近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅で下り、チョーヤ梅酒の前を通過すると飛鳥奈良時代の国道1号線とも言える竹内街道に出ます。

竹内街道を東に歩くと、そこに杜本神社があります。参道の手前の案内板によれば、平安時代初期、百済永継(女性、桓武天皇の女嬬で皇子良岑安世の母親)とその祖先(飛鳥部氏)を祀る神社だったと書いてあります。

平安時代の藤原家は、藤原内麻呂(756~812年、従二位右大臣)の二男、藤原冬嗣(775~826年、正二位左大臣)から始まる藤原北家が最も栄えますが、内麻呂の妻で冬嗣の生母は、桓武天皇の皇子、良岑安世(785~830年)と同じ百済永継です。・・・杜本神社の参道です。

藤原内麻呂の父、藤原真楯(715~766年、正三位大納言)は北家の祖・藤原房前(681~737年、正三位参議)の三男ですが、兄(房前二男、内麻呂の伯父、冬嗣の大伯父)藤原永手(714~771年、正一位左大臣)の墓が何故か杜本神社拝殿の横に現存しています。・・・その墓標

藤原北家の嫡流・生前正一位まで出世した藤原永手の三男、藤原雄依は、桓武天皇時代に順調に出世しますが、785年に起こった藤原種継暗殺事件に連座して隠岐に配流となっています。・・・正面突き当り左右の道が竹内街道

20年後に許されて帰京、806年の桓武天皇崩御に当たって従四位上の地位を回復していますが、従兄弟の内麻呂(父永手の弟・藤原真楯の嫡男)との(朝廷内での)差は決定的となり、藤原北家嫡流は内麻呂・冬嗣の系統に移っています。・・・境内にある金剛輪寺跡の説明

隠岐に配流され帰京した人として小野篁(802~853年、配流期間838~840年)は知っていましたが、785年から805年までの20年間も隠岐で流人生活を送り、無事に帰京した藤原雄依のことは知りませんでした。・・・鳥居と参道

娘順子と仁明天皇の間に文徳天皇(827~858年)が生まれ、天皇家の外祖父となった冬嗣は、母親の百済永継とその先祖を祀る神社として杜本神社を整備したのでしょう。・・・杜本神社の拝殿と摂社

杜本神社は、旧河内国にある比較的小さな神社ですが、藤原北家と所縁があるせいか、延喜式神名帳に記載された名神大社となっています。
