写真はシーサンパンナ南部のモンルンにて。同地は高名な植物学者が都会から隠れるようにつくった大規模な熱帯植物園で有名だが、都市に脱皮しそこねた中途半端な田舎、といったところ。
大都市でもないのに若者はズルズルっとサンダルをひきずるように歩き、物乞いも多い。
早朝、目抜き通りを散歩すると、豚を散歩させるおじさんらに出会う。田舎なら放し飼い、上海などの大都市ではペットとしても飼われる豚だが、このムチを片手に散歩するおじさんの狙いはなんなのだろう。豚のメタボ対策として、中途半端なこの町ならではの風景なのかもしれない。
【「ウル目」のペンギン】
以前から目には敏感だった。小学生の頃は、漫画雑誌のこわーい目のあるページを切り取り、中学では、歴史教科書の能面の目に耐えられず、そのページをのり付けした。そのために「東山文化」の暗記はできなかったが、目のためならやむを得ない、と納得していた。
こんな私にとって、最近、耐えられない場所がある。JRだ。駅のホームの自動販売機の横に大きく見開かれたペンギンの目。なんという無造作な置き方なのだろう。ところどころの駅では心ある人もいるのか、目を隠すようにぴったりと缶ゴミの箱を設置してあったが、ごく普通の自動販売機ではいけないのだろうか。
以前からSuicaのペンギンの目は、媚びたような,「ぼく、かわいい?」ともいいたげな上目づかいと、意識的になみなみの線でウル目を表現したあたりが苦手だった。単純なデザインなのに、線に細心の注意が払われているのか、念がこもっているように感じられるのだ。もしかしたら、それだけデザイナーの技量が優れているのかもしれない。理解はできるが、公共の場であの目はひどい。
そういえば、魚の目も苦手だ。あの見開かれたビー玉のようなギョロ目。だから、魚は目をみないように調理し、イカは食べたい一心で、ほぼ目をつぶって、さばいている。
【おだやかな微笑みの謎】
そこでふと、気がついた。中国の市場に並んだ肉の顔はどれもおだやかだった。横浜の中華街のものほどではないが豚はにっこり笑った顔になっている(舌、耳など部位別に日本の中華街でも売られてますね)。トリは瞑想したような顔にも見える。牛は頭ではなく、尻尾が看板がわりだったから、なにか意味があるのだろう。
ともかく市場の「顔」はいずれも目をつぶっていた。当然、最初のころは、その迫力におののいたが、やがて受け入れられるようになった。
もちろん、肉となった側としては命をなくすのだから、断末魔の顔付きになるのが自然なはずだ。これはどういうことだろう。田舎の料理店でおばちゃんが慣れた手つきで一発で首をチョンと切り、血抜きして、料理の材料にしていた。そこでは特別なことをしている様子はなにもなかった。それなのに料理されてきたトリの顔は、目をつぶってすましていたのだ。
市場で豚の頭は日に一つだけだったから、一頭だけ特殊な加工を施しているのだろうか。以前、夫が中国の農家でと畜シーンに出くわしたときには、生きながらにのど元から血抜きされる豚の痛ましい声が響いていたというから(心臓が止まると血抜きができず、臭みがでる、とのこと)、ほほえみ顔には、なんからの技術が必要なのだろう。このことを考えると深みにはまってしまうのだが、ともかく生きた姿を知ったものをいただくと、食べる、ということは命を「いただく」ことだと、素直に理解できたのである。
わかってはいるのだが、私は今でも相変わらずイカの目を見ないように捌いている。
*先週の予告と違う内容になってしまいました。次回こそです、はい。
大都市でもないのに若者はズルズルっとサンダルをひきずるように歩き、物乞いも多い。
早朝、目抜き通りを散歩すると、豚を散歩させるおじさんらに出会う。田舎なら放し飼い、上海などの大都市ではペットとしても飼われる豚だが、このムチを片手に散歩するおじさんの狙いはなんなのだろう。豚のメタボ対策として、中途半端なこの町ならではの風景なのかもしれない。
【「ウル目」のペンギン】
以前から目には敏感だった。小学生の頃は、漫画雑誌のこわーい目のあるページを切り取り、中学では、歴史教科書の能面の目に耐えられず、そのページをのり付けした。そのために「東山文化」の暗記はできなかったが、目のためならやむを得ない、と納得していた。
こんな私にとって、最近、耐えられない場所がある。JRだ。駅のホームの自動販売機の横に大きく見開かれたペンギンの目。なんという無造作な置き方なのだろう。ところどころの駅では心ある人もいるのか、目を隠すようにぴったりと缶ゴミの箱を設置してあったが、ごく普通の自動販売機ではいけないのだろうか。
以前からSuicaのペンギンの目は、媚びたような,「ぼく、かわいい?」ともいいたげな上目づかいと、意識的になみなみの線でウル目を表現したあたりが苦手だった。単純なデザインなのに、線に細心の注意が払われているのか、念がこもっているように感じられるのだ。もしかしたら、それだけデザイナーの技量が優れているのかもしれない。理解はできるが、公共の場であの目はひどい。
そういえば、魚の目も苦手だ。あの見開かれたビー玉のようなギョロ目。だから、魚は目をみないように調理し、イカは食べたい一心で、ほぼ目をつぶって、さばいている。
【おだやかな微笑みの謎】
そこでふと、気がついた。中国の市場に並んだ肉の顔はどれもおだやかだった。横浜の中華街のものほどではないが豚はにっこり笑った顔になっている(舌、耳など部位別に日本の中華街でも売られてますね)。トリは瞑想したような顔にも見える。牛は頭ではなく、尻尾が看板がわりだったから、なにか意味があるのだろう。
ともかく市場の「顔」はいずれも目をつぶっていた。当然、最初のころは、その迫力におののいたが、やがて受け入れられるようになった。
もちろん、肉となった側としては命をなくすのだから、断末魔の顔付きになるのが自然なはずだ。これはどういうことだろう。田舎の料理店でおばちゃんが慣れた手つきで一発で首をチョンと切り、血抜きして、料理の材料にしていた。そこでは特別なことをしている様子はなにもなかった。それなのに料理されてきたトリの顔は、目をつぶってすましていたのだ。
市場で豚の頭は日に一つだけだったから、一頭だけ特殊な加工を施しているのだろうか。以前、夫が中国の農家でと畜シーンに出くわしたときには、生きながらにのど元から血抜きされる豚の痛ましい声が響いていたというから(心臓が止まると血抜きができず、臭みがでる、とのこと)、ほほえみ顔には、なんからの技術が必要なのだろう。このことを考えると深みにはまってしまうのだが、ともかく生きた姿を知ったものをいただくと、食べる、ということは命を「いただく」ことだと、素直に理解できたのである。
わかってはいるのだが、私は今でも相変わらずイカの目を見ないように捌いている。
*先週の予告と違う内容になってしまいました。次回こそです、はい。
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