1900年の5~8月、北京であった義和団事変の話の続きです。今回は海遊館の「ふあふあクラゲ館」のクラゲと一緒に紹介しましょう。
天津から日本軍を主力とする連合国軍が北京に侵攻、その入場とともに北京籠城は8月14日に終わっていますが、籠城軍総司令官だったイギリス公使マクドナルドは、<籠城期間中の日本人の偉大な働きのお蔭で、持ちこたえることができた>と連合国北京救援指揮官たちへ報告しています。
8月15日に北京は連合国の軍政下におかれ、連合国司令部は、連合国の将兵に「文明の名において、三日間の略奪を許す」許可を出したため、北京は略奪の巷となっています。
この間、日本軍は、柴中佐の先導で清朝の大蔵省金庫にあった250万両の馬蹄銀と米蔵にあった2万石の玄米をいち早く獲得、ここでも連合国の中で日本軍が最も優秀だったことを実証しています。(このときの馬蹄銀は、軍首脳の汚職に発展、それを報道した幸徳秋水は大逆事件で死刑となっています)
乱が治まった後のイギリスの新聞各紙を紹介しましょう。8月18日のイスタンダード紙は<義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきであると誰しもが認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気は賞賛に値するものであり、他の追随を許さない>
8月20日付けデイリー・テレグラフ紙<北京救助の戦功は、(天津から北京までの)進軍途中の戦功と同じく日本兵士に帰すものである>
8月28日ロンドンタイムズ<列国の公使館が救われたのは日本の力によるものであると全世界は日本に感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染の屈辱から免れたのは、ひとえに日本のお蔭である。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である>と報道、柴中佐以下日本人の働きぶりは世界に宣伝されたのでした。
翌1901年から交渉が始まり1902年1月に調印された日英同盟(締結国が他1国と交戦に至った場合同盟国は他国の参戦を防止し、2国以上との交戦となった場合には締結国を助けて参戦する内容)成立は、義和団事変での日本人への高い評価がもたらしたものでしょう。
日英同盟が日露戦争(1904〜05年)勝利の一因という説がありますが、柴五郎と北京に籠城した日本人が日露戦争勝利の一因と言えるのかもしれません。
参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著