、何か所もまわると、結構な金額になります。
さて、方丈庭園といえば、我が岡山県が生んだ昭和の庭師・重森三玲が作庭した枯山水庭園が有名です。まず南庭、苔寺の枯山水庭園とは違って、石組も大きくダイナミックですが、それらが庭の隅の一部にバランスよく置かれ、まとまった雰囲気を与えています。東福寺の方丈庭園は、全国でもめずらしく、周囲がぐるりと違った異なる形式の庭園が設置されています。廊下を右に回り込むと、そこは北庭、市松模様に敷かれた四角い石の間に苔が生え、それらが一体となってとても斬新な意匠を作り上げています。

華鴒大塚美術館で、「日本文化再発見講座・日本庭園の魅力」と題して、講座が開催されており先日、第1回目の講座を私も受講したばかりでした。講師は、晩年の重森三玲に指導を受けた造園家の岩本俊男さんです。この東福寺の方丈庭園について、どのように解説されるのか、とても楽しみです。
帰りの出発前の駐車場で、万歩計を見たら一万歩を超えていました。久々によい運動になりました。(おわり)



東福寺方丈庭園の南庭 近代庭園の傑作と言われています。
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寺田屋の真実とは?

2013-06-06 23:04:34 | 歴史

宇治・萬福寺の布袋さん

(前回のつづき)
 宇治市内から15分、バスは本日の昼食場所・萬福寺に到着しました。それにしても駐車場から何と遠いことか。一周ぐるりという感じで、やっと総門に到着です。資料によりますと、この萬福寺は、黄檗山萬福寺といい、日本からの度重なる招請に応じて来朝した、中国の憎・隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんし)が1661年に開創したものです。萬福寺の伽藍建築・文化などは、中国の明朝様式となっています。私たちが身近な、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)、木魚なども隠元禅師が来日してからもたらされたものであり、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えたと言われています。馴染のあるインゲン豆の語源が、ずばり隠元禅師からきていたとは知りませんでした。

 総門から三門を抜け、天王殿、雄賽殿を拝観しました。宇治方面には、ほとんど来たことが無かったので、この萬福寺ももちろん初めてですが、このような大きな寺院とは知りませんでした。特に印象的だったのは、天王殿正面の布袋さん像。中国で弥勒菩薩の化身だと云われているようですが、まさに中年体型のお腹丸出しのお姿は、不謹慎のようでもあり、微笑ましくもあります。
昼食場所は、一番奥に近い社務所の隣の建物です。本日、広間でお庭を眺めながらいただくのは、普茶弁当です。普茶ということばを初めてききましたが、普茶料理というのは、隠元禅師が伝えた精進料理のことです。案内によりますと、普茶弁当は、普茶料理の代表的な料理を松花堂弁当に詰めたとありました。これに、お吸い物とお菓子が付いています。精進料理ですから、お肉や、お魚はありませんが、見た目以上に味もしっかりとしている感じがしました。量的にもちょうどいいくらいで、皆さん完食されたようです。普茶料理を堪能したあと、駐車場に帰りましたが、何と出口のすぐそばで驚きました。

 次に向かったのが、伏見酒造の町並みです。こちらでの滞在予定時間は、1時間でしたのであまりゆっくりできません。本日のガイドも兼ねる運転手さんから、「そこの角を左に曲がると町並みです。寺田屋は左側にすぐあります。バスは月桂冠の駐車場で待機していますとのことでした。」寺田屋はすぐにありました。しかしこのころから雨がぽつぽつと降りだしたではありませんか。建物の隣に、史跡らしい看板がありました。せっかくここまで来たのだからと、寺田屋を見学することにしました。玄関を入るとすぐ左に受付がありました。入館料は400円でした。ナイロン袋に靴を入れ、見学スタートです。建物の間口に比べて奥行きのある間取りでした。写真はOKとのことだったので、まず写真に撮っておこうと思いました。
おりょうさんが、竜馬に知らせるため裸で駆け上がったという階段、鉄砲の弾痕や柱の刀傷のあと。臨場感が伝わってきます。今回のメンバーのうち、寺田屋を中に入って見学したのは、たったの4名でした。町並みや酒蔵も見たいのであまりゆっくりもできません。係の方の説明があるとのことでしたが、止むを得ず寺田屋をあとにしました。
 しかし、ここである疑問が湧いてきました。以前、聞いた話で寺田屋は当時のものではなく、あとで再建されたもの。場所も当時とは違う、というものでした。1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで、このあたり一帯は戦火に見舞われたはず。
そこで、調べてみると、次のようなことが判明しました。
2008年、旅館・寺田屋の建物が再建されたものだったとの可能性が指摘された問題で、京都市は、「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表し、また同施設に対して、観光客に対して誤解を与えることがないよう対策を取ることを要請しています。そこで、寺田屋はこの要請に対してどのように答えているのか、ということですが、改めて受付でもらったパンフレットをじっくりと見ても再建されたもの、とはひとことも書いてありませんでした。逆に「現在の台所にある太い大黒柱は、維新当時ここを定宿としていた薩摩藩主・島津家よりの拝領品である」という記述も見られました。

 例えば、善意に解釈して、建物は鳥羽・伏見の戦いで焼けたが、一部、使用できる建材も残っていて、跡地の横に、当時のまま再建された、ということは考えられないのでしょうか。一点気になるのが、「寺田屋の女将お登勢は、明治10年、48歳でこの世を去るまで約30年間に渡って女将をつとめ・・・」という記録です。この記録が正しければ、再建された寺田屋で女将を続けたということになります。そういうことになれば、あながち否定もできない気もします。いずれにしても気になるところです。(つづく)



寺田屋2階に弾痕。寺田屋事件で坂本龍馬が発砲したものでしょうか?
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日本緑茶発祥の地 宇治田原町を訪ねて

2013-06-04 00:06:43 | 旅行

寒冷紗に覆われた茶畑

6月2日の日曜日、私が所属している茶道上田宗箇流・社中の研修旅行があり参加しました。今回の行き先は、京都府宇治方面で、主な目的はお茶園の見学です。個人ではなかなか行けないところなのでとても楽しみにしていました。現地に早めに到着したいということもあって井原を早朝6時前に出発。今回は有難いことに尾道宇治園の社長さんが、案内役として同行してくださいました。総勢13名です。

お茶園には、ほぼ予定の時間に到着しました。さらに現地で、京都のお茶の関係者3名が合流して案内していただきました。現地は、宇治茶というぐらいなので、当然、宇治市かと思っていましたが、訊ねてみると、ここは京都府綴喜郡宇治田原町というところだそうです。この地は永谷園の創始者「永谷宗円」が今でいう煎茶の製法を確立したところから、日本緑茶の発祥の地といわれ、そしてそのお茶を江戸で販売したのが山本山の初代山本嘉兵衛だそうです。また、お茶の生産地の断トツの1位は、静岡県で2位が鹿児島県、この2県がほとんどのシェアを占めていて、続いて伊勢茶の三重県がつづき、京都府は、全体の5%ぐらいしかないとのことでした。それでも、長い歴史と、確立したその技法により、玉露やてん茶(抹茶の原料)、抹茶など国内における高品位なお茶の産地として有名で、他の産地では決してマネができない、とのことでした。 

さて周辺は、まったくの田園地帯。水田が広がり後方を山が取り囲むような盆地で、一見すると私の住んでいる井原市内の北部の景観とほとんど変わらないように見えますが、水田と茶畑が混在しているのが大きな違いです。茶畑の多くは、黒い寒冷紗で覆われて遮光されています。また、お茶の説明で、お茶の種類は、その加工方法によって大きく分けて緑茶、ウーロン茶、紅茶に分類されるそうですが、日光にあてるとカテキンが増えて紅茶になるという話は興味深いものでした。また遮光することによって、葉をうすく大きくするという話を京都の方から教えていただきました。バスの中では、てん茶などのサンプルを見せていただき、また口に含んだりして味わい、大変参考になりました。

左右に、寒冷紗で覆われた茶畑がある農道を進むと、工場らしき建物に到着しました。ここは、組合の荒茶加工施設のようです。ちょうど生産者の方がトラックで、袋に入れられた茶葉を降ろしていました。ここから建物内に、案内されて入ると、お茶の葉が機械に投入され、蒸されたり、網の筒に吹き上げられて乾燥されたりと、最後には袋詰めされる工程まで見ることができました。ほんとに貴重な体験をさせていただきました。
工場を出た後、実際に寒冷紗に覆われた茶畑を中に入って見せていただくことができました。若葉は瑞々しくて、いかにも新鮮な感じがしました。最後に茶畑をバックに記念撮影し、宇治田原町をあとにしました。

昼食の予定時間まで時間が余ったので、平等院近くを散策することになりました。裏手の駐車場から石段を降りたところに観光センターがあり、その隣に宇治市市営の茶室「対鳳庵」がありました。せっかくなので一服いただくことにしました。お点前をされていたのは、遠州流の流れをくむ流派だとのことでした。このあと、宇治川の川岸を散策したあと、宇治川通りに並ぶ茶店を見て歩きました。店先にいくつも積まれた茶箱や、立派な看板を見ているとどこかその歴史を垣間見るような気がしてきます。ここまで来たら平等院ですが、修復中とのこともあり、また時間もなかったので、今回は入りませんでした。またいつの日か、修復が終わったら是非、来てみたいと思いました。そしてバスは、本日昼食場所の万福寺に向かいました。途中、立命館宇治高校の野球グラウンドを目にしました。駅伝で我が興譲館のライバル校。昨年の覇者。今年の駅伝はどうだろうとふとそんなことを思いました。(つづく)



お茶屋が並ぶ平等院前の通り
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