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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



一昨日の記事からの続きです。1900年の義和団事変の際にロシアの司令官だったリネヴィチ将軍は、沿海州軍団長として復帰する際に北京で略奪した財宝を行李10箱分持ち帰り、部下も将軍の行為を真似て宮殿や民間の財宝を持ち帰ったとウイッテは回顧録に書いています。・・・シーサイドコスモから大阪港の出入り口、大関門

さらに当時大蔵大臣だったウイッテ(1849~1915年)は、これが判っていれば、税関で行李を全部開けさせてリネヴィチ将軍に侮辱を与えることができたのだが、事前に知らなかったのが残念とも書いています。・・・大阪港の向こうに六甲山が良く見えていますが、これほど空気が透明で遠くが見渡せる日は珍しいと思います。

ウィッテは、日露戦争に当初から反対を唱えていましたが、当時のワンノフスキー陸軍大臣は、日本兵2名に対し、ロシア兵1名で十分勝てると皇帝に進言、この辺りは日中戦争の際、中国兵2名に対し、日本兵1名でも十分勝てるとした日本陸軍と同じです。・・・閉館されて久しいワインミュージアム

1904年、海軍出身で交際と頓才で出世したアレクセイエフが出征軍総司令官に、その下の出征軍司令官に陸軍大臣クロパトキン(1848~1925年)が任命され、二人の司令官を持つ出征軍は混乱が予想されていました。・・・NTTドコモビルの白いツツジが丁度、満開となっていました。

ウィッテは、出征挨拶に来たクロパトキンにアレクセイエフを補縛して送還するようアドバイスしていますが、結局両者が互いに自分の都合の良い様に戦況を皇帝に報告、ロシア軍の指示命令系統は最後まで混乱、結局連戦連敗状態となったのです。・・・NTTドコモの白いツツジ、ビル、右が旧ワインミュージアム

1905年、日露戦争で日本の優位が決定的になると、ロシア皇帝(ニコライ2世1868~1918年)は再びウイッテを登用、講和のためロシア全権としてアメリカポーツマスに送りこんでいます。・・・朝日を浴び純白が映えるツツジ

ウイッテは、アメリカに渡る6日間の船の中で、5つの行動基準(日本に無賠償、無割譲を主張し講和を望む姿勢を見せない、大国ロシア代表として日本外交団を威圧する、アメリカ人新聞記者には愛想良くする、アメリカ人には親しみやすい姿勢を示す、ユダヤ人には不快感を招く行動をしない)を定め、これを守り通したと言います。・・・もう一枚

アメリカの世論を味方につけたウイッテから譲歩を引き出せないと悟ったルーズベルト大統領(1858~1919年)は、直接ロシア皇帝に無賠償ながら樺太南半分の割譲を勧告、講和を望んでいたロシア皇帝がこれを受け入れ、日露講和のポーツマス条約が成立、この交渉はウイッテの圧勝に終わったのです。・・・インテックス大阪に向かう途中に見える超高層ビル2棟

ウイッテは、5つの行動基準を守るために、本来の自分ではない人物を役者のように演じたので非常に疲れたと書き残していますが、これが全権としてのあるべき姿なのでしょう・・・インテックス大阪の正面は、食博覧会の入り口ゲート

120年前のロシアには凄い人物がいたようです。

参考文献:ウイッテ伯爵回想記 日露戦争とロシア革命 大竹博義吉監修

 



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