野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事の続きとなります。会津藩士の五男、柴 五郎中佐(1860〜1945年)が北京の外国公使館区域に籠城して義和団と戦闘した際の状況と長居植物園のツバキの花を紹介しましょう。

義和団事件から1年半後となる1901年12月、<私は、本日諸君に北京籠城の講話をいたそうと思います>から始まる柴 五郎の講演記録が残されています。・・・黄色いツバキはキンカチャ

北京公使館地区での義和団事変は、「北京の55日」という映画でも知られていますが、1990年6月20日~7月17日までの激戦期間、7月17日~8月14日の休戦平和交渉期間と大きく2期に分かれています。

激戦期間の7月10日には<敵が家屋の残壁に銃眼を穿ちますと、敵の銃眼の出来上がるのを待って、敵に先だってその銃眼から我が銃を押しこんで撃ったり、敵が銃眼から銃を出して射撃するのを、壁沿いに横から近づいて梶棒で敵の銃を激打し、敵が驚いて銃を抜くと我が銃を押しこんで射撃する>という猛烈な接近戦で、義和団側は勿論、日本をはじめ連合国側にも多数の死者を出しています。

柴五郎は、敵兵を<終始生命を顧みず真面目に戦い、彼らはなかなか勇慓(ゆうひょう=強く勇ましい)な良い兵で、先頭の者の死骸を踏み越え(中略)先を争って飛び込んでくるときの有り様など敵ながら感心に堪えない(中略)惜しいかな将校の指揮が悪い>と述べています。

7月18日、清朝政府の使者が来て「開戦は北京に来た外国兵の乱暴が原因」と自国(義和団)の攻撃を棚に上げた和平交渉がスタート、これから8月14日までのやりとりは、尖閣列島問題での中国政府の姿勢とそっくりです。

ところで義和団事件から37年後に日中全面戦争が始まっていますが、その頃の軍部や政府に柴五郎の「中国兵士は勇慓だった」という講話を知っている人物がいなくなり、中国兵は弱いので日本軍が一撃すればすぐに降参するという見方が支配的だったのです。

日清、日露の戦争に勝利した日本は、日本が強く中国は弱いという幻想に支配されていましたが、近年のオリンピック金メダルの獲得数にも見ることができるように、中国人は日本人に勝るとも劣らないくらい強かったのです。

1937年から日中戦争が始まると、柴五郎の判断通り、中国兵は勇慓で戦線は泥沼状態となっています。そして開戦から8年後、今度は日本が敗戦を迎えるのです。歴史に学ばない国は、危ういという教訓でしょう。

参考文献: 「北京籠城」柴 五郎述、大山 梓編



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )