文久3年(1863年)9月18日(壬生寺の墓石による)、島原の宴会を抜け出し、八木家に帰った芹沢鴨局長と平山五郎副長助勤、芹沢の家臣平間重助、八木家で待っていた愛妾3人に土方がしつこく酒を飲ませたという。
新選組屯所のあった場所に建つ鶴屋

泥酔した6名が、奥座敷の中央に衝立を立て、芹沢とお梅が縁側に近い外側、平山と小栄が内側、平間と糸里は隣の部屋で熟睡しているところを4人の刺客に襲われている。
鶴屋

平山は、倒された衝立の上から串刺しにされて絶命しているので、刺客は、そこに芹沢がいたと勘違いしたのであろうか。
最も縁側に近い場所に寝ていた芹沢は、最初の襲撃を受けてすぐ目を覚まし、近くにあった脇差で防戦し、縁側を伝って隣の部屋に逃げ込んでいる。
奥が現存する八木家

その夜、当主の八木 源之丞は留守で、奥さんと子息(為三郎と勇之助)がその部屋で寝ていたが、刺客に追われた芹沢鴨が転がり込み、子息が使っていた文机につまずいて転んだところを刺し殺されたという。
その文机は、今も芹沢が暗殺された部屋の中に置かれていて、その上にある鴨居には、芹沢を殺害しようとした刺客の刀でできた疵が残っている。
奥座敷の玄関(右)

この事件で芹沢とお梅、平山は殺されたが、平山の愛妾小栄と隣に寝ていた平間、その愛妾糸里は助かっている。
暗殺の際、八木家の勇之助が足に刀傷を受けているが、刺客を務めた沖田総司が何食わぬ表情で「勇坊まで怪我したそうで大変でしたね」と八木源之丞を慰めたという。
壬生寺南門

しかし、部屋にいた源之丞の奥さんは、刺客を見ていて、後に土方歳三、沖田総司、山南敬助だったと語っているが、4人いた(もう一人は恐らく近藤)刺客の被疑者は、当時不明として処理されている。
壬生寺の壬生塚入り口

芹沢の暗殺後、この奥座敷は近藤など幹部の部屋として使われているので、新選組屯所として使われた屋敷と庭は、今でも近藤が生きていた時代のままという。
壬生塚にある芹沢と平山の墓

八木 源之丞の子息、八木為三郎(1850~1931年)は当時14歳であったが、新選組に加わり、新選組の生き残りとして昭和6年まで生存し、当時のことを多く語り残している。
鶴屋

この後、隊員の増加した新選組は、八木家の母屋と離れ屋敷との間に道場(6,3m×14,4m)を建て、剣術の稽古に使っていたが、2年後に屯所を西本願寺の太鼓番屋に移転する際に解体して運び去ったという。
屯所餅と抹茶

離れ屋敷があった跡には、今や八木家の家業となっている京都鶴屋「鶴壽庵」(社長 八木 勢一郎氏)の店舗があり、八木家を見学したあと、入場時のチケットを見せて抹茶と屯所餅を楽しむことができる。
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