写真は、かごの鳥の鳴き声を競う集い。昆明動物園内にて。早朝からどこからともなく、鳥かごを持ってやってきて、木の枝にかけたりして、鳥の声を競う。愛好家は多く、少し緑のある公園だと、どの町に行っても、このような光景が見られた。
鳥の声あわせにしては、少しドスの効いた人々の光景にも見えるのだが、とくに売買をしている風情もなく、不思議であった。
【雲南印象から東洋のハリウッドまで】
当時の新聞に大きく名前が書かれているのは党書記の白恩培ではなく、党副書記の丹増という名前でした。しかも好意的な文章で。
じつは死刑判決報道をしっかり確認するまで当時の党書記は丹増だと、勘違いしていたほどにマスコミでの存在感がありました。
丹増は、様々なセレモニーでテープカットを行ったり、有名タレントが雲南に来るというと歓迎行事の中心にいたり、とにぎやかな場面の中心で、たいてい胸を張って拍手をしていました。
また、日本でも舞踊公演が好評なヤン・リーピンの公演名「雲南印象」という言葉や雲南独特の様式「雲南模式」などのスローガンを生み出したアイディアマンでもありました。
地元新聞ではしょっちゅう、「丹増、○○する」と書かれ、愛されていました。
さらには「雲南を東方のハリウッドにする」という計画を掲げて、なんとジャッキー・チェンが出席する「中国文化産業国際論壇期間」に丹増も出かけて雲南がいかに映画の撮影に向いているかを売り込みに。
ジャッキーから「雲南の文化産業の発展、民族文化の繁栄、文化大省の建設を全力で支持します」との言葉を引き出し、彼の出世作『酔拳』の模型をもらい、実際に彼の映画『神話』の撮影の最後の戦闘シーンを雲南で行わせてしまったこともありました。(2004年12月20日・都市時報)
これがどれほど雲南の人を喜ばせたか。
今、考えてみると、マスコミ受けするところにばかりいて、実質は別の人、という可能性もありますが、そもそも書記、副書記とはどういう関係なのでしょうか? そして白恩培とはどういう経歴の人で丹増とはどのような人だったのでしょうか? これらを探ることで雲南の政治のしくみを考えてみます。 (つづく)
※たびたびですが、次週の更新はお休みします。世界はいろいろとたいへんなことが起きていますが、ぶれずにゆったりとしたひとときを過ごしていただけたらいいな、と思います。