20万の大軍を擁する徳川秀忠は、力攻めで一気に大坂城を攻撃することを主張したが、父親の家康は、それを許さなかったようである。
大阪城の桜門

10万の豊臣武士団が、死に物狂いで応戦してくることへの損害を恐れたのであるが、確かに豊臣側の戦意は旺盛であった。
桜門前の南内堀は空堀

家康は、豊臣側のトップでありながら、戦場には決して出てこない淀君、秀頼を遠距離から大砲で砲撃することで、威嚇し、戦意を喪失させる作戦を命じている。
大阪城の東内堀

砲撃作戦は、すぐに功を奏し、近くを砲撃された淀君が戦意を失ったことで家康の狙い通りに講和が成立している。
大阪城の西内堀

講和の条件は、豊臣方が大坂城二の丸、三の丸を破壊し、大野治長と織田有楽斎が人質を出すだけという大坂方に有利なものであった。
大阪城北内堀

その際、惣構の埋め立ては、徳川方(二の丸、三の丸の堀は豊臣方)とすることが双方の了解事項となっている。
豊臣方は、二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立を引き伸ばすことを考えていたようであるが、徳川方は、講和成立と同時に労働者を大量に動員し、惣構だけでなく二の丸、三の丸の堀も昼夜兼行で埋め立ててしまったのは有名な話である。
南外堀(右のビルが府警本部)

このときに埋め立ての指揮を執ったのが安藤正次(1565~1615年)で、彼のことは以前このブログで紹介したことがある。
空堀商店街

大阪府警本部の建替え工事中に出現した堀の跡からも、急いで埋め立てられた形跡が伺えるという。
上町台地を東西に横断していた空掘は、この埋め立てで消滅してしまい、再び復活することは無かったが、かつて空掘のあった場所には、空掘商店街や空掘通という名称だけが残っている。
上町台地に上る空堀商店街

その空堀を埋めた土地の両側に、自然に商店が建ち並び商店街が出来たようで、大阪夏の陣から150年を経た1765年(明和2年)に創業した店が未だに営業しているのですごい。
松屋町筋からの空堀商店街入り口

空掘商店街の西の終端は、松屋町筋を横断して東横堀川に突き当たるが、東横堀川の東側から空掘までの間にはどうやら水堀があり、そこに松屋町筋の橋が架かっていたようである。
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