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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



先日、竹内街道の記事をアップしましたが、司馬遼太郎(1923〜1996年)の著書「街道をゆく」のなかに今から70数年前の竹内街道について触れたところがあるので、その一部を紹介しましょう。

司馬遼太郎は、「私は幼年期や少年期には、その竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする(中略)そこが母親の実家だったからだが(中略)竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである」と書いています。以下原文のままとします。

村の中を、車一台がやっと通れる道が坂をなして走っていて(中略)路相はおそらく太古以来変わっていまい。(芭蕉が逗留した弟子の千里の実家は、綿弓塚記念館)

それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。

村の上の方に池がある。大和の池には万葉ぶりの名のついた池もあるがこの池は単に「カミノイケ」という。(右が上池の土堤)

私ども子供のころにはこの池は山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く、他の地方と同じように主がいるといわれ、それを理由に子供たちが泳ぐことを禁じられていた。しかし私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。(上池改修の石碑)

子供たちはカミの池を怖れていたが尊敬もしていた。なぜなら、これほど大きい池はちょっと在になかったからである。

「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。デライ、というのはドエライということで大きいという意味であった。(上池)

私は(中略)大阪からやってくるという立場上、村外の知識はかれらより多く持っていた。「デライ」と断定すると子供たちはうなずいてくれた。子供たちはさらに「カミの池よりデライけ?」と聞いた。(咲洲のWTCビルから見た海は、やはり上池よりも広い)

私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと、こどもたちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけと口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。いまの日本は実に文明開化したものである。



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