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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



和光寺には江戸時代、善光寺の末寺として本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現・金銅地蔵・鐘堂などの伽藍があったというが、1945年の空襲で惜しくも焼失している。

和光寺の山門と享保4年(1719年)の銘のある石灯籠



江戸時代の和光寺境内には演芸場や遊技場が立ち並び、特に仏生会(4月)の植木市は大阪の名物行事として知られ、遠方からの参詣人の人気を集めていたという。

また盆供養の時の賑わいも目だったもので、昭和初期には地元の芸者衆による盆踊りが評判となっていた。

境内



和光寺の北側には阿弥陀池が現在もあり、この付近の地名や、あみだ池筋の語源となって親しまれている。

池の前にある「阿弥陀池」と刻銘のある石碑は、戦災を免れたかなり古いもののようで、池の中央には、1947年に再建された宝塔(放光閣)が建っている。



和光寺は、落語の「阿弥陀池」に縁のある寺院として有名で、落語が創作された明治時代までは「あみだがいけ」と呼ばれていたようである。

落語では、「こんなこと、お前ひとりの知恵やあるまい。誰が行けちゅうたんや?」と言われた男が「へい、阿弥陀が行けといいました」で落ちとなる。

池の前にある地蔵像



この和光寺の西側には、有名な大阪名物「粟おこし、岩おこし」の「あみだ池大黒」本社がある。



あみだ池大黒の創業は、堀江の土地が整備されてから約100年後の1805年、土佐堀川・長堀川の河畔に西国諸大名の蔵屋敷が建ち並んでいた頃のことというので、創業から200年を越える老舗である。

初代、小林林之助は、長堀川畔あみだ池に店を開き、諸国から蔵屋敷に運ばれる米を積んだ船の船底に溜まった米を安く買い取っておこし作りをはじめたという。

1806年頃の堀江地図



これらの米から作られる「おこし」は、当時大坂で河川の「掘り起こし工事」が多かったことから、「大坂の掘り起こし、岩おこし」として広がっている。

あみだ池筋



また、蔵屋敷に出入りの人々や、近くの茶屋で遊ぶ商人や文化人たちがお土産ものとして使い、さらに明治になってからの日露戦争で『恩賜の御菓子』として採用されたために全国ブランドとなったようである。


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