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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



義和団事変の際に北京に籠城したロンドンタイムズの記者モリソンは、各国公使の印象を日記に残していて、イギリス公使のマクドナルドは「知力も判断力も無い無能」、フランス公使は「臆病なのら犬」と痛烈に批判しています。・・・海遊館前の港

続いて<日本公使の西男爵は、無言で類人猿のように歩き回っている。彼は公使としての自分の任務は、「口も耳も閉ざしていることだと心得ている」と、もっぱらの評判だが、口を閉ざしているのは賢明だが、耳を閉ざしているのは愚かである>と辛辣です。・・・北極圏の展示室へのアプローチは氷山の下というイメージ

駐清国公使西徳二郎(1847年〜1912年3月)は、鹿児島藩士(西藤左衛門)の二男、戊辰戦争(1868年、21歳)では黒田清隆の下で、越後奥羽の戦争に従軍し各地で戦っています。・・・北極圏の海

1869年には東京に出て大学南校に入学、1年後にロシアについて研究したいと大久保利通に伝えたことから1870年にペテルブルグに赴任、当時まだペテルブルグにいた幕府派遣の2名の日本人が温かく迎え、その世話で1871年にペテルブルグ大学法政科に入学しています。氷山の下を覗くアザラシという設定

1875年にペテルブルグ大学を卒業しますが大学に留まって日本語教師となり、1876年フランス駐在日本公使館二等書記官、1878年には代理公使としてロシアに呼び戻されています。・・・アザラシの顔

1880年7月、後任の柳原前光に事務を引き継いで中央アジア、シベリア、蒙古、清国を経由して1881年4月に帰国、5年後(1886年)今度はロシア公使として三度目のペテルブルグ赴任、それから9年後(日清戦争直後)のロシアとの外交交渉が評価されて男爵(1895年)となっています。・・・北極圏の魚はアークティックチャー

翌1896年、松方内閣で外務大臣に就任、中国研究者河村一夫は、「生来剛毅なりし西男爵も・・・露国を去って帰朝する頃より漸く神経過敏となり、昔日の激溌たる気性を見るあたわず、全くの別人となって悠々哲理を談ずる室内の人となれり・・・西男爵は不言を玉条とする秘密主義者となれり」と紹介しています。この頃から性格が一変したようです。・・・北極圏のクリオネ

西は、外務大臣辞任と同時に引退したかったようですが、伊藤博文の要請で1899年11月に駐清国公使として北京に着任、すぐに病気となり、「病気あがりの西が冴えなかったのはしょうがない」とウッドハウス暎子さんは書いています。・・・北極圏の魚ランプフィッシュ

中国研究者大山梓は「事変が発生すると西公使は、(男性)公使館員全員を義勇兵に送り出し、自ら公使館の館務に当たり、従容として砲煙弾雨の戦線を視察し、日本兵を激励した」と書いていますので、若き日に戊辰戦争に従軍した経験があったからでしょう。・・・北極海生態系の展示

 西徳二郎は、義和団事変の戦後処理の際、西太后からシナ茶の専売権を与えられ、巨万の富を手にしたといわれ、西男爵家は三男竹一(1902〜1945年)が継ぎ(長男、次男は夭折)、竹一はロスオリンピック馬術の金メダリスト、後に硫黄島で戦死しています。

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著 、シルクロード紀行 西 徳二郎著から金子民雄の解説

 



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